第2話 使用人のお仕事でしょう
荷は三つになった。
錘の入った木箱がひとつ。着替えと外套がひとつ。長靴が一足。
二十年で三つにしかならなかった。嫁いできたときは五つあった。
水帳は棚に残す。あれは領のものだから、持ち出せない。
「跡継ぎのためだ」
朝餉のあと、夫は同じことをもう一度言った。昨日の朝と同じ言い方で、少しだけ穏やかになっている。
「お前のせいではない。そういう縁だったというだけだ」
「はい」
「二十年、私も待った。責めるつもりはない」
「はい」
「そういう言い方をするな」
「どういう言い方でございましょう」
夫は答えなかった。卵の殻を皿の端に寄せて、それきり手を止めた。
責めるつもりはない、という言い方を、この人は二十年してきた。八年目からは何も言わない。何も言わないことのほうが、言われるより長かった。
「届けは今日出す。教区の書記が昼に来る」
「かしこまりました」
「それとな、ミュレン家の令嬢が今日、屋敷を見にくる」
「本日でございますか」
「早いほうがいい。書記が来る日に合わせた。二度手間になる」
「かしこまりました」
「屋敷のことは女中頭に言ってある。お前は挨拶だけしてくれればいい」
私は窓を見た。南風は四日目に入っている。峠の見張りから今朝の紙片がまだ来ていない。
紙片は十時に来た。厩番の子が持ってきて、いつものように書斎の前で待っていた。
「奥様、峠から」
受け取ると、炭の字で、二尺五寸、南、とある。二寸落ちている。計算どおりだった。
私は紙片を持ったまま、しばらく廊下に立っていた。今日から先、この紙をどこへ持っていけばいいのかを、まだ誰にも言っていない。
「返事はいりますか」
「いりません。明日からは、辺境伯様のところへお持ちなさい」
子は、はい、と言って走っていった。
ミュレン家の馬車は昼前に着いた。
車輪の泥の跳ね方で、街道の下の橋を渡ってきたのが分かる。
「まあ、思っていたより寒いのですね」
ローゼリンデ・ミュレンは玄関を入るなり、外套の襟を押さえた。頬が赤い。二十二だと聞いていたが、もっと若く見える。
「奥様。はじめまして」
「マグダレーナと申します」
「ご挨拶が遅れて。あの、こういうときは何と申し上げればいいのか、まだ分からなくて」
夫が階段を降りてきて、屋敷を案内しはじめた。広間、食堂、南の客間。ローゼリンデは天井の高さに驚き、暖炉の大きさに驚き、廊下の寒さに驚いた。私は三歩うしろを歩く。
「こちらは」
北の廊下の突き当たりで、彼女が扉のひとつを指した。
「奥様の書斎ですか」
「水の帳面を置いております」
「帳面」
「配水の記録でございます」
彼女は扉の中を覗いた。棚に二十冊。糸の色がばらばらなのを見て、少し笑った。
「きれいですね。色が」
「年ごとに変えております」
「二十年ぶんもあるのですか」
「はい」
「まあ」
ローゼリンデはもう一度覗いてから、扉から離れる。
「わたし、こういうことは何も分からなくて。でも大丈夫ですよね。水路の管理なんて、使用人のお仕事でしょう」
夫が笑った。
「そうだ。心配することはない」
私は何も言わなかった。
「あの、間違っていましたか」
彼女が私を見る。目が合った。
「間違ってはおりません」
「よかった」
「使用人が出るのは、泥上げの役でございます。水を分けてもらう家は、人を一人出す決まりです。うちの屋敷からも毎年二人出しております」
「役、というのは」
「労を出すという意味でございます。水は無償ではございませんので」
「買うのですか。水を」
「銭では買いません。人手で買います。三月の泥上げに出た家に、その年の番が回ります。出なかった家は、順が後ろになります」
「出なかったら、どうなるのです」
「畑に間に合いません」
ローゼリンデは廊下の窓の外を見た。そこからは麓が見える。畑はまだ雪の下で、水路の線だけが白く残っている。
ローゼリンデが少し黙った。それから、へえ、と言った。
「うち、麦を扱っておりますの。父が」
「存じております」
「水が来ない年の麦の値を、父がよく話します。三割上がるって。上がるというより、買えなくなるのだと」
「さようでございます」
案内が終わり、三人で客間に座る。茶が出た。ローゼリンデが窓の外を見て、白樺が全部同じ向きに曲がっているのを面白がった。
「風が強いのですね」
「南風でございます。四日目です」
「四日目、というのは」
「三日続くと峠の雪が二寸落ちます。四日目からは日に一寸ずつです」
「奥様は、そういうことをご存じなのね」
「書いておりますので」
夫が茶碗を置く。
「マグダレーナ、そういう話はいい」
「はい」
「ローゼリンデ、この者は昔からこうだ。数字ばかり言う。去年の会議でもそうだった」
「会議」
「領主会議だ。配水の案を出した。あれで隣領との取り決めが三年延びた」
夫は満足そうだった。ローゼリンデが、まあ、と言った。
「辺境伯様がお書きになったのですか」
「そうだ」
私は茶碗の縁を見ている。
「奥様が書かれたのかと思いました」
ローゼリンデの声に含みはなかった。
夫の顔が動いた。
「あれは私の案だ。清書をさせただけだ」
去年の下書きは、まだ私の手元にある。四枚ある。夫の字は一字も入っていない。
部屋が静かになる。暖炉で薪が落ちた。
「さようでございますか」と私は言った。
夫はこちらを見ない。
「そうだ」
「かしこまりました」
それきり誰も会議の話をしなかった。ローゼリンデは茶を飲み、寒いですねともう一度言い、夕方の馬車で帰っていった。門で見送るとき、彼女が振り返って、奥様、と呼んだ。
「あの、色のこと、教えてくださってありがとうございます」
「はい」
「わたし、覚えておきます」
「ミュレン様」
「はい」
「三月の末に、麓から人が上がってまいります。泥上げの日を決めに来る者でございます」
「その方に、何と申し上げれば」
「日は、夫にお聞きください」
ローゼリンデは少し考える顔をして、それから頷く。頷いてから、もう一度、寒いですね、と言った。
馬車が出る。車輪が同じ泥を跳ねた。
書記が来たのは日が傾いてからだった。夫と私と書記の三人で、食堂の卓を使う。
「離縁の届でございますな」書記が羽根を出す。「双方の同意はおありで」
「ある」と夫が言った。
「ございます」と私が言った。
書記は用紙を広げた。罫が引いてあって、名前と、年数と、財の扱いと、それから理由の欄がある。
「慰謝の取り決めは」
「求めません」
顔を上げたのは書記だった。夫も上げる。
「持参の分は」
「返していただかなくて結構でございます」
「マグダレーナ」
「そのかわり、ひとつだけ」
私は羽根を借りる。
「水利にかかわる職務を、本日付で返上いたします。台帳、堰の鍵、番の刻限の割り当て、隣領との配水協定に関する一切を、辺境伯家へお返しします。これを届の付帯として書いてください」
夫は分からないという顔をした。書記がそちらを見る。
「そんなものは書かなくていい。お前のやっていたことだろう」
「はい。ですので、返上いたします」
「帳面は棚にある。それでいいだろう」
「棚にあるだけでは、返上になりません」
「なぜだ」
「棚にあるものは、私が持っているものと同じでございます。誰かが受け取って、目録に署名をして、はじめて返上になります」
夫が書記を見た。書記は、そういうものでございますな、と言った。
「では受け取ればいいのだろう。それだけのことだ」
書記が咳払いをして、では付帯として、と言い、書きはじめた。私は隣で羽根を返す。
「理由の欄でございますが」
用紙の下のほうを、書記が指した。
「こちらは、双方の合意による、と書くのが通りでございますが。何かご事情がおありなら」
夫が口を開いた。
「跡継ぎがない。それで足りるだろう」
「奥様は」
書記が私を見る。
私は用紙の罫を見ていた。理由の欄は、ほかの欄より少し広い。
「旦那様」
「なんだ」
「昨日、一度も愛したことはないと仰いましたね」
夫が黙った。書記の羽根が止まった。
「はい、と申し上げました。今もそう思っております」
「何が言いたい」
私は書記のほうへ用紙を戻した。
「愛のない結婚に、離縁の理由は要らないのですね。」




