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「一度も愛したことはない」と仰った方に、渇いた領地をお返しいたします  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 使用人のお仕事でしょう

荷は三つになった。


錘の入った木箱がひとつ。着替えと外套がひとつ。長靴が一足。


二十年で三つにしかならなかった。嫁いできたときは五つあった。


水帳は棚に残す。あれは領のものだから、持ち出せない。


「跡継ぎのためだ」


朝餉のあと、夫は同じことをもう一度言った。昨日の朝と同じ言い方で、少しだけ穏やかになっている。


「お前のせいではない。そういう縁だったというだけだ」


「はい」


「二十年、私も待った。責めるつもりはない」


「はい」


「そういう言い方をするな」


「どういう言い方でございましょう」


夫は答えなかった。卵の殻を皿の端に寄せて、それきり手を止めた。


責めるつもりはない、という言い方を、この人は二十年してきた。八年目からは何も言わない。何も言わないことのほうが、言われるより長かった。


「届けは今日出す。教区の書記が昼に来る」


「かしこまりました」


「それとな、ミュレン家の令嬢が今日、屋敷を見にくる」


「本日でございますか」


「早いほうがいい。書記が来る日に合わせた。二度手間になる」


「かしこまりました」


「屋敷のことは女中頭に言ってある。お前は挨拶だけしてくれればいい」


私は窓を見た。南風は四日目に入っている。峠の見張りから今朝の紙片がまだ来ていない。


紙片は十時に来た。厩番の子が持ってきて、いつものように書斎の前で待っていた。


「奥様、峠から」


受け取ると、炭の字で、二尺五寸、南、とある。二寸落ちている。計算どおりだった。


私は紙片を持ったまま、しばらく廊下に立っていた。今日から先、この紙をどこへ持っていけばいいのかを、まだ誰にも言っていない。


「返事はいりますか」


「いりません。明日からは、辺境伯様のところへお持ちなさい」


子は、はい、と言って走っていった。


ミュレン家の馬車は昼前に着いた。


車輪の泥の跳ね方で、街道の下の橋を渡ってきたのが分かる。


「まあ、思っていたより寒いのですね」


ローゼリンデ・ミュレンは玄関を入るなり、外套の襟を押さえた。頬が赤い。二十二だと聞いていたが、もっと若く見える。


「奥様。はじめまして」


「マグダレーナと申します」


「ご挨拶が遅れて。あの、こういうときは何と申し上げればいいのか、まだ分からなくて」


夫が階段を降りてきて、屋敷を案内しはじめた。広間、食堂、南の客間。ローゼリンデは天井の高さに驚き、暖炉の大きさに驚き、廊下の寒さに驚いた。私は三歩うしろを歩く。


「こちらは」


北の廊下の突き当たりで、彼女が扉のひとつを指した。


「奥様の書斎ですか」


「水の帳面を置いております」


「帳面」


「配水の記録でございます」


彼女は扉の中を覗いた。棚に二十冊。糸の色がばらばらなのを見て、少し笑った。


「きれいですね。色が」


「年ごとに変えております」


「二十年ぶんもあるのですか」


「はい」


「まあ」


ローゼリンデはもう一度覗いてから、扉から離れる。


「わたし、こういうことは何も分からなくて。でも大丈夫ですよね。水路の管理なんて、使用人のお仕事でしょう」


夫が笑った。


「そうだ。心配することはない」


私は何も言わなかった。


「あの、間違っていましたか」


彼女が私を見る。目が合った。


「間違ってはおりません」


「よかった」


「使用人が出るのは、泥上げの役でございます。水を分けてもらう家は、人を一人出す決まりです。うちの屋敷からも毎年二人出しております」


「役、というのは」


「労を出すという意味でございます。水は無償ではございませんので」


「買うのですか。水を」


「銭では買いません。人手で買います。三月の泥上げに出た家に、その年の番が回ります。出なかった家は、順が後ろになります」


「出なかったら、どうなるのです」


「畑に間に合いません」


ローゼリンデは廊下の窓の外を見た。そこからは麓が見える。畑はまだ雪の下で、水路の線だけが白く残っている。


ローゼリンデが少し黙った。それから、へえ、と言った。


「うち、麦を扱っておりますの。父が」


「存じております」


「水が来ない年の麦の値を、父がよく話します。三割上がるって。上がるというより、買えなくなるのだと」


「さようでございます」


案内が終わり、三人で客間に座る。茶が出た。ローゼリンデが窓の外を見て、白樺が全部同じ向きに曲がっているのを面白がった。


「風が強いのですね」


「南風でございます。四日目です」


「四日目、というのは」


「三日続くと峠の雪が二寸落ちます。四日目からは日に一寸ずつです」


「奥様は、そういうことをご存じなのね」


「書いておりますので」


夫が茶碗を置く。


「マグダレーナ、そういう話はいい」


「はい」


「ローゼリンデ、この者は昔からこうだ。数字ばかり言う。去年の会議でもそうだった」


「会議」


「領主会議だ。配水の案を出した。あれで隣領との取り決めが三年延びた」


夫は満足そうだった。ローゼリンデが、まあ、と言った。


「辺境伯様がお書きになったのですか」


「そうだ」


私は茶碗の縁を見ている。


「奥様が書かれたのかと思いました」


ローゼリンデの声に含みはなかった。


夫の顔が動いた。


「あれは私の案だ。清書をさせただけだ」


去年の下書きは、まだ私の手元にある。四枚ある。夫の字は一字も入っていない。


部屋が静かになる。暖炉で薪が落ちた。


「さようでございますか」と私は言った。


夫はこちらを見ない。


「そうだ」


「かしこまりました」


それきり誰も会議の話をしなかった。ローゼリンデは茶を飲み、寒いですねともう一度言い、夕方の馬車で帰っていった。門で見送るとき、彼女が振り返って、奥様、と呼んだ。


「あの、色のこと、教えてくださってありがとうございます」


「はい」


「わたし、覚えておきます」


「ミュレン様」


「はい」


「三月の末に、麓から人が上がってまいります。泥上げの日を決めに来る者でございます」


「その方に、何と申し上げれば」


「日は、夫にお聞きください」


ローゼリンデは少し考える顔をして、それから頷く。頷いてから、もう一度、寒いですね、と言った。


馬車が出る。車輪が同じ泥を跳ねた。


書記が来たのは日が傾いてからだった。夫と私と書記の三人で、食堂の卓を使う。


「離縁の届でございますな」書記が羽根を出す。「双方の同意はおありで」


「ある」と夫が言った。


「ございます」と私が言った。


書記は用紙を広げた。罫が引いてあって、名前と、年数と、財の扱いと、それから理由の欄がある。


「慰謝の取り決めは」


「求めません」


顔を上げたのは書記だった。夫も上げる。


「持参の分は」


「返していただかなくて結構でございます」


「マグダレーナ」


「そのかわり、ひとつだけ」


私は羽根を借りる。


「水利にかかわる職務を、本日付で返上いたします。台帳、堰の鍵、番の刻限の割り当て、隣領との配水協定に関する一切を、辺境伯家へお返しします。これを届の付帯として書いてください」


夫は分からないという顔をした。書記がそちらを見る。


「そんなものは書かなくていい。お前のやっていたことだろう」


「はい。ですので、返上いたします」


「帳面は棚にある。それでいいだろう」


「棚にあるだけでは、返上になりません」


「なぜだ」


「棚にあるものは、私が持っているものと同じでございます。誰かが受け取って、目録に署名をして、はじめて返上になります」


夫が書記を見た。書記は、そういうものでございますな、と言った。


「では受け取ればいいのだろう。それだけのことだ」


書記が咳払いをして、では付帯として、と言い、書きはじめた。私は隣で羽根を返す。


「理由の欄でございますが」


用紙の下のほうを、書記が指した。


「こちらは、双方の合意による、と書くのが通りでございますが。何かご事情がおありなら」


夫が口を開いた。


「跡継ぎがない。それで足りるだろう」


「奥様は」


書記が私を見る。


私は用紙の罫を見ていた。理由の欄は、ほかの欄より少し広い。


「旦那様」


「なんだ」


「昨日、一度も愛したことはないと仰いましたね」


夫が黙った。書記の羽根が止まった。


「はい、と申し上げました。今もそう思っております」


「何が言いたい」


私は書記のほうへ用紙を戻した。


「愛のない結婚に、離縁の理由は要らないのですね。」

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