第3話 雪解けは、四十日後です
目録を作るのに三日かかった。
一冊ずつ表に書く。年、綴じ糸の色、記録の始まりと終わりの日付、それから欠けている頁があればその番号。欠けは二箇所ある。十二年前の巻に一枚、七年前の巻に一枚。どちらも私が破った。書き損じで、破ったあとに書き直した。書き直した紙は挟んである。挟んであることも目録に書く。
三日のあいだに風は北へ振れた。五日目の朝からだから、計算どおりになる。北風が入ると峠の雪は落ちるのをやめて、締まる。締まった雪はあとで一度に落ちる。
積雪は二尺五寸のまま動かない。締まっている雪は、目でも分かる。峠の頂の下あたりが青く見えて、朝日が当たっても白く戻らない。
厩番の子は、二日目からもう書斎に来なくなった。夫のところへ持っていけと言ったからで、そのとおりにしている。三日目の紙片がどこへ行ったかを、私は知らない。知らなくていい。
私は最後の行に、今日の日付と、次の放水までの日数を書いた。書いてから、その行を消した。日数を出すのは私の仕事ではなくなる。
三月八日の午後に、引き渡しをした。
書斎の卓に二十冊を年順に並べた。左から古い順で、いちばん左が糸の色の褪せた巻になる。二十年ぶん並べると、卓の端から端まで届かない。思っていたより短い。
ヴァルターは窓を背にして立っていた。外は曇っている。北風の日は日が出ない。
ギースラーは扉のそばで、両手を前に組んでいる。この人がこの部屋に入るのは久しぶりになる。
「読み上げます」
「そんなものはいい」
「目録の受け取りには読み上げが要ります。三十行ございます」
夫は椅子を引いて座る。座り方で、長くなると思ったのが分かった。
「手短にしろ」
「三十行でございます」
私は読んだ。
第一巻、糸は麻の生成り、記録は嫁いだ年の四月から翌年の三月まで。第二巻、糸は生成り。三巻から色を変えた。四巻、灰。五巻、灰の濃いもの。六巻から十巻まで茶が続く。十一巻、赤。
「赤は何だ」
夫が聞いた。
「渇いた年でございます」
「ああ」
ああ、と夫は言った。それだけだった。私は続きを読んだ。
十二巻から十六巻まで青と灰を交互に。十七巻、茶。十八巻、灰。十九巻、青。二十巻は今年の分で、三月朔日までしか書いていない。
「巻ごとの内容を申し上げます。日ごとの積雪、風向、風の続いた日数、三つの堰の開閉の日付、番の刻限の割り当て、麓の三村と町からの申し出、隣領へ通した水の量、隣領から受けた水の量」
「三村からの申し出とは」
「順が後ろになった家からの願い出でございます。年に十件から二十件ほど」
「そんなものを受けていたのか」
「受けて、断っております。断った記録も入れてございます」
「断ったものまで書くのか」
「同じ家が三年続けて願い出た場合、順を見直します。見直すかどうかは、断った記録がないと決められません」
「隣から受けている量まで書いてあるのか」
「毎年書いております」
「なぜだ」
「協定でございますので」
夫は分からないという顔をした。ギースラーが扉のそばで身じろぎをする。
隣領との配水協定に、証文はない。二十年前にもなかった。あるのは、こちらが毎年これだけ通し、向こうが毎年これだけ返した、という事実の積み重ねだけになる。それを慣行という。慣行は書き付けより強い。二十年やってきたという事実が、二十年やってきたという理由だけで権利になる。
そのことを私は十四の年に父から教わった。王都の橋の下で、祖父の錘を引き上げながら聞いた。証文のある水より、誰も証文を書かなかった水のほうが強いことがある、と父は言った。理由は、誰も書かなかったのに毎年そうなっていたからだ、と。
夫に説明したことはない。
「長い」
夫が言った。
「あと九行でございます」
「では、鍵を」
私は帯に手をやった。
三つある。上堰の鍵がいちばん大きくて、輪の部分が擦り減っている。中堰の鍵は歯が細かい。下堰の鍵だけ新しくて、六年前に鍛冶に打たせたものになる。前のは水に落として、三日探して見つからなかった。
外すのに少し手間取る。金具が固い。二十年、外していないのだから固くもなる。
二つ目は早い。三つ目でまた止まった。輪が新しいぶん、革の帯に食い込んでいる。帯のその場所だけ、色が違う。二十年、日に当たらなかった場所になる。
三つを卓に置いた。木の上で音が鳴った。
帯が軽い。
「目録に、鍵の受領も入れてございます。ご署名を」
夫は署名しなかった。顎でギースラーを指した。
「ギースラー、やっておけ」
「かしこまりました」
家令が卓へ来た。羽根を取って、目録の末尾を見る。それから、三十行を上から下まで、指で追いはじめた。
「ギースラー」
「はい、旦那様」
「読まなくていい。名前だけでいいだろう」
「受け取りますものを確かめませんと、署名になりませんので」
「三十行もないだろう」
「三十行ございます。一行目から二十行目までが帳面、二十一行目から二十三行目までが鍵、二十四行目から三十行目までが、帳面にも鍵にもならぬものでございます」
「何だそれは」
「番の刻限の割り当て、泥上げの持ち場、三村の順、隣領への通し方。物ではございませんが、受け取っていただくものでございます」
夫は何か言いかけて、やめた。
ギースラーは最後まで指で追う。追い終えてから、羽根を持ち直した。持ち直したところで、手が止まった。
止まったまま、しばらく動かない。
「ギースラー」
「失礼いたしました」
家令は署名した。字が少し崩れている。この人の字が崩れるのを見たのは、二十年で二度目になる。
「受領いたしました」
ギースラーは目録を胸の高さに持ったまま、卓から離れなかった。
夫が卓の上を見た。二十冊と、三つの鍵と、目録。
「これで全部か」
紙に書けないことがある。いつ開けるか、は書いていない。積雪と風向と日数は全部書いてあるが、その三つからいつを選ぶかは、私の頭の中にしかない。二十年やっても、書き方は分からない。
三日、目録を作りながら、この一言を待っていた。
「紙に書けることは、すべて書いてお渡ししました」
ギースラーが目録から顔を上げた。この人には分かったのだと思う。分かったところで、この人が聞くわけにはいかない。
「思ったより早く済んだな」
「はい」
「これで屋敷も落ち着く」
「はい」
夫は聞かなかった。
「荷馬車が門に来ております」
ギースラーが言う。
「では」
私は書斎を出た。扉のところで一度振り返ったが、それは水帳を見るためではない。窓の外の白樺の向きを見た。北風。今日で四日目になる。
表門に荷が三つ積んであった。木箱と、着替えの包みと、長靴。
長靴を荷台から下ろした。
「奥様」
「これは置いていきます。三年前に継ぎを当ててもらったものですから、こちらで使ってください。泥上げに出る者の足は、毎年二人分要ります」
「奥様、それは」
去年、上げた土が足りなくて、町の東の畦が一箇所低いままになった。今年やる約束をした。相手は町の水番頭で、約束したのは私になる。
「持ち場の割り方は、目録の二十八行目に書いてございます。年寄りは浅いところ、若い者は樋の口の近く。人の名は書いておりません。名は毎年変わりますので」
ギースラーは長靴を受け取った。受け取ったまま、持っていた。
麓の道が下に見える。畑はまだ白い。水路の線だけが、雪の上に細く残っている。三月の終わりになれば、あの線に人が並ぶ。膝まで浸かって泥をさらう。最初の一歩がいつも一番きつい。上げた土は畦に積む。
二十年、その道を毎年下りた。雪解けの初めの水は白く濁る。泥が出るからで、濁りが残るうちは峠にまだ雪がある。透けてきたら終わりが近い。それを教えてくれたのも麓の人たちで、帳面には書いていない。書く欄がない。
夫は門まで来なかった。二階の窓に人影があったが、私は確かめなかった。
御者が待っている。馬が足を踏み替える音がする。
「奥様、お伝えすることはございませんか」
ギースラーが聞いた。
聞かれたのは今日はじめてだった。
私は荷台の縁に手を置いて、峠のほうを見た。北風は四日目。締まった雪は、風が南に戻れば一度に落ちる。南に戻るのは早くて三日後で、そこから雪の量ぶんの日数がかかる。二尺五寸なら、三十六日。三日足して、三十九。上堰の水が下の樋に届くまでにもう一日。
計算は勝手に出る。もう私の仕事ではないのに、勝手に出る。
「ございます」
ギースラーが、羽根も紙も持っていないことに気づいて慌てた。私は待った。この人が覚えられるように、一度だけ、短く言う。
「雪解けは、四十日後です。」




