第八夫人エスメラルダの陰湿3
1.第二夫人マナナシの愛慕
マナナシの思うとおりに盤上の駒は動く。兵の駒も、馬の駒も、将の駒も、マナナシの指が差す方へ、マナナシの命じるままに。そしてマナナシに勝利をもたらす。マナナシは盤上遊戯において負けたことがない。
本物の戦場でだって、自分が負けないことをマナナシはよくよく分かっていた。
たった一言だけでも許されれば、マナナシは遊戯と同じように戦場を思い通りにしてみせただろう。
しかしその一言を許されることはなかった。
盤上以外でマナナシが思ったとおりになったことなど、この世に一つもない。
マナナシには恋した男がいた。愛した男には愛した女がいた。マナナシではない女だ。
幼い頃にたった一度会っただけの男は、そのたった一度でマナナシを虜にさせたくせに、男自身は既に隣にいた女に芯から惚れていた。
マナナシは誰かに嫁がねばならない身で、男は誰かに婿入りせねばならない身で、もとより実るはずのない恋だった。しかしそれでも一顧だにされないというのは、幼いマナナシの吹けば飛ぶような自尊心をひどく傷つけた。
仕方がない。マナナシは自分に言い聞かせた。盤上以外でマナナシが思うとおりにできることなど何もないのだから。
身を焦がすような恋ではなかった。ただ、マナナシの心臓のほとんど全てをすり潰すような恋だった。この恋を、この敗北を抱えて生きていくのだと、マナナシは幼くして覚悟した。
せめて誰か一人でもマナナシのすり潰された心を共に眺めてくれないかと願ったが、何者でもないマナナシにそんな存在はいなかった。
マナナシの生家は、古くから軍師として取り立てられる者が多かった。だからといって、マナナシがどれだけ戦上手を自負していても、盤上遊戯が強かろうとも、実際に戦を指揮したことがなければ誰も相手にはしてくれない。そして実際に戦を指揮する機会など、末子のマナナシには回ってくるはずもない。
家は兄が継ぐと決まっていた。マナナシの仕事は家のためにどこぞの男へ嫁ぐことだ。兄も、父も、マナナシに一度も盤上遊戯で勝てたことがないのに。
その兄が死んだ。それも次の王と、さらにその次の王を道連れに。それはつまり、マナナシが何をおいてでも手に入れたかったものが手に入る可能性を示していた。
兄の指揮は拙かった。このままでは負けると漏れ聞いた断片からすらマナナシには予測できた。でもマナナシは何も言わなかった。手に入るかもしれないものを数えるのに忙しかった。
やがてマナナシが気付いたずっと後に父や一族の長老も気付いたが、その時には全てが手遅れとなっていた。そしてマナナシの予想通りに兄は死んだ。
飛び込んできた訃報に、父が、母が、全ての家人が慌ただしく走り回るのをマナナシはただ座って眺めた。その視線の先に一族はなかった。
負けを予測した時から散々に考えたこの先に起こるだろう事、自分の望み、その望みを叶える為に進むべき道筋を瞬きもせずに一心に見つめた。誰もマナナシに話しかけないので、マナナシは一人きりでずっとずっと考えることができた。
マナナシにどうすべきかを聞く者はいなかった。マナナシはまだ、意見を求められるに相応しい者ではなかった。
二つの貴い命をどう贖うか。その問いを議場にそっと滑り込ませたのがマナナシなら、娘を嫁がせるべき。その結論を議場に恭しく捧げたのもマナナシだった。マナナシは、初めて盤上以外も自分の思い通りにしてみせた。
思い通りにしてしまってから、マナナシは自分が何をしてしまったのかに気が付いた。
恋した男の第二夫人として嫁ぐ結婚式の日、マナナシは皆が見守る前で夫となる男に必ず守ると誓った。負けることを予測していたのに手に入るものに浮かれて誰にも進言しなかったマナナシができる償いは、ただそれだけだったからだ。
夫はマナナシが恋した大地の色の目でマナナシを見た。夫が唯一心から愛する女もまた、マナナシを見ていた。
*
「ナナン、荒野の魔物についてだが」
夫はマナナシに話しかける時、僅かに緊張した素振りを見せる。夫婦になってもう何年も経ち、二人の間には娘もいるというのに。
マナナシが嫁ぎ、いくつかの戦いに口を挟み、やがて全ての戦いで意見を求められるようになった。マナナシの能力を疑う者はもう国中のどこにもいない。最近では人を相手にする戦も少なくなった。相手はもっぱら荒野の魔物で、人を相手にする方が得意なマナナシの意見は無難なものに終始している。それでも必ず意見を聞きに来る夫は、きっとそれが彼なりの情なのだろうとマナナシは理解していた。
夫がマナナシに向ける視線に親愛はあっても、情愛はない。己がこの地位を手に入れるためにしたことを思えば、それも仕方のないことだと思う。
そもそも夫は幼馴染みである第一夫人以外に情愛を持っていないのだ。マナナシの後に増えた妻達にも、親愛しか向けない。その証拠に、第一夫人以外の妻達には子供を一人しか持たせない。
例外は、双子の男女を生んだ第四夫人だけだ。いやもう一人、呪い師がいずれ双子を産むと予言した者がいる。
マナナシの意見を聞いた夫が立ち去り、閉じたかと思われた扉はすぐさま開かれた。夫ですら緊張するマナナシの部屋に無遠慮に入り込む者は一人しかいない。双子を産むと予言されたもう一人だ。
「お仕事のお話、終わった?」
夫の最も若い妻、第八夫人が僅かに開いた扉の隙間から目だけを覗かせている。第八夫人は自分で聞いたくせに、返事を待つことなく部屋に体を滑り込ませた。
マナナシはこの、自分の妹を気取る第八夫人を蛇のようだと思う。若くて美しくて珍しい色合いの娘を、屋敷の中では子猫のようだと例える声をよく聞く。夫も妻と言うよりも、人慣れた愛玩動物のように可愛がっているように見える。
しかしマナナシにしてみれば、第八夫人は蛇にそっくりだった。音もなく潜り込んで、その瞳で人を誘惑するのだ。
マナナシの座る椅子の足下に素早くやって来た蛇が、そっと膝に頬を乗せる。第八夫人の誰より鮮やかな装束は、シュウシュウと蛇が這うような衣擦れの音をたてた。
金色で緑の目をした蛇は何故か、マナナシによく懐いた。他の夫人にも懐いてみせるその口で、マナナシが一等好きよと嘯いてみせる。
マナナシの顔を見れば駆け寄り、微笑みかければ頬を染め、マナナシの一言に一喜一憂してみせる姿は可愛いと思う。実の娘すらマナナシから距離を置くというのに、何が楽しいのか蛇はマナナシが良いらしい。
懐かれる理由は皆目見当もつかないまま、それでもマナナシは第八夫人を遠ざけようとはしなかった。遠ざけるには理由がなかった。だからこうして、第八夫人は好き勝手にマナナシの部屋に入り込み、厚かましくも髪を撫でろと視線で強請る。
マナナシは蛇の金色のうろこに、そっと指を差し込んだ。
「お前、まるで蛇のようね」
「それって可愛いって意味?」
気持ちよさそうに目を細め、蛇が甘えた声を出した。マナナシは少し考えて、曖昧に微笑むに留めた。自分でもどう思っているかが分からない。分かるのは、例えばこの蛇が夫から特別に愛されたなら、耐え難いほど憎らしく感じるということだけだ。幸いなことに、その気配はない。夫は第一夫人以外の妻を等しく平等に扱う。
蛇はなにが嬉しかったのか、微笑むマナナシを見上げてにんまりと口端を持ち上げた。
「シィーッ」
蛇が戯れに威嚇音を出してみせる。目が叱られることを期待して輝いている。
マナナシはその期待に応えて、蛇の頬をそっとつねった。蛇は今度こそ大喜びで、頬にあるマナナシの手に手を重ねた。
*
「忠義に篤い蛇だこと」
「なにか…」
「なんでもない」
先導する武官が振り返ろうとしたのを、マナナシは言葉で制した。
マナナシに懐いた蛇は、ついにマナナシの留守中に獲物まで仕留めてみせた。以前から目障りだと思っていた女が乗り込んできたのをこれ幸いと、自慢の毒でじわじわと時間をかけてなぶったのだという。性格が悪い。
あからさまにマナナシに媚びていながら、マナナシが声をかけるまでは部屋の隅で黙って褒められるのを待っているのだから健気さだけは一等だ。祖国でのやんちゃも周囲が悪かったせいだと思わせてくれる。そういうやり口なのだと分かっていても、絆されてしまう。現に屋敷の中での第八夫人の人気は高い。
マナナシは地下牢に向かう道すがら、第八夫人に思いを馳せた。探検だなんだと言ってやたらと地下へ行きたがる第八夫人だが、侵入を試みるのはいつも大昔の遺跡がある地下迷宮のみで、地下牢のある区画には近寄ろうとしない。察するものがあるのか、引き連れている子供たちを近寄らせることもしない。
愛され方を知っているというのはこういうことか、とマナナシはいつも感心する。自分には決してできない芸当だ。
地下には第八夫人が仕留めた獲物が繋がれている。その処断はマナナシに一任された。マナナシと同族の出だからだ。従姉妹という関係ではあるが、マナナシは女に親しみを感じたことなど一度もない。
石造りの王宮は、もともとこの土地にあった巨大な岩の上に建てられている。その岩の地中に埋まった部分をくり抜いて作られているのが地下牢だ。光は差さず、空気の通りも悪い。いつでもどこか饐えたような臭いがした。長居したい場所ではない。
マナナシが武官に先導されて地下に足を踏み入れると、武官が着込んだ鎧の金具がたてる僅かな音がどこまでも反響していった。地下牢は死を待つ大罪人のみが入れられる。ここには闇と無音しかない。
「無様ね」
マナナシの静かな声が届かないはずはないのに、うずくまった女は反応を返さなかった。マナナシと祖父母を同じくする女だが、似ているところはあまりない。
無様はいつか、女がマナナシを見て言った言葉だ。恋を諦めたマナナシを見下して、自分はこの国で最も貴い男の子を産むのだと笑って、僅かな魔力を見せびらかして。
「この通り、何も喋りません」
「そう」
女はどうやってか夫とマナナシの不在に己の手勢を送り込んできた。その手法を知るまでは死なせられないというのに、手間をかけてくれる。
マナナシは女をもう一度だけ見下ろし、踵を返した。武官は戸惑ったように立ち尽くすばかりで、着いてくる様子はない。
「何をしているの」
「は、いえ、よいのですか?」
「父親の首でも母親の首でも、順に目の前に並べてやれば喋る気になるでしょう」
喋らないというのならば、もう用はない。こんなものにかける時間はない。マナナシにはやるべきことがある。
「待って…待って!」
うずくまるばかりだった女が、マナナシの言葉に弾かれたように顔を上げた。マナナシはそれには視線もくれず、武官にのみ目を向けた。
「あ…」
「行きますわよ」
「待ちなさいよ! マナナシ!」
武官は女を見ていたが、マナナシの視線に気付くと慌ててマナナシに駆け寄った。武官の表情にはどこか怯えがある。マナナシは地下牢から響く絶叫を、最後まで聞こえないふりをした。
誰も彼もがマナナシから距離を置く。マナナシを理解できないという目で見る。夫も、娘すらも。
地階に戻ったマナナシは、真っ直ぐに夫人たちの部屋が集まる一角に向かった。一角とはいっても、各部屋が隣り合っているわけではない。それぞれに衣装部屋や道具部屋があり、十分過ぎるほどの距離がある。
もっとも中枢近く、つまり夫の部屋の近くに第一夫人の部屋があり、マナナシの部屋はその次に夫に近い。しかしそこまでは行かず、マナナシは途中で足を止めた。
部屋の扉は質素で、物置と言われても信じてしまうほどに飾り気も、愛想もない。扉はしっかりと閉められている。子供が中に入り込むと危ないからだ。この部屋は武器庫の次に剣やら弓やらで溢れている。
扉の前に立ったマナナシが訪問を告げるより早く、内から扉は開かれた。部屋の主は魔力を持たないというのに、部屋の中にいても誰が前を通ったのか、それどころか誰が近付いてきているのか分かるのだと言っていた。
マナナシには分からない感覚だ。腕を極限まで磨いた武人は魔力に似た力を持つことがあるという。きっとそれなのだろう。
扉を開いた第四夫人は、薄らと口元に笑みを乗せていた。
「珍しいね、二番目がここに来るなんて」
顔は確かに笑っているのに、その目はどこか無機質に乾いていた。第八夫人の前でするように、取り繕ってみせればいいものを。
マナナシは第四夫人の部屋の中に視線をやりながら、本題を簡潔に述べた。挨拶したところで深まるような仲ではない。
「剣が必要ですの」
「……好きなのを持って行く?」
第四夫人は部屋の中がよく見えるよう、僅かに身を引いた。第四夫人の部屋には実用的なものからそうでないものまで、いくつも剣が飾られている。盾も、槍も、鎧も、おおよそ戦いに必要なものはなんだってある。
マナナシはそれらから視線を外し、第四夫人の目を真っ直ぐに見た。相手は分かっていて言っているのだ。こちらだってこれ以上説明してやる義理はない。
「剣が、必要ですのよ」
第四夫人の口角が上がる。第八夫人はなぜこの生き物を見て「優しくて甘やかしてくれる大好きな四の姉様」などと言うのか、マナナシには理解できない。自認が剣の人間なんて、まともなわけがない。
でも剣は剣なりに情めいたものを持ち合わせていたのか、第八夫人の前では人間らしく振る舞ってみせる。それはどこか、懐いてくるからと蛇の頭を膝から落とさない自分を見ているようだった。
結局は似たもの同士なのだ。だからこうして、仲良くしている。
第四夫人は扉の枠にもたれ掛り、腕を組んで笑った。嬉しくて仕方がないと顔に書いてある。
「いつでも」
「では準備をしておおき」
返事も聞かずに、マナナシは第四夫人に背を向けた。武器は用意できた。兵を動かすなら金がいるが、今回は相手が先に攻め込んできている。大義名分はある。反対する者はいない。最も反対しそうな、敵と一族を同じくするマナナシが率先して動いているのだ。意見などできるはずはない。
後ろから低い笑い声が聞こえた。
*
「…………」
マナナシは黙って目の前の相手を眺めた。マナナシに与えられたより広い部屋、マナナシが持つより大きな机、マナナシが手に入れたより豪奢な衣装で、第一夫人が大きく息を吐く。
「あの子を連れていく必要があるのかい」
「さあ、来たいと言っているのは本人ですもの」
この女を前にすると、マナナシはどうにも不機嫌な態度になる。向こうだってマナナシに友好的な態度は取らない。同じ男を愛し同じ男と結婚しながら、片方は愛され、もう片方は愛されていないのだから仕方のないことだ。夫はどんなに優しく振る舞っても、幼い頃から連れ添った第一夫人にだけは他の夫人に見せない顔を見せる。
マナナシが一切の躊躇なく進軍を決めたすぐ後に、第八夫人が着いていくと言いながら部屋に飛び込んできた。夫の執務室でのことだ。そこには当然第一夫人もいた。
張り詰めていた執務室の空気はすぐさま緩み、誰も彼もが第八夫人を幼い子供でも見るように迎えた。最も幼い第七夫人の息子ですら、このようには迎え入れられない。
第八夫人はぐるりと部屋を見回して、「また仲間はずれにしようとした!」と大きな声で部屋にいる全ての人を責めるように睨んだ。仲間はずれも何も、普段執務室に近寄ろうともしないのは第八夫人本人だ。しかし誰もそれを指摘しない。第八夫人には充分に実績があり、そして何より屋敷の全ての人が第八夫人を子猫に例えて可愛がっている。
第八夫人が故郷で大罪人だというのも、信じていない者も多い。それが真実であるとマナナシは知っていたが、敢えて言うことでもないので黙っている。マナナシも十分以上に第八夫人に甘い。
結論の出ないままその場は解散となり、すぐさま呼ばれた第一夫人の部屋でこうして向かい合っている。
第一夫人はマナナシの口から第八夫人に連れて行けないと言わせたいのだろう。第八夫人は第一夫人にも懐いているが、それ故に反抗的だ。だがマナナシの言うことは無条件に聞く。
「あの子は自分の身も守れない。邪魔になるだけだよ」
「本人が行くと言っているのだから、好きにさせればいいではないの」
マナナシとて、第八夫人が何かの役に立つとは思っていない。第八夫人は謀略の類いは得意だが、戦場で活かせるような能力は持っていない。馬にも乗れないし、邪魔になるのは間違いない。だがマナナシは頑なに譲らなかった。
黙ったまま向き合うマナナシと第一夫人の間を裂くように、侍女が客人の訪いを告げた。
第一夫人は大きなため息を吐いた。話題の第八夫人が直談判に来てしまった。第八夫人は最終的に誰の許可が必要なのかをよく分かっている。第一夫人と第二夫人の意見を無視して進められる物事はこの国にはない。
部屋に入ってくるなり、第八夫人は大きく息を吸い込んで、許可を得るまでは一歩も動かないという意志を示すように仁王立ちをした。
「絶対行く」
第八夫人はてこでも動かないという目をしている。第一夫人はまた大きなため息を吐いた。我が儘ばかりの妹に疲れた姉のため息にも、言うことをきかない子供に疲れた母親のため息にも聞こえた。
「あの人がいいって言ったらね」
「やった! ね、二の姉様は味方してくれるよね」
「さて、どうしましょう」
夫に委ねられたのなら、第八夫人の同行は決まったようなものだ。
第一夫人は戯れるマナナシと第八夫人をしばらく眺めて、やがて厳しい顔つきでマナナシを見た。
「それで、本当にやる気かい?」
何のことかなど、言われなくても分かる。今回攻め込む相手はマナナシの血族だ。直前になってマナナシが止めるのではないかと疑う者がいるのも知っている。
草原の氏族にとって、数は力だ。数を減らすということは、後ろ盾の弱体化を意味する。その上で、本当に自分の血族を減らす戦いをするのかと第一夫人は問うている。
愚問だった。それを聞かれることが最早マナナシにとっては侮辱も同然だった。
「血はここにある。血を継ぐ者もすでにいる。何より連綿と紡いだ血族の傑作である私がここにある。なれば多少の数の増減など問題にならん」
吐き捨てるように言ったマナナシの言葉に第一夫人はしばらく黙り、やがて目を伏せた。
「そうかい、なら問題ないね」
マナナシは笑った。笑いと怒りと、威嚇の中間にある笑顔だった。故郷の男達など、マナナシの名誉の前には無名に等しい。それがいくら減ったところで、マナナシに影響などあるものか。
盤上にさえ並べてしまえば、全てはマナナシの思い通りになるのだから。
「え、やだギャップ萌え…」
第八夫人がうっとりと呟いた。言っている言葉の意味は分からないが、第八夫人にとってはマナナシの獰猛な一面すら好ましいものだったようだ。第八夫人はマナナシの全てをただ好意を持って受け入れる。
マナナシの思考の一番端、遠い昔に忘れた筈の願いが過る。きっと蛇は、マナナシのすり潰された心すら喜んで眺めて褒めちぎるだろう。掬い上げて頬ずりまでするかもしれない。
後の歴史書でマナナシが史上最も公平無私な軍師と記される理由となる戦は、こうして始まった。
2.
「絶対ついてく」
「だがエイリャン」
「絶対ついてく」
エスメラルダは足を開いて立ち、瞬きもせず夫の顔を見た。エスメラルダの色の薄い瞳は光に当たると奥底まで透けて見える。濃い色の瞳に囲まれて育った夫はそれが慣れないらしく、こうすると目を逸らすのだ。
「この間は留守番したから、今度のお出かけは絶対に行く」
「しかし危ないし」
「二の姉様がいて! 危ない事なんて何もありませんわ!」
怒りの王国貴族言葉である。
エスメラルダはつい先日、第二夫人の政敵をじっとりねっとり虐めたことで大好きな第二夫人に心ゆくまでよしよししてもらうことに成功した。今やどこにいても頭を差し出すだけで撫でて貰えるまでになっている。これに味を占めたエスメラルダである。
第二夫人がこの機会にちょっと帰省して実家付近の羽虫を小突き回すというなら、何が何でも着いていきたい。そして自慢の陰湿さでお手伝いをして、また褒めてもらいたい。
何の役にたてなくてもそれはそれで美味しい。「まったく、困った子ですこと」なんて言われて呆れた顔をされたら最高だ。
第二夫人に同行するのはこれまた大好きな第四夫人で、つまり道中はエスメラルダを甘やかす人間しかいないことが確約されている。間違いなく天国。エスメラルダは誰が反対しようと絶対に行くという決意を込めて目を大きく開いた。
「邪魔に」
「ならない! 約束する!」
「護衛が」
「四の姉様から離れない!」
何を言っても言い返してくる。エスメラルダは草原流の口喧嘩のやり方をきっちりしっかり学習し、身につけることに成功したのだ。
蛮族もとい、広大な草原を国土とするリン帝国は、武によって成り立つ国だ。初代皇帝は馬に乗り、剣一本で広大な草原を平定した。リン帝国は帝国と名乗っているが、皇帝と称されるのは国の開祖である初代ただ一人だ。以降は族長が皇帝に代わり王として国を統治する、という形をとっている。
その成り立ちから、リン帝国では口でやるより実力で決着を付けるべきという考え方が一般的で、剣を持つ者は口喧嘩が下手だ。エスメラルダは早々にそれに気付いた。つまり夫は口喧嘩が下手だった。
リン帝国で口喧嘩をする際は声の大きさと勢いの勝負となるが、族長の妻であるエスメラルダに声の大きさで挑める人間はそうそういない。結果、エスメラルダに口で勝てる相手など商人である第六夫人くらいとなった。第六夫人の勢いにはさすがのエスメラルダも敵わない。
ああ言えばこう言うエスメラルダに夫が困り果てていると、扉を軽く叩く音がした。扉はいつでも開いているので、存在を知らせるために音を立てたのだ
「騒がしいこと」
「ナナン」
「二の姉様!」
当人である第二夫人だ。言い争いをしていると使用人に言われて様子を見に来たのだろう。
先ほど第一夫人の部屋で味方をしてと頼んだときは、楽しそうに笑ってはぐらかされてしまった。エスメラルダは第二夫人が味方をしに来たのか、それとも却下を知らせに来たのかを判別するべく目に力を込めた。
「エイリャン、着いていきたいのね?」
「着いていきたいの」
味方だ。エスメラルダは頬に手を添えて上目遣いにしなを作った。分かりやすく媚びてみせる。王国ではこんなことをしようものなら途端にひそひそと噂されただろうが、リン帝国では分かりやすさこそが物を言う。誰にも知られず贈り物をするより、人前で私あなたに気に入られたいの、という態度を隠さない方が好感が持たれるのだ。文化の違いである。
先ほどまでとはまったく違うエスメラルダの態度に、夫が手を二度開いたり閉じたりして、最後にはため息を吐いた。夫は妻達がエスメラルダに特別甘いことをよく分かっている。
諦めが多分に含まれたため息に、エスメラルダは勝利の歓声を上げそうになるのを何とか堪えた。調子に乗ってはいけない。慎ましく謙虚に淑やかに、勝利が転がり込むのを待たなければ。
「旦那様、エイリャンもこう言っていることですし」
「んん!」
第二夫人にチラリと視線を送られ、エスメラルダは小さく咳払いをして突き上げそうになった拳をそっと下げた。
「いいではないですか」
「ナナンがそう言うなら、仕方がないか」
「やった!」
今度こそエスメラルダは飛びはねるのを抑えきれなかった。ついでに第五夫人直伝の喜びの踊りも披露しておく。こういう時こそ踊っておくべきだ。喜ぶエスメラルダに、夫は眉間に皺を寄せて困った顔をし、第二夫人は口元を手で押さえて上品に笑った。
*
「お出かけよーう!」
自室の扉を開け放つなり言ったエスメラルダに、無口な侍女たちは既に心得ていたとばかりに頷いた。相変わらず一切喋らないが、多少なりとも反応は返ってくるようになった。エスメラルダがしつこく話しかけ、反応を強請り、絶対に諦めなかった結果だ。
見ればエスメラルダの部屋にはいくつか箱が積み上がり、衣装部屋から服が運び込まれている。エスメラルダが夫の執務室で大騒ぎをしている間に、誰かが外出を伝えたのだろう。動きやすい衣装を中心に選ばれたそれらは、色ごとに分類されて並べられていた。
「こんなにいるかな?」
積まれた布を眺めて貴族らしからぬことを言ったエスメラルダに、侍女たちは今度はなんの反応も返さなかった。言うまでもなく要るという意味だ。王国で高位貴族をしていたくせに、妙に倹約的なことを口にするエスメラルダにはもう慣れている。
それもこれもエスメラルダの前世がけっこうな庶民だったせいなのだが、すっかり油断しているエスメラルダは漏れ出た前世に気付いていない。屋敷の中では意外と庶民派などと噂されていることも、知る由もない。
「あ、ねえ旦那様に貰った毛皮で作った手袋は入れてね。もう入ってるの? じゃあお姉さまに貰った耳飾りは? それも入ってるの、そう」
エスメラルダははやる心が抑えきれずなんとか旅の支度に関わろうとするが、有能な侍女たちは全て先回りしている。無駄な口出しをいくつかして、ついにエスメラルダは黙った。これ以上話しかけても邪魔にしかならないとさすがに察した。
暇を持て余し素早く荷造りをする侍女達の手元を眺める。ことがことなので、悠長に準備をしている暇はない。
不意に、開いたままの扉から人の頭が二つ、部屋を覗き込んだ。慣れ親しんだ気配にエスメラルダの顔がほころぶ。
「いらっしゃい、どうしたの?」
「八の母様」
「ケサトゥル、セメメティ!」
総領息子と、第二夫人の娘だ。母親の違うこの二人が連れだっていることは珍しい。
「遊びに来たの? 課題の手伝いをする?」
「セメンが…」
「セメメティ。私にご用事?」
リン帝国の風習における愛称は、王国のそれとは随分違う。王国では家族や友人など親密な者同士が愛称で呼び、身分が違う相手を愛称で呼ぶ事は特別な事情がない限り酷く無礼な行為となる。
対してリン帝国の愛称は、非戦闘員につけられるものだ。剣を持つ者は正式な名でのみ呼ばれ、剣を持たない者は愛称で呼ばれる。武を貴ぶリン帝国らしい風習だ。
非戦闘員を愛称で呼ぶ風習といえど、面識のない相手を愛称で呼ぶことは滅多にない。しかし暇なエスメラルダは常日頃から屋敷内をウロつきすれ違う武官や文官にも身分を問わず話しかけるので、家族だけでなく武官や文官からもエイリャンと呼ばれる。
対照的にほとんど部屋に籠もりきりの第七夫人を愛称で呼ぶのは夫とエスメラルダくらいだ。第七夫人は誰より強大な力を持っているが、剣は持たないので非戦闘員に数えられる。こと戦闘においては、リン帝国は融通が利かない。
唯一の例外は、親子の間でだけは愛称で呼ばないということだ。だからエスメラルダもセメメティのことをセメンとは呼ばない。エスメラルダには難解な風習だが、間違えても叱られるわけではない。なにせエスメラルダはこの国で最も身分の高い男の第八夫人なので、多少の暴虐は許される。
「八の母様、わたし…」
セメメティは言葉を切り、不安そうに隣に立つ兄を見上げた。総領息子は困ったように妹と義理の母親を交互に見た。
「部屋の外で困っているみたいだったから一緒に来たんですが」
「どうしたのよーう。おいで、セメメティ」
エスメラルダが近寄って手を繋げば、セメメティはいくらか緊張を解いたようだった。セメメティは子供達の中では年長で、幼い弟妹の面倒を見ることが多い。子供達と遊ぶエスメラルダとも毎日のように顔を合わせている。解けない課題を手伝ってとエスメラルダに頼みに来たりもするので、今更緊張するような仲ではないはずだ。
エスメラルダは長椅子までセメメティの手を引き、隣に座らせた。その反対隣に総領息子が座る。
「あの、八の母様が、おかあさまと一緒に西の氏族の所に行くって聞いたの」
「あ! もしかしてセメメティとケサトゥルも行くの?」
「僕は行きたかったんですけど、母上が駄目だと。セメンも許可されませんでしたよ」
血なまぐさいことをしに行くのだ、さもありなん。総領息子の初陣を飾るにしても、第二夫人の実家が相手では華々しいとは言いがたい。余計なケチが付かないように、今回は子供たちは全員留守番を言いつけられたのだろう。
第二夫人からのよしよしチャンスを一つも逃したくなくて無理矢理同行するエスメラルダが異常なのだ。
「ざんねーん。じゃあお土産を期待してて。セメメティはおじいさまにお手紙とか書く?」
「ううん、そうじゃなくて」
はて、とエスメラルダは首を傾げた。セメメティは第二夫人の娘だけあって顔がよく似ている。しかし中身はというと、似ている所を探す方が難しい。大人しく真面目と言えば聞こえがいいが、要は目立つところがこれといってないのだ。
第二夫人と一緒にいる所もあまり見ない。きっとエスメラルダの方がよほど第二夫人と会話をしているだろう。
「どうしたの、セメメティ」
エスメラルダはできる限り優しい声で少女に語りかけた。王国から遠く離れたリン帝国でついに思いやりを身につけたエスメラルダだ。それくらいわけない。
セメメティは膝の先を見つめながら、口を開いた。
「おかあさま、遠くから帰ってきたばかりだから」
「心配?」
セメメティは小さく頷いた。
「じゃあ八の母様が、セメメティのお母様が怪我したりしないように気をつけておくわ」
「本当?」
「私が嘘ついたことある?」
セメメティは何とも言えない曖昧な、無理に作ったと分かる顔でうっすら微笑んだ。嘘はついてないけど信用に足る言動を日頃からしているかというと、という気持ちが痛いほど伝わってくる。それを伝えるのは失礼にあたるので、何とか絞り出した笑顔だった。セメメティの向こうで総領息子も似たような顔をしていた。よく出来た子供たちだ。
自覚がないわけでもないので、エスメラルダは大きく頷くことで誤魔化した。
「大丈夫! 私に任せて!」
「うん…」
結局、セメメティはいまいち安心しきれないが他に頼る人もいないし、という顔で兄である総領息子に促され部屋を出て行った。
子供達からの篤い信頼は今後の課題として、エスメラルダは天井を見上げる。細工の施された天井も、窓枠も、小まめに手入れされているので埃一つない。セメメティが来ている間も準備の手を止めなかった侍女たちのたてる音を聞きながら、エスメラルダは誰に言うともなしに呟いた。
「なんか、親子って難しいね」
もちろん返事はなかった。
*
推し。
エスメラルダの脳裏に唐突に一つの単語が過った。推し。そう、推し活。同時におぼろげに記憶が蘇る。なんか団扇とか、振っていたような……? なんか顔が印刷された紙とか、集めていたような……?
なんかすごい、楽しかったような……?
「エイリャン、あんたどうしたんだい」
「メロついていますわ!」
「メロ?」
明らかに様子がおかしいエスメラルダに、第一夫人が話しかける。出発の朝である。今更体調が悪いなどと言ってもずらせる予定ではない。
エスメラルダは訝しげな顔をする第一夫人に構うことなく、推しの新規絵を目に焼き付けるべく身を乗り出した。ふわっとした前世の記憶がふわっと蘇る。初めて前世の記憶が役に立つかもしれない。
第二夫人は軍装に身を包み、凜々しく立っていた。後光が差して見える。少なくともエスメラルダには後光が見えた。この世界で後光と言ったところで通じる相手は誰一人いない。
「最高…。ありがとうございます。ありがとうございます」
「何してるんだい、あんたは…」
手を合わせて第二夫人を拝むエスメラルダに、隣にいる第一夫人は眉を顰めて身を引いた。明らかに前世の宗教観が出ている。つまり、この世界では見慣れない動きだ。王国なら魔物に憑り付かれたと騒ぎになりかねない。
なんと王国、陰湿で執念深いだけでなく排他的でもある。良いところが本当に少ない。だからこそエスメラルダは上手いことやって聖女様を異端審問直前まで追い込めたのだが。
「体調が悪いのかい?」
「全然。全然すこぶる元気。かつてないほど元気」
「具合が悪いなら今からでも出発を取りやめて…」
「絶対行く! 絶対!」
「はあ…」
エスメラルダの同行には当初から反対の立場だった第一夫人だ。しかも理由は「あの子が着いていって何が出来るのか」という至極まっとうなもの。「体調が優れないなら行くのはやめておきな」の一言で外出許可が取り消されかねない。
エスメラルダは必死に殆どない力こぶを作って元気さを見せようとした。
「大丈夫だから!」
「それならいいけどねぇ」
「エリャエリャ、われらの妹」
背後からかけられた声に、エスメラルダが振り返った。八人いる夫人の内三人が出るとあって、第七夫人を除く他の夫人は全員見送りに来ている。
話しかけてきたのは呪い師である第三夫人だ。
「三の姉様!」
「行っておいで帰っておいで、かわいい妹われらの妹」
「お土産楽しみにしててね」
呑気なエスメラルダの言葉に、隣で第一夫人が大きなため息を吐いた。最近第一夫人はため息が多い。
第三夫人は満足そうににんまりと笑って頷く。前髪が長すぎて、目は見えない。
「われらの妹、お前の道中は穏やか、平穏、無事に終わる」
「未来を見たの?」
「見たとも知ったとも」
「三の姉様が言うなら絶対ね」
エスメラルダはふふんと自慢げに第一夫人を見た。結局第一夫人が最後にはエスメラルダの同行を許可したのも、この第三夫人の未来視があったからだろう。第三夫人が平穏無事に終わると言うなら、そうなるのだ。それが未来を垣間見る呪い師というものだ。
「ただ」
第三夫人が続けた言葉に、エスメラルダは首を傾げた。呪い師の見る未来は絶対で、注釈がつくことは極めて珍しい。
黙って言葉を待つエスメラルダに、第三夫人はいつも猫背な長身をさらに屈めてエスメラルダに顔を寄せた。長い前髪から垣間見える真っ暗な目が、エスメラルダを捉える。
「それは失敗するよ」
全ての物音が消えた。エスメラルダは鼓動まで止まったように感じた。
一瞬の後、すぐ近くにいた馬が嘶く。唐突に消えて、そしてまた唐突に戻ってきた音にエスメラルダの心臓が早鐘を打つ。
「えっ」
咄嗟に出た言葉に、第三夫人は返事をしない。またにんまりと笑って、近付いていた顔を遠ざける。
「えっ、どれ? それってどれ?」
「元気に楽しく行っておいで、かわいい妹」
「待って本当にどれ?」
「帰りを着くのを楽しみにしているよ」
伸ばしたエスメラルダの手をするりと避けて、第三夫人は去って行った。出立の朝の呪い師は忙しいのだ。エスメラルダとだけ遊んでいるわけにはいかない。
「あんた、今度は何を企んでるんだい」
「分かんない…。本当に分かんない…」
残ったのは猜疑に溢れた第一夫人の視線だけ。まだやってもいないことで疑いをかけられるのは納得がいかない。首を振って否定するエスメラルダを、第一夫人はそれでも信用ならないという顔で上から下まで見た。
既に出立の準備は整っている。子供達には昨日のうちに挨拶を済ませた。エスメラルダは子供達が寂しがって泣くのではないかと心配したが、子供達は実にあっさりとしたものだった。総領息子など「あんまり我が儘言っちゃだめですよ」などと賢しげに言ってきたくらいだ。
第七夫人には今朝の早くに部屋に呼ばれ、やたら大げさな宝石のついた帝国風の首飾りを渡された。「妹が戦地へ赴くのを見送ることしかできないわたくしのなんと哀れなことか…。砕くと周囲一帯を全て凍らせますからね。肌身離さず身につけなさい」というのが説明だ。第七夫人が全てと言うなら本当に全てなので、恐らく味方も凍らせてしまうだろう。使いどころがかなり限定されたお守りだが、エスメラルダはしっかりと服の下に身につけている。
「さ、出発の時間だよ」
第一夫人がそっとエスメラルダの背を押す。屋敷の前の広場には数千にも及ぶ兵が並び、旗が風に靡いている。この人数で、これから第二夫人の故郷である西の氏族が治める地まで行軍するのだ。先頭には第四夫人が立つ。
エスメラルダは楚々として第四夫人の隣に並んだ。第四夫人はエスメラルダを見て無言で頷いた。
エスメラルダの計算では、西までは二月はかかる。大軍を率いるのだから、状況によってはさらにかかるだろう。それだけの時間夫と離れるのは寂しいが、推しの第二夫人と甘やかしてくれる第四夫人との旅路は楽しいに違いない。
「四の姉様、あのね」
「ん?」
「旅は長いでしょ? 遊戯盤を馬車に積んだから夜になったら三人でしましょ。あとね、楽器も持ったから練習したのを聞いてね」
浮かれきっているのを隠しもせずに、エスメラルダは第四夫人に小声で話しかけた。設けられた演説台では夫が兵を鼓舞するための演説をしている。隣には軍装の第二夫人と、正装をした第一夫人が立つ。エスメラルダと第四夫人は兵達の先頭に立っているので、ちょうど向かい合う形だ。
第四夫人はエスメラルダの言葉を反芻するように一瞬黙り込み、そして困ったように首を傾げた。
「あー、まさかエイリャン、知らないのかな?」
「え、なにを?」
「知ってるから着いてくると言い張ってるもんだとばかり…ううん、私がここで言っていいものかな…。いやでも期待させるのもな…」
第四夫人はブツブツと呟いて、チラリと壇上を見上げた。演説は佳境に入り、広場にも熱気が渦巻くようだ。その中でお喋りに興じるエスメラルダと第四夫人だけが異質だった。
「ねえ、なんのこと」
「すぐに分かるよ」
「えー、なによーう」
「その喋り方やめなさいって、六の姫様に言われてただろ」
「知らないもん」
第四夫人はそれきり、前を向いてエスメラルダに構ってくれなくなった。エスメラルダは不貞腐れるしかない。
ふと、エスメラルダの鼻を繊細な香りがくすぐった。いつの間にかすぐ隣に第二夫人がいる。演説は終わり、出立の時間となったのだ。
「お前達、遊んでいるのが上からよくよく見えましてよ」
「ごめんなさーい」
「ほら、始まるよ」
第二夫人に甘えようとしたエスメラルダを、第四夫人の声が制止する。
なにが、と聞くより早く、足下が光った。
「えっ」
「立っていれば大丈夫ですわよ」
「腕に捕まってもいいよ」
「えっ、なに、なに?」
広場全体が光り、兵と、エスメラルダ達を囲むように光の壁が立ち上がる。その壁の向こうで、何かを高らかに叫ぶ第三夫人の声が聞こえた。そんな大きい声出せるんだ、と思った瞬間にエスメラルダの視界は塗りつぶされ、次に目を開いた時には目の前に草原が広がっていた。
「本当になんなの…」
隣からは第四夫人の含み笑いが聞こえた。
3.
つまり、第三夫人の秘術らしい。正確には、第三夫人の出身である呪い師の秘境に伝わる秘術。
リン帝国の祖は、現在の都を築いたオアシスより北方で興った。北方の秘境に居を構える呪い師とは、親戚のような関係だったと歴史書は語る。それは後世の創作だとしても、同盟といえる関係にあったのは間違いない。
長い年月の間に秘境はリン帝国の一部となり、呪い師は国のために秘術を使った。馬による機動力と、呪い師による転移を使って、リン帝国は現在のように広大な地を治めるに至ったのだ。
現在においても、リン帝国で呪い師は尊敬される立場だ。急遽後継者となった王が地盤を固めるために第三夫人を呪い師から求めるという事実が、それを物語っている。
「チートじゃん」
こんな所にもチートが。エスメラルダは自分には与えられなかったチートを思って少しだけ絶望しそうになった。あっちこっちにあるチートが転生者の自分には与えられないのはなぜ。
「本当に知らなかったとは」
「ほほ」
第二夫人は笑いながら二人の傍を離れ、整然と並ぶ兵の方へと歩いて行った。今回の遠征の指揮は第二夫人が執る。エスメラルダとそう長々とは遊んでいられない。それを見送り、第四夫人は少しだけ目を細めてエスメラルダを見た。
「お泊まり会はまた今度だね」
「失敗するってそういう…」
エスメラルダの脳裏につい先ほど言われた第三夫人の言葉が蘇る。秘術の準備を整える呪い師が、それを中断してまで伝えに来たのだから何か重大なことだと思っていたのに。まさかお泊まり会の失敗だとは。
エスメラルダはがっかりした顔を隠しもせずに、口を尖らせて第四夫人を睨んだ。
「でも、転移なんてそんな高等魔術、しかも大人数でなんて! そんなの聞いたことない!」
「そりゃそうさ、秘術だもの」
「こんな大規模な…」
エスメラルダはふと言葉を切った。秘密は漏れるものだ。どんなに巧妙に隠しても、どんなに嘘を吐いても、誰にも言わなくても必ず漏れる。エスメラルダはそれをよく知っている。
エスメラルダは故郷の王国で最高の教育を受けた。そのエスメラルダが、遠く荒野が隔てるとはいえ隣国が持つ高等魔術を知らないなどということはあり得ない。
大人数の転移が可能だと知っていれば、王国はリン帝国を蛮族などと呼ぶはずがない。噂程度であっても真偽を確かめただろう。そうすればリン帝国の強大さを知り、国交を求めたはずだ。
皺が寄ったエスメラルダの眉間を、第四夫人の指が突いた。
「だからこその秘術だよ、エイリャン」
「漏れないってこと?」
「草原に生きる者以外には認識できないようになってるんだってさ」
「ちょっとそれって…すごすぎなーい?」
都合が良すぎるとも言う。第四夫人は肩を竦めただけだった。そういうものとして受け入れるしかないらしい。エスメラルダはいつも猫背で不気味に笑う第三夫人が、屋敷の一人残らずに尊重されている理由の一端を知った。
未来を見るからだけではない。この国の根幹を握っているから、呪い師は尊ばれるのだ。
「でもでも、こんな大魔術使うなら絶対に魔力が足りなくなるでしょ」
「呪い師の秘術は魔術とは別物だからね。たしか、地下に流れている秘術の力の元の上に転移陣を敷いていて、各地にいる呪い師がその流れを整えてるとか」
草原で生まれ育った第四夫人といえど、呪い師の力については知らないことの方が多いらしい。第四夫人の説明はぼんやりとしていて歯切れも悪い。
エスメラルダは真面目くさった顔で頷いた。地下の資源って使い続けると大体ろくなことにならなくない? とエスメラルダの脳の片隅で前世の記憶が呟くのは気付かないふりをする。そうだったとして、エスメラルダ一人で何ができるでもなし。
「西の氏族の屋敷は少し遠いけど、今回の目的地はそこまで遠くない。もしかしたら今日中にでも帰れるかもしれないよ」
「もうちょっとゆっくりしなーい?」
「といっても、兵達だって出来たら家で寝たいだろうしね」
出張が日帰りで済むならそれに越したことはないのはそれはそう。エスメラルダの脳内に居座る小市民な前世が同意するものだから、強く言えない。
子供達はこの転移陣を使用することを知っていたのだ。だから別れの挨拶が淡泊だった。大人数での遠征なんて無限にお金がかかるのにやけにあっさりと決まった理由も、主人を残して大将軍が遠征に同行した理由も分かった。長くて数日だと知っていたからだ。
屋敷の全ての扉を開けることを許されているというのに、転移陣については今この瞬間まで一切知らされることはなかった。きっとまだエスメラルダの知らない事が、草原には眠っているのだろう。
「さ、行くよ」
第四夫人がそっとエスメラルダの手を取る。幼い子供のように手を引かれて馬車へ連れて行かれながら、エスメラルダは繋いだ手を揺らした。結局一人では馬に乗れないままのエスメラルダのために、馬車も用意されている。
「ねーえ、他に私が知らない秘密はなーに?」
「さて、なんだろう」
少なくとも、かなり重大な秘密であろう転移陣をついに知らされたのだ。他の秘密だってそう待たずに知ることが出来るだろう。エスメラルダは大人しく、その日を楽しみに待つだけだ。
*
本当に三日で終わった。本当に三日で終わったので、エスメラルダはもうぼんやりと空を見上げるしかなかった。へえ、戦って三日で終わることあるんだ。いやでも半日で終わったのがあったようななかったような。あれって前世だっけ? 記憶がうっすらしてるなら前世か…。
本当は夜になったら三人で焚き火を囲んでお菓子パーティーをしたかったし、並んでくっついて寝たかったし、練習した楽器を聞いて欲しかったし、盤上遊戯で第二夫人に負けてわざとらしく悔しがりたかったし、第四夫人にちょっと剣の振り方とか教えて欲しかった。
しかし敵陣を前にしてそんなことが出来るわけがない。遠足気分でくっついてきたエスメラルダと違い、二人はちゃんと戦をしに来ている。
せめて策略とか知略でお役に、と思ったがそうもいかない。第二夫人も第四夫人も、戦に何度も出陣し実績を積んだ本職だ。ちょっと知恵が回って陰湿なだけのエスメラルダがすることなどない。
エスメラルダはこの三日、一番大きな天幕に用意された椅子に座り、第二夫人と第四夫人と、あとついでに大将軍が忙しく働くのを眺めていただけだ。第一夫人が着いていってどうすると何度も言ったのも分かる。本当にエスメラルダは何の役にもたたなかった。
ふと思い立って負傷者の手当などもしてみようとした。かつて王国でエスメラルダとやり合った聖女様は、得意の光魔法で平民や兵士の怪我を治すことで地道に支持を広げていっていたのを思い出したからだ。
あの女、当時は善人ぶってと苦々しく思っていたが、今になれば分かる。本当に善人だった。エスメラルダの前世の記憶に照らし合わせたところによると、ちょっと空気が読めなくて、ふにゃふにゃした変な喋り方をして、感情が表に出やすい、よく泣くだけの、王国で生まれ王国で育った王国の価値観を持つ善人だ。
しかし善人だったとしても特にエスメラルダの心は痛まない。エスメラルダと聖女様は力の限りぶつかり、全力でやりあい、そしてエスメラルダが勝っただけのことだ。
善人だと分かったからこそ聖女様の真似をしてみようと思ったのだが、なんと味方に損害はないらしい。
いくらなんでもそんなこと、と思ったが、それも第三夫人のおかげだそうだ。三日かかったと言っても最初の一日は準備、次の日は午前は睨み合いで、実際に戦闘になったのは午後の数時間だけ。三日目は後始末だった。その数時間だけ肉体に傷をつけないだけならば、呪い師にとってはその程度わけないのだという。完全なチートだし、完全なご都合主義だし、完全な主人公だ。
エスメラルダは屋敷に戻ったら第三夫人を捕まえて「もしかして前世の記憶とかありますか?」と聞くことを決めた。どう考えてもエスメラルダよりも主人公している。
だがエスメラルダは落ち込まない。前世の記憶程度でチートも持たないくせに主人公だと浮かれた自分が悪い。ちょっと聖女様を追い込むのが成功したからって調子に乗ってはいけなかった。
エスメラルダにはもう新たな目標が出来たのだ。それを考えれば、自分が主人公でないことくらいどうでもよかった。
「困ったな」
「どうしたの? 四の姉様」
片がついたなら後はもう帰還するだけだが、西を担当する呪い師と話していた第四夫人がため息を吐きながら戻ってきた。
「どうにもね、急な出陣だったから戻りの転送陣の調子が悪いらしい。あと三、四日はここに足止めだ」
「あら!」
「エイリャン、なんか嬉しそうだね」
「まあ嫌だわうふふ、そんなことないわよーう」
エスメラルダのわざとらしい笑いに、第四夫人は片方の眉を上げたが追求はしなかった。ちゃんと仕事をしにここに来ている第四夫人は、忙しいのだ。
エスメラルダがチートだチートだと言いがかりをつける呪い師の秘術も万能ではない。何千人もを転移させるとなると何年もの準備が必要になる。今回は有事に備えて準備されていた分を使用しているが、なにせ急なことだったものだから帰りの分の整備が間に合わなかったらしい。
第二夫人に伝えるために足早に去る第四夫人に手を振りながら、エスメラルダはほくそ笑んだ。
戦の中の第二夫人はそれはもう格好良かった。エスメラルダは団扇を作ってこなかったことを本当に後悔した。あれほど事前の準備が大事だと思い知ったというのに、またもや準備不足に泣くことになろうとは。
もちろん第四夫人も格好良かった。うっすらと笑みを浮かべて最前線でバッタバッタと敵を倒す様は、王国で絵姿が出回るのも伊達ではない。
だがそれよりも、軍装に身を包み指示を下す第二夫人がとにかく格好良かった。永遠に眺めていたかった。どうにかこう、十二分の一くらいの大きさで平らな板に姿を写し取って部屋に飾ったりできないものか。
だから、エスメラルダは決めた。
第二夫人に大陸の覇者になってもらおう。
だって推しを天辺まで押し上げるのがファンの役目だから。
そのために、三日ないしは四日の自由時間は願ったり叶ったりだ。エスメラルダとて学んでいる。第二夫人を大陸の覇者にするには、屋敷に戻ってから準備を始めたのでは邪魔が多い。恐らく、確実に、間違いなく、叱られる。誰にって、第一夫人に。
第一夫人はエスメラルダを甘やかさない。エスメラルダが何かを企んでいると察知した瞬間に内容を把握しにくるだろうし、内容を把握したら間違いなく止められる。
だからそう、西の草原にいるこの数日間で全ての準備を整えなくては。
幸いなことに、エスメラルダは短期間での計画も、短時間での謀略も得意中の得意だ。かつて王国でしのぎを削った平民上がりの聖女様は、時に唐突に予定変更を思い立った。エスメラルダはその度に練りに練って夜を徹して用意した罠や策略を大急ぎで回収し変更された予定に沿って修正したものだ。無論、全て一人で。誰一人信用しなかったのもまた、エスメラルダの敗因の一つである。
「んふふ、任せて」
一人でにやにやするエスメラルダに、天幕の下にいた武官が呆れたような顔をした。
*
「ちょっと! ちょっとだけじゃなーい!」
「駄目に決まっているでしょう!」
「何のためにその腕を磨いたの!」
「決してこのようなことの為では…!」
「その特技をここで活かさないでどうするの!」
「しかし…」
エスメラルダは習得した口喧嘩の腕を遺憾なく発揮し、目の前の巨漢に詰め寄った。詰め寄られた巨漢、もとい大将軍はといえば、心底困ったという顔で必死に抵抗している。しかしなにせ相手はエスメラルダだ。みるみるうちに劣勢に立たされ、リン帝国の全軍を率いる大将軍ともあろう者が逃げ腰になっている。
「ちょっと軽く周辺国に戦争ふっかけるだけ!」
「なりません、王国相手に無傷で済んだことが奇跡であって…」
「奇跡くらい何度だって起こしてあげるってば!」
「うう、エイリャン様ならあるいは…」
「ね!」
「いえ! いけません! 我が王を裏切るなどとても…!」
「裏切れなんて言ってないわよーう! ちょっと手伝ってって言っただけ!」
「王にのみ忠義を誓っております!」
推しを大陸の覇者にするにはいくらエスメラルダでも一人では難しい。それに一人でやると最後の最後で油断して失敗するという前科もある。
味方が必要だ。それも出来れば、軍に顔が利く人間が。その点大将軍はうってつけだった。軍に顔が利き、エスメラルダに強く出られず、そして演技力も申し分ない。だからこうして大将軍を呼び出して説得を試みているわけだが、なかなかどうして強情で頷かない。
エスメラルダは顎に皺を寄せて大将軍を睨め上げた。大将軍はいまやか弱い乙女のように震えながら自分の肩を抱いている。まるでエスメラルダが虐めているようだ。
この大将軍、厩番の息子として生まれ、幼い頃は今の王であるエスメラルダの夫、当時は決して家を継ぐことのないと思われていた主家の三男の遊び相手として過ごした。それが剣の才能を見いだされ軍に入り、めきめきと頭角を現して大将軍まで上り詰めた人物だ。厩番の息子では本来ならばどれだけ才能があったとしても武官止まりのところ、主君の口利きによって才能を余すことなく発揮することが出来た。
恩義があっても仕えることは叶わないと諦めていた主があれよあれよという間に王になり、ついにはその右腕と呼ばれるまでになれたのだから、その忠誠は並々ならぬものがある。
エスメラルダに多少唆されたからといって、主君以外の者を大陸の覇者にする手伝いはできない。例えそれが主君の第二夫人だとしても。
「あんなに磨いた演技力を眠らせたままでいいの?」
「いいです」
「もう!」
王国とのいざこざのついでにエスメラルダによって磨かれた大将軍の演技力だが、残念なことにあれ以来日の目を見ていない。せっかくなのでここで活かそうと思って誘ったのだが、大将軍本人としては演技力は眠らせたままでいいらしい。エスメラルダに靡きそうもなかった。
これは計画を変更せざるをえないかもしれない。
大将軍が使えないとなると次点は大将軍付の補佐官となるが、影響力の低下は否めない。それこそ謀反と捉えられて投獄の危険も出てくる。あと演技力も心許ない。
エスメラルダは王国で稀代の才女と謳われた頭脳を光速で動かした。
大将軍の弱み、実家の位置、家族構成。王国生まれ王国育ち、陰湿さと執念深さと粘着さなら国一番と自負していたエスメラルダの頭脳は、大将軍との交渉材料になりそうなものを一瞬のうちに並べていく。
出来れば心証はより良い方がいいので投獄はなし、没落もなし、であるならば…。
殆ど計算を終えて、エスメラルダは瞳をかっと見開いた。真正面から見てしまった大将軍が肩を揺らす。
「では!」
「な、なにを…」
「随分楽しそうなことを、しておりますのね」
「あっ」
「ひっ」
遮ったのは、今まさにエスメラルダが大陸の覇者への一歩を勝手に踏み出させようとしている第二夫人の声だった。勿論可愛らしい引き攣った悲鳴を上げたのは大将軍だ。
エスメラルダと大将軍がこそこそと連れだって密談をしていた天幕の入り口には、いつものうっすらとした、目の奥の見えない笑みを浮かべた第二夫人が立っていた。
エスメラルダは咄嗟に隣の大将軍を見上げた。勢いよく向けられた顔に、大将軍は必死に首を振る。密告者は大将軍ではないらしい。
周囲を見渡そうとしたエスメラルダの視線を遮るように、第二夫人が一歩前に出た。
「二の姉様、ご機嫌麗しゅう」
「ええ、悲願を果たしましたもの」
「まあ素敵、お祝いをしなくては」
「その為の内緒話なら良かったのですけれど」
咄嗟に口を突いて出た王国宮廷言葉はさらりと流された。結局エスメラルダは王国人なので、追い詰められると王国のやり方で逃げようとしてしまう。しかしここはどこまでも続く草原を国土とするリン帝国で、獲物は一撃で仕留めることが美学だ。のらりくらりと逃げさせてはくれない。
「嫌だわ二の姉様たら、まるで私と大将軍がよくない企みをしているような言い方。ねえ、大将軍。ねえったら!」
「ナナン様、エイリャン様は大陸を制するご計画を」
「あっ!」
「まあエイリャン、大陸を旦那様に?」
「いえ、ナナン様、あなたに」
「私?」
「ちょっと!」
エスメラルダの目は光速で大将軍と第二夫人の顔を行き来した。屈辱だ。こんな辱め、耐えられそうにない。奥歯を噛み締めるが、喉の奥が乾いて痛み、張り付いたまま声を出せない。
これが本当に悔しくて泣きそうという感情なのだと、エスメラルダには分からなかった。人生で一度も泣いたことがないからだ。泣くことにも種類があるのだと知らない。
エスメラルダはただ、こっそり大陸を制覇して、ある日夫人にじゃじゃーんとプレゼントしてたかったのに、きっと喜ぶだろうな、驚くだろうな、褒めてくれるかな、と思っていたのに。王国人が滅多に持ち合わせない献身をここに来て独力で身につけたのに。なのに勝手にバラされるなんて。
エスメラルダは歯を食いしばって、隣に立つ大将軍の脇腹を拳で殴った。ぽこんと間抜けな音がしただけで、大将軍は痛がる素振りも見せなかった。エスメラルダの手は痛んだ。
しかし、絶望するエスメラルダの耳に届いたのは鈴のような笑い声だった。
「エイリャン、お前、なんてこと」
第二夫人は笑っていた。頬を染めて、面白くて仕方がないという顔で、口元を手で覆っている。
「二の姉様…」
「エイリャン、私を大陸の覇者にしてくれるの?」
「してあげる! なんだってしてあげる!」
前のめりになって言い切るエスメラルダに、第二夫人はまた楽しそうに笑った。
エスメラルダは何としてもこの大陸をこの美しい人に捧げようと決めた。だってきっと全ての頂点に立つために第二夫人は生まれてきたのだから。つまりそう、推しを天辺に押し上げるのはオタクの役目だから。
第二夫人さえ味方になってくれるなら、大将軍の演技力をあてにする必要はない。エスメラルダの脳内には輝かしい未来図がいくつも踊った。
「じゃあね、じゃあね」
「失礼致します! マナナシ様!」
またしても邪魔が。エスメラルダは天幕の入り口を睨んだ。一人の兵士が息を切らせて立っている。汗をかいている様子からして、第二夫人を探して随分走り回ったようだ。
エスメラルダは口を開いた。そして、そのまま閉じた。盛り上がったついでに王国気分で少々嫌味を言ってやろうとしたのだが、今自分がどこにいるかを思い出したからだ。危ない、ついつい「お前この私の邪魔をするなんて随分と身分のある者のようね、名を名乗りなさい」とか言ってしまうところだった。エスメラルダったらうっかりさん。
慎ましく口を閉じて立つエスメラルダに気付くことなく、笑いを引っ込めた第二夫人が鋭く兵士を見た。大将軍もいつの間にか第二夫人の横に並んでいる。
「どうしましたの」
「は、西の氏族の族長が面会したいと」
「そのような予定はなかったはずですけれど」
「既にいらしておいでです」
西の氏族の族長は第二夫人の父親だ。セメメティの祖父になる。今回の遠征では第二夫人の叔父、つまり族長の弟と対峙した。それはもう捕えて、縛り上げた上で閉じ込め兵士が見張りに立っている。
連れ帰った先で、捕えられた者達がどうなるのかはエスメラルダは知らない。想像はつくが、その先について誰もエスメラルダに知らせようとしないならば、知らないでいて欲しいということだ。ならば興味を持たないのがエスメラルダなりの礼儀だった。
「どこに」
「間もなく…」
「マナナシ!」
兵士の言葉は大音声で掻き消された。大将軍が一歩、前に出る。
第二夫人を愛称ではなく本名で呼んだ。ならば許可なく天幕に入り込んだ無礼な男が、第二夫人の父である西の氏族の族長なのだろう。
エスメラルダは目を眇め、礼すら取る素振りを見せない男を上から下まで見た。顔は第二夫人に似ている。セメメティの面影も見いだすことが出来る。服装はどちらかと言えば質素、つい数日前に対峙したこの男の弟の方が余程華美な服装をしていた。軍師を排出する家系らしく、武人と言うより文官に近い服装をしているところも、弟とは反対だ。
しかし第二夫人の言葉を聞こうとしない態度は、兄弟揃ってそっくり同じだった。
「お前、なんということをしてくれた!」
「お父様、お久しゅうございます」
「自分が何をしたか分かっているのか!」
「そのように興奮なさらずとも。お前、茶を」
「答えろ、マナナシ!」
興奮する男は第二夫人に一歩ずつ近寄ってくる。それに合わせて大将軍の手が剣にかかった。
エスメラルダが大将軍を密談のために呼び出した天幕は小さめのものだったので、既に天幕の中は人で狭く感じる。
入り口の外では、男が連れて来た手勢とは第四夫人が向き合っているのが見えた。
「あやつは謀反を企てました。血族といえど、許されるものではない」
「お前の叔父だろう!」
「私は、王の第二夫人でしてよ」
ついに、男の手が第二夫人に伸びた。
男が第二夫人に触れるより早く大将軍が剣を抜き、男が地に伏せ、その首に剣がかかるのをエスメラルダは息を押し殺して見ていた。第二夫人の冷え切った表情も、握られた手も、余すところなく。
「外は制圧したよ」
第四夫人が入り口から顔を覗かせ朗らかに告げるまで、喋る者はいなかった。
4.
そしてまた退屈の始まりである。
少々興奮気味、というだけの理由で西の氏族長を牢に叩き込むわけにもいかない。今現在は話し合いの場を設けるのをお待ちいただいている。西の氏族長が連れてきた男達は容赦なく繋がれているが。
帰還を待つばかりで気が緩んでいた兵達は、可哀想に慌ただしく走り回っている。
その中でエスメラルダの仕事といえば、何もない。本当に何もない。大人しくしていることが仕事といってもいい。
第二夫人は言わずもがな、第四夫人も忙しくしている中で焚き火を囲んで歌を歌おうとは言い出せず、エスメラルダは持ってきた弦楽器を一人で寂しくつま弾いた。
という、演技をした。
エスメラルダは忙しいのだ。第二夫人本人が大陸の覇者に君臨することに乗り気になってくれた今、暗殺者だの内輪揉めだのにかかずらっている暇はない。
脳内で大陸の地図を矯めつ眇めつし、どこから攻め込むかの計画をずっと立てている。
北の大陸、第七夫人の故郷は後回しだ。怒り狂った第七夫人の魔術一つで計画はご破算となる。王国も後回し。いつでもやれる。ならば更に西方の大国を狙うのが手堅いか。ここから近く、西の氏族の存続すら危うくなった今言い訳は立つ。西方の大国は女王が好色なことで知られている。女王のハレムにいる亡国の貴族にも何人か心当たりがある。それらを唆す言葉にも心当たりがある。いやそれよりも港湾都市を抑えれば大運河が手に入る。しかし港湾都市の民はその大半が水中で生活をしており、地上に引きずり出すのに時間がかかる。犠牲は出さないと大将軍に約束してしまった。それならば…。
思考は止まることがない。端から見れば、エスメラルダは期待が外れて落ち込んでいるようにしか見えないだろう。ここに第一夫人でもいれば「静かすぎて怪しい」と言っただろうが、幸いなことにいない。
「あのう、エスメラルダ様」
ふと、声が掛かった。弾かれたように顔を上げたエスメラルダの前に、見覚えのない女が立つ。声を掛けられるまで存在にすら気付かなかった。酷く気配が薄い。
護衛の武官が止めなかったのならば危険な相手ではないと分かっていながらも、エスメラルダは少々の警戒を持って返事をした。
「どなたかしら」
「ああ、ええと、はい、王の妻、同胞の妹。はじめて会うね来たね、呪い師は好き?」
「もしかして、西の担当の?」
「そうよ正解よ、退屈してるお姫様。呪い師があそんであげようね」
女は、西の転移陣を守る呪い師だった。よく見れば、その衣服には第三夫人と似た意匠の刺繍が施されている。喋り方も秘境の民特有のものだ。
エスメラルダは途端にはしゃいで、隣の椅子を指し示した。
「座ってちょうだーい! 三の姉様もよく遊んでくれるのよ」
「第三夫人、われらの私の同胞、あの忌々しき変人…。仲良くたのしくしてるのね」
「ええ! 呪い師の話をしてくれるの?」
「してあげよう教えてあげようね。何が知りたい?」
聞けばエスメラルダが呪い師の秘術に興味を持っているのを見て、第四夫人が頼んでくれたという。既に西の転移陣の調整は済んでおり、手が空いているらしい。
エスメラルダにははっきりと分かった。西の呪い師はお目付役だ。今まで呪い師は皆第三夫人のように猫背で、髪で顔を隠し、ぶつぶつと喋るものだと思ってきた。しかし西の呪い師は服装と喋り方こそ第三夫人に似ているが、背筋は伸びているし顔も見える。はきはきと喋る様子からは常識的な人柄が伝わってくる。
第一夫人さえいなければ誰もエスメラルダが虎視眈々と推し進める計画に注意を払わないだろうと思っていたが、少々甘かったようだ。完全に、放っておくと余計なことをすると思われている。
「西の氏族長はどんな感じ?」
「黙り込んで座り込んでなにも言わないね。西は人が減るのが我慢ならないんだよ」
「でも、二の姉様がいれば安泰じゃない」
「西の氏族長はあの男は娘が強く賢いことを認められない。息子を我が子を愛していたからね」
「二の姉様よりも?」
「どちらも愛していた慈しんでいた。ただ、思ったようにならなかっただけさ」
「うーん、そうかな?」
「ままならないね、親子は家族は」
エスメラルダはたった数日前に自分が似たようなことを呟いたのを思い出した。あれはそう、第二夫人の娘であるセメメティと話をした後だ。
エスメラルダはそこで大事なことを思い出して、「あ」と小さく声を上げた。西の呪い師が素早く視線でエスメラルダの上から下までを確認する。監視役だと思ったが、護衛を兼ねているのかもしれない。
「ね、西の氏族長のところに行きましょ」
「なぜねどうしてね、お姫様。ここで呪い師と秘境の民とお話していようよ」
西の呪い師が、少しだけ早口になってエスメラルダを引き留めた。だからエスメラルダは、動きを止めて西の呪い師を見つめた。薄い色の瞳孔に捉えられ、西の呪い師が居心地悪そうに身動ぐ。まるで後ろめたそうに。ばつが悪そうに。
エスメラルダは直感した。これはつまり。
「今、私に内緒で楽しいことしてるのね?」
「いえエスメラルダ様」
「なによーう。私たちの仲じゃない。エイリャンって呼んで」
「エイリャン様」
「さ、行きましょ」
エスメラルダは全ての扉を開くことを許可されている。それは屋敷の中に留まらず、遠征先の天幕もその限りではない。
だから、意気揚々と第二夫人の天幕に向かうエスメラルダを止められる者など誰もいなかった。
*
「来たわ!」
「申し訳ございませ…」
「私が無理矢理連れてきたわ!」
エスメラルダはいずれ国を動かす立場になることを見据えて教育された女なので、己の行動の責任はきちんと取る。自分の行動に付き合わせた配下に全ての責任を押しつけたりはしない。そんなことをしていては復讐第一主義の王国では真っ先に復讐されるからだ。
第二夫人の天幕では、案の定第二夫人と西の氏族長が机を挟み向き合っていた。第二夫人の後ろには第四夫人と大将軍もいる。つまり、この遠征の主要人物は全員だ。エスメラルダだけがまた仲間はずれにされていた。
エスメラルダはぐるりと見回し、にっこりと笑って机の開いた辺、第二夫人と西の氏族長の間に座った。両者を同時に見ることの出来る位置だ。
西の氏族長が、エスメラルダを睨んだ。
「なんだ、この小娘は」
「あなたより身分の高い第八夫人よ! 私は寛大だからその物言いを許してあげるけど、よそではやらない方がいいわね」
「エイリャン、良い子にするって約束だろ」
「もうこんなに良い子なのに、これ以上?」
第二夫人に視線で促された第四夫人が念のため止めようとするが、エスメラルダの言葉一つで肩を竦めて下がる。大将軍に至っては初めから諦め顔だ。
第二夫人はしばらくじっとエスメラルダを見た。睨むでもなく、叱るでもなく、ただ無感情に眺めたといってもいい。エスメラルダは行儀悪く机に肘をついて、その視線を全て無視した。
やがて第二夫人は自分の父親に向き合った。エスメラルダにかける言葉は見付けられなかったらしい。
「それで、反逆者を解放せよとはどのような意図ですの」
これはエスメラルダへの説明のようなものだろう。この場に居座るなら、精々役に立ってみよという意味だ。エスメラルダは正しくそれを汲み取って、西の氏族長の一挙手一投足を見逃さないよう目を凝らした。
西の氏族長はといえば、娘の言葉を聞くなり不快そうに眉間に皺を寄せる。
「氏族を同じくする者を投獄など、お前は気でも狂ったのか?」
「では、王の屋敷に押し入った者達を野放しにせよと?」
「そんなことは言っていない。私が責任を持つ。西に戻せと言っている」
「それは野放しと何が違いますの」
「お前は!」
西の氏族長が力の限りに机を叩く。振動がエスメラルダの行儀の悪い肘に響いた。
「父親を馬鹿にしているのか!」
「馬鹿にしているのではない。愚かさに呆れている」
わーお。エスメラルダが口だけで言ったのを、第四夫人が視線で咎めた。
二の姉様って、案外可愛いわよね。エスメラルダは心の中で呟いた。優秀で、それに見合ったプライドの高さで、誰も彼もに尊敬されている。なのに、第二夫人はいつも自分は選ばれないと思っている。
微笑んだふりをして何時だって笑っていない目の奥には諦めがある。そこがかーわいい。本人には決して言えないが。
エスメラルダは人差し指に自分の髪をくるくると巻き付けた。王国風の「あなたの話、退屈で飽きちゃった」のサインだ。もちろんこの場に通じる人はいない。
第二夫人と西の氏族長は睨み合い、大将軍は剣に手を掛け、第四夫人は無感情に場を眺めている。
「ねーえ、じゃ、こうしましょ」
膠着を破るエスメラルダの言葉には、誰も反応しなかった。そんなことはエスメラルダにはどうでもいい。だから、返事がなくとも歌うように話し続けた。
ね、法典読んだことある?
私あれ大好きで何回も読んだから、全部暗記してるの。本当よ。
屋敷内の私闘の制裁は本人は処刑、直系尊属は追放ってなってるの。そう、追放だけで良いのよ。処刑はなし。だからおじさま…二の姉様のお父様だもの、おじさまって呼ぶわね。おじさまの弟は追放しましょ。処刑はしない。約束する。ね、まずはこれでいいでしょ?
ついでに昨日拘束したおじさまの弟の部下? 配下? あれも西の氏族の人たちでしょ。あれらも一緒に追放しましょ。
追放するとしたら、そうね、荒野かな? みんな一緒の場所がいいわよね、仲良しだものね。
魔物だらけだけど、仕方ないわよね。盗賊になって商人が襲われたら困るから、街道からは離れたところにしましょ。
ところで私最近ね、魔術に興味があるの。だって見て、これ七の姉さまに貰った首飾り。砕くと周囲一帯が全部凍るんですって。やってみたくない?
あ、ちょっといやよ四の姉様、取り上げないでよいやだってば。
私、雪が一杯積もるところが見たいの。ほら、王国ってここより南にあるから、雪はちょびっとしか降らないし、滅多に積もらないじゃなーい?
ね、荒野を凍らせたら、雪が降るかもしれないでしょ。荒野に人なんていないんだから、沢山凍らせても困る人なんていないし。ね、いいでしょ?
「それはつまり、私に一族の者が氷り漬けになるのを黙って見過ごせと言っているのか?」
西の氏族長の言葉は震えていた。顔は青ざめ、目を見開いている。第二夫人も、第四夫人も、大将軍までエスメラルダの意図を図りかねるように黙って考え込んでいる。この調子ではエスメラルダの後ろにいるはずの西の呪い師も、きっと似たような顔をしているだろう。
まさか意図が伝わらないとは思わず、エスメラルダは自信満々の笑顔を引っ込めて、目をぐるりと回してみせた。
「待って、誰も分かんないの? 本当に?」
「エイリャン、説明を」
第二夫人の言葉は簡潔だった。なのでエスメラルダは、小さく肩を竦めて椅子に深く座り直した。
「まずね、おじさまは二の姉様が、屋敷で暴れた人達はともかくそうじゃない同じ氏族の人たちまで処刑するのが嫌なのよね」
「そうだ、私は…」
「うんうん。そんなことしたら、おじさまの可愛い娘は冷酷で血も涙もないって歴史に名を残しちゃうし、きっと他の氏族から悪く言われちゃうし、血みどろなんとかみたいなあだ名つけられちゃうものね。それは嫌よね」
氏族を同じくする者を手にかけるというのは、それくらい重いことだ。どのような大義名分があろうとも、感情として忌避する。それこそ王に直接剣を向けたという事実でもない限りは。
一度言葉を切ってみたが、誰も何も言わない。なのでエスメラルダは続けることにした。
「それで、二の姉様は反逆者を野放しにしておきたくないのよね。西に戻すと西の氏族は内部分裂が進むし、そしたら今度はおじさまの立場が危うくなるし。処刑が一番確実よね。ここで西に戻すなんて甘い処置をして、大好きな旦那様に忠誠を疑われたくないし」
西の氏族長と第二夫人の顔を見比べるが、やはり何も言わない。処刑をすれば冷酷と言われ、見逃せば身内に甘いと囁かれる。どちらも避けるには、生き残るのがほぼ不可能だが完全に不可能ではない荒野への追放が丁度いい。
エスメラルダは首を傾げた。説明しろと言われたから説明したのに、これは続けてもよいということだろうか。チラリと第四夫人を見れば、微笑んで頷いてくれたのでエスメラルダは更に続けた。
「だから、荒野に追放しましょ。そうしたら二の姉様は身内でも法に則って公平に裁いたって評判になるし、反逆者たちは手を汚さずに始末できるし、おじさまは安泰だし、私と七の姉様は魔術の実験が出来るし、完璧! どーお?」
誰も何も言わない。エスメラルダは困り果ててもう第四夫人に助けを求めた。第四夫人は相変わらず微笑んでいる。いつも通り、エスメラルダを甘やかす時の顔だ。そしておもむろに口を開いた。
「魔術の実験は、余計だね」
「余計じゃないわよーう!」
「その首飾りはとても貴重なものだから、実験じゃなくて本番に取っておいた方がいいよ。雪なら七の姫様に頼めばいくらでも降らせてくれるさ」
「ええ、うーん、じゃあまあいっか…」
「荒野に追放された後のことは心配しなくても大丈夫」
第四夫人はうっそりと笑う。エスメラルダは軽く眉を上げることでそれに応えた。
エスメラルダは胸元から引っ張り出していた、何度見ても大げさな宝石がついた首飾りをまたしまい込んだ。肌に当たってごつごつする。
そしてそのついでに、持ってきていた封筒を取り出した。
「そうだ、おじさま。これはセメメティからのお手紙よ。おじいさまにお会いしたいって。あとお母様はお疲れだから優しくしてあげてとも言ってたし、今度は一緒に来たいって言ってたし、お母様の子供の頃ってどんな子だったのかなとも言ってたわね」
エスメラルダは頬杖をついて、黙ったきりの第二夫人と西の氏族長を交互に見た。
「子供が心配してるから、もうちょっと良い子にできるかな?」
返事はなかった。
*
エスメラルダは第四夫人と天幕の合間に作られた広場を散歩していた。第四夫人が警戒を解いてよいと命令を出したので、すれ違う兵の雰囲気は穏やかだ。
「今回は嫌がらせは控えめなんだね」
ふいに第四夫人が言う。エスメラルダは立ち止まって半歩前を歩く第四夫人を見上げた。
「ひどーい、いつも嫌がらせしてるみたい!」
「でも好きだろう?」
「好きなんじゃないの、得意なの。それに、今はやることがあって忙しいんだもん」
「やることって?」
既に西の呪い師も大将軍も職務に戻り、エスメラルダと第四夫人の会話を聞く者はいない。エスメラルダは少し迷った。第四夫人はエスメラルダに甘い。軍にも顔が効く。第四夫人を味方に付けることができれば、エスメラルダの計画は一気に完成に近付く。あと単純に、思い付いた素晴らしい計画を披露して褒められたい。もちろん、第二夫人大陸の覇者計画だ。
迷った末に、結局エスメラルダは口を開いた。
「あのね、大陸の覇者にするのよ」
「我々の夫を?」
「いやだ、二の姉様に決まってるじゃなーい」
「なりませんわよ」
エスメラルダはゆっくりと振り返った。近付く足音には気付いていた。隣に立つ第四夫人が反応をしなかったので、気にしていなかっただけだ。
声の主である第二夫人は、ゆっくりと近付きながら微笑んだ。いつも通りの、奥の見えない微笑みだ。口元は笑っているのに、目の奥にはなんの感情もない。
「私、大陸の覇者になると一度も言っておりませんわよ」
衝撃。
「えっ」
エスメラルダは呆然と第四夫人を見た。他に助けを求める相手が思い付かなかったからだ。第四夫人は首を傾げただけだった。
「え?」
突如エスメラルダの脳裏に蘇る記憶。あれはそう、出発の朝。
第三夫人は「それは失敗するよ」と確かに言った。未来を垣間見る呪い師が、エスメラルダの目を見て。
「え…」
だから、つまり、そういうことだった。
5.
「じゃあ何のためについていったのよーう…」
「でもほら、エイリャンは大活躍だったって聞いてるよ」
夫は膝に乗せたエスメラルダを抱きしめ、甲斐甲斐しく果物をその口に運んだ。ここで決して「だから行かない方がいいって言ったのに」と言わないのが夫の優しさだ。のんびりおっとりで名を馳せただけはある。
「一つ残らず全部失敗なら、最初にそう言って欲しかった…」
ちゃんと言われていた。エスメラルダが範囲を見誤っただけだ。そんなことは分かっているので、これは負け惜しみだ。
エスメラルダは夫の胸元に顔を押しつける。泣いてはいない。エスメラルダは泣いたことがない。ただ甘えているだけだ。こうすると、夫はあわあわと手を上下させたりして、お腹が空いた熊みたいでかわゆいから。
「エイリャンのおかげで西の氏族は盤石だ。これからも助けになってくれる」
最初はエスメラルダの事を小娘などと呼んでいたのに、帰る頃には西の氏族長はエスメラルダのための土産まで用意してくれた。もちろんセメメティ宛ての手紙も預かった。
エスメラルダ達がようやく屋敷に戻れたのは、戦闘が終わって四日も経った昨日のことだ。当日に帰還するかもという予告に反して、結局七日もかかってしまった。もっとも、エスメラルダだけは往復四月を想定していたので、大幅に短縮された気分でいる。
今朝、第二夫人は傍目にも分かるほど機嫌が良かった。昨夜何か良いことがあったのは明白だ。エスメラルダはマナー違反だと分かっていながらも、好奇心を抑えきれずに夫を見上げた。だって推しのことならなんだって知りたいから。
「ね、昨日の夜は二の姉様とどんなお話したの?」
「そんなことが知りたいの?」
「ちょっとだけ!」
エスメラルダの懇願に、夫は困ったように笑った。
「話はそんなにしてないよ、ただ手を握っただけで」
「手を?」
「そう、手を」
「手を…」
「エイリャン?」
エスメラルダはそっと手を合わせた。へえ、手を。それであんなに嬉しそうに。
「ありがとうございますありがとうございます」
「エイリャン? エイリャン!」
エスメラルダは念のため、大陸の覇者計画は中止ではなく休眠とすることにした。第二夫人の気が変わったら、何時でも再始動できるように。




