あなたの為なら何でもするわ ~悪役令嬢の妹が、私の娘ではなくなりました~
その日、下の娘が熱を出した。
朝食の席で食欲がないと言い、昼前には起き上がれなくなった。額に触れると驚くほど熱く、エレナはすぐに医師を呼んだ。感染症ではないらしい。喉にも肺にも異常はなく、ただひどく熱が高い。医師はそう説明し、冷やした布を替えながら様子を見るよう言った。
リディアは十五歳になったばかり。二つ上の姉クラリッサに比べれば、勉強も刺繍もあまり好きではなかった。菓子を食べすぎて夕食を残し、欲しい髪飾りを買ってもらえなければ頬を膨らませる。けれど姉が夜遅くまで勉強していれば眠い目を擦りながら温かい茶を運び、クラリッサが風邪を引けば自分の予定をすべて断って寝室に入り浸った。
我儘ではあるが、姉思いで、情の深い優しい子だった。エレナにとっては、手のかかるところも含めて愛しい娘だった。
長女のクラリッサは幼い頃から聡明で、何事にも手を抜かなかった。伯爵家の跡を継ぐ弟がいない以上、いずれ公爵家へ嫁ぐとしても、家の娘として恥ずかしくないだけの教養を身につけたいと自ら望んだ。そんな姉をリディアは誇りにしていた。
政略結婚だった夫アルベルトとも関係は悪くなかった。燃え上がるような恋情こそなかったが、夫婦として互いを尊重し、二人の娘を慈しんできた。夕食の席ではその日の出来事を話し、休日には四人で領地を見て回ることもあった。
毎日の中には、小さな幸せがいくつも散りばめられていた。だからエレナは、こんな暮らしがこれからも続いていくのだと思っていた。
リディアの熱は三日続いた。
三日目の明け方、ようやく体温が下がった。夜通し付き添っていたエレナは安堵し、眠っている娘の髪を撫でた。汗に濡れた淡い栗色の髪が額に張りついている。幼い頃から変わらない寝顔だった。
昼近くになって、リディアは目を覚ました。最初に母親の顔を見て、ひどく驚いた。
「……えっ」
目を大きく見開き、自分の手を見る。
それから部屋を見回し、掛布を跳ね除けて起き上がった。
「嘘。本当に? え、待って、これって……」
「リディア?」
「鏡。鏡ない?」
エレナは眉を寄せた。
「まだ起きてはいけません。三日も熱があったのよ」
「いいから鏡!」
その言い方に、エレナは手を止めた。リディアは母親に向かってそんな口を利いたことがなかった。少なくとも、自分の要求を通すために声を荒らげるようなことはしない。熱のせいで混乱しているのだろう。そう思い、侍女に手鏡を持ってこさせた。
リディアは鏡を奪うように受け取った。
「うわ、本当にリディアだ」
その笑い方も、エレナの知らないものだった。
「リディア?」
「すご。めっちゃ可愛い。モブなのにビジュいいじゃん」
意味の分からない言葉だった。エレナはもう一度、娘の額に触れた。熱はなかった。
その日の夕食から、違和感はさらに増えた。
病み上がりだから寝室で食べるよう言ったにもかかわらず、リディアは食堂に来ると言い張った。椅子に腰掛ける姿勢が悪く、ナイフの扱いも雑になっていた。幼い頃から何度も注意した肘を卓上につく癖まで、突然現れた。
クラリッサが心配そうに妹を見る。
「本当に大丈夫なの? まだ顔色がよくないわ」
「平気平気。ていうかお姉様、ほんとにクラリッサなんだ」
クラリッサが戸惑った。
「……どういう意味?」
「いや、思ってたより綺麗だなって。悪役令嬢ってもっとキツい顔かと思ってた」
食卓が静まった。
アルベルトが低い声で尋ねた。
「リディア。姉に向かって何を言っている」
「別に悪口じゃないって。褒めてるの」
リディアは悪びれもせず、肉を口へ運んだ。
「でもまあ、そのうち聖女いじめるんだよね」
クラリッサの手が止まった。
「誰を?」
「セシリア」
その名前には聞き覚えがあった。
半年前、王都の教会で神聖術の適性を認められた少女だった。正式な聖女認定はまだ先だが、候補者として王宮にも出入りしている。クラリッサとは数度、茶会で顔を合わせた程度のはずだった。
「なぜ私がセシリア様をいじめるの?」
「そういう話だから」
リディアは当然のように答えた。
「嫉妬して嫌がらせして、最後はやりすぎて断罪されるの。ヴィクトル様にも婚約破棄されるし」
クラリッサの婚約者であるヴィクトルは公爵家の嫡男だった。二人は七年前から婚約しており、少なくともエレナの知る限り関係は良好だった。
「くだらない話はやめなさい」
エレナが言うと、リディアは露骨に顔をしかめた。
「お母様ってこんな感じだったっけ」
「何ですって?」
「原作だともっと空気だった気がするんだけど」
その夜、エレナは再び医師を呼んだ。頭部に異常があるのではないか。熱で記憶に障害が出たのではないか。何か毒物を摂取した可能性はないか。医師は一通り診察し、異常は見つからないと答えた。
神官も呼んだ。悪霊憑きではないかと疑ったからだった。簡単な浄化と魂の状態を調べる祈祷が行われたが、神官は困惑した様子で首を横に振った。
「邪悪なものは感じません。ただ……」
「ただ?」
「少し、奇妙です」
神官はリディアを見た。
「魂と肉体の馴染み方が弱いように感じます。しかし病後には稀にあることです。しばらく休ませれば落ち着くでしょう」
落ち着かなかった。
日が経つほど、リディアはリディアではなくなった。幼い頃から嫌っていた魚料理を平然と食べた。お気に入りだった香水を「ババくさい」と捨てた。亡くなった祖母から贈られた首飾りを値踏みし、いくらで売れるのか侍女に尋ねた。
クラリッサの誕生日も忘れていた。昔の話を尋ねても、一つも答えられなかった。八歳の冬、湖で転んで二人して泥だらけになったこと。十歳の誕生日にクラリッサからもらった青い石の髪飾りを、嬉しさのあまり寝る時まで外さなかったこと。幼い頃、雷が怖くてエレナの寝室へ潜り込んできたこと。何も知らなかった。
代わりに、これから起きることを知っていた。春の園遊会でセシリアが王太子に見初められる。夏にはクラリッサがセシリアのドレスを汚す。秋には階段から突き落とそうとする。翌年の卒業舞踏会で悪事を暴かれ、婚約を破棄される。
「だから早めに止めてあげてるんじゃん」
ある日、リディアはそう言った。
エレナは娘の部屋で、正面から彼女を見ていた。
「クラリッサはそんなことをしません」
「するって。そういうキャラだから」
「あなたの姉でしょう」
「だから言ってるじゃん。今のうちに矯正した方がお姉様のためでもあるって」
リディアは椅子にだらしなく座り、菓子を摘まんだ。
「正直、悪役令嬢って嫌いなんだよね。自分は恵まれてるくせに、ヒロインに嫉妬して邪魔するとか性格悪すぎ。まあ現実になったら思ってたより普通だったけど」
エレナはしばらく言葉が出なかった。
「あなたは、クラリッサの何を知っているの」
リディアは面倒そうに眉を寄せた。
「だから、全部知ってるんだって」
「あなたはクラリッサが十歳の時に熱を出した夜、何をしたか覚えている?」
「知らないよ」
「あなたは一晩中、姉の寝室の前に座っていたのよ。自分まで病気になるから部屋へ戻りなさいと言っても聞かなかった」
リディアは肩をすくめた。
「それ原作にないし」
その言葉で、何かが切れた。
エレナは立ち上がった。
「……お母様?」
娘の顔だった。十五年間、毎日見てきた顔だった。けれどこれではっきりとわかった。この子は変わったのではない。リディアではないのだと。
「あなたは誰」
リディアの顔が固まった。
「何言ってんの」
「私の娘はどこにいるの」
数秒の沈黙のあと、リディアは小さく笑った。
「やだ、お母様怖いって」
それから、少し誇らしげに胸を張った。
「でもまあ、隠す必要ないか。私、転生者なんだよね」
転生。聞き慣れない言葉だった。リディアの身体にいる者は、自分をユキと名乗った。
別の世界に生まれ、そこで十七年ほど生きていたという。リディアが熱を出したのと同じ頃、ユキもまた高熱を出し、自分の家で寝込んでいた。熱に浮かされて眠り、次に目を覚ました時には、この身体の中にいたらしい。
ユキ自身は、それを異世界転生と呼んでいた。そしてこの世界は、以前遊んでいた恋愛遊戯の世界と同じだという。王太子と聖女セシリアが結ばれる物語。クラリッサは二人を妨害する悪役。ヴィクトルは途中でクラリッサに愛想を尽かし、聖女側につく。リディアは名前だけ登場する妹。アルベルトとエレナは背景にすぎない。
「だから心配しなくても大丈夫だって。私が来たんだから、お姉様が変なことしないようにちゃんとするし。この家だって没落しないようにしてあげる」
ユキは笑った。
「むしろラッキーじゃない? 未来知ってる人が家族になったんだよ」
エレナは吐き気を覚えた。
「リディアは」
「だから私がリディア」
「私の娘はどこにいるの」
「知らないって」
ユキは苛立った様子で息を吐いた。
「こういうのって普通、転生した側しか出てこないじゃん。元の人がどうなったとか知らないし。消えたんじゃない?」
エレナは手を上げた。が、頬を打つ直前で止めた。目の前にあるのは、リディアの顔だった。叩くことができなかった。
ユキはその手を見て、鼻で笑った。
「ほら。結局、私のこと娘だと思ってるじゃん」
エレナは何も答えず部屋を出た。廊下へ出たところで、膝が震えた。クラリッサが待っていた。すべて聞いていたのだろう。青ざめた顔で母親を見る。
「お母様」
エレナは娘の肩を抱いた。
「大丈夫よ」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「リディアを探しましょう」
それからのエレナは、娘を取り戻すことだけを考えた。最初に教会を訪ねた。魂について研究している神官を紹介してもらい、古い記録を読ませてもらった。異物に取り憑かれた者、死者の魂を降ろした者、記憶を失い人格が変化した者。似た事例はあったが、完全に一致するものはなかった。
ユキはその間も好き勝手に行動した。セシリアへ接触し、クラリッサが危険だと吹き込んだ。セシリア本人は困惑し、むしろクラリッサへ謝罪に来た。
「リディア様は、なぜか私がクラリッサ様から酷い目に遭うと信じておられるようです」
セシリアは申し訳なさそうに言った。
「私はクラリッサ様から何もされておりません。むしろ以前、王宮で具合を悪くした時に助けていただきました」
クラリッサは苦笑した。
「妹は今、少し病んでおります」
セシリアは聖女候補として、リディアの魂を見ることを申し出た。
数日後、伯爵邸の小礼拝室で祈祷が行われた。セシリアがリディアの手を取り、神聖術を使った瞬間、白い光が弾けた。
セシリアは息を呑んだ。
「……違います」
エレナは立ち上がった。
「何がですか」
「この方の魂は、この身体のものではありません」
ユキが顔をしかめる。
「ちょっと、そういう言い方やめてよ」
「魂そのものに邪気はありません。ですが、身体との結びつきが不自然です。生まれた時から共にあったものではないように見えます」
「ではリディアは」
セシリアは答えられなかった。
その頃から、アルベルトの態度がおかしくなった。最初は彼も娘の変化を心配していた。ユキが転生者だと名乗った時には、エレナと同じように強い警戒を示していた。
しかしリディアと何度か二人きりで話した後、急に態度が軟化した。
「今のリディアを責めても仕方がない」
書斎でそう言った。
「本人が望んで身体を奪ったわけではないのだろう」
「だから娘を諦めろというのですか」
「そうは言っていない。ただ、今ここにいる子も守るべきではないか」
エレナは夫を見た。
「あなたはあの子をリディアだと思っているの?」
「……姿はリディアだ」
その返答に、寒気がした。
さらにヴィクトルまで変わった。それまでクラリッサを信頼していた青年が、突然セシリアを庇い始めた。ユキから何を聞いたのか、クラリッサが将来危険な行動を起こす可能性があると言い、婚約を考え直す必要があるとまで口にした。
「まだ何もしていない娘を、未来に罪を犯すかもしれないという理由で裁くのですか」
エレナが問うと、ヴィクトルは苦しそうに眉を寄せた。
「私にも分かりません。ただ、リディア嬢の言葉を聞くと、そうしなければならないように思えるのです」
そこまで言って、本人も異常さに気づいたようだった。
調べると、影響を受けているのは男ばかりだった。使用人の若い男たちはユキに甘くなり、注意を受けても庇うようになった。年嵩の執事や既婚の庭師には効きにくいが、それでも長く接すると判断が鈍った。
セシリアの神聖術によって、その正体も判明した。魅了だった。魂が世界を越えた際、ユキ自身に付随した力のようだ。
ユキ本人は、最初その話を聞いて笑った。
「え、私チート持ちだったんだ」
嬉しそうだった。
エレナはその顔を見て、不快感を露わにした。この女は、リディアではない。それだけではない。善良ですらなかった。
異なる世界の価値観を持っていることなど問題ではない。食事の作法を知らないことも、この国の身分制度を嫌うことも、女性の自由について語ることも構わなかった。
エレナが嫌悪したのは別の部分だった。ユキは他人を、自分のための登場人物だと思っていた。セシリアが望んでもいない王太子との恋を「正しい結末」と呼び、クラリッサが何もしていないうちから悪人と決めつけ、ヴィクトルの意思が魅了によって歪んでいると知っても、その力を便利だと喜んだ。
アルベルトがクラリッサを修道院へ入れると言い出したのは、それから間もなくのことだった。
「騒ぎが大きくなる前に、一度家から離した方がいい」
夕食後の応接室で、夫は言った。
クラリッサは黙っていた。
エレナは夫を見つめた。
「理由は」
「リディアと衝突しすぎている」
「クラリッサは何もしていません」
「しかし、このままではいずれ何かが起こる」
ソファに座っていたユキが口を挟んだ。
「だから言ったじゃん。お姉様は修道院に入れといた方が安全だって。断罪まで行くよりマシでしょ」
エレナは夫を見た。
「あなたは、それを聞いているのですか」
「リディアなりに姉を心配している」
「この女の名はユキです」
アルベルトの顔が強張った。
「エレナ」
「私の娘の名を、この女に使わないで」
ユキが立ち上がった。
「いい加減にしてよ! こっちだって好きで来たわけじゃないし! 私だって熱出して寝てただけなのに、起きたらここだったんだから被害者でしょ!」
「では帰りなさい」
「帰れるなら帰ってるよ!」
「必ず帰してあげるわ」
ユキの顔から怒りが消えた。
エレナは微笑んだ。
「何をしてでも」
その夜、クラリッサを連れて伯爵邸を出た。夫には行き先を告げなかった。教会から紹介された老神官が、王都の地下書庫に異端審問以前の記録が残っていると教えてくれたからだった。
そこから三か月を費やした。エレナは伯爵夫人として使える伝手も金もすべて使った。古い教会を訪ね、廃絶した魔術師の家系を探し、百年以上開かれていなかった墓所にまで入った。
やがて、二百三十年前の記録を見つけた。魂の異世界転移。異なる世界に存在する二人の魂が、同時に互いの肉体へ移される現象。それは魔術ではなかった。人間が起こしたものでもなかった。記録には、女神の気紛れと書かれていた。神域に属する偶発現象であり、人間には原因も条件も分からない。ただ一つ、過去の例に共通していたのは、双方の肉体が生きていることだった。
エレナはその一文を何度も読んだ。死者への転生ではない。魂が一方的に入り込んだのでもない。二つの魂が、入れ替わっている。
「クラリッサ」
声が震えた。
娘が駆け寄ってくる。
エレナは記録を指差した。
「リディアは死んでいない」
クラリッサが目を見開いた。
「生きているの?」
「ええ」
涙が落ちた。
三か月間、一度も泣かなかった。娘の前でも、夫と争った時にも、ユキから「消えたんじゃない」と言われた時にも泣かなかった。その場で初めて、エレナは声を上げた。
生きている。娘は生きている。ユキという少女の身体に入り、知らない世界で暮らしている。一人で。エレナは泣きながら笑った。
「迎えに行けるわ」
クラリッサも泣いていた。
「迎えに行きましょう、お母様」
そこで、一番の問題に直面した。魂の交換そのものは人間には再現できない。女神の領域だからだ。人間の魔術で魂だけを再び交換しようとすれば、二人とも死ぬ可能性が高い。
しかし、別の記録があった。世界を越えて迷い込んだものを、現在の状態のまま別の世界へ送り返す術。禁術だった。人を対象にすれば成功率が低く、術者の命を奪う可能性もある。
ただし、この術は魂には触れない。魂と、それが現在宿っている肉体を一つの存在として扱い、そのまま世界を越えさせる。つまり、ユキの魂が入ったリディアの身体を向こうへ送り、リディアの魂が入ったユキの身体をこちらへ引き戻す。
魂だけを元の肉体へ戻すことはできない。戻ってくる娘の姿は、リディアではない。それでもエレナは迷わなかった。
「それで構いません」
術を教えた老魔術師が何度も確認した。
「本当に分かっているのか。帰ってくる娘は、もうお前の知っている姿ではないぞ」
「構いません」
「声も違う。肉体の年齢も、娘とは異なるかもしれん」
「それでも娘です」
「では今ここにいる娘の身体は失うことになる」
エレナは静かに答えた。
「確かに、あれは娘の身体です」
だからこそ、本当なら傷一つつけたくなかった。
「私が取り戻したいのは、リディアの姿をした他人ではありません。私の娘であるリディアです」
準備にはさらに二か月かかった。
その間に、アルベルトの魅了はさらに深くなった。エレナとクラリッサが戻ると、夫は二人を家へ入れまいとした。
「リディアを害するつもりなのだろう」
それが夫の第一声だった。
エレナはしばらく彼を見た。二十年近く共に暮らした男だった。腹が立たないわけではなかった。しかし今は、それより娘だった。
「あなたは後で治療します」
アルベルトが目を見開いた。
「何を言っている」
「今は邪魔をしないで」
セシリアと教会の神官たちが協力し、魅了された使用人を押さえた。
ユキは寝室にいた。儀式用の陣を見て、初めて本気で怯えた。
「何これ」
エレナは答えた。
「あなたを元の世界へ帰すの」
ユキの顔色が変わった。
「待って。方法見つかったの?」
「ええ」
一瞬、安心したように見えた。しかし説明を聞くうち、その表情が崩れた。
「は? 身体ごと?」
「そうです」
「無理無理無理。待ってよ。こんな格好で日本行けってこと?」
ユキはリディアの身体を示した。
「戸籍ないじゃん。家にも帰れないし。絶対警察に捕まるって」
「そうでしょうね」
「そうでしょうねじゃない!」
ユキが叫んだ。
「私の身体を返してよ!」
エレナは彼女を見た。
「その身体には、今、私の娘がいます」
「だったら魂だけ交換すればいいじゃん!」
「できません」
「何とかしてよ! ここまでできたんだから!」
「できません」
ユキは黙った。
やがて、怒りより先に恐怖が浮かんだ。
「じゃあ私、向こうでどうすんの」
「知りません」
「お母様」
その呼び方に、エレナの表情が消えた。
ユキは慌てて言葉を続けた。
「私だってずっとここで暮らしてきたじゃん。もう半年だよ。家族みたいなものでしょ」
「違います」
「私、別にリディアを殺したわけじゃない! 入れ替わっただけなんでしょ!」
「ええ」
「だったら私だって悪くないじゃん!」
「あなたがここへ来たことについては、あなたの責任ではありません」
ユキは一瞬、安堵した。
エレナは続けた。
「でも、娘を返さない理由にはなりません」
ユキの目から涙が落ちた。
「私もここで生きてるのに」
「私の娘も向こうで生きています」
「私の方がこの身体に慣れてるし、今さら戻ったってリディアだって困るでしょ! 日本だよ? あっちはあっちで今、高校通って普通にやってるんでしょ!」
エレナの目が細くなった。
「だから何ですか」
「もう向こうで暮らせてるなら、そのままでいいじゃん!」
エレナはその言葉を聞いて、初めてはっきりと怒りを覚えた。
「あなたは、自分がこちらで暮らしたいから、私の娘には一生あなたの人生を生きろと言うのですか」
ユキが黙る。
「あなたの家族をあなたが取り戻したいと思うのなら、それは理解します。けれど、私も同じです」
「でも身体が」
「だから迎えに行くのです」
「その女の身体で帰ってきたら、あんた本当に娘だって思えるの?」
エレナは答えた。
「当たり前でしょう」
ユキの顔が引きつった。
「見た目、私なんだよ」
「それが何ですか」
エレナは初めて、心の底から不思議に思った。この女は何を言っているのだろう。
十五年間抱いてきた娘の体を失うことは悲しい。栗色の髪も、灰色の瞳も、幼い頃から変わらない笑顔も、もう二度と見られないかもしれない。それでも。娘は娘だった。
「あなたは半年間、リディアの顔をしていました」
エレナは言った。
「それでも私は、一度もあなたを娘だと思えなかった」
ユキが息を止めた。
「なら、知らない顔をしていても、私の娘なら分かります」
儀式が始まった。
ユキは最後まで抵抗した。
「お父様! 助けて! この人私を追い出そうとしてる!」
泣き、叫び、アルベルトを呼んだ。魅了されたアルベルトが外から扉を叩いた。エレナは振り返らなかった。魔法陣から光が立ち上がる。ユキの身体が透け始めた。
「お願い! 嫌だ! こんなのざまあじゃない! 私何も悪いことしてない!」
クラリッサが目を伏せた。
エレナは最後まで見ていた。
「お母様!」
ユキが手を伸ばした。
娘の手だった。
「助けて!」
エレナはその手を取らなかった。光が弾けた次の瞬間、ユキの姿は消えた。
陣の中央には誰もいなかった。静寂が落ちた。失敗したのかと思った。
数秒後、魔法陣の中央が再び輝き、人影が現れた。黒い髪。見慣れない服。十代後半ほどの少女だった。少女は床に倒れ込んだ。クラリッサが息を呑んだ。エレナは動けなかった。
知らない顔だった。本当に何一つ知らない。少女がゆっくり顔を上げた。怯えた黒い瞳がエレナを見る。唇が震えた。
「……お母様?」
その声も知らなかった。
けれど次の瞬間、少女は泣きながら口元を左手で押さえた。リディアは泣く時、必ずそうした。幼い頃からの癖だった。
「お母様……お姉様……」
クラリッサが駆け出した。
「リディア!」
少女が顔を上げた。
「お姉様!」
二人が抱き合った。
リディアは泣きながら、クラリッサの肩へ額を押しつけた。
「怖かった。目が覚めたら知らないところで、知らない身体で、最初は言葉もほとんど分からなくて、お母様もお姉様もいなくて……」
エレナの足がようやく動き、娘の前に膝をつく。リディアが母親を見る。
「私ね、お母様が前に言ってたこと、ずっと思い出してたの」
「何を?」
「八歳の時、湖で転んだ時」
エレナの喉が詰まった。
リディアは泣きながら笑った。
「あの時、お母様、クラリッサお姉様より私の方が泥だらけなの見て、先に私を叱ったでしょう。転んで怪我してたのはお姉様なのに」
エレナも笑った。
「あなたが押したと思ったのよ」
「違うもん。お姉様が勝手に滑ったの」
「まだ言うのね」
娘を抱き締めた。知らない髪の匂いだった。知らない身体だった。腕の長さも、肩の高さも、すべて違った。それでも、娘だった。間違えようがなかった。
「おかえりなさい、リディア」
リディアは声を上げて泣いた。
「ただいま、お母様」
魅了は、ユキが世界を去ると同時に消えた。アルベルトは正気に戻ったあと、自分が何をしたのかを知り、クラリッサの前で膝をついた。ヴィクトルも同じだった。
許すかどうかはクラリッサに任せた。エレナは夫をすぐには許さなかった。魅了されていたとはいえ、娘を修道院へ送ろうとした事実まで消えるわけではない。アルベルト自身もそれを理解し、言い訳をしなかった。
家族が元に戻ったわけではない。完全に元には戻れない。リディアは知らない身体で生きていかなければならない。せっかく綺麗に書けるようになった文字も、新しい身体では思うように書けず、また練習が必要になった。鏡を見るたび、未だに違う顔が映ることにも驚いた。
ただ、向こうで高校という学校へ通っていた半年間に、こちらとはまったく違う生活もある程度覚えていた。
「ユキって、あまり良い子じゃなかったみたい」
ある日、リディアは困ったように言った。
「どういうこと?」
「熱が下がってから急に家の手伝いをするようになったって、お母さん……向こうのお母さんに泣かれたの。先生にも、何かあったのかって何度も聞かれたわ」
クラリッサが笑いを堪えた。
ユキは元々、学校でも家庭でも扱いに困る少女だったらしい。授業を疎かにし、趣味の話ばかりし、家族にも乱暴な口を利いていた。そこへ突然、中身だけリディアになった。両親の手伝いをし、教師には礼儀正しく接し、友人にも気を配るようになった。周囲は、熱を出してから急に良い子になったと驚いていたらしい。
「あなた、向こうでもそんな調子だったの?」
「だって、人のお家にいたんだもの。勝手なことできないでしょう」
エレナも笑った。
「あなたらしいわ」
向こうの両親が娘の変化をどう受け止めたのか、考えないわけではなかった。それでも、エレナには返すべきものを返しただけだった。
クラリッサは妹の髪を結い、エレナは娘がこちらの食事に慣れるまで一緒に台所へ立った。少しずつ、新しい家族になっていった。
儀式から一月後、老魔術師がエレナを呼んだ。
「残滓が消える前に、見ておくか」
世界を繋いだ術には、わずかな痕跡が残っていた。
鏡のような水面に、向こう側の景色が映った。見知らぬ町だった。巨大な建物が並び、光る箱が道路を走っている。その片隅に、リディアの姿をしたユキがいた。
薄汚れた服を着て、何人かの人間に囲まれている。何かを必死に訴えていた。声は聞こえない。けれど口の動きは激しく、何度も自分を指差している。
姿が変わっていても、本人しか知らない思い出を語り、共に過ごした時間を積み重ねれば、いつか家族に信じてもらえるだろうか。
けれど、水面の向こうで必死に訴えるユキと、それを怯えたように見つめる人々を見ていると、それも難しそうに思えた。突然現れた見知らぬ少女が自分こそ娘だと名乗ったところで、すぐに信じてもらえるほどの関係ではなかったのかもしれない。
ユキは水面の向こうで泣いていた。
老魔術師が尋ねた。
「後悔しているか」
エレナは少し考えた。
「いいえ」
嘘ではなかった。
可哀想だとは思う。ユキもまた、女神の気紛れに巻き込まれただけの被害者だった。それでも、エレナは娘をあの世界へ残すという選択だけはできなかった。
自分の娘を取り戻すために、何の関係もない少女を不幸にした。その罪があるのなら、自分が背負えばいい。その報いがいつか訪れるのなら、それも受け入れる。娘を取り戻せるのなら、それくらいのことは厭わなかった。
水面が揺れ、ユキの姿が消えていく。エレナは最後まで見届けた。
屋敷へ帰れば、娘たちが待っている。クラリッサは今日も書斎で勉強しているだろう。リディアは文字の練習に飽きて、侍女に菓子をねだっている頃かもしれない。
顔が変わっても、声が変わっても、我儘なところは何も変わらなかった。それでいい。それがいい。
エレナは立ち上がった。娘を取り戻すためなら、教会の禁忌を犯すことも、夫に背くことも、知らない少女を不幸にすることもできた。
きっとこれから先も同じだろう。
あなたの為なら何でもするわ。
それが母親というものなのだから。




