第十二章 男の名前
エルゼが消えた後も、しばらく誰も動かなかった。
割れた窓から冷たい風が入り、床に散った硝子の欠片を小さく鳴らしている。壁には大きな亀裂が残り、撃ち込まれた弾丸の跡もあった。先ほどまであれほど響いていた女の声も、耳の奥を刺す高い音も、もう聞こえない。
ヴァイゲルトが最初に動き、怪我をした兵士たちの状態を確認するよう命じた。肩を弾丸が掠めた兵士は出血していたが、幸い深い傷ではない。壁へ叩きつけられた兵士も自力で立ち上がっていた。
男だけは、母親が消えた場所を見たまま立っていた。やがて両手を下ろし、ゆっくりと背を向ける。
「どこへ行くんだ」
アベルが尋ねると、男は足を止めた。
「分からない」
「分からない?」
「ああ」
男は少し考えてから、自分が今まで立っていた部屋を見回した。
「もう、食卓を守る必要はない」
「そうだな」
「祈り所にいる必要もない。村にいる必要もない」
「それで、どこかへ行くのか」
「たぶん」
答えは曖昧だったが、男が困っているようには見えなかった。
「どこへ行ってもいいんだと思う」
「今までだって、帝国まで行ってただろ」
「あれは母について行っただけだ」
男はそう答え、それから静かに続けた。
「神なら、いる場所も、することも決まっている。でも、私はもう神じゃない」
「最初から神じゃなかった」
「ああ」
男は素直に頷いた。
「周りが、そう呼んでいただけだった」
百年以上もの間、村人たちは男へ食卓を守る役目を与え、祈り、食事を供え続けた。男自身も、それを自分が果たさなければならない役目だと思い込んでいた。今は、そのどれも残っていない。行き先が決まっていないことさえ、誰かに決められた場所へ戻らなくていいということなのだろう。
男が再び歩き出そうとしたところで、アベルは呼び止めた。
「待ってくれ」
男が振り返る。アベルはその顔を見ながら、これまで調べてきた記録を思い返した。母親の名は分かった。旧姓も、生家も、駆け落ちしたことも、その後に名乗った姓も辿ることができた。それでも、息子については何も見つからなかった。百年前に人を殺した男。食卓を守る怪異。村で神と呼ばれていたもの。どの記録にも、それ以上のものは残っていなかった。
「名前を教えてくれないか」
男は黙った。アベルも急かさなかった。百年以上、誰にも呼ばれなかった名前だった。記録からも消え、先ほどのやり取りを見る限り、母親からさえほとんど呼ばれることなく、男自身も口にする必要もなかったのかもしれない。長い沈黙のあと、男の唇がわずかに動いた。
「ヨハンだ」
短い答えだった。
「ヨハン」
アベルが繰り返す。
「ああ」
男――ヨハンは、自分の名前を確かめるようにもう一度頷いた。
「それが、人を殺した男の名前だ」
アベルは何も言わなかった。
「生きていた時にも殺した。死んでからも、ずっと殺した。お前の母親も」
「ああ」
「最後には、自分の母親も殺した」
ヨハンは自分の両手へ目を落とした。
「それがヨハンだ」
アベルは、その言葉を否定しなかった。母親に支配されていたことも事実だった。自分で考えることを避け、母親の言葉を信じ続けてきたことも、村人から神という役割を与えられ、それに従っていたことも事実だった。そして、多くの人間を殺したことも同じように事実だった。
「分かった」
アベルが言った。
「名前は記録に残す」
「……名前を?」
「お前がしたことも全部書く」
ヨハンが顔を上げた。
「母親に何を言われていたのかも、村の人たちがどうしてお前たちを祀るようになったのかも、食卓の決まりがどうやってできていったのかも書く。誰か一人の悪意でこうなったんじゃない。いくつもの思い込みや偶然が重なって、ここまで続いたことも」
祈れば鎮まると思った者がいた。食事を供えれば死者が出なくなった。やがて理由を知らない者たちが、それを正しい作法として受け継いだ。男を神だと思い、母親まで一緒に祀った。帝国へ怪異が渡ったことも、誰かが怪異を広げようとして始めたものではなかった。
善意も、恐怖も、思い込みも、偶然もあった。その一つ一つが積み重なり、呪いを百年以上も続かせた。
アベルはそこで、以前読んだヘンリクの記録を思い出した。『名前を書こうとしたことは何度かある。だが、やめた。あの男を神のように残すつもりも、稀代の罪人の名として残すつもりもない。あれは我々と同じ、ただ母親と暮らしていた一人の男だった。』ヘンリクは、最後まで男の名前を書かなかった。
神の名として残せば、人はまたそこへ意味を与える。多くの人間を殺した特別な罪人として名を残しても、今度はその名前だけが一人歩きする。だから、ただ一人の男として忘れさせることを選んだのだろう。それも、一つの答えだった。だが、アベルは同じ方法を選ぶつもりはなかった。
「昔、お前の名前を残さなかった人がいた」
ヨハンがアベルを見る。
「どうして?」
「神にしたくなかったからだ。大勢殺した特別な人間としても残したくなかった。お前はただ、母親と暮らしていた一人の男だったからって書いてあった」
「……そうか」
「でも、俺は名前を書く」
アベルははっきりと言った。
「犯罪の記録として」
ヨハンの表情は変わらなかった。
「ヨハンという人間がいて、人を殺した。死んだ後も殺した。その背景に母親がいた。村の人間が怪異に意味を与えて、神として扱った。それで百年以上続いた。そこまで全部、一つの事件として残す」
ヨハンが目を上げた。
「母親にどう扱われていたかは事実として書く。確かに、お前は母親に支配されていた。その意味では、被害者だった部分もあると思う」
アベルは一度言葉を切った。
「でも、お前を被害者として後世に残すつもりはない」
ヨハンは黙って聞いていた。
「お前自身も、そう言っただろ。母親に言われたからって、お前がしたことに変わりはないって」
「ああ」
「だから、事実だけを書く」
以前なら、違う答えを出していたかもしれない。母親に支配された男を知り、その事情に腹を立て、自分が何とかしなければならないような気持ちにまでなった。その結果、エルゼを挑発し、被害を広げた。だからこそ、今は分かる。事実と、そこへ向ける感情は別のものだった。
「お前がどういう人間だったかを知ってるのは、ここにいた人間だけでいい」
ヨハンは黙っていた。
「俺も。リーナも。母親の前でどうしていたのか、最後に何を選んだのかを知ってる。それで十分だ」
騒ぎが収まったのを見て戻ってきていたリーナが、いつの間にか、サイドテーブルの下から顔を覗かせていた。男をまっすぐ見ている。そのすぐそばでは、マルタが娘を逃がさないようにするように、両腕でしっかりと抱き寄せていた。
後世に残すべきなのは、哀れな息子の物語ではなく、一人の人間が多くの人を殺したこと、その人間が母親から支配されていたこと、周囲の善意や恐怖や思い込みが怪異へ新しい意味を与え、結果として惨劇を長引かせたことだった。
エルゼについても同じだった。アベルから見れば、哀れで、愚かで、醜悪な人間だった。それでも、そこに余計な物語を与えるつもりはない。どれほど不幸だったのか、どれほど異常だったのかを語って特別な存在にするのではなく、周囲から何を与えられ、それをどう受け取り、どう捉え、息子や周囲の人間へ何をしたのか。事実以外を、記録に書き記す必要はない。
「それなら、いい」
ヨハンが言った。ヴァイゲルトが少し離れた場所から口を挟んだ。
「まあ、死人を罰する法律は、今のところない。それくらいはいいだろう」
アベルが振り返った。
「将軍、それ慰めてます?」
「知らん。死人相手にどう接するのが正解なのか、軍の規則には書いてない」
ヨハンが二人を見た。それから、ほんの少し口元を緩めた。アベルがヨハンの笑う顔を見るのは初めてだった。
「おじさん、笑った!」
リーナの声が上がった。
「こら、リーナ」
マルタがすぐにたしなめる。ヨハンはその表情のままそちらへ顔を向けた。サイドテーブルの下から覗くリーナと目が合う。リーナは、小さく手を振った。ヨハンは何も言わなかった。
その姿が、少しずつ薄くなっていく。母親のように崩れることも、苦しむ様子もない。ただそこに立っていた輪郭が透け、やがて向こう側の壊れた壁が見えるようになる。そして、そのまま姿を消した。
アベルは、誰もいなくなった場所をしばらく見ていた。部屋の中には、すぐに動こうとする者はいなかった。誰もが、ヨハンの消えた場所や、ひび割れた壁、床に散った硝子を見たまま立ち尽くしている。
「いつまでぼんやりしている」
ヴァイゲルトの声で、ようやく兵士たちが動き出した。
「負傷者を先に診せろ。室内はこのまま保存して、壊れた箇所と弾痕を全部記録しろ。今夜ここにいた者からも順に話を聞く」
短い指示が次々に飛ぶ。兵士たちは割れた窓や壁の亀裂を確認し、床へ落ちた短銃や剣にも触れないよう周囲を空けた。廊下に集められていた兵士たちにも、配置を戻すよう命令が出される。
「祈り所の警戒も一段落とせ。ただし、供え物はまだ止めるな。完全に消えたと確認できるまでは、これまで通りだ」
誰も異論を挟まなかった。
マルタの腕から、リーナがするりと抜け出した。
「リーナ!」
呼び止める声を振り切り、リーナはアベルのところまで駆けてくる。
「お兄さん」
アベルが振り返ると、リーナはヨハンが消えた場所を一度見て、それからアベルの隣に立った。追いついたマルタがすぐに娘の肩を抱き寄せたが、今度は無理に連れ戻そうとはしなかった。
割れた窓の向こうが、いつの間にかわずかに白み始めていた。長い夜だった。まだ太陽は見えない。それでも、黒かった空の端には薄い青が混じり、ルーエンの屋根や通りの輪郭が少しずつ浮かび上がっている。冷たい朝の空気が、壊れた窓から部屋へ流れ込んだ。
アベルはしばらく、その明るくなっていく空を見ていた。




