第4話 帳面には数字がある
早い。
南に風が戻って三日目の朝、ヴァルターは書斎の窓を開けた。空気が湿っている。庭の白樺が南へ撓んでいる。峠の頂は、先週まで青く見えていたのが、白く戻っていた。
来ている。それは分かる。
分かるのだから、あとは開ければいい。堰は三つあって、上から順に開ける。それだけのことになる。
卓に二十巻目を広げた。三月の欄。積雪の数字が三月朔日まであって、そこで止まっている。あとは空白になる。
前の巻を引いた。去年の三月。数字がびっしり並んでいる。積雪、風向、風の続いた日数。三の堰の開閉の日付。番の刻限。三村からの申し出と、その断りの記録。
去年は四月の二日に上堰を開けている。一昨年は三月の二十九日。その前は四月の五日。
「ばらばらではないか」
声に出してから、ヴァルターは書斎に誰もいないことに気づいた。十七年前を引いた。四月の一日。十二年前は三月の二十四日。赤い糸の年は五月の九日で、これは渇いた年だから別にしていいだろう。
今年の雪は二尺五寸で、去年は二尺三寸だから、今年のほうが多い。多ければ遅い。遅いなら四月の半ばか。
だが風が来ている。
窓の外の白樺は南へ倒れたままだ。この三日、朝から晩まで同じ向きになる。麓の道の雪はもう黒い。
ギースラーを呼んだ。
「三の堰を開ける。用意しろ」
「日付はいつになさいますか」
「今日から数えて、そうだな。四日後にする」
家令が黙った。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「四日後でございますと、三月の二十六日になります」
「それがどうした」
「例年より、いくらか早うございます」
「風が来ている。見ていないのか」
ギースラーは窓のほうを見る。見てから、はい、と言った。
「番の刻限は、いかがなさいますか」
二十六行目に、番の刻限の割り当て、とある。それだけだった。
「割り当ての中身はどこだ」
「奥様が読み上げられました。三村の順は、去年の泥上げに出た家から回すと」
「それは知っている。刻限だ。上の村が何刻から何刻まで、次がどこからだ」
ギースラーは目録を見て、それから顔を上げた。
「そちらは、承っておりません」
「二十年、この家にいて知らんのか」
「存じません」
「毎年やっていたことだろう」
「毎年、奥様が麓へ下りておいででした。私は屋敷におりましたので」
「帳面に書いてあるだろう」
「去年の刻限は書いてございます」
「では去年と同じにしろ」
「去年は上堰を四月二日に開けております。今年は三月の二十六日でございますが」
「同じでいい」
家令は返事をしなかった。
「ギースラー」
「かしこまりました」
三の堰を開けたのは三月二十六日の朝で、それは去年より七日早い。
ヴァルターは自分で堰まで上がった。鍵は三つとも持っていく。上堰の鍵の輪が擦り減っていて、指に馴染まない。
水門の板が上がるとき、木がきしんだ。水が出るのを見て、悪くないと思った。二十年、これを妻がやっていたのだから、難しいはずがない。
その日の昼過ぎに水が下の樋に届いた。届いたところまでは、誰も何も言わなかった。
問題は翌日の夜に起きる。
南風が四日目に入って、峠の南側の斜面だけが緩んだ。上堰から入れた水と、支流から降りてきた緩みの水が、下の樋の手前で重なる。樋は去年の秋に口を五分広げてある。広げた分だけ多く入って、多く入った分が下の道へ出た。
タールバッハの東の道が浸かった。畦の一箇所が低くて、そこから畑側へ回る。荷馬車が三台、町の手前で止まった。麦の種を積んでいた馬車が二台ある。
知らせが屋敷に来たのは、翌朝だった。
「水が出ました」
「どこの話だ」
「タールバッハの東でございます。道が二百歩ほど。畑にも回っております」
ヴァルターは椅子から立った。
「なぜ出る。上堰は一つしか開けていない」
「支流の水と重なったものと」
「重なるなら、そう書いておけばいいだろう」
「風が続いた。三日早めて、何が違う」
ギースラーは頭を下げた。下げただけで、何も言わない。
昼にローゼリンデからの手紙が届いた。屋敷の飾りつけの相談と、婚礼の月をいつにするかという話が書いてある。末尾に一行あった。
道が浸かったと父が申しております。麦の値が動くそうです。大変ですね。
ヴァルターは手紙を伏せた。
大変ですね、と書いてある。心配しているのだろう。悪い娘ではない。
午後に町の水番頭が上がってきた。
「旦那様。番の刻限を、決めていただきたく」
「今からか」
「もう水が入っております。順を決めていただきませんと、三つの村がそれぞれ引きます」
「去年と同じにしろと言った」
「去年は水が細うございました。今年は太うございます。太い年の刻限は、去年のものでは合いません」
「では、どうしろと言うのだ」
男は口を開いて、閉じた。
それから、こう言う。
「奥様が、お決めになっておりました」
「前の妻の話をするな」
「かしこまりました」
「刻限は追って知らせる。それでいいだろう」
「いつでございましょう」
「追って、と言った」
男は帽子を持ち直して、それから、ひとつだけ、と言った。
「東の畦が低うございます。去年、土が足りませんでした。今年直すお約束をいただいておりましたが、いかがいたしましょう」
「誰と約束した」
男は答えない。答える必要がなかったからだ。
ヴァルターは男を帰した。帰してから、書斎に戻って、二十巻を全部卓に出した。
糸の色が違う。青、茶、灰、赤。赤は渇いた年だと言っていた。どの年が太くて、どの年が細かったのか、色を見ても分からない。去年の刻限。一昨年の刻限。その前の刻限。全部違う。
上の村が先の年がある。下の村が先の年もある。町が最初になった年は三回しかない。数えてみると、下の村が先になった年は、どれも積雪が二尺六寸を超えている。今年は二尺五寸で、その境目のどちら側なのかが分からない。
一寸の差でどちらが先かが決まるとして、その一寸をどこで測ったのかが書いていない。峠の見張りの紙片は三日おきに来る。間の二日を誰かが埋めたことになる。
誰が埋めたのかも、書いていない。
なぜ違うのかが書いていない。
ヴァルターは十九巻を閉じた。閉じてから、また開く。同じ頁を三度見た。三度目に、頁の縁が黒く丸くなっているのに気づいた。ここが一番よく開かれた頁なのだろう。
自分が今日はじめて開いた頁が、二十年ぶん黒い。
峠の本体はまだ落ちていない。二尺五寸のうち、動いたのは三寸ほどだという。
夕方、水が引きはじめたという知らせが来た。畑の被害は麦の種が二袋ぶんで、道は三日で乾くという。
たいしたことはない。ただ、番の刻限をまだ決めていない。決めなければ三つの村がそれぞれ引く。それが何を起こすのかを、ヴァルターは知らなかった。知らないということも、知らなかった。
ヴァルターは書斎の窓を閉める。閉めるときに、白樺がまだ南へ倒れているのを見た。風はまだ続いている。次にどうすればいいのかを、彼は考えなかった。
帳面には、数字がすべて書いてあった。




