第十章 母という人
扉の向こうにいた男は、それからもしばらく姿を消さなかった。
リーナが再び他愛のない話を始めると、男は時折短く返事をした。リーナの声には次第に眠気が混じり、何度か小さく欠伸をする。アベルはそれ以上問いかけず、先ほど男が口にした言葉について考えていた。神として食卓を守ることをやめること。母親に命じられても、もう人を殺さないこと。どちらも、これまでの男からは聞いたことのない言葉だった。
だが、男がそう言ったからといって、そのまま信用することはできなかった。母親を前にした時、実際にどう行動するのかはまだ分からない。
その答えを確かめる機会は、思っていたより早く訪れた。
「何をやめるの?」
女の声がした。
リーナが振り返り、アベルも立ち上がった。室内の隅で待機していた兵士たちが剣へ手をかける。
寝台のそばに女が立っていた。
帝国で最後に見た時より、また少し若くなっている。白かった髪には暗い色が戻り、深く刻まれていた皺も薄くなっていた。もう老婆と呼ぶほどではなく、中年を過ぎたくらいの女に見えた。
アベルはリーナを毛布で包み、サイドテーブルの下へ潜らせた。そこからなら、マルタが待つ隣室へ抜けられるはずだった。
「お母さんのところへ行け」
リーナは頷き、隣室へ続く扉を押した。
「……開かないよ」
アベルも手をかけたが、びくともしなかった。本来なら向こう側へ開くはずの扉が、壁の一部になったように動かない。
エルゼはアベルや兵士たちには目も向けなかった。
「何をやめると言ったの?」
扉の向こうへ問いかける。男は答えなかった。
「お母さんに聞かせて。何をやめるの?」
声は穏やかだった。リーナを殺せと命じた夜、最初に聞いたものと同じだった。子供を諭し、安心させるような柔らかい声音だった。
「……神でいることを」
男が答えた。エルゼの笑みが止まった。
「何を言っているの?」
「僕は、神になりたかったわけじゃない」
「誰にそんなことを言われたの?」
エルゼの視線がすぐにアベルへ向いた。
「あなたね」
アベルは答えなかった。
「帝国でも余計なことを言って、今度は息子にまで何を吹き込んだの? この子はそんなことを考える子じゃなかった」
「違う」
扉の向こうから男の声がした。
エルゼが振り返る。
「何が違うの?」
「僕が考えた」
「だから、それがおかしいと言っているの。お前はそんなことを考えなかったでしょう?」
男は黙った。その沈黙を、エルゼは肯定と受け取ったようだった。
「ほら。分からなくなっているだけなのよ。変なことを言う人間が周りに増えたから。あの子もそうでしょう?」
今度はリーナを見る。
「あのガキがお前に余計なことを言ったから、お前はおかしくなった。絵だの何だの、昔のことまで思い出させて。お前のためにならないことばかり」
リーナはアベルのそばへ寄った。
扉の向こうの気配が揺れた。以前のような耳を刺す高い音は鳴らなかったが、部屋の灯りが一度だけ大きく揺れ、壁際の影が形を失った。
「リーナは、何も悪くない」
「リーナですって? 名前で呼ぶなんて。そのガキのせいで、お前はお母さんの言うことを聞かなくなったじゃない」
「僕がそうしたかったんだ」
「同じことでしょう!」
声が突然大きくなった。直後、エルゼは自分でそれに気づいたように口元を引き締めた。
「……ごめんなさい。怒るつもりじゃなかったのよ」
また声を柔らかくする。
「お母さんは、お前が心配なだけ。ずっとそうだったでしょう? お前が傷つかないように、お母さんが悪い人間を教えてあげた。お前は優しい子だから、人に騙されるのよ」
「あの子もそうだった」
「誰?」
「昔、一緒に絵を描いていた子もそうだった」
「ああ……そんな子もいたわね。あの子はお前を馬鹿にしていたでしょう」
「僕は、あの子からそんなことを言われてない」
「言われなくても分かるわよ。お前より上手い絵を見せて、いい気になっていたじゃない」
「僕は楽しかった」
「子供だったから分からなかっただけよ」
「僕は、傷つけられてなかったよ」
エルゼが口を閉じた。
「母さんに、あの子も僕を馬鹿にしてるって言われた。それを信じて、僕から離れた」
「だから、それはお前のためでしょう。あんな子と一緒にいたって、お前が嫌な思いをするだけだったのよ」
「嫌な思いをしてたかどうかも、僕は自分で考えなかったんだな」
男はそう言ってから、少し考えるように目を伏せた。
「傷つけたのは、あの子じゃなくて僕だった」
「お前は悪くないわ」
エルゼはすぐに言った。
「あの子が紛らわしいことをするから悪いのよ。お前はまだ子供だったんだから、お母さんの言うことを聞いて当然でしょう?」
男は反論しなかった。ただ、先ほどより穏やかな顔でエルゼを見た。
「父さんはどうだったの? 駆け落ちまでして一緒になったのに」
「最初は違ったわ。あの人だけは私を分かってくれていたもの。家を捨ててまで一緒に来てくれたし、お前が生まれる前は、私をお姫様みたいに大切にするって言ってたのよ」
「じゃあ、なんで?」
「村に来てからよ」
エルゼの声が少し強くなった。
「あの人まで、村の人間とうまくやれとか、少しくらい我慢しろとか言い始めたの。最後には、私の我儘にも限度があるなんて言ったわ。駆け落ちまでしておいてよ? 酷いでしょう」
「それで、父さんは母さんを分かってくれない人になった?」
「当たり前でしょう。味方なら、最後まで味方でいるものよ」
男はしばらく黙っていたが、その顔に先ほどまでの戸惑いはなかった。
「父さんは、母さんを選んだんだね」
「だから何よ」
「家を出てまで」
「途中で裏切ったでしょう!」
「母さんの言うことに反対したから?」
「そういう話じゃないわ!」
エルゼは苛立ったように眉を吊り上げた。
「あの人は私を分かるって言ったのよ。それなのに、最後には私が我慢すればいいみたいなことばかり言って。そんなの、最初に言っていたことと違うじゃない!」
「……そう思ったんだね」
男の返事は静かだった。
「何よ、その言い方」
「村の人たちも、最初から全員が母さんを嫌っていたわけじゃない」
エルゼは、本当に意味が分からないという顔をした。
「何を言ってるの?」
「食べ物を分けてもらったこともあった」
「置いていっただけよ。あの人たちは私の話なんて聞かなかった。食べ物を持ってくれば、それで世話をしたつもりになって」
「持ってきてもらってたんだ」
「それくらい当然でしょう!」
今度は声を張り上げた。
「困っている人間に食べ物を渡すくらい、誰だってするわ。それで私たちに何かしてやったつもりだったの? あの人たちは私が何を言っても聞かなかった。私がどれだけ嫌な思いをしていたかなんて、誰も気にしなかった!」
「母さんが殺されたって、本当?」
「本当に決まっているでしょう! 私のことを疑うの?」
「でも、あの飢饉では母さん以外にも大勢死んだ」
「だから何よ!」
エルゼの声が響いた。
「母さんが酷い扱いを受けたと思っていたのは、本当だと思う。でも、食べ物が少ない中でみんなが分け合っていたんだから、母さんだけを特別にはできなかったんだって、今なら分かる」
「お前までそんなことを言うの?」
エルゼの顔が歪んだ。
「私がどれだけ苦しかったと思ってるのよ! 病気で動けなくなって、食べ物まで減らされて、最後には殺されたのよ!」
「辛かったんだね」
男は否定しなかった。
「でも、村のみんなが母さんを嫌っていたとは今は思えない」
「嫌っていたわ!」
エルゼは間を置かずに言い返した。
「私のことを嫌っていたから、嫌がらせみたいに固いパンや味のないスープしか持ってこなかったんでしょう? あんな少ない食事を置いていくだけで、思いやりの欠片もなかった! しかも最後はぎゅうぎゅうに詰められて焼かれたのよ! 尊厳なんてどこにもなかった!」
「……やっぱり、殺されたわけじゃなかったんだね」
男は静かに言った。
「食事もあった。焼かれたのだって、母さんだけじゃない。他の人たちも一緒だった」
「何が言いたいのよ」
「みんな、ちゃんと弔おうとしてたんだ。固い土を掘れない代わりに……」
「そんなの弔いじゃないわ!」
エルゼは声を荒らげた。
「私は、あんなふうに他の人間と一緒に焼かれたくなんかなかった! 誰も私にどうしてほしいか聞かなかったでしょう。勝手に決めて、勝手に済ませただけよ!」
「死んだ後の母さんには聞けないだろ」
「だからって何をしてもいいわけじゃないでしょう! もっと丁寧に扱うことだってできたはずよ。あんなの殺されたも同然よ!」
「死んだ後は、母さんも祀られたよ」
「それは当然のことよ!」
今度も即答だった。
「私はあんな村で殺されたのよ。それくらいされて当然でしょう。むしろ、生きている時にもっと大切にされていれば、あんなことにはならなかったの!」
男はエルゼを見たまま、ゆっくり息を吐いた。先ほどまで何かを確かめるたびに揺れていた声が、少しずつ静まっている。
「母さんは、祀られて当然だと思ってるんだね」
「当然でしょう」
「どうして?」
「どうしてって?」
「母さんは、何者だったの?」
エルゼの眉間に皺が寄った。
「だから、何なのよ、その言い方は」
「村の人から神様みたいに敬われて当然だと思うくらい、母さんは何をしたの?」
「私は……」
エルゼは言葉に詰まり、すぐに顔を上げた。
「私は、本当ならもっと違う人生を送れた人間なのよ!」
それまでより大きな声だった。
「小さい頃から何だってできたわ。絵だって、音楽だって、踊りだって。もっといろんなことをさせてもらえていたら、何か一つくらい大成していたかもしれない。それなのに、うちの人たちはすぐに駄目だと言ったの!」
「何もさせてもらえなかったの?」
「最初は教師をつけてもらったわよ。でも、どれも私には合わなかったの。先生たちだって偉そうで、私のことを何も分かってなかった!」
「それで辞めた?」
「合わないものを続けても仕方ないでしょう!」
エルゼは勢いのまま続けた。
「先生にも失礼な態度を取るって言われたわ。でも、向こうが私を馬鹿にするようなことを言うからでしょう? それで何度か辞めたら、今度は『どうせまたすぐ辞める』って、新しいことまでさせてくれなくなったのよ!」
「先生は何人もつけてもらったんだ」
「足りなかったのよ!」
「お金もかけてもらってた」
「もっとできたでしょう!」
男の声はますます穏やかになっていた。
「私には可能性があったのよ!」
エルゼは両手を広げた。
「もっといろんなことをして、もっと良い先生をつけてもらって、王都にだって行かせてもらえていたら、私を認める人がいたはずよ! 華やかな世界が私を待っていたかもしれないのに! あの家にいたせいで、全部なくなったの!」
男はしばらく何も言わなかった。エルゼだけが荒い息をしている。
「……母さんは、大切にされなかったんじゃないんだね」
「何ですって?」
「母さんは、自分の思った通りにしてもらえなかったら、大切にされてないって思ってたんだね」
「違う!」
「先生をつけてもらっても足りない。父さんが家を出てくれても、反対されたら裏切られた。村の人が食べ物を持ってきても、それくらい当然。死んだ後に祀られても、それも当然」
「違うって言ってるでしょう!」
エルゼの声がさらに高くなった。
「何をしてもらっても、それが母さんの望んだ形じゃなかったら、足りなかったんだ」
「そうじゃない! もっと根本の話よ!誰かに馬鹿にされたり、嫌な思いをさせられたりするような理由が、私のどこにあるのよ!」
男は静かに母親を見ていた。
「僕もそうだった?」
エルゼの動きが止まった。
「……何を言ってるの」
「僕はずっと母さんの言うことを聞いてた」
「そうよ。お前だけはいい子だった」
「人も殺した」
エルゼの表情が変わった。
「母さんに言われて、生きていた時も、死んでからも」
「それはお前が悪いんじゃないわ!」
エルゼはすぐに男へ近づいた。
「あいつらが私たちに酷いことをしたからでしょう。お前はお母さんを守っただけ。お前は何も悪くないのよ!」
男は自分の両手へ目を落とした。
「僕は、分かってたのに、考えないようにしてたんだ」
「何?」
「母さんにとって悪い人と、本当に悪い人は違うってことを」
「そんなこと考えなくていいの!」
エルゼは男の言葉を遮った。
「お前はお母さんの言うことを聞いただけなんだから。悪いのは全部あいつらよ!」
男はしばらく自分の手を見ていた。それから、静かに顔を上げた。
「でも、殺したのは僕だ」
「違う!」
「僕がやった」
「お前は悪くないって言ってるでしょう!」
「母さんに言われたからって、僕がしたことに変わりはない」
「お前は悪くないの!」
エルゼの声だけが、ますます激しくなっていく。
「母さんは、僕がしたことまで誰かのせいにするんだね」
「お前を責める方がおかしいのよ!」
「僕が一度、母さんの言うことを聞かなかったら、今度はリーナたちが悪いことになった」
「だって、あいつらがお前をおかしくしたんでしょう!」
「……そうか」
男は小さく頷いた。その顔は、先ほどまでよりずっと穏やかだった。
「母さんは、ずっとそうだったんだね」
「何よ!」
「自分が欲しかったものが手に入らなかったら、誰かが悪いことにする。誰かが何かしてくれても、自分の思った通りじゃなかったら、何もしてもらってないことにする」
「もうやめてよ!」
「母さんが誰かを傷つけても、悪いのはその人だったことにする」
「やだ! もう聞きたくない!」
「僕のことまで」
エルゼが息を呑んだ。
「僕がしたことも、僕が考えることも、全部母さんが決めようとしてた」
「もういいって言ってるでしょう!」
エルゼは両手を強く握りしめた。
「私はお前のお母さんなの! お母さんなんだから、お前は私の言うことを聞けばいいの!」
声を張り上げるその姿には、もはや息子を諭す母親らしさは残っていなかった。
男は、その言葉を聞いても目を逸らさなかった。母親の声が大きくなるほど、男の中では逆に何かが静まっていくようだった。これまで母親の言葉に揺さぶられるたびに生まれていた迷いが、一つずつなくなっていく。
「……うん」
男は静かに答えた。
「母さんは、僕の母さんだ」
それから少し間を置いた。
「でも、それだけだったんだね」
「は?」
「もう僕は、母さんの言う通りにはしない」
エルゼの顔から、すべての表情が消えた。




