第1話 二十年目の朝
一度も愛したことはない、と夫は言った。二十年目の朝だった。
扉が開いた音のほうが、その言葉より先だった。
外套の裾。長靴。厩の土。廊下の冷えた空気が、開いたままの扉から流れ込んでくる。
私は羽根を止めなかった。水帳に、三月朔日、風向、南。積雪二尺七寸。去年より二寸多い。
「聞いているのか、マグダレーナ」
「はい」
「後添えを迎える。ミュレン男爵の娘だ。話は進んでいる。お前には出ていってもらう」
羽根を置いた。
インクが乾くまで、四つ数える。
机の端に、峠から届いた紙片が置いてある。見張り小屋の男が炭で書いたもので、二尺七寸、南、とだけある。字は震えていて、寸の字が潰れている。あの小屋は屋根の下でも息が凍るので、指が動かなくなるのだと、前に本人から聞いた。
「聞いているか」
「はい」
暖かい風が三日続けば、峠の雪は二寸落ちる。南風ならもう少し早い。今年は二尺七寸あるから、三の堰を開けるのは四十日ほど先になる。
「跡継ぎだ」と夫は言った。「二十年待った」
「はい」
「はい、とは何だ」
「承りました、という意味でございます」
夫が一歩、部屋に入ってくる。長靴の底が絨毯を擦った。厩を回ってきたのだと分かる。土の匂いがまだ落ちていない。乾いた土ではない。厩の裏の水槽のあたりは、この時期いつまでも湿っている。去年の秋に樋の口を五分だけ広げたせいだと、私は知っている。夫は知らない。
「お前は昔からそうだ。何を言っても、はい、しか返さん」
「二十年、返す言葉がなかったわけではございません」
「では言えばよかっただろう」
「はい」
夫は満足したように頷いた。私が言ったのは、言えばよかった、という意味ではない。
窓の外で、庭の白樺が同じ向きに撓んでいる。南風。三日目。
私は立って、窓の掛け金を確かめた。
「何をしている」
「風を見ておりました」
「風」
「はい」
夫は笑った。笑い方が、二十年前と変わらない。喉の手前で切れる短い笑い方だった。この二十年で何度聞いたか、数えたことはない。数えないようにしていた。
「一度も愛したことはない」
言い直したのではなく、言い足したのだと分かった。
「十八のお前を連れてきたのは、フェアベルクの家が水の勘定に明るいと聞いたからだ。父がそう決めた。私は従った」
「存じております」
「知っていたのか」
「はい」
そこで夫の言葉が止まった。
掛け金の金具が指先に冷たい。窓の桟に薄く霜が残っている。日が高くなれば消える程度の霜だ。
「知っていて、二十年いたのか」
「水がございましたので」
夫は分からないという顔をした。
十八の年の秋に、一度だけ、水の話をしましょうかと言ったことがある。嫁いで四月目のことだ。この領は上の堰から下の堰まで落差が浅いので、開ける順を間違えると下の村に一日で来てしまう、と紙に書いて持っていった。夫は紙を受け取らずに笑った。今日と同じだった。以来、水の話を夫にしていない。二十年、一度も。
椅子を引いて机に戻った。
棚には二十冊が年順に並んでいる。背の綴じ糸の色を年ごとに変えてあるので、探すときに開かなくて済む。今年は青にした。去年は茶。その前は灰。
十年前の巻だけ、糸が赤い。あの年は雪が少なくて、六月に麓が渇いた。井戸を三つ掘って、隣領から二十日ぶん融通してもらって、それでも麦は半分だった。赤にしたのは、二度と忘れないため。
その年の六月に、麓の女が屋敷まで上がってきて、井戸のことを聞きに来た。夫は会わない。私が門で聞いて、翌朝から掘る場所を決めた。三つ目を掘り当てたとき、その人が私の手を握った。手が土だらけで、握られたほうも土になる。
夫が机の上に目を落とした。落としただけで、手は伸ばさない。二十年、この人が背表紙より内側に触れたことはない。
「帳面など、誰がつけても同じだろう」
「はい」
「ミュレンの娘は若い。屋敷のことは女中頭に任せればいい。お前の趣味の帳面まで引き継がせる気はない」
「趣味ではございません」
「では何だ」
答えは長くなる。長くなるものを、私はこの部屋で話したことがない。話しかけて、途中で相手の目が窓や扉へ動くのを、何度か見た。
「水番の家の娘は、こういうものが好きなのだろう」
水番、と夫は言った。
フェアベルクは水を計る家であって、番をする家ではない。祖父は王都の橋の下に錘を吊るして、一日の水位を三十年書き続けた人だった。その錘は今も私の荷の底にある。訂正したことは三度ある。三度目にやめた。
「ローゼリンデはまだ二十二だ」と夫は続けた。「王都の育ちだから、こういう寒いところは初めてらしい。屋敷を明るくしてもらう。人を呼んで、宴もやる。この十年、この家で宴をやったことがあるか」
「ございません」
「そうだろう。お前はそういうことに向いていない」
私は向いていないのではなく、三月から六月までは屋敷にいない。堰の見回りと泥上げの割り振りで、春はほとんど麓にいる。それを言おうとして、口の中で止めた。
「そういえば」夫は思い出した顔になった。「去年の会議に出した配水の案、あれは清書だけお前に頼んだな。今年もそのうち要る。届けが済むまでは屋敷にいるのだから、それくらいはやっていけ」
窓の外の白樺が、また同じ向きに撓んだ。
「四十日後でございます」
「何が」
「雪解けが」
夫が黙る。それから、要らないことを聞いたという顔で首を振った。
「ローゼリンデはそういうことを言わん。あれは明るい」
「さようでございますか」
「お前も、もう少しそうしていれば違ったかもしれん」
これには返す言葉があった。二十年ぶんあった。私は羽根の軸を親指で押さえる。木の節のところが少し尖っている。
「私は忙しい。今日も治水院の使いが来る」
治水院の使いは先月来て、来月まで来ない。台帳の写しを渡す日は決まっていて、それも私が決めた日だった。
「鍵は女中頭に渡しておけ」
私は帯に手をやりかけて、止めた。
「屋敷の鍵は、すでに女中頭が持っております」
「では何を下げている」
「堰の鍵でございます」
夫は、そうか、という顔をした。そこで話が終わる。どの堰の鍵か、いくつあるか、誰が持つべきものか、夫は聞かなかった。二十年、聞かれたことがない。
廊下で足音がした。ギースラーだ。歩幅で分かる。この家に来てから、あの人の歩幅より短い足音を聞いたことがない。
足音は扉の手前で止まった。
しばらく何も聞こえなかった。絨毯の上で立ち止まったまま、動かない。私は羽根の先を見ている。それから、来たときと同じ歩幅で戻っていった。
夫は気づかなかった。
「荷は今日中にまとめろ。教区への届けは私が出す」
「はい」
「持っていくものがあれば持っていけ。持参の分は返す。話はそれで終わりだ」
「かしこまりました、旦那様」
夫が扉のところで止まる。何か言いかけて、やめた。それから外套の裾を直して出ていった。扉は開いたまま。
廊下の空気が入ってくる。石の匂いがする。三月でも朝は息が白い。
私は扉を閉めに行った。閉めてから、掛け金には手をかけなかった。
扉の脇に長靴が二足置いてある。片方は底が薄くなって、右の爪先に継ぎが当たっている。三年前にタールバッハの靴屋が当ててくれた継ぎで、代金は麦二斗だと言われて、私が払うと言ったら、役の分だと断られた。水を分けてもらう者は労を出す。押し問答して、結局こちらが折れた。
長靴はまだそこにある。荷にはこれを入れる。
帯に手をやる。三つの鍵が触れ合って、小さな音を立てる。上堰、中堰、下堰。二十年、外したことがない。湯を使うときも枕元に置いていた。夜中に誰かが呼びに来ることがあるからで、実際、二十年で十一度来た。そのうち九度は春。
椅子に座り直して、書きかけの行を見た。三月朔日、風向、南。積雪二尺七寸。
その下は空白だった。
いつもならここに、三の堰を開ける日を書く。四十日後の日付を、去年も一昨年も、この欄に入れてきた。この欄に日付が入ると、麓の水利の役たちが泥上げの人を集めはじめる。上げた土は畦に積む。年寄りは浅い持ち場、若い者は樋の口に近い持ち場と決まっている。その割り方も、この欄の日付から逆算して私が決めていた。
日付の下に、私は毎年もう一つ書く。開ける順と、番の刻限。上堰を先に開けて、中を半日置いて、下は翌朝。順を変えた年が一度ある。その年、下の三村が水争いになりかけて、私は四日、麓に泊まった。
指で頁の縁を撫でた。よく開く巻は、縁が手垢で黒く丸くなる。この巻はまだ新しくて、角が尖っている。
雪解けの水は冷たい。夏でも手が痛くなるほど冷たい。泥上げで水路に膝まで浸かるとき、最初の一歩がいつも一番きつい。二十年、その一歩を毎年踏んだ。
来年、この窓から風を見る人はいない。ローゼリンデは王都の育ちだと夫は言った。王都には峠がない。
羽根を持ち上げて、また置いた。
インクはもう乾いている。
放水の日を、私はもう書かなかった。
私は水帳を閉じた。その音を、夫は聞かなかった。




