第九章 扉越しの語らい
帝国から戻って数日が過ぎても、リーナの身に異変は起きなかった。
アベルは帰還後の報告や記録の整理に追われながらも、時間を見つけてはマルタとリーナの様子を見に行っていた。あの夜、男は母親の命令を拒み、リーナを殺さなかった。それでも、一度狙われた事実が消えるわけではない。エルゼが帝国側で無差別に人を襲い始めている以上、何が起きてもおかしくなかった。
その日もアベルが二人のいる部屋を訪ねると、マルタは洗濯物を畳み、リーナは窓際の机で絵を描いていた。紙には家と木、その隣に何人かの人間が並んでいる。
「お兄さん、帰ってきたの?」
「昨日な」
「帝国どうだった?」
「それは話せない」
「つまんない」
リーナはすぐに絵へ視線を戻した。
「じゃあ、おじさんの話する?」
アベルは足を止めた。
「おじさん?」
「あのおじさん。また来てたよ」
今度はマルタまで手を止めた。
「リーナ、何の話?」
「お兄さんいなかった時、何回か来てた」
「いつ?」
「夜」
アベルは椅子を引き、リーナの隣へ座った。
「部屋の中に入ってきたのか?」
「入ってこないよ。扉の向こうにいるだけ」
「扉を叩く?」
「叩かない」
「何か言う?」
「何も言わないよ」
リーナは不思議そうにアベルを見た。
「でも、ずっとそこにいるよ」
扉の前に男が立つ。それは本来なら、アベルにとって最も聞きたくない話の一つだった。百年前の記録でも、ルーエンで起きた事件でも、男が扉の前へ現れることは死の前触れだった。やがて扉が叩かれ、その先で人が死ぬ。だが、リーナの扉は叩かれていない。
「何を話したんだ?」
「今日描いた絵とか、ご飯のこととか。お母さんに怒られたこととか」
「向こうは何も言わないんだろ?」
「うん。でも、途中でいなくならないからちゃんと聞いてくれてるよ」
リーナにとっては、ただ無口な相手がそこにいるだけらしい。
「姿は見たのか?」
「見てないよ。扉の向こうにいるって分かるだけ。でも、あのおじさんだよ」
「どうして分かる?」
「分かるから」
説明になっていなかったが、アベルはそれ以上追及しなかった。しかし、男は自分の意思で何度もここへ来ている。呼び出す方法は分からなくても、男の方からリーナに会いに来ることがわかった。
「今夜も来ると思うか?」
「分かんない。でも、何日か来てないから、そろそろ来るかも」
リーナはそう言ってから、アベルを見上げた。
「一緒に待つ?」
「そうしようかな」
マルタがすぐに口を挟んだ。
「待つって、まさか夜まで?」
「俺がいます。それに兵士にも近くにいてもらいます」
「でも、あれは……」
「扉は開けません。何かあればすぐ離れます」
マルタはしばらく迷った末、渋々了承した。
その夜、アベルはリーナの部屋へ入った。マルタには隣室で待ってもらい、室内には扉から見えない位置に二人、廊下の少し離れた場所にも兵士を配置した。扉の前に人を立たせれば男が現れない可能性もあるため、ギリギリの距離で気配を抑えて待機させた。
リーナは毛布を持ってきて、扉のすぐ前へ座った。
「ここに座るのか?」
「いつもここで話すから」
「寝台じゃないのか」
「近くないと声が聞こえないでしょ」
「向こうは何も喋らないんだろ」
「でも近い方がいいよ」
アベルも隣へ腰を下ろした。しばらくは何も起きなかった。リーナは昼間の続きの絵を膝の上に置き、何度か欠伸をした。アベルは扉を見ながら、帝国で聞いた女の声について考えていた。責め続け、相手自身に自分が悪いと思わせ、そのうえで首を絞めるよう命じる。オスカーは呪詛に近いと言った。男も、生前から似たものを聞き続けてきたのではないか。お前のためだ。お母さんだけがお前を分かっている。あの人間はお前を馬鹿にしている。母を悲しませるな。一つ一つは、親が子に言う言葉として完全に異常なものではないのかもしれない。だが、それが何年も積み重なり、自分で考えるたびに否定されれば、最後には母親の考えと自分の考えを区別できなくなっていたのかもしれない。
アベルはそこまで考え、意識して思考を止めた。事情を知ったことで、また男のことまで分かったつもりになるところだった。今夜確かめるべきなのは、男自身の言葉だった。
やがて、リーナが顔を上げた。
「来た」
アベルも扉を見る。
「いるのか?」
「うん」
扉の向こうから足音は聞こえなかった。影も見えない。ただ、室内の空気がわずかに冷えたように感じた、アベルはすぐには声をかけなかった。リーナが扉へ向かって話し始める。
「今日はね、お母さんに怒られたの。服を床に置いたままにしてたから」
返事はない。
「でも自分で片づけたよ。あと、絵も描いた」
リーナは膝の上の紙を持ち上げた。
「見えないと思うけど」
それでも扉の向こうの気配は消えなかった。アベルはようやく口を開いた。
「聞こえてるか」
長い沈黙の後、扉の向こうから低い声がした。
「……聞こえている」
アベルは反射的に姿勢を正した。男の声を聞くのは久しぶりだった。以前より落ち着いているようにも聞こえたが、それだけで変化を決めつけることはできない。
「俺のことは分かるか」
「分かる」
「帝国へ行っていた」
「知っている」
「どうして?」
「母が言っていた」
そこで声が途切れた。
「母さん、怒ってた?」
リーナが尋ねた。
「……怒っていた」
「お兄さんのこと?」
「いろいろなものに」
アベルはその答えを聞き逃さなかった。
「お前にも?」
返事はなかなか来なかった。
「……分からない」
以前なら、『悪いのは自分だ』と即座に答えていたのではないか。少なくとも、アベルにはそう思えた。
「リーナを殺さなかったことについて、母親は何か言っているのか」
「何度も」
「何を?」
「間違っていると」
「お前が?」
「そうだ」
「お前自身も、そう思ってるのか」
また沈黙した。
「母がそう言っている」
「それは聞いた。俺が聞いてるのは、お前がどう思ってるかだ」
扉の向こうから何も返らない。リーナがアベルの袖を引いた。
「急にいっぱい聞いたら困るんじゃない?」
「そうかもしれない」
アベルは少し間を置いた。
「じゃあ一つだけ。あの夜、お前はリーナを殺さなかった。母親が殺せと言っていたのに」
「……そうだ」
「どうしてだ」
男は答えなかった。
「母さんが言わなかったからじゃないよ」
リーナが口を挟んだ。
「いっぱい殺せって言ってたしね」
向こうの気配がわずかに揺らいだ。
「私を殺すの嫌だった?」
「……嫌だった」
「じゃあ、おじさんが決めたんでしょう」
「何を」
「私を殺さないって」
男は黙った。アベルはリーナの言葉を遮らなかった。
「お母さんは殺せって言った。でも、おじさんは嫌だって言った。だから殺さなかったんでしょう?」
「……そうなのか」
聞き返す声には、本当に分かっていない響きがあった。アベルは扉へ視線を向けたまま言った。
「俺たちが見た限りでは、そうだ。母親に殺せと言われても、お前は従わなかった。だからリーナは生きている。」
「だが、私は……」
「何だ」
「食卓を守らなければならない」
その言葉だけは、迷いなく出た。
「誰が決めた」
「皆が願った」
「誰が?」
「村の者たちが」
「お前が望んだのか」
「皆が願った」
同じ答えだった。
「お供えを受けて、食卓を守る神になりたかったのか」
「私は、食卓を守らなければならない」
「だから、誰がそう決めたんだ」
「皆が」
アベルはそこで口を閉じた。男がふざけているわけではないことは分かっているが、問いに答えようとすると、母親や村人から与えられた言葉へ戻ってしまう。
「おじさん」
リーナが言った。
「前に絵の話したの、覚えてる?」
「覚えている」
「おじさん、絵を描くの好きだったんでしょう?」
「……そうだ」
「でも、お母さんがやめた方がいいって言ったからやめた」
「母は、あの子が私を馬鹿にしていると言った」
「本当に?」
男は答えなかった。
「その女の子が、おじさんにそう言ったの?」
「言っていない」
「じゃあ、どうして?」
「母がそう言った」
リーナは首を傾げた。
「でも、それってお母さんが思っただけでしょう?」
男はすぐには答えなかった。
「……そう、なのか」
男の声はひどく小さかった。アベルはその言葉を聞きながら、以前リーナから聞いた話を思い返した。絵の上手い少女がいた。エルゼはその少女をけなし、少女も男を馬鹿にしていると言い続けた。男は絵をやめ、少女から離れた。
「その子から離れろとも言われたのか」
「母は、あの子といると私が傷つくと言った」
「実際に傷つけられた?」
「……分からない」
「少なくとも、お前はその子と遊んでいたんだろ」
「ああ」
「楽しかった?」
「……楽しかった」
男が答えるまでに、少し時間がかかった。
「父親は?」
アベルは尋ねた。
「母親は父親のことを何と言っていた」
「父は、母を分かっていなかった」
「最初から?」
「……いや」
アベルは男の言葉を待った。
「父は、母と一緒に家を出たと言っていた。母の味方だった」
「それでも後には、分かってくれない人間になった」
「そうだ」
返事が少しずつ遅くなる。
「村の人間は?」
「母を馬鹿にしていた」
「全員か」
「母が、そう言った」
また同じ言葉だった。だが、今度は男自身がそれに気づいたようだった。それからしばらく、何も聞こえなかった。アベルは追い立てなかった。
「おじさんのお母さんって、みんなに怒ってたんだね」
リーナが言った。
「……そうだったかもしれない」
「ずっと?」
「昔から、よく怒っていた」
「でも、お父さんは最初は味方だったんでしょう?」
「ああ」
「村の人だって、ずっと意地悪だったわけじゃないんでしょう?」
アベルはリーナを見た。百年前の飢饉の中でも、村人たちは最初から親子を排除していたわけではない。配給を減らしたことや、その後の惨劇は別としても、少なくともすべての人間が最初からエルゼを敵視していたわけではなかった。
「死んだ後は、お前だけじゃなく母親にも供え物が置かれた」
アベルが続けた。
「村人は二人とも祀った。お前たちを神として扱った」
扉の向こうから、微かな声がした。
「母は、当然だと言っていた」
「何が?」
「自分たちが祀られることが」
アベルはそれ以上踏み込まなかった。だが、男の中では何かが繋がり始めているようだった。
父親は家を出てまで母親を選び、村人たちは死後の母親まで息子と一緒に祀った。息子である自分も、生前から死後まで母親の言葉を聞き続けてきた。大切にされたことは、確かにあった。それでもエルゼは、いつも自分だけが軽んじられ、裏切られ、不当に扱われていると語っていた。
「……母は」
男が言った。
「いつも、足りないと言っていた」
「何が?」
「分からない」
男はそこで黙り込んだ。アベルも、それ以上は問いかけなかった。今ここで無理に結論まで出させる必要はない。答えをこちらから与えれば、それもまた誰かの言葉を男へ押しつけることになる。しばらくして、リーナが再び口を開いた。
「ねえ、おじさん」
「何だ」
「神様やるの、楽しい?」
「……楽しい?」
「だって、ずっとやってるし?」
「私は、食卓を守らなければならない」
「それはもういいよ。おじさんはやりたいの?」
男が黙る。
「前にさ、絵を描くのに、お母さんは関係ないって言ったでしょ?」
「覚えている」
「じゃあさ、おじさんが嫌なら、やめればいいんじゃない?」
アベルは思わずリーナを見た。本人は難しいことを言ったつもりはないらしく、膝の上の紙を折れないように直している。
「……やめる」
男が繰り返した。
「神を?」
「うん」
「そんなことは」
「できないの?」
「私は、皆に願われた」
「でも、おじさんが願ったんじゃないでしょう」
アベルは静かに続けた。
「母親が望んだことも、村人が祈ったことも、お前が決めたことじゃない」
「だが、百年も」
「百年続いたことと、お前が望んだことは別だ」
扉の向こうから、息を吐くような音がした。
「供え物を受けることも、祈られることも、食卓を守ることも、お前が望んだのか」
今度の沈黙は長かった。
「……分からない」
「じゃあ、最初に戻ればいい」
「何に」
「お前は神になりたかったのか」
リーナも、今度は口を挟まず待っていた。やがて、低い声がした。
「なりたくなかった」
アベルは動かなかった。
「祈られたかったわけでもない」
男は一つずつ確かめるように続けた。
「供え物が欲しかったわけでもない。食卓を守りたかったわけでも……ない」
「じゃあ、やめればいいよ」
リーナが言った。
男はしばらく何も答えなかった。
「……やめても、いいのか」
「いいよ」
あまりにも簡単な返事だった。だが、男にはそれくらいの言葉が必要だったのかもしれない。
「私は、神ではない」
男が言った。
「皆が、そう呼んだだけだ」
「そうだ」
アベルが答える。
「お前自身がそう名乗ったわけじゃない」
男の気配が扉の向こうでわずかに動いた。
「なら、もう……しなくていい」
リーナが笑った。
「じゃあ絵も描けるね」
「……それは、分からない」
「どうして?」
「もう描き方を覚えていない」
「教えてあげるよ」
「君が?」
「私の方が上手いかもしれないけど」
男は返事をしなかったが、消えもしなかった。
アベルは、そのやり取りを聞きながら、もう一つだけ確かめておかなければならないことを考えていた。男が神をやめると決めたからといって、それだけで人を殺さないとは限らない。
「もう一つ、聞いてもいいか」
「……何だ」
「リーナを殺さなかった時、お前は自分で殺したくないと思ったんだな」
「……ああ」
アベルは少し間を置いた。
「もし、また母親に誰かを殺せと言われたら、どうする」
返事はなかった。アベルは急かさずに待った。扉の向こうの気配も消えない。
「相手が食卓の決まりを破った人間でも、リーナ以外でも。今度また、母親がお前に同じことを命じたら、お前はどうしたい?」
長い沈黙のあと、男が答えた。
「……殺したくない」
「そうか」
アベルはそれだけ返し、少し待ってから尋ねた。
「母親に何を言われても?」
また少し間があった。
「……殺さない」
今度の言葉には、先ほどより迷いが少なかった。アベルはそこで問いかけるのをやめた。リーナが扉へ向かって言った。
「それ、すごくえらいよ」
男は何も答えなかった。ただ、扉の向こうの気配は消えず、そのまましばらくそこに残っていた。
アベルには、これまでとは違う沈黙に思えた。母親が何を言ったのかでもない。村人が何を望んだのかでもない。百年間与えられてきた役割でもない。自分が何をしたかったのか。男は初めて、その答えを自分の中から見つけ始めていた。




