最終章 分け合える喜び
ヨハンとエルゼが消えた翌日から、アベルは記録の整理に取りかかった。
百年前の飢饉、その後に起きた殺人、村で続けられてきた二人分のお供え、食卓の決まりがどのように受け継がれ、やがて男が神として扱われるようになったのか。そこへ今回調べたエルゼ・ハルトマンの生家と過去、帝国で起きた事件、エルゼが単独で人間へ干渉したこと、そして最後に親子が消えた経緯までを、確認できた順に書き直していく。
机の上には、これまで集めた資料が再び積み上がっていた。ヘンリクの記録、古い住民名簿、婚姻に関する資料、ローゼンフェルト家から借り受けた書簡の写し、軍がまとめた死亡記録、帝国でオスカーと集めた証言。それらを照らし合わせ、推測と確認できた事実を分けながら文章にしていく。
ヨハンの名前も書いた。ヨハン・ハルトマン。百年以上、どの記録にも残っていなかったその名を、アベルは殺人に関する記述の中へ置いた。生前に何人を殺したのか、すべての人数までは確定できない。死後についても、村やルーエン以外で起きた死まで含めれば正確な数は分からなかった。それでも、確認できた事件については一つずつ記載した。
母親に支配されていたことも書いた。ただし、それをヨハンの行為を免じる理由にはしなかった。エルゼが息子へ何を言い続け、どのように判断を奪っていったのか。母親が命じ、息子が実行する関係が続いていたこと。村人たちが事情を知らないままそこへ意味を加え、男を食卓を守る神として扱うようになったこと。それぞれを、確認できた事実として記録した。
エルゼについても同じだった。生家でどう扱われていたのか、夫が彼女のために家を捨てたこと、村人が飢饉の中でも食事を運んでいたこと、死後には他の死者とともに弔われていたこと。それらを本人がどう受け取り、最後には周囲のほとんどを敵とみなしたのか。息子へ自分の考えを押しつけ続けたことも、その結果として起きたことも書いた。事実以外を、記録に書き記す必要はなかった。
作業には一週間かかった。その間も、村とルーエンでは二人分のお供えが続けられていた。親子が消えた瞬間を見た者は何人もいる。それでも、本当に消滅したのかは誰にも分からない。これまでにも怪異は姿を見せないまま長く潜んでいた。たった一晩何も起きなかったからといって、百年以上続いた習慣をすぐに止める判断はできなかった。
毎日決められた時間になると、兵士が祈り所へ食事を運んだ。二人分を同じ量だけ並べる。祈らず、余計な言葉もかけず、置いたことだけを確認して退出する。それはこれまでと何も変わらない光景だった。ただ、祈り所に誰かが現れたという報告は一度もなかった。夜中に扉を叩く音もない。食卓の分け方を間違えた者が死ぬこともなく、女の声を聞いたという者も出なかった。
ある日の午後、アベルは最後の頁を書き終えた。完成した記録はヴァイゲルトへ提出され、軍の資料として保管されることになった。同じ内容を簡略化したものは村へも送られる。祈り所で祀られていたものが神ではなかったこと、百年前に死んだ一組の母子であり、その関係と後世の人間による意味づけによって怪異が長く続いていたことも伝えられた。
「随分な量になったな」
ヴァイゲルトが最後まで目を通した資料を机へ戻した。
「百年分ですから」
「お前が時計屋だった頃には、こんなものを書くとは思っていなかっただろう」
「将軍だって、幽霊の記録を読むとは思ってなかったでしょう」
「それは今でも信じられん」
言いながら、ヴァイゲルトは書類の束を揃えた。
「明日から供え物を止める」
「村もですか」
「ああ。こちらだけ止めても意味がない。同じ日に止めるよう伝えてある」
アベルは一度だけ頷いた。
「警戒は?」
「祈り所の周囲には残す。夜間の巡回も増やす。ただし、これまでのように建物一つを囲ませるつもりはない」
完全に安全だと判断したわけではない。それでも、止めなければ前には進めなかった。
「帝国の方は?」
アベルが尋ねると、ヴァイゲルトは別の書類へ目を向けた。
「少なくとも、こちらへ入ってくる報告では新しい事件は出ていない」
「そうですか」
「それと、北部戦線は停戦になった」
アベルが顔を上げた。
「停戦?」
「まだ正式な講和ではない。まずは双方が兵を動かさないところまでだ。帝国側も国内が混乱している。今は戦線を広げる余裕がないらしい」
ヴァイゲルトは淡々と言ったが、その様子には以前ほど張りつめたものがなかった。
「怪異のおかげで有利になった、と喜ぶ気にはなれませんけど」
「私もだ。たが使えるうちに戦を止めただけだ」
「将軍らしいですね」
「そうか?」
ヴァイゲルトは書類を脇へ置くと、椅子の背へ身体を預けた。以前なら、話が終わればすぐ次の仕事へ手を伸ばしていたはずだった。アベルはその様子を見て、少し眉を上げる。
「なんか、前より力抜けてません?」
「悪いか」
「いえ。将軍って、もっとずっと将軍やってる感じだったので」
「何だそれは」
ヴァイゲルトは呆れたように言ったあと、少しだけ黙った。
「あれを見ていればな。自分を一つの役割に嵌め込みすぎるのも、ろくなことにならんと思っただけだ」
「将軍がそれ言います?」
「将軍の私だから言っているんだ」
アベルは思わず笑った。
「じゃあ、少しくらい休んでもいいんじゃないですか」
「それは別の話だ」
ヴァイゲルトはそう言って、しばらく窓の外へ目を向けていた。
「明日は私も祈り所を見る」
「将軍がですか」
「百年以上続いたものを止める日だ。それくらいは見ておいてもいいだろう」
翌朝、祈り所には何も置かれなかった。いつもなら二つの皿が並ぶ時刻になっても、兵士は食事を持ってこない。石造りの小さな室内には、何も載っていない台だけが残っていた。アベルは入口からその光景を見ていた。これまでなら、食事が置かれていないことの方がおかしかった。村でも同じ時刻に供え物は置かれず、百年以上続けられてきた習慣が、この日初めて人の意思で止められた。
「何もないね」
隣にいたリーナが言った。
「そうだな」
「お腹空かないのかな」
「もう食べる人はいないよ」
「そっか」
リーナは空になった台をしばらく見ていたが、それ以上気にする様子もなく、外へ出た。マルタが慌ててその後を追う。その時点では、何も起こらなかった。昼になっても、夕方になっても、祈り所には誰も現れない。
その日の夕食は、軍の食堂として使われている広い部屋で取ることになった。祝宴というほど大げさなものではなかった。ヴァイゲルトが「どうせなら皆で食えばいい」と言い出し、軍人だけでなく、今回の事件に関わった者や街の住民にも声をかけた結果、いつもより人数が増えただけだった。
長いテーブルにはパンや煮込み料理、焼いた肉、豆と根菜の皿などが並んだ。戦時中であることに変わりはなく、豪華な料理が出るわけではない。それでも、同じものを人数分きっちり分けて置く必要はなかった。
オスカーも顔を出した。
「随分と平和な集まりですね」
「不満か?」
「いえ。将軍がこういう席にいるのが珍しいだけです」
向かい側に座ったヴァイゲルトが眉を上げる。
「私も食事くらいする」
「知ってます。でも、もっと端で一人で食べてそうなので」
「帰れ」
「停戦に貢献した密偵を追い出さないでくださいよ」
オスカーは笑いながらパンを取った。
その隣ではリーナが大皿の肉を見つめていた。
「それ食べたいのか」
アベルが聞くと、リーナは頷いた。
「でも遠い」
「取ればいいだろ」
「届かない」
アベルが皿を取ろうとすると、先に向かい側の兵士が皿を持ち上げた。
「ほら」
「ありがとう!」
兵士が肉を一切れリーナの皿へ移す。それだけのことだった。アベルは無意識に、その皿を見た。誰かの前にあった料理が、別の人間の皿へ移った。隣では別の兵士が、自分には多いと言ってパンを半分に割り、同僚へ渡していた。少し離れたところでは、豆の煮込みをもう少し欲しいという声に、余っている皿から別の器へ取り分けている。誰も、食べ物を分けることも、誰かに譲ることも恐れていなかった。
「アベル」
ヴァイゲルトに呼ばれ、アベルは顔を上げた。
「それ、食わないなら寄越せ」
将軍がアベルの前に残っていた焼いた芋を指していた。
「……将軍、それ本気で言ってます?」
「いらんのだろう」
「食べますよ」
「なら早く食え」
「人の皿見ないでください」
オスカーが吹き出した。
「随分普通の食卓になりましたね」
「黙って食え」
アベルも少し笑い、芋を半分に割った。
「半分ならどうぞ」
「最初からそうしろ」
ヴァイゲルトが受け取る。それからも食事は続いた。リーナは途中でパンを食べきれなくなり、半分をマルタへ渡した。マルタは差し出されたパンを見て、一瞬だけ動きを止めた。しばらく黙って見つめた。
「お母さん、食べて」
「はいはい」
マルタが受け取って口へ運ぶ。
食卓の上では料理が行き来した。欲しい者が取り、余った者が譲り、足りなければ別の皿から分けてもらう。分け合い、譲り合う、ごく普通の食事の風景だった。
けれど、この土地では、その当たり前のことが百年以上も恐れられてきた。誰かの皿へ料理を移すことも、自分の分を半分にして渡すことも、食べきれなかったものを隣の者へ譲ることも、もう死を招く行為ではない。
百年前には当たり前だったはずの食卓が、長い時間を経て、ようやくこの土地へ戻ってきた。
夕食が終わり、人々がそれぞれの部屋や家へ戻っても、軍の警戒だけは続いた。アベルもその夜は眠らず、何度か祈り所と廊下を見回った。深夜になっても、何も聞こえなかった。扉を叩く音はない。誰かの悲鳴もない。
夜明け前になり、巡回から戻った兵士が異常なしと報告した。アベルは窓の外を見た。まだ薄暗い街の向こうから、少しずつ朝の光が広がっている。
前の晩、誰かは自分の料理を人へ譲った。誰かは足りない分を分けてもらった。リーナは食べきれなかったパンを母親へ渡した。それでも、全員が朝を迎えた。
それがヴァルデン地方で百年ぶりに開かれた、神のいない最初の晩餐だった。




