第5話 境の堰
土手に霜柱が立っている。踏むと音がする。二十年、この音を年に一度だけ聞いた。
境の堰は二つの領のちょうど真ん中にある。石を組んだ古いもので、水門は木の板を上下させる。板は八枚あって、四枚がこちら側、四枚が向こう側。四枚ずつというのは、二十年前に決めたことではない。もっと前から四枚だった。
三月の終わりに、私はそこへ行った。
境の村に部屋を借りている。宿の二階で、窓から堰が見える。
水は白く濁っていた。泥が出ているから、まだ峠に雪がある。透けてきたら終わりが近い。
濁りの色は毎年少し違う。上の谷の崩れが多い年は赤みが差す。今年は白い。白い年は水が素直で、番の順を守れば揉めない。守らなければ、素直な水ほど早く下まで行く。
板は四枚とも下りている。こちらの領は、上堰を早く開けたぶん、境まで回す水がない。
去年の今ごろは、二枚上げていた。一昨年は一枚。上げる枚数は雪の量で決まるのではなく、こちらの三村がどれだけ引いたかで決まる。三村が引きすぎれば、境に回す水が残らない。残らなければ、向こうの下の村が困る。困った年の翌年は、向こうが渋る。
その繰り返しを二十年やらないために、番の刻限がある。
「浸かったそうだな」
声のほうを見た。土手の上にクヴェレンベルク伯が立っている。七十を過ぎているのに、外套の裾を風に取られたまま平気な顔をしている。
「タールバッハの東でございます」
「二百歩と聞いた」
「はい」
「あなたはもう向こうの人ではないのに、歩数を知っているのか」
「聞いてしまいましたので」
宿の下の店で、麓から上がってきた馬方が話していた。麦の種が二袋、と言っていた。
伯が笑う。声を出さずに、頬だけで笑う人だった。
「ヨナスが来る。少し待て」
言われて、私は堰の板を見る。四枚のうち二枚目に、去年直した跡がある。木の色が違う。
「フェアベルク殿」
伯が言った。私は返事が遅れた。その名で呼ばれるのは久しぶりになる。
「はい」
「二十年、うちの領は一度も渇かなかった。礼を言われたことはあるか」
風の音がした。堰の下で水が回っている。
「協定でございますので」
「協定は紙だ。紙は水を配らん」
「はい」
「もう一度聞く。礼を言われたことはあるか」
私は板を見ていた。二枚目の直しの跡のあたりを見ている。
「ございません」
伯は頷いた。それだけで、慰めるようなことは何も言わなかった。慰められていたら、私はここに立っていられなかったと思う。
レーヴェンハウト様が土手を上がってきたのは、それから少ししてからだった。革の鞄を肩から掛けている。年に一度、この人と会うときは、いつもこの鞄だった。
「フェアベルク殿」
「レーヴェンハウト様」
「向こうの刻限がまだ決まっていません。三つの村が同時に引いています」
この人は挨拶をしない人だった。二十年、書簡もそうだった。時候の言葉が一行もなくて、水の量と日付から始まる。
「さようでございますか」
「うちの下の村から苦情が来ました。境を越えて引かれていると」
私は堰を見た。板は四枚とも下りている。下りているのに越えてくるなら、迂回の水路のほうだろう。あそこは十年前に一度、同じことがあった。
「十年前と同じところでございますか」
レーヴェンハウト様が少し黙る。
「そうです」
「あのときは、上の村の樋の口を三分絞りました。絞ると、三日で戻ります」
言ってから、口を閉じた。もう私の言うことではない。
この人は何も書き取らなかった。書き取らずに、覚えたという顔をした。
伯が土手の石に腰を下ろす。
「昔、この堰の形を変えた者がいる」
「伯」
「聞かせてやれ。知らんだろう」
レーヴェンハウト様が黙る。伯が続けた。
「八十年ばかり前だ。向こうの領主が、板を五枚にした。一枚ぶん多く引ける。それだけの話でな」
「はい」
「三年で人が四人死んだ。堰の上で殴り合いになって、二人落ちた。あとの二人は畑の境でだ。板を四枚に戻すのに、二十年かかった」
「一枚でございますか」
「一枚だ。板の幅は一尺二寸ある。一尺二寸ぶんの水で四人だ」
私は板を見た。八枚。四枚ずつ。
「誰も証文を持っていない。持っていないが、四枚だ」
「慣行でございます」
「そうだ。フェアベルクの家の者なら、そう言うだろうな」
伯は立ち上がって、外套の泥を払った。
「ヨナス、話せ」
レーヴェンハウト様が鞄を開ける。中から紙の束を出した。麻紐で年ごとに括ってある。二十束あった。
「これは」
「あなたが二十年、うちへ寄越した書簡です」
紐の色が束ごとに違う。青、茶、灰、赤。
私は自分の水帳の背を思い出した。同じ順番だった。
「合わせてあるのですか」
「あなたが年ごとに変えていたので。三年目からそうしました」
この人は束をひとつ取って、開かずにまた置く。
「うちの領は二十年、一度も渇いていません。うちの台帳には、その理由が書いてありません。書いてあるのは、こちらへ届いた書簡の日付と水の量だけです」
「はい」
「理由はあなたの頭の中にあります。うちはそれを二十年、無料で受け取っていました」
私は何も言わなかった。
無料、という言い方をこの人はした。ただ、とも、おかげで、とも言わない。受け取っていたものに値がついていて、その値を払っていないと言った。
払っていない、と言われたのは二十年ではじめてになる。
「監理官補の口が空いています。堰の見回りと、番の刻限の割り当て。給金は年に十二ターレルと薪。宿は境の村の官舎です」
十二ターレル。屋敷の女中頭が八ターレルだった。私は二十年、一ターレルももらっていない。もらう名目がなかった。
「あの」
「あなたが二十年やっていたことと同じです。違うのは、給金が出ることと、書簡に名前が載ることです」
風が向きを変える。堰の水音が少し高くなった。
「レーヴェンハウト様」
「はい」
「私は、離縁した女でございます」
「知っています」
「子もおりません」
「監理官補に子は要りません」
言い方に力が入っていない。慰めているのではなく、要らないと思っているから、そう言っただけだと分かった。
レーヴェンハウト様が鞄を閉めた。閉めてから、束をこちらへ押しはしない。鞄に戻した。
「今日返事をしろとは言いません」
「はい」
「雪解けの手前は、誰でも頭が働きません。私もそうです」
伯が土手の下から、行くぞ、と言った。レーヴェンハウト様が返事をする。それから私のほうを向いた。
「返事は、雪が終わってからで構いません」
二人が土手を下りていった。
私は堰に残った。
板は四枚。水は濁っている。峠にはまだ雪がある。
土手を下りていく二人の背中を見ていた。あの鞄は肩の位置が下がっている。二十束は重い。あれを毎年、境まで持ってきていたわけではないだろう。今日のために出したのだ。
出したのに、押しつけなかった。
宿へ戻る道で、私は指を折る。三月の終わりから、四月の十七日まで。
返事は雪が終わってから、とその人は言った。私は日数を数えはじめた。




