第6話 今年の水だけ
手紙は四月の五日に届いた。
宿の主人が二階まで上がってきて、扉の下から差し入れた。差し入れてから、階段を下りる前に一度止まる。返事があれば預かるという意味になる。私は何も言わなかったので、主人は下りていった。
封蝋にハルツェンの印がある。楔と波の形で、二十年、私も同じ印を使っていた。使っていた印は屋敷に置いてきた。
封を切った。
宛名はマグダレーナとだけある。前の妻へ、でもなく、フェアベルク殿へ、でもない。名前だけになる。
本文は十四行あった。
はじめの三行は、道が浸かった件の説明だった。上堰を開けたのは三月二十六日で、支流の水と重なった、と書いてある。そこまでは正しい。
次の四行が、番の刻限のことだった。三つの村が同時に引いていて、上の村と下の村のあいだで言い合いになっている。町の水番頭が二度上がってきた。役の男たちが屋敷の前に立った日もある、と書いてある。
そのあとの六行を、私は二度読んだ。
去年の刻限を写させたが、合わなかった。積雪が二尺六寸を超えた年と超えない年で分かれているところまでは分かった。今年は二尺五寸で、どちらなのか判断がつかない。帳面には結果が書いてあるが、なぜその結果になったのかが書いていない。
最後の一行は、こうだった。
今年の水だけ教えてくれ。それだけでいい。
謝罪の語は一つもなかった。
探したわけではない。十四行しかないのだから、あればすぐ分かる。
私は手紙を卓に置いて、窓を開けた。
境の堰の板が二枚上がっている。三日前に上がった。上がったということは、こちらの領に回す水が出たということで、それはつまり、向こうの三村が引ききれずに余らせているという意味になる。順が決まっていないと、そうなる。誰も安心して引けないから、みんな一度に引いて、一度に止める。
余った水は境を越える。越えた水は、うちの下の村へ行く。クヴェレンベルクの下の村へ行く。
窓を閉めた。
十四年前も同じことが起きた。あの年は嫁いで六年目で、三村の順を初めて自分で決めた年になる。決めるまでに四日かかった。四日のあいだ、下の村の年寄りが毎朝屋敷の門に来て、待っていた。怒鳴りはしない。ただ立っている。あれが一番こたえた。
宿の下の店で、麓から上がってきた者が話しているのを、この十日で三度聞いた。三村が番でもめている。上の村の若い者が樋の板を勝手に外した。外した者は町の役に押さえられた。押さえたはいいが、順を決める者がいないので、板は外れたままになっている。
四度目を聞いたのは、今朝だった。宿の階段の下で、麦の袋を担いだ男が二人、声を落とさずに話していた。落とす必要がないのだろう。もう知らない者がいない。
上の村と下の村が、畑の境の杭を抜いた抜かないで言い合っている。杭は水と関係がない。関係がないところまで行くと、長くなる。八十年前の話を、私は伯から聞いたばかりだった。
私は紙を出した。
宿の紙は薄くて、羽根が引っかかる。屋敷の紙とは違う。
書くことは決まっていた。決めるのに時間はかからない。手紙を最後まで読んだのは、書くことを決めるためではなく、読まずに答えるのは失礼だからになる。
第七巻の四十一頁。
十四年前の春の記録で、あの年の積雪は二尺五寸だった。今年と同じになる。二尺六寸に届かなかった年で、なおかつ南風が四日以上続いた年は、二十年で二度しかない。そのうちの一度が十四年前で、もう一度は五年前になる。五年前は五月に入ってからの雪解けだったから、今年に近いのは十四年前のほうだ。
四十一頁には、その年の刻限が書いてある。上の村が朝の三刻から昼まで。町が昼から日暮れまで。下の村が夜通し。三日それを回して、四日目から順を入れ替える。
書いてある。読めば分かる。ただし、なぜ十四年前なのかは書いていない。
そこまでは書かない。
聞かれたのは、今年の水だけだった。
私は一行書いた。
第七巻の四十一頁に書いてございます。
それから名前を書いた。マグダレーナ・フェアベルクと書いた。ハルツェンではなくなっているのだから、それでいい。
封をして、宿の主人に渡した。
「返事はこれだけでございますか」
「これだけです」
主人は封の薄さを手で確かめて、それから預かっていった。
夕方、レーヴェンハウト様が宿の前を通った。堰の見回りの帰りで、長靴が濡れている。二枚上がった板を、こちらの分だけ半枚下ろしてきたという。
「越えてくる水が減りました」
「さようでございますか」
「向こうの順が決まったわけではありません。減ったのは、引く者が疲れたからです」
「疲れると、順が要ると思うようになります。要ると思うようになってから決めるのでは、遅いのですが」
レーヴェンハウト様は窓のところで足を止めて、卓の上を見た。
手紙が置いてある。封を切ったものと、書き損じの紙が一枚。書き損じは、名前をハルツェンと書きかけたものだった。
レーヴェンハウト様はそれを見る。見たが、何も言わなかった。
「明日、上の樋を見に行きます」
「はい」
「十年前の話は、覚えておきました」
それだけ言って、帰っていく。
卓に戻って、書き損じの紙を火にくべた。薄い紙はすぐ縮む。
十四行に対して、一行で返した。書き足せることはいくつもあった。二尺六寸の境目の測り方、間の二日の埋め方、四日目の入れ替えをやめる年の見分け方。全部書けば、たぶん四枚になる。
四枚書いても、来年また同じ手紙が来る。
便箋は、一枚で足りた。




