第十一章 呪いの最期
エルゼの顔から、すべての表情が消えた。
「……何?」
男は答えなかった。
「今、何て言ったの?」
先ほどまで怒鳴っていた声とは違い、ひどく低かった。男は母親から目を逸らさず、もう一度言った。
「もう僕は、母さんの言う通りにはしない」
「……ふざけないで」
エルゼの声が震えた。
「ふざけないでよ。何なの、それ。私がどれだけお前のために――」
「母さん」
「何よ!」
「もういいよ」
その一言で、エルゼの顔が歪んだ。
「何がいいのよ!」
叫びと同時に、部屋全体が大きく揺れた。
アベルは咄嗟にリーナを引き寄せ、そのままサイドテーブルの方へ滑り込むように身を伏せた。リーナの頭を庇いながら、二人で床へ伏せる。次の瞬間、耳を塞ぐ暇もなく強い衝撃が走り、窓硝子が一斉に砕ける。室内にいた兵士の一人が壁へ叩きつけられ、寝台が横へ滑って壁にぶつかった。
「リーナ、動くな!」
アベルはテーブルを押さえながら周囲を見た。壁に亀裂が走り、天井から細かな塵が落ちている。外から何人もの声が聞こえた。廊下にいた兵士たちが扉を叩いているらしいが、こちら側の扉は動かなかった。
「今さら何なのよ!」
エルゼは男だけを見ていた。
「百年以上も私の言うことを聞いてきたでしょう! ずっと私のそばにいたでしょう! それなのに、こんなガキや、こんな男に少し何か言われたくらいで、急に私が悪いみたいな顔をして!」
「急にじゃない」
「そんなのどうでもいい!」
再び空気が震えた。だが、先ほどのような衝撃は来なかった。
「みんな嫌いよ! 最初から嫌いだった! あの村も、あの家も、私を分かったふりをしたあの人も! 何も分からないくせに私を我儘だと言った人間も、祈るだけ祈っておいて勝手にやめた連中も!」
エルゼは両腕を振り上げた。
「こんなことになるなら、最初から全部壊してしまえばよかったのよ!」
壁の一部が大きくへこんだ。アベルはさらにリーナを庇ったが、今度は室内全体を吹き飛ばすほどの力にはならなかった。エルゼ自身もそれに気づいたらしく、自分の手を見てから、苛立ったようにもう一度腕を振るが、何も起こらなかった。
「何よ……」
エルゼの顔が歪んだ。
「何よ! 何よ、何よ!」
苛立ったように何度も腕を振る。だが、先ほどのような衝撃は起こらない。壁も揺れず、何も壊れない。
「何よ! どうしてよ!」
叫ぶたびに声だけが大きくなった。
最初に現れた時には中年を過ぎたくらいに見えていた顔が、いつの間にかさらに若返っている。白かった髪はほとんど茶色に戻り、皺も消えていた。見た目だけならもう三十代ほどの女に見えたが、目を吊り上げ、思い通りにならないことに腹を立てる表情は、それよりずっと幼く見えた。
廊下側から大きな音がした。
「アベル!」
ヴァイゲルトの声だった。
「将軍! 中にいます!」
「扉が開かん!」
アベルが返事をした直後、サイドテーブルの下からリーナが声を上げた。
「お兄さん!」
隣室へ続く扉に、先ほどまでなかった隙間ができていた。アベルが駆け寄って取っ手を引く。まだ重かったが、今度はわずかに動いた。室内にいた兵士も加わり、何度か強く引くと、蝶番の一つが外れて扉が傾いた。
「もう一度!」
三人で力をかけると、木材が割れ、ようやく人一人が通れるほどの隙間が開いた。
「リーナ!」
向こうからマルタの声がした。アベルはリーナを抱き上げ、隙間から隣室へ押し出した。マルタがすぐに娘を抱き寄せる。
「ここから離れてください!」
マルタが頷き、リーナを連れて部屋の奥へ走った。ほぼ同時に、廊下側の扉も大きな音を立てて破られた。ヴァイゲルトを先頭に数人の兵士が入ってくる。
「状況は」
「あの女です。さっきより力が弱まってます。使いすぎたのかもしれません」
アベルが指すより先に、一人の兵士がエルゼへ剣を向けた。
「待て!」
ヴァイゲルトの制止が間に合わなかった。兵士が踏み込み、剣を振るう。刃はエルゼの肩から胸を通り抜け、そのまま反対側へ抜けた。手応えはなかった。兵士が体勢を崩す。エルゼは切られた場所を見下ろし、それから兵士を睨んだ。
「何するのよ!」
別の兵士が短銃を構えた。乾いた発砲音が響く。弾丸はエルゼの身体を突き抜け、背後の壁へ食い込んだ。血も出ない。傷も残らない。剣を振った兵士が立て直そうとした、その時だった。
「……っ」
背後で、もう一人の短銃を構えていた別の兵士の腕が上がった。銃口がエルゼではなく、剣を持った兵士へ向く。
「おい、何を――」
「やめろ!」
銃を持った本人が叫んだ。握った手が震えている。それでも指は引き金から離れず、ゆっくりと銃口が男の胸を追った。
「逃げろ! 早く!」
兵士の顔は真っ青だった。
「俺じゃない、手が――」
銃声が響いた。剣を持った兵士が咄嗟に身を投げ出す。弾丸は肩口を掠め、そのまま背後の壁へ食い込んだ。銃を持っていた兵士は、自分の手から逃れるように短銃を床へ投げ捨てた。
「違う……俺は撃つつもりなんて……」
エルゼが笑った。つい先ほどまで、腕を振っても何も起こせなくなっていた女が、今度は何にも触れず、ただ兵士を見ているだけだった。
「撃つな! 武器を下ろせ!」
ヴァイゲルトの声が飛ぶ。残った兵士たちが一斉に剣と銃を下げた。アベルはエルゼを見た。力が弱まっていること自体は間違いない。それでも、帝国で人間に自分の首を絞めさせたあの力までは、まだ失われていなかった。エルゼは掠れた笑い声を漏らした。
「ほら。私だって、まだできるでしょう?」
兵士たちが距離を取る。エルゼは自分の身体へ触れようとしたが、その指先さえ輪郭の中へ溶けるように沈んだ。部屋を壊し、さらに兵士へ呪詛をかけたせいか、姿は先ほどより明らかに薄くなっている。輪郭は何度も揺らぎ、向こう側の壁が透けて見えるほどだった。
「何なのよ……」
エルゼは周囲を見回した。
「どうして私ばっかり……」
今度は誰かへ命令するような声ではなかった。
「どうして、いつも私がこんな目に遭うのよ」
男は何も言わなかった。
「お前のせいよ」
エルゼがアベルを指した。
「あんたが余計なことをしなければ、こんなことにはならなかった!」
次にヴァイゲルトを見る。
「そっちもよ! 祈るのをやめさせて、食べ物だけ置いて、それで済ませたつもりになって!」
兵士たちへ視線を移す。
「みんな同じ! 私を馬鹿にして、私の言うことなんて誰も聞かない!」
最後に男を見る。
「お前まで」
その声だけが少し小さくなった。
「お前だけは違ったのに」
男は立ったまま、母親を見ていた。
「お前は私のことが好きだったでしょう?」
男は答えなかった。
「私のためなら何でもしてくれたでしょう? ずっとそうだったじゃない」
エルゼの姿がまた揺れた。
髪はさらに濃い茶色へ変わり、頬も顎も若い女のものになっていた。先ほどまで三十代ほどに見えていた顔から、さらに年齢が抜けていく。やがてそこに立っていたのは、二十代ほどにしか見えない女だった。
「ねえ」
エルゼは男へ手を伸ばした。
「もういいでしょう。お前のこと、怒ってないから」
先ほどまで「聞きたくない」と泣き叫んでいたのが嘘のように、声だけが甘くなる。
「お母さんのところへ戻っておいで」
男が一歩進んだ。アベルは警戒を解かないまま、男の動きを見守った。ヴァイゲルトも兵士たちを制し、その行方を見届けるしかなかった。
男がさらに一歩、エルゼへ近づく。
「そうよ」
エルゼの顔に笑みが戻った。
「やっぱり分かってくれるのね」
男は何も答えず、そのまま母親の前まで進んだ。そして、腕を伸ばした。エルゼの身体を抱きしめる。アベルは息を止めた。剣も弾丸もすり抜けたはずの身体を、男の腕だけは確かに抱いていた。
「ほら」
エルゼは嬉しそうに笑った。
「やっぱりお前だけは、お母さんを分かってくれる」
男の背中へ腕を回す。
「大丈夫よ。また二人でやり直せばいいの。今度は誰にも邪魔させない。あいつらが悪いんだから、全部いなくなってもらえばいいのよ」
男は黙っていた。
「まずあの男を殺して。それから、あのガキも。あの将軍もよ。ここにいる人間なんて全部いなくなればいいわ」
エルゼは男の胸元へ頬を寄せた。
「また二人だけになれるわ」
誰も動かなかった。アベルにも、ヴァイゲルトにも、兵士たちにも、できることはなかった。人間の手はエルゼへ届かない。男だけが、母親を抱いていた。やがて男がゆっくりと腕を緩めた。
「どうしたの?」
エルゼが顔を上げる。男はゆっくりと身体を離し、両手でエルゼの顔を包む。
「なあに?」
男はその若い母親の顔を見つめながら、幼い頃を思い出した。母は笑うと綺麗だった。だから、ずっと笑っていてほしかったのだ。ここに来てようやく、男は自分の本当の気持ちに辿り着いた。
「お母さん、大好き」
エルゼの笑みが少しだけ深くなった。
男の両手に力が入った。首が横へ捻られた。小さな音がした。
エルゼの目が大きく見開かれる。男の手を振り払うことも、身体を離すこともできないまま、エルゼの輪郭が急速に薄れていく。男は最後まで手を離さなかった。やがてエルゼの身体は透け、男の手の中から消えた。何も残らなかった。人間の剣も弾丸も効かなかった怪異は、息子の手には何の抵抗もできなかった。男は両手を下ろした。
百年以上続いた母という呪いの最期は、驚くほどあっけないものだった。




