第八夫人エスメラルダの陰湿4
1.第四夫人シュギの純熟
シュギは女になどなりたくなかった。人になどなりたくなかった。シュギは剣だった。だから、剣のままでありたかった。
シュギは何者でもない。剣を振るうことを生業とする母は、シュギを一人で産んで一人で育てた。父親はいない。母が「あんたの父親は剣だよ」と言ったので、シュギはだから自分は剣なのだと納得した。
母の腕は良かった。だから家は貧しくはなかった。ただ、豊かでもなかった。名声はなかったが、無名でもなかった。当時は戦が続いており、父母のどちらかがいない事など珍しくもなかった。
母は戦場へばかり出ていたので、シュギは剣を隣の家の老爺に習った。近所に住む子供は皆、その老爺に剣の手ほどきを受けていた。浮浪児になるほど貧しくなく、商売を出来るほど学がない子供の将来として、軍に入るのは最も上等なものだからだ。
老爺は戦で片腕と片脚をなくしており、いつも残った腕で杖を突いていた。その杖でちょいと突いて、子供達の姿勢を直すのだ。
シュギは老爺の元に集まる子供達の中で、最も秀でた生徒だった。老爺はいつもシュギに、「戦はまだ当分は続く。お前はきっと沢山稼げる」と言った。
シュギは剣なので金に興味はなかったが、金があれば母が戦場に行く数が減るはずなので、それはいいことだと思った。シュギはまだ母に勝てない。母に勝つには、まず何より家にいてもらわねばならない。
シュギはただ剣を振るった。それ以外に出来ることなどないし、それ以外にしたいこともなかった。シュギが握れば、どんな鈍でもまるでシュギの体の一部であるかのように鋭さを増した。
なぜ自分の手のように自在に剣を振るえるのかと人に尋ねられる度、シュギは「手では切れないから、切れるように少し伸ばしただけだ」と答えた。最初は面白がって近寄ってきた人々は、シュギの言葉が理解できないとやがてシュギから離れていった。
それで良かった。微笑まなければ女でないというのならばシュギは剣であって女ではなかったし、優しくなければ人ではないというならばシュギは剣であって人ではなかったのだから。
シュギに人の道理が分からないように、人に剣の道理は分からないものだ。シュギはそれを知っていたので、誰のことも追いかけはしなかった。
シュギは大人になり、当然のように兵士となった。シュギの名が戦場の隅々まで知れ渡るのに、そう時間はかからなかった。
「君を妻にしたいのだけど」
見かけたことすら数える程しかない貴い男は、シュギを呼び出して唐突にそう言った。
戦場で遠目に見た姿とはかけ離れている。着ているものこそ同じだが、獅子のような熊のような勇猛さはそこにはない。気まずげに目を逸らしゆっくりと喋る男は、先日族長となったばかりのシュギの遙か上司だった。
どれだけ強かろうと身分のない兵士でしかないシュギは、当然族長と会話などしたこともない。君などと親しげに呼ばれる謂われもない。だから、そう呼ばれるということはもう決定事項なのだと理解した。シュギには人の心は分からないことの方が多いが、それでも馬鹿ではなかった。
既に決まったことならば、シュギの意思を確認したというていを取ってくれるだけ、優しい男であることを喜ぶことにした。
黙り込んだシュギに何を思ったのか、今まさに結婚を申し込んだとは思えない表情で男は焦ったように言葉を続けた。
「子供を一人産んだら、あとは好きにしていい」
「好きに」
「好きにと言っても、限度があるけど。ああでも、屋敷の武器庫は好きにしていい」
シュギはよく誤解されるが、武器が好きなのではない。この男もまた誤解をしているようだったが、たかが一兵士であるシュギの趣味嗜好を少しでも理解しようとする姿勢をシュギは尊重した。
「剣が必要ですか?」
シュギの問いかけを、男は理解できないようだった。今この場でシュギの腰に剣はない。天幕に入る前に、男の従者に預けてしまっている。それでも男はシュギの本来ならば剣があるはずの腰あたりを困惑したように見た。
シュギの剣は軍から支給されたなんの変哲もないものだ。シュギ個人の剣というより族長である男の持ち物といった方が正しい。
「ええと、強い妻が……」
男は言い淀んだ。口に出してから、自分がどれほど礼を欠いた事を言っているのか気付いたようだった。普通ならばその言葉を聞いた時点で怒って立ち去るところだ。だが幸い、シュギは人間の女ではなく剣だった。
心中に仄かに起こった自分の持ち主はこの男がいいな、という感情に、シュギは従うことにした。
「わかった、君の剣になろう」
同じように親しく呼び返しただけなのに、男は驚いた顔をした。それは少し面白かったので、シュギはこの結婚にも納得した。自分の父が剣であることと同じように。
シュギが族長の四番目の妻になると伝えた二日後、母は戦場で散った。歴戦と呼んでも差し支えのない実力を誇る母が死ぬにはつまらない戦いだった。
母の死について口さがなく言う者はいた。曰く娘の父親を隠蔽するためだとか、なにがしかの不正に関わっていたのだとか。真実は誰にも分からない。
母は結局、シュギが稼ぐようになっても自ら戦場へ出るのを止めなかった。だからもしかしたら、剣なのは父ではなく母だったのかもしれないとシュギは思っている。
*
屋敷は退屈な場所だった。
本来ならば王宮と呼ぶのが相応しいのだ、とシュギに付けられた教師は言った。荘厳で巨大で無骨な建造物は、音が少なく人の気配が薄い。沢山の人が働いているはずだが、戦意のない気配はシュギにはひどく薄く感じられた。
剣を腰に下げてはいけない、着飾らなくてはいけない、乱暴な言葉を使ってはいけないと、屋敷に暮らす人々はシュギに多くを求める。子供を一人産むだけという事前の話とは大違いだ。
シュギが夫に嫁いで、程なく戦は終わってしまった。第二夫人が終わらせた。第二夫人の軍師としての地位を確固たるものにしたその戦いにはシュギも参加したが、大した役目は任されなかった。その後に続く小競り合いには参加すら許されない。
これが「族長の第四夫人」であるということなのだ。強さを必要としてシュギを求めたというのに。酷く矛盾を感じたが、それを訴える相手すらシュギにはいなかった。シュギに与えられた侍女は、婚礼の次の日には追い返してしまった。来なくて良いと言ったら即座に部屋を出て行った所を見るに、自分より身分の低い生まれのシュギに仕えるのに侍女たちも大いに不満を持っていたようだ。それ以来、シュギの部屋に人の気配はない。
シュギより先にいた三人の夫人とも交流は薄い。それぞれが忙しくしており、会うことも滅多にない。平民のシュギと有力な氏族の出である他の夫人とでは身分に大きな差がある。本来であれば肩を並べるどころか、会話をすることすら許されない。お姫様たちと話す方法など当然知らないシュギは、積極的に関わることもしなかった。
兵に交じって訓練を行うことすら認められないので、シュギは朝になれば屋敷を無意味に彷徨き、夜になれば部屋に戻って眠るだけの生活をしている。
「もし、奥方」
シュギはそれが自分に向けられた声だと気付くのに少々の時間を要した。まだ自分が族長の第四夫人であることに慣れていない。
「もし」
「私のことか?」
「ええもちろんでございます。奥方」
「なにか」
衣擦れすら起こさずにシュギの傍に寄ってきたのは、文官の制服によく似た衣服を纏った痩せた男だった。痩せた男は額づくように頭を下げ、両手を組んで頭の前に持ち上げているせいで顔が見えない。シュギの知らない礼儀だった。大きく膨らんだ袖から僅かに覗く両手は骨が浮き乾いている。
「奥方様、奥方様。奥方様は剣が達者だとか。それを見込まれて屋敷に招かれたとか。ええ皆が噂しております。分かります、分かりますとも。その目の輝き、力強さを見れば……」
「用件を言ってくれないか」
にべもなく言葉を遮ったシュギに、しかし気分を害した様子はなく男は言葉を続けた。見えないはずなのに、シュギには男の目がギラギラと熱に浮かされたように輝いているのが分かった。
「屋敷に地下があるのを、ご存じですかな」
「地下牢なら知っている。罪人を護送したこともある」
「おお、おお。そちらではないのです。そちらではない地下が、遺跡があるのです」
「それが私に何の関係がある」
男はなおも深々と腰を曲げた。やがてそのまま頭が床に着くのではないかという角度になっても膝は曲げないのが、シュギには奇妙に見えた。
「この世ならざる者が、そこに」
「それで?」
「奥方様に切って頂きたいのです」
「切ろうにも、剣を持つ許可がない」
男が勢いよく頭を上げたので、シュギは思わず腰に手をやった。当然ながらそこに剣はない。シュギは剣だが、残念ながら人の体を持って生まれてしまったので生身では何も切れない。
顔を上げた男の顔に見覚えはなかった。思った通り頬は痩け、目だけが異様な光を放っている。半歩分だけ足を広げたシュギの姿勢が警戒によるものだと分かっているだろうに、男はシュギの方へと身を乗り出した。
「許可など、ええ。許可などいるものですか。誰が奥方様に何を禁じられるというのです。ええ、ええ。奥方様こそこの屋敷で主の次に貴い御方ですのに」
シュギはついに返事をするのをやめた。男の態度は妙にへりくだり、人を持ち上げて何らかの利益を手に入れようとする者のそれだ。同じような者はシュギの育った豊かでも貧しくもない平民の家が集まる界隈にも、軍にもいた。大抵の場合、関わっても碌な事にはならない。
男の存在の一切を視界から排除し、隣を通り抜けて歩み去ろうとしたシュギに男が追いすがる。あまりにも身を寄せ回り込みと歩みを妨害するので、やむなくシュギはそう歩かないうちに再び立ち止まるしかなかった。
「何処へ行かれるのです。何処へ。奥方様」
「どいてくれないか」
「ああ、ああ。お願いです奥方様。切ってくださいまし」
「理由がない」
「しかし、しかし。切りたくはないのですか」
シュギは思わず、男に目を向けた。切りたいか、切りたくないか。それだけの単純な質問ならば答えは決まっている。切りたい。なぜならシュギは剣で、その切れ味を見込まれてこの広大な屋敷に嫁いできたのだから。シュギはまだ一度もこの屋敷で自分の鋭さを見せていない。
男はまた、初めのように深く腰を折って組んだ両手を頭の上に上げた。まるで手かせを嵌められた罪人のような姿だった。その袖は汚れ、ほつれている。
「切ってくださいまし、奥方様」
シュギの手は、何もない腰を彷徨って体の横に力なく落ちた。
*
結局、シュギは単身地下へと来た。腰には剣がある。久々の重さに、シュギはようやく深く呼吸ができるような心地がした。
男がどこからか持ってきた古い剣はシュギが軍で使っていたものではない。しかし軍でも支給された剣をこだわりなく使っていただけだ。新品だろうが使い古されたものだろうが関係がない。
地下への入り口には見張りがいるはずだった。しかし今その姿はない。どうやってか痩せた男は見張りの居ない時間を調べ上げ、シュギに教えたのだ。
痩せた男は入り口でシュギを見送って、中までは着いて来なかった。そして、数歩進んでから振り返った時には既にどこにもいなかった。
謀られたのだろう、という予想はあったが、それよりもシュギはこの先にあるはずの自分が切るものの方が興味をそそられた。もう謀略には巻き込まれてしまったのだから、このまま行ける所まで行くしかない。
一兵卒でしかなかったシュギは、乗ってしまった流れから途中で降りる方法など知らない。
腰に下げた古いランプに灯した火が、僅かに足下を照らす。高価な魔石ランプを使えばもっと広範囲を照らせるが、シュギは使ったことがないので軍にいた頃に携行していたものを持ってきた。剣と違い取り上げられていなかったのが幸いした。
「……何を切ればいいのか聞き忘れたな」
暗闇にシュギの呟きが溶ける。地下遺跡にいるこの世ならざる者を切れ、と言われたが、どのような姿形かは聞いていない。男が目の前にいる間、聞こうとも思わなかった。自分で思うより、何かを切れるということに浮かれていたらしい。
「見れば分かるか」
切れというほどなのだから、相応の見た目をしているだろう。例えそれが詭弁で地下にシュギを殺そうと企む者がいたとしても、襲ってくれば分かるはずだ。
ここ最近ですっかり増えた独り言を呟きつつ、シュギは崩れかけた階段を飛ばしながら降りた。その度に剣帯に下げた剣が跳ねて、シュギの腿を打つ。
やがて一番下に辿りつくと、シュギはあたりを見回した。ランプのか細い灯りでは全体を見ることはできない。ただ、空気の流れがある。どこかには続いているようだ。
「誰かいるか!」
念のため声を張り上げたが、応えはない。声が壁に跳ね返り、部屋の大体の大きさをシュギに知らせた。そう広くはなさそうだ。
ランプの燃料の残りを確かめて、シュギは歩みを進めた。声を張り上げた事で部屋の大体の作りは分かった。一角に通路があり、その先に続いていることも。
通路に分かれ道はなかった。シュギは長い時間、一人でただ真っ直ぐに伸びる通路を歩いた。
遺跡とはいっても、迷宮の類いではなかったらしい。時折現れる部屋を一応確かめてはいるが、何かを封じている様子もない。これはますます何故シュギをここに呼び寄せたかったのか分からない。
ふと、シュギは誰が何のために自分を謀るのだろうかと考えた。ここまでいくつも刺客が隠れられそうな場所はあったが、そのどれにも人の気配はなく、それどころかこの遺跡自体長く人が入っていない様子だ。
シュギの入ってきた入り口は既に塞がれているのかもしれない。だが空気の流れからしてこの先に出口があるのは明白で、あるとすれば、そこで敵が待ち構えているくらいだろうか。
シュギは何の後ろ盾もなく、ただその腕を見込まれただけの妻だ。わざわざ手間をかけて殺す必要があるようには思えない。
元は何らかの石像だっただろう崩れた破片を飛び越えれば、またシュギの腰で剣が跳ねた。
「……切れないのは、困るな」
結局目的が分からないのなら、何を切るかを考えるしかないのだ。当然ながら、シュギの呟きに答えはなかった。
変化は唐突に訪れた。
暗闇に慣れ、ランプの燃料が少々心許なくなり、このまま進むか一度戻るかを考え始めた頃だった。
通路の先がぼんやりと光る。人の気配はない。出口でないのならば、その先にいるのは痩せた男の言った通りに人ならざるものだ。
シュギは腰の剣に手を掛けた。古いが、いい剣だ。手入れはあまりされていない。しかしシュギには関係ない。シュギは剣なので、剣の使い方は人間よりもよっぽど詳しい。
どうやら光は曲がり角の向こうにあるらしい。シュギは足音を忍ばせて曲がり角に近付いた。息を殺して窺うが、シュギに気付いていないのか、光が動く気配はない。
一息に飛び出した先には、確かに人ならざるものがいた。
馬に見える。だが鬣の先は揺れながら空気に溶け、なにより全身が薄らと白く発光している。そして、その全身には蛇に似た赤い霞のようなものを巻き付けていた。
シュギは観察しつつも、足を止めることなく敵の懐に飛び込んだ。シュギの目的は切ることで、相手が何なのかを知ることは含まれていない。馬は悪いものには見えないが、人ではないのは確かだ。
構えた剣は空気を裂いて、びゅおと音をたてた。振り上げたそれを、敵に触れるその一瞬前に、シュギは僅かに引いた。
馬が持つ、ギラついたその目に見覚えがあった。
馬ごと切り捨てるはずの剣は、馬に絡みつく霞だけを切った。しかし二つに別れた霞は片方を馬に巻き付けたまま、増えた一方をシュギに伸ばす。
光る馬が苛立たしげに地面を掻いた。シュギには不思議と、馬が己を避けたことに苛立っているのが分かった。
「そうは言っても、お前」
飛びかかってくる赤い霞を避けながら馬に言う。当たり前のように馬に話しかける自分がシュギは少しおかしかった。
シュギのような身分の高くない兵士には、馬は馴染みのないものだ。もっと遙か昔、遊牧をして暮らしていた祖先は馬を無二の友としたらしいが、シュギは都の中で生まれ育った。馬に触れる機会は少ない。騎兵の言う「馬とは言葉が通じる」の意味をこんな風に実感する日が来るとは思わなかった。
「人ではないものを切る方法を知らない」
シュギはもう一度、霞に向かって剣を振るった。霞は更に二つになったが、今度はすぐさまくっついて元の大きさに戻った。
何度も戦に出て武勲を上げ、それこそ国で一番の剣士とまで呼ばれるようになったがそれは人相手のことだ。戦場に人ではないものを切る機会はない。
「魔術師を呼んだ方が良かったんじゃないか」
霞が迫り来るのを躱し、チラリと馬に目をやる。馬はシュギに剣を渡した痩せた男と同じ、ギラギラと光る目でシュギを見つめていた。
馬は人間のふりをしていた時はあれだけ饒舌だったのに、今は喋るどころか嘶きさえ上げない。ただ赤い霞に巻き付かれ、シュギが踊るように剣を振るうのを見ている。もしかしたら最後の力を振り絞ってあの姿になっていたのかもしれない。
言葉がなくとも言いたいことは分かった。そもそも最初からそれだけを言っていた。つまり「人ならざるものを切れ」と。
「お前ごと? これを?」
シュギの疑問に、馬は鼻から大きく息を吐いた。肯定の意味だと分かった。
シュギにはどうしても馬が悪しきものであるとは思えなかった。この赤い霞に巻き付かれ、疲れ果て、やがて悪しきものになるのだとしても、今はまだ違う。学のないシュギには分からないが、草原に古くからいる善きものである可能性の方が高い。それこそ初代皇帝や、建国にまつわるなにがしかの。王宮である屋敷の地下にいるのが何よりの証拠だ。
シュギは自分の婚礼の儀が執り行われた大広間を思い出した。壁に掛けられた布に、似たような馬を見た気がする。呼ぶ親族もいないため簡素な儀式だったが、それでも永遠に思えるほど長い時間がかかった。シュギはその間、ずっと壁の布に織られた神話を見ていたのだ。
「お前は切られてはいけない馬だろう」
馬が鼻を鳴らして乱暴に脚を踏みならす。否定。
「国の為ならば、と? 大した忠義だ」
剣のただ一振りであるだけのシュギには分からないことだ。シュギは持ち主にできる限り沢山自分を振るって欲しいという願望しかない。国の未来などという大それた視点は持ったことがない。
だがしかし、シュギの持ち主はこの国の王で、そして馬は王のためには必要である気がした。シュギに寄り添おうとした優しい男の顔を思い出す。退屈な婚礼の儀の間もシュギの隣に微笑んで座り続け、その後も何くれとなく足りないものはないか、不便はないかと気に掛けてくれる。
シュギは剣だ。剣だが、意思がある。動く体を持ち、そして誰よりも強い。
ならば、馬の忠義を少しは見習ってみるかという気になった。
「剣を極めると、魔術も切れるんだったかな」
一番最初にシュギに剣を教えた老爺はそう言っていた。伝説のような話だ。方法は教えて貰えなかった。誰も知らないから。
しかしシュギには自分がこの国どころかこの大陸で最も優れた剣だという自負があった。ならば、シュギに切れないものなどあっていいはずがない。
赤い霞が膨らむ。馬が嘶く。一歩を踏み込む。そして、シュギは人ならざるものを切った。
赤い霞が霧散すると、そこには光る馬だけが残された。ギラついていた目は穏やかさを取り戻し、凪いだ目でシュギを見つめている。
「切ったけれど」
馬は答えなかった。あの痩せた男の姿にもならない。そのまま静かに背を向け、どこかへ歩いて行こうとする。
シュギは黙って馬のあとに続いた。
馬が止まればシュギも止まる。馬が振り返れば目を合わせ、馬が歩けばシュギも歩く。それを何度か繰り返し、ついに立ち止まった馬は先ほどのように苛立たしげに地面を掻いた。
「出口が分からない」
シュギは肩を竦め、とっくに燃料が切れて火を消したランプを示した。シュギの腰で揺れるランプを馬が睨む。
実際の所、来た道をそのまま引き返せばいいだけなので入り口に戻ることはできる。だがもう見張りは戻ってきているだろうし、そうしたらシュギは許可なく遺跡に入り込んだことについて何か言われるはずだ。それは面倒だった。
結局、馬はシュギが着いてくることを許した。諦めたに近いかもしれない。それでも最後までシュギが着いていけるほどの速度でしか歩かなかったので、許しだったのだろう。
馬が立ち止まり、促すようにシュギの腕に鼻を押し当てる。目の前には長い階段があり、更にその上の扉からは仄かに光が漏れている。ついに外に出られるのだろう。迷宮という割に、ずっと一本道だった。
馬はシュギが扉を見付けたことを確認すると、踵を返した。
「また来るよ」
馬は振り返らず、そのまま雷鳴に似た蹄の音を響かせて走り去っていった。
*
扉を抜け、シュギは眩しさに目を細めた。どこかの廊下へ出たらしい。扉は上手く岩壁に偽装され、そうと知っていなければそこに扉があるなどと気付かないだろう。もしかしたら王族用の抜け道だったのかもしれない。
しげしげと壁を見つめるシュギに、背後から声が掛かった。
「このような場所で、なにをしているのです」
振り返れば侍女を引き連れた第二夫人が立っていた。シュギの頭から爪先までを眺め、眉を顰める。自分でも見やれば、シュギの全身は埃にまみれてとても貴人の前に出て良い姿ではない。
シュギは素早く礼をした。せっかく見張りからの説教を回避したのに、育ちの良いお姫様から叱責を賜るのは嫌だった。
「お待ち」
一応立場の上では対等であるので、即座に立ち去れば咎められないはずだというシュギの考えは第二夫人からの声によって打ち砕かれた。
そっと顔を上げると、侍女に何やら指示を出しながらも第二夫人はシュギを見つめ続けている。その視線が一瞬背後の石壁に逸れたことで、シュギは第二夫人もまたここに何があるのかを知っているのだと分かった。
「おいでなさい」
第二夫人はシュギの返事を待たなかった。まるで着いてくるのが当然だというかのように歩き始める。仕方なく、シュギは先ほど馬に対してしたように、第二夫人の後ろを歩いた。
辿り着いたのは予想通り第二夫人の部屋で、シュギは入り口で侍女達に全身を拭われた。シュギの侍女はもういないので、誰かに世話を焼かれるのは自分の地位を突きつけられるようでむず痒い。
侍女達が納得するまで磨かれるシュギを眺めていた第二夫人が、ようやく解放されて一息吐いたシュギに問いかけた。
「運がいいのね。よく迷わずに出られましたこと」
「迷うといっても……」
言い淀んだシュギに、第二夫人が首を傾げる。その拍子に髪飾りが揺れて音を立てた。
「一本道だったろう、あそこは」
「まさか。迷宮ですよ」
「ただの遺跡だ。途中の部屋も覗いたけど分かれ道なんて一つもなかった」
第二夫人は少し考え、そして侍女達に退室を促した。よく躾けられた侍女達は、主人の命令に一つも反論することなく部屋を出て行った。そういえば、侍女達は埃まみれのシュギの姿を見ても眉一つ動かさなかった。シュギに付けられた侍女たちとは大違いだ。
「何があったかお話しなさい」
「簡単に言うと」
「一つ残らず全てを」
第二夫人が、侍女達が残していった茶を指し示す。それが温かく湯気を上げていたので、シュギは黙って椅子に座った。正面に座った第二夫人は冴え冴えとした顔でシュギが話し出すのを待っている。
「私の父親は剣で」
第二夫人の指がぴくりと動いたのを、シュギは視界の端で捉えた。だが止められなかったので、そのまま全てを話した。父親が剣であること、自分が剣であること、あの男の持ち物にならなってもいいかと思ったこと、そして雷鳴を轟かせる馬のこと。
第二夫人は話を聞く間、相槌さえ打たなかった。それでも話を遮ることもしなかった。ただ時折頷いた。
例の岩壁の所まで話が追いついて、シュギは口を閉じた。一つ残らずと言われたから一つ残らず話したが、話しすぎたような気もする。正真正銘のお姫様に話すような話ではなかったと今更ながらに思う。
「まず、お前の侍女は私が用意します」
すっかり冷め切った茶で唇を塗らし、第二夫人が膝の上を払った。細く白い手だった。
「侍女なんて……」
「断る権利が己にあると?」
第二夫人の瞳には温度がなかった。怒気は伝わってこない。恐らくその瞳の奥で目まぐるしく考えを巡らせているのだろうとシュギは当たりを付けた。
第二夫人には多くの侍女がいる。シュギに数人を融通することくらい容易いだろう。第二夫人は西の氏族の族長の娘なので、補充しようとすればいくらでも西から呼び寄せることができる。
しかしシュギは都の生まれで、西の氏族に縁もゆかりもない。母がその母から受け継いだという首飾りは東の意匠が施されていたから、もしかしたら祖先は東の氏族に連なっていたのかも知れないが、今となっては分からない。都には出自の定かでない民など山ほどいる。そのシュギが西の氏族の侍女を貰い受けるのは、些かどころではない問題があるような気がした。
「西の氏族に面倒を見て貰う理由がない」
「私が面倒を見ると言っていますわよ。それで十分」
「でも後ろ盾もない第四夫人に……」
「そう、それ」
第二夫人の瞳の奥で光が瞬いた。何かが成ったことだけが分かったが、それが何かはシュギには分からない。
「第四夫人という肩書きの他に、必要なものなどなかろう」
第二夫人の声は低かった。そう何度も会話をしたわけではないが、それでもいつも鈴の鳴るような声で喋っていたはずだ。シュギは辛うじて、夫の妻であるということが第二夫人にとってとてつもなく重要なのだということだけ理解した。
「ない、のか」
「ないでしょうとも。第四夫人であるお前を、第二夫人である私が助けてやると言っておりますのよ。お喜びなさい」
つまり、西の氏族はその身のうちに四人いる夫人のうちの二人を抱え込んだということだ。今この場で、シュギの後ろ盾は西の氏族となった。
もとより抵抗する術など持っていないシュギは、ただ頷いた。馬の謀を片付けたと思ったら、その先で人の謀に絡め取られたというわけだ。それから逃げる方法を知らないなら、流されるより他にない。
シュギが言葉を飲み込んだのを見届けて、第二夫人が軽く手を振る。そうすると退室していた侍女たちがまたするすると部屋に滑り込んできた。すっかり冷め切っていた茶は取り替えられ、代わりに湯気をたてる茶器が並べられていく。隣の皿に盛られた菓子は、シュギが見たこともないものだった。
第二夫人は己の侍女達が定位置につくのを見届け、改めてシュギを見た。
「お前、もう少し笑っておみせ」
「必要ない」
突然の提案に、シュギは戸惑って否定した。そんなことを言われたことは今まで一度もなかった。
「もう少し瞬きをおし」
「必要ない」
第二夫人はシュギの言葉を聞いていないように続ける。
「そして、もう少し優しくお話しなさい」
さらに否定しようとしたシュギの言葉を、第二夫人は視線だけで止めた。先ほどまでの温度のない目とも違う、冷徹な軍師の目がそこにあった。すでにシュギは第二夫人の駒の一つとして動かされているらしい。
「そうすれば人に見えますわよ」
最後のその言葉にだけ、第二夫人は少しだけ柔らかい温度を乗せた。
「だが」
「お前は剣だけれど、第四夫人なのだから人のふりをおし」
シュギは剣だった。生まれてから今まで、ずっと剣だった。だから女になどなりたくなかった。人になどなりたくなかった。
しかし誰に言っても理解されることはなく、母親すらも否定はせずとも肯定することはなかった。
「子供を一人産めば、自由だと」
シュギは夫となった持ち主との密約を、初めて人に打ち明けた。言おうと思ったのではなく、思わず零れ出てしまった。そのせいか、酷く弱々しい声音だった。
第二夫人は浅く頷き、膝の上で両手を組んだ。
「産んでやっても良いと思ったのでしょう」
「……」
「でしたら、お前は第四夫人でしてよ、シュギ」
第二夫人が微笑んでいたので、シュギはそれを真似てぎこちなく口端を持ち上げてみせた。
第二夫人はただ、満足そうに息を吐いた。
後の歴史書では、第四夫人シュギの名は剣とも第四夫人とも記される。名剣を人として扱ったのか、実際にシュギという名の人がいたのかは定かではない。
2.
靴よし。
服よし。
首飾りよし。
指輪よし。
耳飾りよし。
全てよし。
エスメラルダは宿場の入り口にある門の前で、自分の服装を下から順番に確かめた。もう何度目になるか分からない。問題なし。
髪飾りだけは確かめられない。触れることで髪型が崩れたら困る。だから先ほど第五夫人に言われた「完璧よぉ、かわいこちゃん」という言葉を信じることにする。
この日を指折り数えて待っていた。指折りといってもせいぜい七日だが、来訪を知らせる手紙が届いてからというもの今日何を着るかで頭がいっぱいだった。
ありったけの装飾品を抱えて第五夫人の部屋に駆け込んで「私に似合うのどれ!」と大騒ぎしたし、持っている装束を着ては第六夫人の部屋に駆け込んで「これちょっと地味よね!」と大騒ぎしたし、侍女に髪を結って貰っては第七夫人の部屋に駆け込んで「気合い入りすぎてる気がする!」と大騒ぎした。
つまりありとあらゆる所で大騒ぎした。
その甲斐あって今のエスメラルダの出で立ちは集大成と言って差し支えない。しかし屋敷を出るときには「完璧!」と思えた姿も、こうしていざその時が迫ると何かを間違えたように思えてくる。
ちょっと派手すぎたかも。でもこれくらいの方がいいって五の姉様が言ってたし。いやもしかしたら地味かも。あのでっかい鳥の羽、六の姉様は絶対やめろって言ったけどやっぱり頭に差してくればよかった。あーあ、なんで七の姉さまが貸してくれるって言った北の帝国の秘宝断っちゃったんだろ。
「そんなに確かめなくても、今日もエイリャンは可愛いよ」
隣に立つ夫がそわそわと忙しなく服装を確かめるエスメラルダを見下ろして困ったように笑った。優しい言葉に、エスメラルダはますます落ち着かない気持ちになる。
今日もって言った? それっていつも通りってこと? いつもより何倍も気合い入れてるのに? 最早完全に言いがかりだし、疑心暗鬼になっている。
「うううううん、やっぱり七の姉さまに秘宝借りればよかった。次は絶対に借りる」
「それはやめた方がいいよ。ほら、魔石の塊を持ってると攻撃の意思があるみたいだし」
「そうかな?」
「そうだよ」
夫がそう言うならそうなのだろう。
エスメラルダは大人しく夫の隣に立った。どのみちもう第七夫人の部屋どころか屋敷までも戻ることはできない。
見慣れた家紋をつけた馬車の一団が、見える所まで来ている。
「キャアアアアアアアアア!」
「キャアアアアアアアアアアアア!」
馬車から飛び降りるなり甲高い悲鳴を上げた女性に、エスメラルダも負けじと悲鳴を上げながら駆け寄った。二人の間にあった数十歩の距離のちょうど真ん中でぶつかるように出会い、両手を合わせて絡める。目が合って、一瞬の静寂。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアア!」
二人の息の合った悲鳴は広場に響き渡り、傍で眺めていた大将軍は後に荒野にまで届くほどだったと嘯いてエスメラルダに足を踏まれた。
ひとしきり叫んだ所で、エスメラルダと女性は同時に口を閉じた。背後にいる筈の夫はまだ追いついてきていない。馬車の中にいるはずの女性の夫も同じく沈黙している。もしかしたらエスメラルダたちの悲鳴に恐れおののいて動けないだけかも知れない。
エスメラルダと女性はお互いの手をきゅうと握って頬を寄せた。
お互いによく似た金の髪をしている。草原では珍しいが、王国の貴族ではごくありふれた色だ。
「会いたかったわ、ワタシ」
「私もよ、ワタシ」
「ワタシがいないと毎日がつまんなーい」
「ほんとよーう。どうして傍にいないの、ワタシ」
別に生き別れた双子だとか、分裂した同一人物だとか、分かたれた魂の半分だとかではない。単純に、王立学園の女学生の間で流行っていたのだ。仲の良い友人のことを「ワタシ」と呼ぶのが。思春期特有のあれである。
王立学園では各世代で大体そういった流行りがある。もはや伝統といってもいい。
エスメラルダの世代では馬鹿っぽく語尾を伸ばすのと、仲良し同士で「ワタシ」と呼び合うのが流行った。エスメラルダの母親の世代では友情を指して「同盟」と呼び、「我々の同盟は永遠だ!」などと雄々しい言葉遣いで宣言するのが流行っていた。ちなみに男子は男子で別の流行りがある。
これらの流行でもって世代を区分けし、仲間意識を育む。それは学園を卒業して貴族社会に巣立った後も変わらない。同じ流行を持ったものは一生の仲間になる。そういう伝統があるから、王立学園の流行は多少意味不明であっても見逃される。
それにしても、エスメラルダの世代の王国女学生喋りが馬鹿っぽすぎて大人に不評だった。
エスメラルダの友人の一人から「新しい街道を通って近くまで行きます。お茶が出来たらいいな」という手紙が届いたのがつい七日前だった。本来ならばもっと早く届くはずだったが、荒野で魔物が異常発生し手紙が届くのが遅れた。
手紙が届いた時点で猶予が幾ばくもないと分かったから、この七日間エスメラルダは大騒ぎしたのだ。王国から来る友人にみっともない姿を見せるわけにはいかない。一番美しい姿で会う必要があった。
思惑通り、友人は上から下までエスメラルダを矯めつ眇めつしてくれた。目を細め、袖の刺繍を指でなぞり、耳に飾った石を角度を変えて眺めた。なのでエスメラルダは、その場でくるりと一回転してみせた。彼女に見せるためだけに着飾ったのだから、心ゆくまで眺めて欲しいし眺めさせたい。
友人はエスメラルダの回転に合わせた裾の広がりに頷いて、大きくため息を吐いた。
「素敵よ、ワタシ。元気そうでよかった」
「ええ勿論。ワタシも元気そうね」
しっかりと両手で抱き合った所で、背後から足音がした。ようやく夫が追いついてきたらしい。それに、友人の夫も。
「エイリャン、それくらいでいいかな」
「はーい」
ひらりと裾を翻して夫の隣に戻る。友人もまた、彼女の夫の隣に立った。そうしていればつい今し方の大騒ぎなど嘘のように、王国貴族の顔になる。
エスメラルダは夫の腕に手を絡めながら、友人の隣に立つ背の高い男に目をやった。背が高いといっても王国基準なので、自分の夫に比べれば小さい。相手もまた、エスメラルダを見下ろした。男の髪はエスメラルダよりくすんだ色をして、目はエスメラルダのものより青が強い。しかし向き合ってみれば、二人の容姿は歴然と似ていた。それもそのはず、友人の夫はエスメラルダの長兄だ。
「久しぶりだな。緑の輝石を飾る王冠のエスメラルダ」
兄は冷たくエスメラルダを見下ろした。愛称を使わず、更に家名まで付けている。お説教の合図だった。
王国には家名というものがない。代わりに慣習として、家の紋章を家名として使う。そのため貴族に限らず、平民でも紋章を持っている。鍛冶屋であれば「炎を纏う槌」であったり、宿屋であれば「厩の下で湯気を上げる鍋」など。
「緑の輝石を飾る王冠」はエスメラルダの実家の紋章だ。
新しい家ほど区別のために紋章が複雑になり、それに伴って家名が長くなる。その点で言えば、エスメラルダの「緑の輝石を飾る王冠」はこの上なく古い家だとすぐに分かる。緑の輝石は伝説の乙女に由来し、王冠は王家に由来する。
エスメラルダが嫁いだ草原のリン帝国では家名ではなく氏族名を名乗るため、氏族の出自ではないエスメラルダは王国の家名をそのまま使っている。もっとも、呼ばれることはほぼない。「族長の第八夫人のエイリャン」と言った方が分かりやすいからだ。
エスメラルダは同じく「緑の輝石を飾る王冠」を家名とする兄を、顎を上げて見やった。
この兄は、久々に会った妹をあろう事か叱ろうというらしい。しかしそれならば、エスメラルダにだって言ってやりたいことがあった。
「ありがとうは?」
「なんだって?」
「優秀で可愛い妹のお陰で我が家は安泰、美しくて気立ての良い妹の友人とも結婚できました。全てエスメラルダのおかげです、ありがとうございます。でしょ?」
兄がその形の良い眉をぎゅうと寄せて、目を見開いた。先ほどまで浮かべていた冷然とした表情が消え、ますますエスメラルダに似る。そのまま、兄はエスメラルダの夫の方を向いた。
「すまないね。悪い子だけど、嫌な子ではないんだ。仲良くしておくれ」
王国人らしい、陰湿な攻撃だった。本人ではなく周りに言うことで嫌味を伝える手法は基本中の基本だ。夫は先日王国の戴冠式に出席したばかりなので、兄との面識はある。そこでおおよその性格は把握していたのか、兄の攻撃のダシにされても苦笑して頷くだけに留めた。
エスメラルダが覚えている限り、長兄は追放より以前はエスメラルダのことを「嫌な子だけど悪い子ではない」と言っていたはずだ。追放によって悪い子であることは国から認定されてしまっているので、逆にしたらしい。
嫌がらせをした相手が聖女の認定を取り消されたからといって、エスメラルダがやったことはなかったことにはならない。罪状が「聖女の教科書を捨ててドレスを破いて階段から突き落として間違った演習場所を伝えてドラゴンと戦わせて魔王の墓所に閉じ込めた」から、「同級生の教科書を捨ててドレスを破いて階段から突き落として間違った演習場所を伝えてドラゴンと戦わせて魔王の墓所に閉じ込めた」に変わっただけだ。
追放はやり過ぎかもしれないが立派に犯罪者である。その証拠に、聖女が処刑された後もエスメラルダの追放処分は覆らなかった。
そんなことはどうでもいい。自分を無視して夫に話しかける兄に、エスメラルダは促すために手の平を向けた。
「お兄様、お礼は大事よ」
「……ありがとう、エズミ」
「どういたしまして!」
にっこり笑ったエスメラルダに、兄は小さくため息を吐いた。横で友人は嬉しそうにクスクス笑った。
貴族らしい貴族として生まれ、高等教育を受け、何ら悪い評判なく高位貴族をやっているエスメラルダの兄は、ことある事に自分の唯一の不幸はエズミを妹に持ったことだ、と嘯く。その度にエスメラルダが「美しくて賢くて気高い妹は誰しもに訪れるわけではない望外の幸福よーう」と反論するのがお決まりだった。その後に「その馬鹿っぽい喋り方では美しさも賢さも気高さも分からない」と言われるところまで含めて。
「可愛らしいだろう? 喋るようになる前はもっと可愛かった」
兄はもう一度、夫に向かってエスメラルダへの嫌味を伝えた。
今エスメラルダたちがこうして街道の宿場で会っているのには理由がある。
荒野に新しく作られた街道は王国とリン帝国を繋ぐものだ。間にあるいくつかの宿場はリン帝国の主導で作られたが、当然それは王国にとっても重要なものになる。しかし王国では未だ草原の民を動物の生き血を啜る蛮族とする偏見が根付いているため、王命により街道の安全性を示すために高位貴族である兄夫婦がこうして通って見せた。
今回は国同士のことではないため兄夫婦は屋敷にまでは来ない。実際、互いに落ち合ったのもリン帝国の都から最も近い宿場だ。ここから都までは一日かからずに移動できる。長旅を終えた者が都に入る前に身だしなみを整えるために使うことを想定し作られた宿場である。
兄夫婦はここで数日休み、また街道を引き返して王都に戻る。
「ほら、エイリャン。お茶をするんだろう?」
「ええそうよ! あのね、ワタシに食べさせたいお菓子が沢山あるの」
「素敵。前にお手紙をくれた七番目のお姉様のお菓子かしら?」
「それもあるし、あと草原の伝統菓子も作って貰ってきたし」
夫たちをほったらかして腕を絡め合いながら立ち去るエスメラルダと友人に、残された二人はため息をつき、あるいは苦笑して後を追った。
向かう先では「久々にお友達と会うならそれはもう宴でしょう。ならわたしが仕切るわよぅ」と豪語して同行してきた第五夫人が、大きく手を振っていた。
*
楽しい時は一瞬で過ぎるものだ。
先ほどまでは四人で談笑していたが、夫と兄は何やら商談があると言って部屋を出て行った。恐らくエスメラルダが久々に再会した友人と二人きりで話せるように気を遣ってくれたのだろう。第五夫人は仕切るだけ仕切って先に屋敷に戻ってしまっている。
エスメラルダは友人と肩を寄せ合い、残りの時間を惜しんだ。街道があるとはいえ高位貴族である友人と族長の妻であるエスメラルダはそうそう行き来できるものではない。
「あのね、ワタシに会えなくて私……」
言葉が途切れる。エスメラルダが顔を上げると、友人はその唇を噛み締めて目に涙を溜めていた。エスメラルダは泣かない。でもその分、何か理不尽があればこの友人を含めた友人たちがいつも代わりに隣で泣いていた。
取り巻きと揶揄されていたが、全員エスメラルダの大事な友人たちだ。
「どうしたの」
「私、いいえ私たち、ちゃんとやってやろうとしたのよ。ワタシが傷つけられたのだもの。復讐するのは私たちの役目でしょう。だから私、本当にやろうとしたのよ」
「そんなの言われなくても分かってる」
「でも私たちの力だけでは……。そうしている内に、ワタシが自分の力でやってしまったわ」
友人は小さく息を吐いた。ため息に似ていたが、それよりは呆れを多く含んでいた。
聖女の話だ。エスメラルダが追放された時、友人も勿論その場にいた。復讐を美徳とする王国において、どちらに正義があったとしても友人のために立ち上がらないなどあってはならない。友人はきちんと立ち上がろうとした。それよりエスメラルダの方が早かっただけだ。
一瞬の沈黙が二人を包んで、友人はふと顔を上げた。今この場には二人しかいない。それでも友人は一度部屋を見回し、本当に誰も居ないことを確かめてからそっとスカートの中から何かを取り出した。差し出された素っ気ない白い封筒には、署名がない。
「これは?」
「陛下から。エズミに渡してくれと、内密に」
現在の王国の王はエスメラルダの従兄弟だ。エスメラルダが聖女への復讐のついでに、王位に執着していた幼馴染みに獲らせてやった。
街道の安全性を示す今回の旅路は、王命だと兄が言っていた。それを疑う者はいないだろう。実際、街道はリン帝国側の商人の往来の方が圧倒的に多い。王国からも商人が行き来するようになれば、さらに経済活動は活発になる。それは両国にとって喜ばしいことだ。
しかしそれらの名目もすべて、この手紙一枚のために用意されたものらしい。
「ありがとう」
「これくらいしかできないもの」
エスメラルダは答える代わりに、友人の頬にキスをした。エスメラルダの追放が告げられた時、嘆き悲しんで気絶してくれたのが彼女だ。王国人は嫌味で排他的で陰湿だが、友情だけは裏切らない。
「これ、誰が知ってるの?」
エスメラルダは友人から受け取った封筒をヒラヒラと振った。王家の紋章はないが、見る者が見れば上質な紙から送った者の身分の高さがすぐに分かる。そんな扱いをしているところを誰かに見られれば、不敬罪で投獄は免れない。
「私と陛下、それだけよ」
角の先のほんの僅かすら折れのないよう細心の注意を払って手紙をここまで運搬してきただろう友人は、エスメラルダのぞんざいな扱いを咎めなかった。彼女の仕事は手紙の運搬で、それはここに今果たされた。ならば本来の持ち主の手に渡った後、それがどんな扱いをされようとも仕事を果たした友人には関係がないからだ。
「他には誰も?」
「ええ。陛下は私に、ワタシがどんなに教えると言っても中身については聞かないように、と」
「あら生意気」
エスメラルダは受け取った手紙を、そっと胸元にしまい込んだ。ここであれば誰一人として触れない。唯一触れることを許された夫は寝室以外で妻達の体に指一本触れないので、どこよりも安全だ。
友人はエスメラルダの行動に「まあはしたない」と眉を顰めて、しかしやはり咎めなかった。
丁度その時扉を叩く音がして、二人に別れの時間を告げた。
「会えてよかったね」
エスメラルダが友人と話している間、夫と兄は実り多い会話ができたらしい。未だに一人で馬に乗れないエスメラルダを自分の前に乗せて、機嫌良く帰宅の途を走らせている。
対してエスメラルダは、夫の腹に背を預けながら受け取った手紙をこの場で読むべきか思案していた。同乗者仕草がすっかり板に着いている。
王である従兄弟からの、内密の手紙。この世にこの手紙があると知っているのは三人だけで、内容に至ってはたった一人しか知らない。エスメラルダがこれから二人目になる。
王は友人に決して内容を知るなと命じたが、エスメラルダに「誰にも知られるな」と伝言はしなかった。つまり、エスメラルダに手紙が渡った時点でいかようにも判断していいということだろう。
手紙には宛名も署名もない。一見、ないように見える。だがエスメラルダにはまるで模様のように書かれた片隅の蔓草から十分に意味を読み取ることができた。エスメラルダと従兄弟が決めた暗号の一つであるそれは、内容が非常に重要な時だけに使われるものだ。エスメラルダも前回従兄弟に書いた手紙には、同じく封筒に蔓草を描いた。
幼少から王位を熱望していた従兄弟に、王冠までの道筋を立ててやったのはエスメラルダだ。それは幼い頃の友情に報いるためのもので、貸しを作りたかったわけではない。
内容について思案しているエスメラルダに、夫が声をかけた。
「なにか貰ったの?」
馬の上は二人きりで、夫は部下の前ではしない柔らかい言葉と声をしていた。
エスメラルダが驚いて顔を上げると、そっと自分の胸元を指で示す。見下ろせば、どうやら無意識に胸元に手をやっていたらしい。エスメラルダらしからぬ失態だ。
「うううん、貰ったんだけどぉ……」
この後に及んでまだ言い淀むエスメラルダに、夫は穏やかに笑った。夫は妻達に対し、常に寛容であろうとする。今回もまた、エスメラルダの自主性に任せることにしたらしい。
「言いたくなったら教えてくれたらいいよ」
「でもぉ……」
もしかしたら王国の国家機密かもしれない。一度は攻め滅ぼそうとした祖国だが、それは玉座に最も近い所に憎き王子と宿敵の聖女がいたからだ。従兄弟が王位に就き愛すべき祖国となった今、流石のエスメラルダもそう簡単に売り渡すような真似をするのには躊躇いがあった。
しかし、嫁ぎ先のリン帝国もまたエスメラルダにとっては第二の故郷と呼んで差し支えない。愛する姉たちと、そして夫がいる。エスメラルダは自分が王国でも群を抜いて陰湿で粘着質な自覚があったが、嘘つきではない。
少し考えて、エスメラルダは勢いよく胸元から手紙を取り出した。まさか服の下に入っているとは思わなかったらしく、夫が目を剥く。
「いいや、ここで読んじゃう」
「いいの?」
「いいの。教えられそうだったら言うね」
そしてエスメラルダは従兄弟からの手紙を読んだ。一度読み、もう一度。続けて三度目も。繰り返し繰り返し、一つの意味も漏らさないように。
内容は他愛のないものだった。「窓辺に置いた木の実の中からリスは大きなどんぐりを選んだが、お前は確か胡桃の方が好きだったな」と、要するにそんなような事が書かれていた。しかし手紙は、懐かしい二人だけの暗号で書かれている。文字の大きさ、書き方、点の一つ一つにまで意味がある。文章には殆ど意味はない。夫に背後から覗き込まれたとしても、可愛らしい幼馴染み同士の手紙にしか読み取れないだろう。
暗号を隠す際、エスメラルダは詩に偽装するのを好んでいたが、従兄弟は思い出話に偽装するのが好きだった。
「……何が書いてあった?」
黙りこくって繰り返し手紙を読み返すエスメラルダに、流石に気になったのか夫が聞いてくる。エスメラルダは一度口を開き、そしてまた閉じた。馬上には二人しかいない。護衛の武官や兵はいるが、少し距離がある。会話をしていることは分かっても、内容までは聞こえない。
考えて、迷って、結局エスメラルダはまた手紙を胸元にしまい込んだ。
「ないしょ!」
「内緒かぁ」
そのまま、エスメラルダはまた夫の腹に背を預けた。貰った手紙の内容を反芻しながら。
3.
エスメラルダは自室に向かう廊下を早足で歩いた。一刻も早く戻りたいが、走りはしない。走ってしまえばまた何か企んでいるのかと疑われ、すぐに第一夫人に報告が入ってしまう。早足までなら大丈夫だ。
子供達と何度も試行を重ねた、限界の速度で廊下を進む。
「あらぁ、怖いお顔」
「五の姉様」
「せっかくの可愛いお顔が台無しよぉ。どおしてそんなにぷんぷんしてるの、かわいこちゃん」
廊下で行き会った第五夫人が、エスメラルダの顔を見て足を止めた。エスメラルダとしては出来たら今は放っておいて欲しかったが、その甘い声を聞いてしまっては立ち止まらないわけにはいかない。
エスメラルダはつい先ほど屋敷に到着したばかりだが、第五夫人は先に屋敷に戻っていた。昼とは服装が替わっている。どこからか部屋に戻る途中だったのだろう。
第五夫人の美しく整えられた爪が飾る指先が、エスメラルダの頬を撫でる。エスメラルダは一瞬、突然この指を咥えてみせたら第五夫人がどんな反応をするかが無性に知りたくなった。実行はしない。
怒られることはないはずだ。きっと多分第五夫人は「お腹が空いてるの? かわいこちゃん」と笑って第七夫人の部屋にエスメラルダを押し込むだろう。
第五夫人はエスメラルダに滅法甘い。いくつか大宴会を開く機会を作ったからだ。第五夫人は大宴会を取り仕切るためだけに族長に嫁いだと豪語しているとおり、宴会の切っ掛けをより多く作った相手を露骨に贔屓する。エスメラルダの婚礼の時期は他に宴会と呼べるものがなかったため、エスメラルダはしばらくの間は怒濤の贔屓を享受することができた。
しかし今は違う。今回もエスメラルダは遠方からの客人を招く席を全て任せたが、直後に第六夫人が大商談を纏め上げたとかで数週間後に大宴会を開く予定を入れてしまった。これにより第五夫人お気に入りランキングが入れ替わり、順位を落としたエスメラルダはもうあまり贔屓してもらえない。
甘えてみたところで、面倒見の良い第七夫人の部屋に連れて行ってくれるのが限界だ。これがお気に入りランキング第一位だと抱きしめてキスをして手ずからお菓子を食べさせてくれる。もっとも、そんなことを強請るのはエスメラルダだけだが。
全ての宴会の出資者として常にランキングのさらに上に君臨する夫ですら、そんなことを強請ったことはないらしい。せっかくなら強請ればいいのに。天上みたいに甘やかして貰えるのに。以前エスメラルダはそう言ってみたが、苦笑が返ってくるばかりだった。
第七夫人の部屋には自分の足で行けばいいだけなので、エスメラルダは衝動を抑え込んでここで会えたのは好機だと意外と情報通な第五夫人に泣きつくことにした。
「あのね、強い武器がいるの」
「あらぁ? 何に使うのかしら。エイリャンは剣を持たない者よねぇ」
強調するように愛称が呼ばれる。第五夫人の柳眉が緩やかに顰められた。
ここリン帝国において、愛称で呼ばれるのは剣を持たない者だけだ。剣を持つ者はどんなに長くても難しくても必ず正式な名前で呼ばれる。武勇を尊ぶ土地柄ならではの風習である。
「ちょっと切らなきゃいけないものがあって。生きてないものを殺せる剣とか斧とか杖とか、なんでもいいんだけど。五の姉様は知らない?」
「まぁ……」
第五夫人は頬に手を添えて目を僅かに見開いた。そうすると瞳の中で光が反射し、星のように広がる。とてつもなく美しい人なのだ。宴会に異常なまでに執着さえしていなければ、きっとその美貌で名を馳せただろう。そもそもその美貌でもって無理矢理族長に嫁いだのだから。
「なら、四の子の所に行くといいわよぉ」
「四の姉様?」
「ええ。だってあの子、人ならざるものを切ったもの」
「本当!?」
まさにそういう情報が欲しかった。想像より遙かにあっさりと目的のものが見付かりそうな予感に、エスメラルダは飛び上がって喜んだ。
「人ならざるものってことは、幽霊とか? ゾンビだと助かるんだけど」
「さあ、どうかしら。詳しいことは知らないけど有名よぉ」
エスメラルダの喜びをよそに、第五夫人は相変わらずゆったりと喋る。お構いなしに飛びついて、エスメラルダはその胸元に顔を押しつけた。第五夫人が触れるか触れないかの強さで頭を撫でる。
「ありがとう、五の姉様!」
「いいのよぉ」
「帰ってきたらとんでもなく大きな宴会を開くって約束する! 楽しみにしてて!」
「あらあら」
飛びついたかと思ったら勢いよく離れ、そのまま身を翻して走り出すエスメラルダを第五夫人は微笑んで見送った。
そしてそのまま、進行方向を変えて歩き出した。勿論、エスメラルダが廊下を走るほど何かに夢中になって企んでいるようだということを第一夫人に伝えるために。
エスメラルダだって走り出した瞬間にマズいと思った。思ったが走ってしまったのだからもう後は速さの勝負だ。向こうが阻止しようとするなら、それより早く事を起こしてしまえばいいだけ。そういうのはエスメラルダは得意だった。現に、エスメラルダのために復讐を決意した友人より早く復讐を成し遂げた。これだけの距離がありながら。
子供達と日々遊ぶことで、王国に居た時よりも体力がついたエスメラルダに不可能などない。第四夫人の部屋までだって走り続けられる。
廊下を走り、すれ違う文官をギョッとさせ、そして、エスメラルダは第四夫人の部屋の前で力尽きた。キツい。大した距離ではなかったはずなのに、思っていた三万倍くらいキツい。あと石の床を布の靴で走ると痛い。
息をするたびに肺が冷たい。喉から出て行く空気がひょおひょおと音を立てている。子供を抱き上げるのと走るのとでは随分と違う筋肉を使うらしい。
とても第四夫人の部屋の扉を叩くなんてことは出来ず、一先ずエスメラルダは息を整えようと膝に手を付いた。倒れ込まなかったのは、ギリギリ王国貴族としての矜持が勝ったからだ。本当は倒れ込みたい。
廊下には人影がない。いつもの護衛官も侍女たちもいないが、どこかには誰かがいてエスメラルダの警護をしているはずだ。姿を見せないならいないものとして、エスメラルダは大きく吸った息をそのまま吐き出した。
相手が常人ならば、エスメラルダが廊下でどんなに息を乱していようと気付かれることはなかっただろう。しかし相手は剣の達人の第四夫人で、あまりに剣が強すぎて魔術の域にまで達しているとまで噂されていて、つまりエスメラルダが扉の前で吐きそうになっていることなどとっくにバレていた。
エスメラルダの隣で、日々係の者の手によって磨かれている扉が音もなく開いた。
「どうしたの、エイリャン」
「ひい、は、おぇっ、よ、四のねえさま……」
「走ったりなんて、似合わないことをするから」
エスメラルダが何とか視線を上げると、開いた扉に肩を預けた第四夫人が腕を組んで見下ろしていた。言われなければ青年と見間違うような顔には薄らとした笑みが乗り、親愛と哀れみの間のような風情を醸していた。
第四夫人はいつも薄ら微笑んでいる。市井では圧倒的な人気を誇る第四夫人だが、その笑みを素敵だと言う者も、不気味だと言う者もいる。
差し伸べられた手を掴むことすらできず、エスメラルダはひいひいと情けなく息をしながらただ見つめた。今膝に付いた手を離せば絶対に倒れ込む。だがそれはエスメラルダのプライドが絶対に許さない。
どうやら無理そうだと気付いた第四夫人が、もう片方の手も差し出してエスメラルダを持ち上げた。抱き上げるというよりは、腕に乗せると言った方が近い。まるで子供扱いだ。
エスメラルダは第四夫人に運ばれながら、己の不甲斐なさを嘆いた。
情けない。本当に情けない。兄にだって最後に抱き上げられたのは十に満たない年だったのに。こんなことでは目的を果たすことなど到底できない。そんなの看過できない。
従兄弟からの手紙を読んでから、調子は乱れに乱れている。何一つ上手くいかない。いつもなら隠し通せるものは隠せず、いつもなら察されないものは察され、挙げ句の果てには廊下を走って倒れかけた。
それもこれも誰のせいか。そんなの一人しかいない。
そう、聖女だ。
エスメラルダと対になる存在、終生のライバル、断頭台に露と消えたエスメラルダのための光。
従兄弟からの手紙の内容は思い出話だったが、手紙が本当に伝えたかったのは全く違う。
「聖女の首が城から消えた」
そう書いてあった。確かに書いてあった。エスメラルダは暗号を読み間違えない。それでも間違えたのかと三度読み直し、さらに五度読み直した。頭の中では数え切れないほど反芻した。
その上で、確かにそう書いてあったと判断した。
首を使って、誰かが聖女を蘇えらせようとしているのだと。
従兄弟が友人には伝えるなと言ったわけだ。今この事実を知るのは、王国にも何人もいないだろう。もしも知られれば大混乱となる。聖女はその身分を剥奪されたが、それでも聖女に選ばれるほどの力を持っていた。
その上でもう他国の人間となったエスメラルダに兄を巻き込み理由をでっち上げてまで従兄弟が伝えてきたのは、それがエスメラルダと従兄弟の友情だからだ。
エスメラルダは幼い頃にいつも一緒に遊んでいた男の子のために、彼が欲しがった王冠を届くところに置いてやった。そのお礼に、男の子は幼馴染みが華麗に成し遂げた復讐を台無しにする者の存在を誰より先に知らせた。
王国人は友情を決して裏切らない。そして、復讐に水を差す者を絶対に許さない。そういう国民性で、そして国民はそれを誇らしく思っている。
「水でも持ってこさせようか」
「いい、水はいい……」
第四夫人の部屋には侍女がいない。つまりここで話したことは、第四夫人が漏らさない限り誰にも知られることはない。今水など持ってこさせたら、きっと第一夫人の息がかかった侍女がやって来るだろう。そしてエスメラルダが何をしようとしているかを探り当てるまで部屋から決して出ないに違いない。
エスメラルダは第一夫人のことが大好きだ。大好きだが、今止められるわけにはいかない。だってエスメラルダは何としてでも誰より早く聖女の首を見つけ出して、今度こそ聖女を王国の宗教観で言うところの雨の一粒に戻してやらねばならない。
王国人は人というのは雨の一粒から生まれ、死ねば雨の一粒に戻ると信じている。その粒の一つ残らずを雲の上におわす主神がかき混ぜ、それによって出来た渦の中で全ての記憶と全ての罪は洗われるのだ。年中雨が降り、水流魔術師が生まれる国ならではの宗教観だ。
死んだ者を蘇らせるというのは主神の元に戻った雨粒を盗むということで、到底許されるものではない。そもそも当たり前に禁術だし、過去に成功者も存在しない。
と、いうのは王国人の模範的な回答であるが、エスメラルダとしてはどうでもよかった。そもそも前世の記憶を思い出した時点で宗教観に関してはかなり曖昧になっている。
何より草原は乾燥していつも晴れているので、王国のような分厚い雲が見られるのは一年に数度だ。
そうすると常に雲から見下ろし雨粒を数えているはずの「雲の上の全きお方」はそこに居ないわけで、つまりエスメラルダのことなど見ていない。
全てはエスメラルダの屁理屈である。前世を思い出したからといって生まれてから今まで慣れ親しんだ宗教観を簡単に捨てることなど出来ない。ただこうして言い訳がましく忘れたふりは出来る。
とにかく第一夫人に止められる前に計画を詰めなければいけない。
エスメラルダは優しく置かれた椅子の上で、離れていこうとする第四夫人の手を掴んだ。
「バケモノを切れる剣、持ってる!?」
「魔剣の類いならいくつかあったけど」
「貸して!」
望んでいた答えに、エスメラルダは食ってかかる勢いで第四夫人の方に身を乗り出した。目は血走っていたが、第四夫人は人間の情緒にも容姿にも無頓着なので調子を変えなかった。ただ、エスメラルダが剣を使おうとしていることだけには眉を顰めた。
それを拒否だと理解して、エスメラルダは説得に乗り出した。
「切らなきゃいけないの! どうしても! すぐにでも! ぴゃっと行ってサクッと切ってくるだけ!」
「剣の持ち方も知らずに? 怪我をするだけだよ」
「じゃあ、そう、強い剣! 持ってるだけで勝手に敵を切り倒してくれるような剣は!?」
「ああ、それならある」
第四夫人は目を瞬いてから、自信たっぷりに頷いた。
「一番強いよ」
「それって、素人でも一撃で首を落とせる!?」
「落とせるとも」
「バケモノは!?」
「もちろん切れる」
それこそまさにエスメラルダが求めていたものだ。自慢の剣について話すのが余程嬉しいのか、第四夫人は機嫌良く頷いた。
「それ! が! いるの!」
「いつ?」
「今すぐ!」
端から見れば縋り付いているようにしか見えなかっただろう。
エスメラルダは話しているうちにいつの間にか両手で第四夫人の腕を強く握っていた。第四夫人は痛がる素振りすらない。実際、痛くも痒くもないのだろう。エスメラルダが持てる力全てで掴んでいるとも思っていないかもしれない。
エスメラルダは弱い。だから強い武器がいる。第四夫人が持っていると言うなら、何としても借りなければならない。
エスメラルダは今度こそ自らの手で聖女の首を落とさねばならない。
「貸すのはいいけど」
「どこにある!?」
「目の前に」
部屋の中に置かれた剣や弓を順繰りに睨むエスメラルダの上に、笑いを含んだ第四夫人の声が落ちた。
第四夫人の腰にはいつも通り剣が下げられている。辛うじていくつかの装飾がついただけのそれは、貴人が持つには些か質素だ。しかし名剣とはそういうものなのかもしれない。
思わずそれを凝視したエスメラルダの顎を、第四夫人がそっと掬った。第五夫人の手入れされた手とは違い、その皮膚はざらつきいくつもの凹凸がある。戦う者の手をしている。
「この剣が一番切れ味が良い」
エスメラルダの目の前には第四夫人の瞳しかない。いつも微笑んでいるから誤解しがちだが、感情の読めなさは第二夫人にすら匹敵する。第二夫人の瞳の奥はいつも冷えているが、第四夫人の瞳の奥はそれとも違う。いつもどこか無感動に、無感情に凪いでいる。
それが今だけは、楽しそうに瞬いた。
「……どれ?」
考えた末に問い返したエスメラルダに、第四夫人はそっと顔を近付けた。
「ここに。切れ味ならシュギが一番いい」
そういえば六の姉様は四の姉様のこと「あれは人間じゃない」と暴言を吐いていたけど、もしかして暴言じゃなかったりする? エスメラルダが考えられたのは、そんなことだけだった。
二人が黙って見つめ合っていると、不意に扉が叩かれた。そして答えを待つことなく開かれる。
エスメラルダは思わず第四夫人から目を離して扉を見た。第一夫人の手の者が様子を見に来たのかと思ったのだ。
しかし予想に反して、そこに居たのは小さな二人だった。第四夫人の娘と息子、十一人いる子供達の中で唯一の双子である、オロイとヴーライだ。
「おや、君たちどうしたの」
「母さん」
第四夫人の呼びかけは、自分の娘と息子に向けるというより同僚に向けるような気安さを孕んでいる。エスメラルダは、そういえばこの母子が揃っている所は訓練所でばかり見ることに気がついた。
「八の母様も、ここにいたんだ」
「あら、私に何かご用事?」
「用事は……」
そこで双子が顔を見合わせる。視線だけでやり取りをした後、二人はそれぞれに母と、エスメラルダとを見た。
「母さんと八の母様が何してるか見てきてって頼まれたから」
「それ言っちゃ駄目って」
「駄目って言われたけど分かりましたって言わなかったもん」
そしてまた二人で顔を見合わせ、弟のヴーライは肩を竦め、姉のオロイは口を尖らせた。この姉弟は弟の方が口が達者だ。
第四夫人がエスメラルダを見たので、エスメラルダは慌てて首を振った。エスメラルダにも分かる。今の双子の屁理屈はエスメラルダにそっくりだった。でもエスメラルダは双子に言い訳だとか屁理屈だとかを教え込んだことはない。双子がエスメラルダの振る舞いから学び取った可能性はあるが、それはエスメラルダの責任ではない。いや責任かも。
そうしている間にも、部屋に入り込んだ双子はさっさとエスメラルダの両脇に座った。自分たちの母親の隣ではない。母親である第四夫人も、エスメラルダの膝に殆ど乗り上げるように身を寄せた双子を注意はしなかった。
「ねえ、何か面白いお話してたの?」
「それより、誰が私たちのこと見てこいって言ったの?」
「誰だっけ」
「多分、第一夫人の侍女だったよ」
第四夫人に侍女はいないが、他の夫人たちには全員複数人の侍女がついている。特に第一夫人は公的な場に出ることも多いため、侍女の数が多い。日常的に関わるわけではないので、見分けなどつかないだろう。
「君たち、今日の鍛錬は終わったのかい」
「もうとっくに」
「ねえ母さん、もう僕型全部覚えたよ。軍の訓練に交ざってもいい?」
「あたしも覚えた」
「君たちの父親がいいと言ったらね」
「そんなの、いつになるか分からないよ。父さんは絶対良いって言わない」
「カホゴなの」
双子は第一夫人の侍女からの言いつけよりもエスメラルダの装束に付けられたビーズの方が余程興味があるらしく、母親と会話しながら指先でなぞったり摘まんだりしている。
しかしこれでは都合が悪い。双子がここにいては、第四夫人と秘密の話ができない。
子供を送り込んできたということは、第一夫人はまだ事の緊急性に気付いていないはずだ。エスメラルダがやろうとしていることに気付いているなら自身で乗り込んできただろう。その前に動かなければならない。
どうやって上手に双子を追い出すかを思案するエスメラルダをよそに、第四夫人は自分の子供から視線を外した。
「それで、エイリャンはどこでバケモノを切りたいのかな」
「は!? えー、ええと」
「バケモノ切るの!?」
「いつ!?」
勢いよく顔を上げた双子が身を乗り出してエスメラルダに顔を近付ける。双子だがあまり似ていない。父と母にそれぞれ似ている。
「どこで切るの!?」
「手伝う!」
「君たちは連れて行かないよ」
出かけると分かったなら子供がついて行きたがるのは当然で、すっかり行く気になっている双子に第四夫人はぴしゃりと言い放った。
「君たちの役目は留守と秘密を守ることだ」
「嫌だよそんなの!」
「一緒に行く!」
第四夫人の提案に、双子は目を見開いて抵抗した。エスメラルダだって楽しいことが起こる予感を前にお預けをされたらそんな反応になる。このままでは双子はエスメラルダと第四夫人がこの場を去った瞬間に言いつけを破って着いてくるだろう。
しかしこのまま双子に騒がれるのはまずい。第一夫人の侍女は恐らくそんなに遠くない場所で双子からの報告を待っている。部屋で騒いでいると分かれば様子を見に来るかもしれない。
エスメラルダの懸念をよそに、第四夫人はにっこりと笑みを深めた。
「代わりに、君たちが良い弓と良い槍だと君たちの父親に言っておく」
双子はまた顔を見合わせ、お互いの考えを探るように視線を交した。そして、二人同時に母親を見上げる。
「すごく良い弓だって言ってくれる?」
「すごく良い槍も」
「いいよ」
「この部屋に母さんと八の母様がいるみたいなふりをすればいいだけなんだよね?」
「そんなの簡単」
第四夫人は双子の言葉に頷いて、エスメラルダに向き直った。
「さあ、じゃあ切りに行こう」
4.
笑顔で手を振る双子に見送られ、第四夫人がまず向かったのは第二夫人の部屋だった。それも、廊下を使ってではない。第四夫人が壁を叩くと石壁がずれ、階段が現れたのだ。
第四夫人に促されるまま降りた階段の下は埃っぽく、しかし湿ってはいなかった。
そして第四夫人は呆然とするエスメラルダの手を引いてしばらく歩き、階段を登ったと思ったらそこは第二夫人の部屋だった。
第二夫人は壁から突然出てきたエスメラルダと第四夫人に驚きはしなかった。ただ眉を片方だけ上げて、「何をしますの」と穏やかに聞いただけだ。
第四夫人はそれに「少し切りに出かけてくるよ」と返し、それでおしまいだった。再び石壁の間に消えていくエスメラルダと第四夫人を、第二夫人は引き留めなかった。
そして、今また地下に戻ったエスメラルダたちの目の前には、光る馬がいる。
エスメラルダは思わず隣に立つ第四夫人を見上げた。たった今指笛一つで光る馬を呼び出した張本人だ。第四夫人は当然のような顔で、光る馬に手綱を取り付けている。
「あの、もしかして主人公様でいらっしゃいましたか?」
「主人公?」
「なんでもないの、忘れて……」
第四夫人の主人公力が強すぎる。エスメラルダは恐れおののいた。絶対に勝てない。光る馬と、第四夫人の意のままに道を作るっぽい地下迷宮と、大陸一の剣の腕って。それはもう完全に主人公だ。しかも王道系の。前世の記憶程度では太刀打ち出来ない。
つい先日も似たようなことを考えた気がする。呆然とするエスメラルダに、第四夫人は僅かに首を傾げた。
「エイリャンも留守番してるかい?」
「行く! 行きます!」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫! 誰もが自分の人生の主人公よねって思ってただけ」
第四夫人は意味が分かっていないだろうに、いつも通りの微笑みで頷いた。その隣で、光る馬が鼻を鳴らして地面を掻く。その目には獣以上の知性が宿っているのが見て取れた。
「ええと、それでこちらの……馬? の方? お名前は?」
「名前」
第四夫人がきょとんと目を見開いた。思ってもみなかった、と顔に書いてある。
「え、まさか名前がないの?」
どこからどう見ても神話に登場しそうな、地下に広がる迷宮の主であろう、光る馬が? そんなはずはない、という意味を込めての問いかけだったが、第四夫人の表情は芳しくない。それどころか馬を見上げて、「お前名前なんてあるのか」と聞く始末だ。
エスメラルダは改めて光る馬を見上げた。普通の馬より明らかに大きい。光る馬は不機嫌そうに鼻息を漏らしている。
「名前は分からないけど、これは速いから荒野までだってすぐだよ。蹄の音が大きすぎるから屋敷の者にすぐに気付かれるだろうけど、誰も追いつけないから大丈夫」
「大きいって、どれくらい?」
「雷鳴だね」
雷鳴くらい、ではない。雷鳴。完全に神話の生き物だし、それに乗れと言われている。エスメラルダはもう一度「主人公様であらせられますか?」と聞こうとしてやめだ。だって誰しもが自分の人生の主人公だから。
「そんなにすごいのに逆になんで喋らないの」
「喋るよ」
「喋るの!?」
「最近は喋らないね。人のふりが下手すぎるから止めた方がいいと言ったら拗ねてしまって」
「下手なの!?」
光る馬がついに第四夫人の髪を噛んだ。
「名前はマナンあたりが知ってると思うから、今度聞いておくよ」
第二夫人が知っているなら、じゃあもう絶対神話の生き物じゃないの。という言葉をエスメラルダは何とか飲み込んだ。鈍感系主人公なんだ、と思うことで自分を誤魔化すしかない。
光る馬はしばらく地下を進んだあと、第四夫人の「このあたりかな」という言葉で脚を止めて第四夫人とエスメラルダを背中に乗せた。エスメラルダがもたもたと第四夫人に引っ張り上げられる際に馬鹿にするような目をしていたのは多分見間違いではない。エスメラルダは神話生物だろうと馬と相性が悪い。
「じゃ、まずは都から出ようか」
目的地は荒野だ、というエスメラルダの言葉に、第四夫人は軽くそう言って馬の鬣を叩いた。それだけで意図を汲んだ馬は走り始めたので、確かに言葉は通じているのだろう。
馬の一歩目でまず空が曇った。二歩目で雲間に光りが走り、三歩目で雷鳴が轟いた。エスメラルダは遠くから武官が走ってくるのを見た。その中にはいつも自分の護衛を務める者の姿も見えたが、認識できたのはそこまでだ。
第四夫人の背中にしがみ付いて乗った光る馬の背中は、決して乗り心地がいいとは言えなかった。まず速すぎる。そして音が大きすぎる。
髪がすさまじい勢いで後ろに靡き、そういえば友人に会った後着替えもせずに来てしまったとエスメラルダはようやく気付いた。何とか髪飾りを押さえて飛ばないようにする。
すごい気合いが入った服装で、すごい神話生物の背中に乗っている。一見優雅だが、口からは情けない悲鳴が漏れた。ほらやっぱり第七夫人にあらゆる攻撃を五回無効にするっていう秘宝借りてくればよかったじゃん、と脳内で夫に八つ当たりしてみたりもする。だって落ちたら絶対に死ぬ。
走り出した馬の速度に体が着いていかず後ろに引っ張られたエスメラルダの腕を第四夫人が押さえ、腰に回させる。硬くて揺らがない第四夫人の腹にしがみ付いて、次に目を開けた時にはエスメラルダはもう荒野にいた。
「あとで、護衛官は悪くないのって言わなくちゃ……」
「マナンが言っておいてくれるさ」
「そうかなぁ」
呆然と口にできたのはそれだけだ。すぐにでも行きたいと望んだのはエスメラルダだが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。ここが王国ならどう言い訳しても護衛官は解雇、下手したら投獄だ。
上に立つ者は「こんなことになるとは」では許されない。許されないが、今だけは言わせてほしい。こんなことになるとは。
「それで、荒野で何を切ろうか?」
馬はゆっくりと進んでいく。ゆっくりといっても先ほどに比べたら、というだけで普通の馬の駆け足くらいだ。
振り返った第四夫人は、楽しげに口元を緩ませている。その笑顔には、自分に切れないものなどないという自信と、もしかしたら切れないものがあるかもしれないという期待があった。
「なにか、は分かんないの」
「分かんない?」
「幽霊か、バケモノか、ゾンビかも」
「ゾンビ?」
「ええと、不死者? 禁術で蘇らされたヤツ」
「ああ、なるほど」
エスメラルダの言葉を聞いて、馬がブルルと鼻を鳴らした。意図するところはエスメラルダにも分かった。不快だ。どうやら善の側にいるらしい光る馬は、禁術に強い忌避感があるらしい。その足下からする雷鳴が、一瞬大きくなる。
「お前も切りたいか。いいね」
「何を言ってるか分かるの?」
「分からないよ」
エスメラルダはまず第四夫人を理解するのを諦めた。多分エスメラルダには計り知れないものだ。第四夫人はなぜだかエスメラルダを甘やかしてくれる。それだけでいいじゃない。すごく強い生き物に甘やかされるのは嬉しい。
「じゃあ、何処に向かう?」
「えーとね、もう少し王国に近付いて、小さめの魔物の巣があるでしょ。あの近くに洞窟があるはず」
ふむ、と第四夫人は考え込んだ。指示はなくとも馬はもうそちらに向かっている。
既に日は落ちかけていて、到着するのは夜になるだろう。
「場所はどうやって?」
「そんなの簡単よーう」
友人から届いた手紙が書かれた日付、街道に異常発生した魔物、そして相手の移動速度を考えれば場所は限られる。
エスメラルダは準備を怠らない。準備を怠った結果陥った自分の苦境を忘れない。だから勿論、草原に嫁いで以来荒野についても調べ尽くした。武官に話を聞き、大将軍の執務室で資料を読みあさり、夫の書庫で古文書を紐解いた。
当然ながら、リン帝国には王国より遙かに多くの荒野にまつわる資料がある。それらをほとんど全て読み込んだのだ。聖女の首を盗んだ王国人の行く場所など容易く特定できる。
「エイリャンは頭が良い」
エスメラルダが鼻高々にする場所の特定方法をひとしきり聞いて、第四夫人はぽつりとそれだけ言った。まるで心の籠もっていない感想だったので、エスメラルダは注意深く第四夫人を覗き込んだ。後ろから身を乗り出したので、重心がずれたことが不快だったのか馬が僅かに身震いする。
第四夫人はエスメラルダが自分に注目しているのに気付くと、目を合わせていつも通りに微笑んだ。
「それで、その聖女様っていうのは……」
一瞬の空白だった。言い淀むというよりは礼儀の教本を思い返すに子供に近い表情で目を逸らし、結局第四夫人は諦めてその先を口に出した。
「本当に死んでるのかな?」
「首を落とされたんだから死んでるわよーう」
「でも聖女っていうのは奇跡だとかを起こすんだろう」
第四夫人は自分で言いながらも信じていないのが分かる口ぶりだった。殆ど国交のないリン帝国の民が聖女に懐疑的になるのも仕方がない。実際のところ、王国人だって聖女様がどういったものなのかなど分かっていないのだ。
癒やしの力を持ち、慈悲深く、そして美しい。それらの特徴を併せ持った乙女を教会が聖女に認定する。
そして今代の聖女は、光魔術の使い手だった。
魔術師は生まれた土地の影響を大きく受ける。雨の多い王国に生まれた魔術師は、基本的には水流魔術しか使えない。ただでさえ生まれた土地と関係のない力を持つ魔術師は大きな力を持つものだが、中でも光魔術という生まれる条件さえ分からない力を持つとなると浮かれた教会が即座に聖女の認定を下し、平民にも関わらず王家が求めるのも仕方がない事だった。
水の国に生まれた光魔術の使い手、というだけで第四夫人がそもそも死んでいないのではと疑うには十分だった。
王国において光魔術を発現させた聖女は、エスメラルダですら認めざるを得ないほどの力を持っていた。
それほどの力を持っていたから、エスメラルダの陰湿な嫌がらせを全て躱しきれたのだ。
「どんなに強力な光魔術でも、首がなきゃ使えないもの」
「まあ、それはそうか」
第四夫人は取り敢えず納得することにしたらしい。
前を向いた第四夫人が手綱を引くと、緩やかに走っていた馬がまた力強く地面を蹴った。荒野に雷鳴が轟く。
第四夫人の背に頬を付けて、エスメラルダは聖女のことをぼんやりと思い返した。死んでいるはずだ。だって生きているなら、もっと早くエスメラルダに仕返しをしに来るはずだから。
「あの洞窟だと思うんだけど」
「場所は丁度良いね」
荒野には魔物の生息地がいくつも点在する。大抵は低木の茂みや雑木林、洞窟といった場所であり、荒野を移動する際はそれらに近付かないようにするのが鉄則だ。
しかしそれらの中にも安全であるとされる場所はいくつもあり、王国から陸路でリン帝国を目指す際はその安全な林や洞窟を目印に進む。エスメラルダもそれらを辿って王国からリン帝国を目指した。今では街道が整備されたので、やがては誰もが忘れていくだろう。
今回エスメラルダが目星をつけたのは、安全は確認されているが遠回りになるため目印にはされていない洞窟の一つだ。
馬から降りた第四夫人は、大地を眺めて「確かに、ここみたいだね」と呟いた。何かの痕跡を認めたらしい。
エスメラルダには何も見えない。
第四夫人が見ていた場所を見るために馬を明かり代わりにしようとしたが、手綱を引っ張ってもびくともしなかった。せっかく光っているのにサービス精神が足りない。
「エイリャン、少し様子を見てくるからここで待っていてくれるかな」
「はーい。あ、でも私が見る前に勝手に切っちゃだめよ!」
「約束するよ」
第四夫人が音もなく洞窟に近付いて、その場には馬とエスメラルダだけが残された。
もう一度手綱を引っ張ってみる。馬はエスメラルダを見ない。前に回り込んでも、鬣を撫でても、顎を触っても見ない。第四夫人が消えた先を見ている。
仕方がないのでエスメラルダも一緒に眺めていたが、早々に飽きてしまった。第四夫人がエスメラルダを残していったのだから、ここに危険がないのは分かりきっている。周囲を警戒した所で、エスメラルダに危険が察知できるはずもない。つまり、暇だった。
「ね、洞窟の入り口に落とし穴とか掘ってみる?」
馬は馬鹿にした顔でエスメラルダを見た。ようやく反応したと思ったらこれだ。
「少なくともこっちが向こうをおちょくってるのは伝わるじゃなーい」
一考の余地はある、という顔を馬がする。エスメラルダにも段々馬の表情が分かってきた。人語を解するだけあって、馬は表情豊かだ。
「お前穴って掘れる?」
一瞬エスメラルダの意見に靡きかけたのに、馬はまた鼻を鳴らして見下した目をした。提案だけして何の手段も持たないエスメラルダを馬鹿にしている。
「なによーう、相手を苛つかせるのは基本中の基本なのに」
「随分仲良くなったね」
「四の姉様! この子ったら私を虐めるのよ」
馬が二度前脚を踏みならすのを見届けてから、第四夫人は今し方様子を窺ってきた洞窟を指さした。
「男がいたよ」
「男だけ?」
「女の形をしたものも」
その時湧き上がった感情を、エスメラルダは言葉にするのをやめた。何を言った所で誰にも理解できないし、誰にも理解させてやる気はなかったからだ。
*
ほらやっぱり死んでた! ほらやっぱり死んでた! ほら! やっぱり死んじゃってた!
あの程度敵ではない、と第四夫人が言ったので、エスメラルダは第四夫人に手を引かれるまま無防備に洞窟に入った。後ろからは光る馬が着いてくる。洞窟に明かりはないが、馬が光っているおかげで困らない。
エスメラルダは背中を守るように歩く馬に「意外と紳士じゃなーい」と声を掛けた。馬は無視をした。
洞窟を進んだ先には、第四夫人の言う通り男がいた。
入り口に背を向けて、一心に目の前のモノに話しかけている。その背中からは警戒心は一切感じ取れない。男は聞こえているはずのエスメラルダの足音にすら反応しなかった。
その後ろ姿をエスメラルダは知っていた。そもそも、手紙を読んだ時から犯人など一人しかいないと分かっていた。
死者を蘇らせる禁術を知っていて、王城の奥に封印された聖女の遺骸を盗み出せて、王国にほど近いとはいえ荒野の安全な洞窟を知っている。従兄弟だって犯人など分かりきっていたに違いない。分かっていて、エスメラルダに行かせた。
エスメラルダに蛮族に嫁げと言った王子がそこにはいた。
王子は、正確には元王子は、足元に置かれた小さなランプの明かりの中で辛うじてかつて人だったと分かるだけのモノを抱きしめて、何かブツブツと呟いている。
エスメラルダは高らかに足音を鳴らし、前へと進み出た。進路を阻むように伸ばされた第四夫人の腕は見えないふりをする。
「嫌だわ、聖女様と一緒に処刑されたと聞いていたけれど」
洞窟にエスメラルダの声が反響する。聞き覚えのある声に、王子は勢いよく振り返った。その拍子に腕の中にあった人の形のモノが揺れ、粘着質な音を立てる。
禁術がなぜ禁じられているのか。
成功しないからだ。歴史の中で数多の魔術師が試み、そして誰一人成功しなかった。王子であれば成功させられるなどという都合のいい奇跡は起こらない。そんなこと目の前の男だって教師から散々習っただろうに。
「お前、お前エスメラルダ……なぜここに」
王子の声は掠れていた。頬は痩け、唇は乾いて割れている。そこにかつて王国の太陽と称された美貌はどこにもない。
エスメラルダはもう一度、瞬きもせずに口を開いた。
「あら質問が難しすぎたようだから説明して差し上げますわね。どうして生きているのか聞いていますわよ」
湿った音を立てて、王子の抱きしめた体から何かが落ちた。王子の様子からして、不完全とはいえ術が成ってまだそう時間も経っていないだろうに既に崩壊が始まっている。
エスメラルダは落ちた欠片を見た。黒ずんで、汚い。
全てを忘却するのを待つばかりだった雨粒を雲の上から盗み出した挙げ句、このような辱めまで。あの子は銀糸の髪を靡かせて、朝焼けの瞳でいつも光を集めていたのに。
エスメラルダはその時、完全にエスメラルダだった。つまり、荒野を走る馬車の中で思い出した前世の記憶も、草原の民から学んだ情緒も、乾いた空気の中で身につけた謙虚や思い遣りや素直もエスメラルダのどこにもなかった。
そこにいるのは、高位貴族として王国に生まれ、伝説の乙女と同じ色を持ち、誇り高くあれと育てられ、誰より優秀であることを当然とし、自分こそが王国で最も陰湿であると自負する、「緑の輝石を飾る王冠のエスメラルダ」だった。
「誰に助けてもらったのかしら。ああ答えなくて結構。お前達のやることくらい大体分かるもの」
エスメラルダはわざとらしく首を傾げた。髪に飾られた石が反射した光りが、今まさに崩れていくモノに降り注いだ。
「貴様に何が分かる」
「貴方こそ、何か一つでも分かっていることがありますの?」
「全て貴様のせいだろう! 貴様のせいでダイヤはこうなった!」
エスメラルダはじっくりと王子の腕の中のモノを見た。頬に手を当て、言っている意味が分からないという顔をする。
「私の?」
「言い訳をするな! あの妾腹をけしかけたのはお前以外にいるものか!」
「どなたの話?」
「とぼけるな! お前はあれと従兄弟だっただろう!」
力の入りすぎた王子の手が、聖女らしきモノの体に食い込む。生きていれば確実に痛み、骨くらい折れていてもおかしくはない深さだ。しかし腕の中のモノは僅かに震えるだけで、痛がる素振りすらなかった。
「まあ、もしかして陛下のことかしら?」
「何が陛下だ! 王になるのは俺だ!」
「腐敗した王家を打倒し正当なる権利をもって王位にお即きになった陛下を侮辱するなんて、なんて不敬な。それでも王国の臣民かしら」
「臣民、臣民だと?」
「そうでしょう、だって貴方、何の身分もないのだもの」
聖女と共に処刑されたはずの王子が生きている理由など、誰かが手引きした以外にない。いずれ王子を使って王位を狙おうとしたか、裏での取引があったかは分からない。こう見えて美貌の王子には信奉者も多く居たので、その中の誰かが事を企てたのかもしれない。
だがいずれにしても、元王子の処刑は公的に執行されたのだ。もはや王子はこの世におらず、ならば目の前の男に王位継承権などあるはずがない。臣民に数えることすら難しい。
「お前に何が分かる……」
王子が掠れた声で呟いた。かつては磨き上げられて輝いていたはずの髪は短くくすみ、服は擦り切れている。その頬に一粒、涙が流れた。それだけはかつてと同じ、美しく澄んでいた。
「分かりませんわよ、おめおめと生き残った負け犬のことなんて」
慰めを期待していたわけでもなかろうに、王子は傷ついた顔をした。だからエスメラルダは笑った。両方の口端を持ち上げて、王子が大嫌いだと言っていた笑顔を作って見せた。
結果的に良かったとはいえ、そもそもエスメラルダが草原に嫁いだのはこの王子の嫌がらせによるものだ。こいつはわざわざエスメラルダへの嫌がらせのためだけに、草原で獣の生き血を啜ると言われていた蛮族に嫁がせると決めた。
エスメラルダは聖女に必ずややり返すと決めてリン帝国に嫁いだが、それと同時に王子のことも機会がなくても絶対に仕返ししてやると誓っていた。
処刑によって仕返しは完了したと思っていたが、ここに改めて機会がやってきた。この手でやれるならそれ以上の僥倖はない。なので、あとはもう仇敵である王子への嫌がらせをするだけだ。
「ねえ、その子の最後の言葉はなんだった?」
「……黙れ」
「当ててあげましょうか」
「黙れ」
「エスメちゃん、でしょーう?」
「黙れ!」
聖女はいつも、エスメラルダを間の抜けたあだ名で呼んでいた。そんな呼び方をするのは聖女しかいない。エスメラルダが何を言っても、友人達がどんなに諫めても、その呼び方を改めることはしなかった。そういう女だった。
聖女だって立派に王国の女なのだ。呼び方一つで相手を苛つかせる事が出来るのに多少の注意で止めるわけがない。しかも恋に浮かれる王子と聖女の称号という後ろ盾を持っている。エスメラルダが聖女の立場だったとしても絶対にやめない。
そして最後の言葉も簡単だ。自分だったらきっと処刑台で聖女の名を呼んだ。自分を殺すくせに、お互いに人生でただ一人の相手と思っているくせに、自分が死ぬところを見にも来ない薄情な女の名前を呼んだ。「ダイヤ」と呼んで、雨粒の一つに還った。
だから聖女だって、エスメラルダの名前を呼んだに違いない。
「ねえ貴方それを何処で聞いていたの?」
生きているのだから、少なくともその時一緒に断頭台には上がっていなかっただろう。王子は歯を食いしばってエスメラルダを睨んだ。その両目から涙が溢れていたが、エスメラルダはもう先ほどのように美しいとは思わなかった。
「名前も呼んで貰えずに! 一人だけ生き残って! その結果がそれ!」
エスメラルダは大きく息を吸い込んで、そして静かに吐き出した。エスメラルダが黙ると洞窟には静寂が満ちる。第四夫人も、光る馬も、今はただエスメラルダと王子のやり取りを傍観している。
「やだ、みじめ」
誰も喋らないので、その言葉は小さな声にもかかわらず洞窟によく響いた。大きな物が地面に落ちた湿った音も。
王子が全身を震わせたことで、辛うじて形を保っていたモノはついに首と胴が離れた。王子の腕の中に残ったのは禁術で半端に構成された代用品の体だけで、真実聖女のものである頭は地面に落ちている。
切り離されて転がった頭が、エスメラルダの方を向いて止まる。その顔を見てようやく、エスメラルダはあの頭が本当に聖女のものだったのだと理解した。
「ダイヤ! ダイヤ!」
「あらあら」
体を放り投げて地面に膝をついた王子が、聖女の頭部を必死に抱き寄せる。それを胸にかき抱き、王子は震える手でエスメラルダを指した。
「貴様のせいだエスメラルダ! この売女が! 蛮族の男を侍らせて……」
男。エスメラルダは隣の馬を見上げた。侍っているかと言われれば侍ってはいるような気もする。王子との応酬が始まってからずっと、馬はエスメラルダに触れられるほど近くに立っている。
そういえば王子は蛮族は毛むくじゃらで獣の姿をしていて、と得意気に語っていた。じゃあこの馬が草原の民の姿だと思い込んでいるのかもしれない。
納得しかけたエスメラルダをちらりと見下ろして、馬が鼻を鳴らした。完全に馬鹿にする仕草だった。
反対隣で金属音がして、エスメラルダは馬から目を離した。今まで一切の音を消していた第四夫人が微笑んでエスメラルダを見ている。
「エイリャン、どうする? もうそろそろ切るかい?」
なるほど、男。第四夫人はいつも鎧を着込んでいて、青年に見間違う風貌をしている。しかし第四夫人は王国で人気を博し男装の麗人として絵姿まで出回っていたというのに、王子は知らないようだ。
「何もかもお前のせいだ、お前の……」
王子の手の中にあった頭から、ずるりと髪が落ちた。赤黒い何かに塗れていて、月の光に例えられた輝きはない。
エスメラルダは第四夫人を視線だけで制した。まだ嫌がらせは終わっていない。全然気が済んでない。まだやれる。草原で己を磨いたエスメラルダの嫌がらせがこの程度で終わって良い訳がないとすら思う。
「私のせい?」
エスメラルダを庇うように、第四夫人が一歩前に出た。手はいつでも抜けるように剣に添えられており、ただエスメラルダの指示を待っている。
第四夫人は自分が一番よく切れる剣だと言った。エスメラルダに剣の心得がなくとも、剣を持ち上げるほどの力がなくとも、 持ってるだけで勝手に敵を切り倒してくれる剣だと。その通り、エスメラルダの剣として出番を待っている。
だからエスメラルダは安心して、王子を指さした。正確には、王子の腕の中の赤黒いモノを。
「そうなっているのが? 私の? 本当にそう思ってる? 少なくとも今のその状態は私のせいじゃないって分かってるでしょーう?」
「貴様こそが……」
「待って、ていうかそもそも私悪くなくなーい? だって私を追放したのって誰だった? 貴方じゃなかった? つまり悪いのは私じゃなくて貴方じゃなーい?」
詭弁である。そもそもの発端はエスメラルダが力の限り聖女様をいじめ倒したことで、なぜいじめたかと言えばふにゃふにゃとした擬音を使って喋るよく泣く女が気に入らなかったからで、なぜ気に入らなかったかといえばエスメラルダが手に入れるはずだった王子にその涙と笑顔で取り入ったからだ。
つまり、王子の言う通り全ての元凶はエスメラルダにある。
少し考えれば分かることだが、憔悴し疲れ切った王子は真に受けてしまった。エスメラルダは王子に対して爪の先ほどの情も持っていなかったが、そうした繊細な所は少し気に入っていた。将来操りやすそうだったので。
「ねえもう一度考えてみて、聖女様がそうなったのは誰のせい? 私のせい? 違うわよねーえ。分かったら口に出して言ってみましょ。ほら、言えるかな?」
「俺、俺は……」
「がんばって! 元殿下がんばって! 元王国の太陽!」
エスメラルダは知っている。王国人は草原式の勢いに任せた口喧嘩にとても弱い。王国式ならここはねちねちと「学院のお勉強はよく出来ていたみたいだけど……」とため息を吐いたりする所だ。
勿論王国式口喧嘩の心得しかない王子は、エスメラルダの勢いに負けて黙り込んだ。日頃から第六夫人に口喧嘩で負け続けたかいがあった。全てはこの日のためだった。あの生意気でこまっしゃくれて上から目線の王子に膝を着かせて泣かせてやった。
「おーほほほほほほほほほほほ!」
エスメラルダは声を上げて笑った。悪役に相応しく、高らかにより響くように。隣で馬が心底軽蔑した顔でエスメラルダを見ていたし、第四夫人は振り返って困った顔をした。
ひとしきり笑って満足したところで、エスメラルダは王子を指したままだった指をついと上げた。
「切って」
それだけで十分だった。第四夫人はたった一歩で王子の目の前に到達した。きっと王子の目には突然現れたように見えただろう。
たった一歩、そしてたった一振り。第四夫人がしたのはそれだけだ。
どさり、と音がして、ついでに王子の持っていた頼りない明かりが消える。その場の光源は馬しかなくなったが、十分に第四夫人の切ったモノは見えた。
「あ、ああ……」
「これは……なにかな」
第四夫人が切ったモノを興味深そうに覗き込む。今切られたモノから吹き出た液体を頭から浴びて、王子はただ震えていた。
「体を作ってた部分?」
「そうだね、もう人らしさは何もないけど。エイリャンも見るかい?」
「グロいの苦手だからやめとく」
「そう?」
拒否しながらも、エスメラルダは第四夫人に近付いた。それに合わせて馬も隣を歩く。お陰で足下が見やすい。第四夫人が一歩で踏み込んだ距離が、エスメラルダの足では十歩になった。
震えたままの王子には目もくれず、エスメラルダは歩きながら着ていた装束を一枚脱いだ。馬がそっと目を逸らす。「なによやっぱり紳士じゃなーい」と言うか迷ってエスメラルダは止めた。それで拗ねて今立ち止まられては困る。第四夫人によると馬は拗ねるタイプだ。
勝負服のまま来ていてよかった。たっぷりと布が使われた服は、一枚脱いだところで支障はない。
その一枚で、エスメラルダは王子が落とした聖女の首を包んだ。
「ダイヤをどうするつもりだ……」
「少なくとも禁術を使って辱めたりしないわよーう」
「俺は……俺はただ……」
王子はエスメラルダを見て、今は布に包まれた聖女の首を見て、最後に第四夫人が切った体だったモノを見た。首と離れ機能を停止したかに見えていた体は、ゆらりと立ち上がって王子に手を伸ばしていた。背中を向けていた王子は気がつかなかったが、エスメラルダ側からはよく見えた。
「ただ会いたかっただけなんだ……」
「あらそう」
王子の瞳からぽろりと涙が零れる。エスメラルダはなんとはなしにその行方を目で追った。
涙は地面に触れて、小さな染みを残す。一瞬の間を置いて、その場にさざ波のように淡い光が広がった。
第四夫人が大股でエスメラルダの隣に戻り、体を背中に隠す。馬が嘶き、蹄で雷鳴を鳴らした。
淡い光は広がったあと急速に収束し、人の形となった。光が王子に優しく手を伸ばす。顔はよく見えない。だがそれが聖女だと、エスメラルダにははっきり分かった。
王子は声も出せず、ただ自分に触れようとする光を見上げていた。
馬が僅かに好意の滲む嘶きを上げた。だから光は善きものだ。
王子に触れる直前、それまで王子にのみ意識を向けていた光がエスメラルダを見た。その口が確かに「エスメちゃん」と動き、エスメラルダが答えるのを待たずにまた王子を向く。そして王子に触れたその瞬間、吸い込まれるように消えた。
「なによーう、そんなことされても許しちゃうの?」
どこまでも気に食わない女だ。口を尖らせるエスメラルダに、第四夫人は慰めるように肩を叩いた。
*
「お待ちしておりました」
「あら」
「それをこちらへ」
腕に抱いた荷物に手を伸ばされたので、エスメラルダはそれを両手で抱きしめて一歩下がった。代わりに第四夫人が前に出る。
それを見て、一人だった相手の後ろに更に二人増えた。
全身真っ黒の男達は、王国の王の影だ。ここにいることには驚かない。洞窟の入り口に符牒があるのにエスメラルダは気付いていたし、第四夫人も何度か人の気配を気にする素振りを見せていたので気付いていた筈だ。
エスメラルダたちが洞窟を出るなり影たちは現れ、聖女の首を要求した。洞窟の中に一人残された王子の許にも影が向かっているだろう。
別に聖女の首を渡したくないわけではない。持っていても仕方がないし、なにより布を貫通してじっとりした液体が染み出てきているので正直なところ一刻も早く手放したい。エスメラルダには嫌いな相手の首を集める趣味はない。
だが、ここで素直に渡すわけにはいかない。エスメラルダはにっこりと笑った。
「ありがとうは?」
「は……」
「美しく聡明なリン帝国族長第八夫人エイリャン様のご活躍により王国の不始末が片づき王位も安泰となりました。何もかもエイリャン様のおかげです、ありがとうございます。でしょ?」
結局、エスメラルダは従兄弟に使われたのだ。本来の予定ではここまで早く解決させるつもりはなかっただろう。都からこの洞窟まではどれだけ急いでも一月近くかかる。王子の禁術が失敗して、荒野に魔物が増え問題となった所で王自ら討伐に乗り出す筋書きあたりが妥当だ。
エスメラルダには従兄弟の考えていることが手に取るように分かった。討伐の場にエスメラルダか族長である夫がいれば、王国とリン帝国の交流はますます深まり王位も安泰、草原からの豊かな資源も王国に流れ込む、くらいこのとだろう。
エスメラルダが夫にも言わずに即日現地に到着するのは大きな誤算だったはずだ。
王国人は友情を大切にするし、友人だけは決して裏切らない。それはそれとして、陰湿で粘着質で年中足の引っ張り合いに明け暮れていてそのためなら友情も利用する。それが王国人の国民性なので。
それを見抜いて簡単に利用されてやらないのも王国人の教養の一つである。
「お礼は大事よ」
第四夫人がわざとらしく剣を鳴らし、馬が蹄で地面を叩いて雷鳴を鳴らした。面白がっている。
「ありがとう、ございます……」
「よろしくてよ!」
何とも言えない空気があたりに広がり、気付けば黒い影はまた一人に減っていた。
「では、それをこちらに」
「お前程度の礼がこれに見合うとでも? まあ随分と自信過剰」
影はまた黙り込んで、差しのばした手をそっと下ろした。仮面に隠されて顔は見えないが、すごく嫌そうなのが伝わってくる。
「エイリャン、そのへんに」
さすがに同情したのか、第四夫人がそっと諫めてくる。エスメラルダは肩を竦めた。そして、手に持った荷物を影に差し出した。影はあからさまにほっとした息を吐いて両手で受け取る。
影は荷物を受け取ったが、エスメラルダは荷物から手を離さない。そっと見上げた影に、エスメラルダは明るく笑いかけた。
「ねえ、私、友達とお泊まり会がしたいの」
影は黙ったまま頭を深く下げて、そしてその場から消えた。エスメラルダ以外は向かった先が分かっているようだったが、少なくともエスメラルダの目には消えたようにしか見えなかった。
5.
朝日のなか行きより随分と控えめな雷鳴と共に帰還した屋敷の正門は、厳戒態勢が敷かれていた。
「だから裏から帰りましょって言ったのに」
「さすがにね」
入り口を固めていた兵も武官も、エスメラルダと第四夫人が乗ってきた光る馬を見て固まり一斉に頭を下げる。
ますます神話に登場する可能性が高まった。小難しい名前もついているに違いない。
そうしている内に、いつもの侍女を引き連れて第一夫人が小走りに屋敷を出てきた。
「あんたたち」
まだ夜も明けきらないというのに、服装も化粧もきちんと整えられている。エスメラルダたちの帰還を聞いてから整えたにしては綺麗すぎるので、もしかしたら一晩中起きていたのかもしれない。
だがそれよりも、その顔と、口調と、声だ。完全に怒っている。叱られる気配を察したエスメラルダは素早く第四夫人の背中に隠れた。
「どこで何してきたか言いな」
「エイリャンと、乗馬訓練を」
「そんなわけないだろう!」
「ほんとよーう……」
「嘘をつくのはやめな!」
一応は第四夫人と口裏を合わせていた嘘だが、疑う余地もなくあっさりと否定された。馬が我関せずと第四夫人の頭にぐりぐりと鼻先をこすりつけ、ついでにエスメラルダの頬を口の先だけで甘噛みする。そしてゆっくりと歩き始めた。悠々と第一夫人の横を通っていく馬を止める者はいない。
「なんで! 馬も叱ってよ!」
「あんたって子は! 失礼な口を利くんじゃないよ!」
第一夫人の後ろには、同じく寝ていないだろう服装の夫がいた。深く頭を垂れて馬が通るのを待っている。馬は夫の前で立ち止まると、その頭に軽く額をぶつけた。
屋敷の石壁の一部がずれて空けた穴の中にゆっくりと消えていく馬を、全員が無言で見守る。
石壁が戻ると、夫がエスメラルダと第四夫人の前まで歩いてきた。
「おかえり。何してきたの?」
口調は優しい。目元も柔らかく緩んでいて、そこまで心配していたわけではないのが分かる。同行者が第四夫人で、しかも神話級の馬に乗って出て行く所を全員が見ている。
エスメラルダは少し考えて、夫の顔を仰ぎ見た。そして、言った。
「ないしょ!」
「内緒かあ」
「内緒ですむわけないだろ!」
夫と第一夫人の声が重なる。
大将軍の指示か、厳戒態勢を敷いていた兵達はそれぞれの持ち場や宿舎へ戻り始めている。それらと入れ替わるように、第五夫人が出てくるのが見えた。話した直後にエスメラルダが行方をくらませたせいで、寝ずに帰りを待っていてくれたらしい。
今まさに説教を始めようとする第一夫人からさっと離れて、エスメラルダは第五夫人に大きく手を振った。
「五の姉様! 友達がいっぱいお泊まり会に来るの! 大宴会しましょ!」
第五夫人が飛び跳ねて踊り出すのが見える。口をあんぐりと開ける第一夫人の横で、エスメラルダもまた喜びのダンスを踊った。
お泊まり会なんて子供の頃以来だ。夫を自慢して、七人もいる姉達を自慢して、十一人もいる子供達を自慢する準備をしなくては。きっと王国から来る友人達はたくさんお土産を持ってきて、その中には蔓草の描かれた封筒もある。その中には嫌みったらしく今回のお礼が描いてあるはずだ。
その全部が楽しみで、エスメラルダは第一夫人が疲れたため息を吐くまで踊り続けた。




