エピローグ 始まりの晩餐
少女は十五歳だった。
少し前まで、毎朝決まった時間に家を出て学院へ通っていた。好きなのは演算だった。数字を追い、決まった答えへ辿り着くまで考えることが好きだった。女の子がそこまで演算を好むのは珍しいと言われることもあったが、父も母も笑って「好きなら続ければいい」と言ってくれた。もっと勉強したいと言えば応援してくれたし、成績が上がれば一緒に喜んでくれた。
学院へ通い始められたこと自体が、少女には嬉しかった。これから先も勉強を続けられると思っていた。もっと難しい計算も覚えられる。いつか、それを使う仕事だってできるかもしれない。その頃は、そう思っていた。
両親が死んだのは、夕食の途中だった。いつも通り三人で食卓を囲んでいた。母が作った煮込み料理を食べながら、父が学院のことを聞き、少女はその日、学院であった面白い話をしていた。
突然、父の手が母の首へ伸びた。母もほとんど同時に父の首を掴んだ。最初は何が起きたのか分からなかった。二人とも苦しそうな顔をしているのに、手を離そうとしない。少女は椅子を倒して立ち上がり、父の腕へしがみついた。やめて、と何度叫んでも、父の手は母の首から離れなかった。母も同じだった。
「やめて! お父さん、やめて! お母さんも!」
二人とも少女を見なかった。そのすぐそばに、老婆が立っていた。
いつからそこにいたのか分からなかった。玄関が開いた音も、椅子を引く音も聞いていない。それなのに、老婆は最初から食卓のそばにいたかのように立っている。
見たことのない女だった。痩せた身体に古びた服をまとい、白い髪を垂らしている。顔には深い皺が刻まれていたが、その中で口元だけが不自然なほど大きく吊り上がっていた。
笑っている。父と母が苦しんでいるのを、楽しそうに見ていた。
「殺せ」
老婆の口が動いた。
「死ね。殺せ。もっと強く」
声は大きくない。それなのに、すぐ耳元で囁かれているようにはっきり聞こえた。少女は老婆を見た。
「やめて!」
老婆の首が、ゆっくりと少女の方へ向いた。身体は両親の方を向いたままだった。顔だけが少女を見る。吊り上がった口元が、さらに深く歪んだ。
「死ね。殺せ」
何度も、何度も繰り返した。少女は父の腕を引いた。母の手を叩いた。泣きながら二人の間へ入ろうとした。それでも、大人二人の力には敵わなかった。
やがて、父も母も動かなくなった。食卓の上には、途中まで食べた料理が残っていた。少女が顔を上げると、老婆はまだ同じ場所に立っていた。両親が動かなくなったことを確かめるように二人を見下ろし、それから少女へ目を向ける。笑っていた。
少女が瞬きをした。次に目を開けた時には、そこには誰もいなかった。
その後、少女は何度も同じことを説明した。知らない老婆がいた。あの女が父と母へ「殺せ」と言っていた。二人は喧嘩などしていなかった。父も母も仲が良かった。あんなことをするはずがない。が、誰も信じなかった。
両親が互いの首を絞めて死んでいたことだけが事実として残った。夫婦の間に何か問題があったのではないか。口論が激しくなったのではないか。事故だったのだろう。そう説明された。
「違う」
少女は何度も言った。
「違う。あの女がいたの」
大人たちは困ったような顔をした。ひどいものを見たせいで混乱しているのだろう、と言われた。
近くでは、その少し前から妙な自殺や自殺未遂が続いていたらしい。自分で自分の首を絞めた者もいたと、誰かが話しているのを聞いた。やっぱり、と思った。自分が見たものは嘘ではない。それでも、誰も信じなかった。
帝国では、まだあちこちに騒ぎの名残が残っていた。突然自分の首を絞めた者や、家族同士で傷つけ合った者の話が聞こえてきた。少女の両親に起きたことも、その中の一件として扱われていた。
そんな中で、北部戦線では停戦が決まったらしい。これで少しは平和になる、と誰かが言っていた。
夕方になり、少女は一人で食卓についた。明日からは教会の孤児院へ行く。この家で暮らすことも、学院へ通うことも、もうできない。両親がいない以上仕方がないことなのだと、何度も説明された。この食卓に座るのも、これが最後になるのかもしれなかった。
父の席がある。母の席がある。食卓には何も置かれていない。いつもなら母が料理を並べ、父が遅いと文句を言いながら先に座っていた。少女が学院の話をすると、二人とも聞いてくれた。今は誰もいない。
「……どうして」
返事はなかった。
「どうして?」
少女は机の上へ手を置いた。
「どうしてお父さんとお母さんが死ななきゃいけなかったの」
誰も答えない。
「どうして、あの女がいたのに、誰も信じないの」
指先に力が入った。
「どうして」
少女は机を叩いた。
「どうして!」
もう一度、叩く。
「どうして私がここを出なきゃいけないの! どうして学院もやめなきゃいけないの!」
木の机が鈍い音を立てる。
「これで平和になるって、誰か言ってた」
少女は父の席を見た。
「何が平和なの?」
母の席を見る。
「何が平和なのよ」
声が震えた。
「お父さんもいない。お母さんもいない。学院にも行けない。明日にはここから出ていけって言われてるのに」
少女は爪を噛んだ。噛みすぎて血が出ても、やめなかった。
「何が平和なのよ!」
机を強く叩いた。
「家族を返して」
誰もいない。
「家族を返してよ」
少女の目に涙が溜まった。
「お父さんを返して」
机を叩く。
「お母さんを返して」
また叩く。
「家族を返せ!」
返事はなかった。
「返せ!」
少女の声だけが、空っぽの部屋に響いた。
「家族を返せ!」
何度叫んでも、父も母も戻らない。少女は両手で頭を抱えた。あの老婆の笑った顔が浮かぶ。
「憎い」
声が低くなった。
「絶対に許さない」
けれど、浮かんでくる顔は老婆だけではなかった。話を聞いても信じなかった大人たち。事故だったのだろうと言った者。混乱しているだけだと決めつけた者。学院を辞めるしかないと告げた者。明日から知らない場所へ行けと言った者。誰も、自分を信じなかった。もう、自分にも信じられる人間はいなかった。
「みんな嫌い」
少女は爪を噛んだまま呟いた。
「みんな嫌い」
机の上へ拳を落とす。
「あの女も」
もう一度。
「私を信じなかった人も」
また一度。
「全部嫌い」
少女は顔を上げた。
「全部憎い」
声が少し大きくなった。
「全部憎い」
誰もいない食卓へ向かって繰り返す。
「全部憎い」
窓の外では、いつもと変わらない夕暮れが街を覆っていた。停戦が決まったことを話しながら帰る人の声が遠くに聞こえ、向かいの家では明かりが灯り、どこかの家から夕食の匂いが流れてくる。これで平和になる。誰かが、そう言っていた。
少女は誰もいない食卓を睨んだまま、もう一度呟いた。
「全部、憎い」
窓硝子に細い亀裂が走った。小さく音を立てた一本の亀裂は、そこで止まらなかった。ゆっくりと枝分かれしながら伸び、夕暮れの街と、硝子に映る少女の姿をいくつにも切り分けていく。
噛み続けた爪の先には血が滲み、何度も机を叩いた拳の皮膚も裂けて、木の天板に小さな赤い染みを作っていた。
夕食時、誰も居ない、何も置かれていないテーブルが、その子にとっての始まりの晩餐だった。




