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ヴァルデン地方の始まりの晩餐  作者: トモエ


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第八章 調査官の責任

 その日は、そこで切り上げることになった。宿へ戻るまでにも、アベルは何度も後ろを振り返った。エルゼの姿は見えなかったが、人混みの中で誰かが立ち止まるたび、アベルの目がそちらへ向いた。

 

 部屋へ戻ると、オスカーはすぐに荷物をまとめ始めた。予定通り今日中には街を出る。これ以上帝国内に留まったところで、二人だけで無差別に起きる怪異を止めることはできない。

 アベルは机の前に座り、パンを子供へ分けた父親、その傍らに現れたエルゼ、自分との会話と挑発、変わっていったエルゼの姿、その直後に襲われた食事とは無関係の男まで、順に書き残していった。最後の一行を書いたところで、手が止まった。

 

「……俺が余計なことを言わなければ」

 オスカーが荷物から顔を上げた。

「何です?」

「あの男は襲われなかったかもしれません」

 返事はすぐにはなかった。アベルは紙を見たまま続ける。

「今まで聞いた事件は、全部食事がきっかけでした。今日最初に襲われた父親もそうです。でも、俺がエルゼと話した後は違った」

「話を聞いた限りでは、そうですね」

 否定されなかった。アベルは顔を上げた。

「俺のせいだと思いますか」

 オスカーは少し考えてから、寝台の端へ腰掛けた。

「あなたが何も言わなければ、あの女がずっと食事にこだわっていたかどうかは分かりません」

「……はい」

「いずれ同じことをした可能性もあります。逆に、しなかった可能性もある。そこは分かりません」

 オスカーはそこで一度言葉を切った。

「ただ、あなたが挑発した直後に、今までとは違うことが起きた。それは事実です」

 アベルは黙って聞いた。

「だから、きっかけになった可能性は高いでしょうね」

「やっぱり、そうですよね」

 オスカーは立ち上がり、机の上の紙を一枚手に取った。

 

「あなたがあの女に腹を立てる理由は分かります。私も今日見たものだけで十分嫌いになりました。ただ、軍の仕事で帝国まで来ている以上、腹が立ったから挑発した、では済まないでしょう」

 アベルは返す言葉を探したが、見つからなかった。

「軍に所属したから、ここまで来られた。将軍から情報ももらえるし、私みたいなのも付けてもらえる。そういう立場を使うのは構いません」

 オスカーは紙を机へ戻した。

「でも、使うなら、その立場で何をしたかにも責任は持たないと」

「……はい」

「別に、もう何もするなと言ってるわけじゃないですよ。怪異相手に何が正解かなんて、私にも分かりません。ただ、次に同じことをするなら、腹が立ったからじゃなく、必要だからやってください」

 アベルはしばらく何も言わなかった。

「分かりました」

 

 ようやくそう答えると、オスカーはそれ以上続けず、また荷物をまとめ始めた。

 アベルは机の紙へ目を戻した。エルゼが息子を支配していたことは、もう疑っていない。祈り所で見たやり取りも、帝国で聞いた証言も、その考えを裏づけていた。 相手が気にしていることを責め続け、エルゼの言うことが正しいと思わせ、最後には自分で考えることさえできなくする。男はそれを、生きていた頃から受け続けていたのかもしれない。

 だからこそ、リーナを殺せという命令に『嫌だ』と答えた男を見た時、アベルはその拒絶に希望を感じた。母親に初めて逆らったことで、自分の意思を取り戻せるかもしれない。そう考えるうちに、いつの間にか男を「母親に支配された側」として見ることが増えていた。

 だが、それだけではない。アベルは目を閉じた。母の首が折れた夜を忘れたことなど、一度もなかった。あの男が殺した。エルゼに命じられていたとしても、実際に手を伸ばし、首を折ったのは男だった。母だけではない。村でも、ルーエンでも、百年以上にわたって何人もの人間を殺している。

 

「……俺、あの男に感情移入しすぎてたのかもしれません」

 オスカーが振り返る。

「……調べているうちに、あの男のことを分かったような気になっていた。母親にああやって言われ続けてた事情を知ってから、あの人も被害者なんだと思うようになって。それで、エルゼの方に腹が立って」

「それで今日のあれですか」

「そうです」

 オスカーは少しだけ眉を上げた。

「自覚があるなら、次は気をつけられるでしょう」

 それだけだった。責められなかったことが、かえってアベルには重かった。

 

 アベルは机の上の記録へ目を落とした。調べるために追いかけ、少しでも正体へ近づこうとしてきた。その途中で、知ったことに引きずられて腹を立て、余計な言葉までぶつけた。その直後に被害が広がったことだけは、言い訳のしようがなかった。

 

 夕方、二人は予定通り街を出た。帝国側の街道を離れ、人目を避けながら国境へ向かう。来た時と同じ道を戻っているはずなのに、アベルには景色が違って見えた。道中で人影を見かけるたび、その中にエルゼがいないか目を凝らした。誰かが急に立ち止まれば、それだけで足が止まりそうになる。無差別になった被害が、この街だけで終わる保証はない。しかも、そのきっかけを作った可能性があるのは自分だった。

 今すぐ戻って止める方法があるなら、そうしたかった。しかし、エルゼへ剣を向けても触れられるかどうかすら分からず、声を聞いた人間一人一人を守ることもできない。残ることが責任を取ることになるわけではなかった。今は、自分に都合の悪いことも含め、帝国で知ったことをすべて持ち帰って報告するしかなかった。王国側の監視地域へ入ったところで、オスカーがようやく肩の力を抜いた。

 

「ここまで来れば、ひとまず大丈夫ですね」

「ええ」

「帰ったら将軍への報告ですか」

「はい」

「挑発した件も?」

「全部話します」

 オスカーが横目でアベルを見る。

「私から報告する前に、自分で話してくださいね」

「そのつもりです」

「そうですか」

 オスカーは小さく笑った。アベルは振り返らなかった。帝国で何人がこれからエルゼの被害に遭うか分からない。自分の行動がその一端になった可能性から逃げるつもりはなかった。そして、男についても同じだった。男が母親に支配されていたことは事実だ。だが、それは人を殺してきたことの免罪にはならない。事情を知るうちに、アベルはいつの間にか、支配されていたことと加害者としての責任を混同しかけていた。


 ルーエンへ戻ったのは、それから数日後だった。


 国境を越えてからも街道沿いには軍の検問が続いていたが、自国の兵士の姿を見かけるたび、オスカーの警戒は少しずつ解けていった。最後の検問で身分を確認され、ルーエンへ続く道へ入ったところで、彼はようやく深く息を吐いた。

「怪異がいる街へ帰ってきて安心する日が来るとは思いませんでした」

「帝国へ行く前は、怪異なんて信じてなかったでしょう」

「今でも信じたくはないですよ」

 オスカーはそう言ったが、以前のように笑い飛ばしはしなかった。

「見えない女に話しかけられた人間が、自分で首を絞めるところまで見せられたら、信じざるを得ないでしょう」


 ルーエンへ入ると、アベルは真っ先に軍の施設へ向かった。帝国で書きためた記録は鞄の中にまとめてある。聞き取った証言、発生場所、時間、被害者が直前に何をしていたか。その中には、自分がエルゼへ言った言葉も、その直後に起きた変化も書いてあった。


 ヴァイゲルトは報告を受けると、その日のうちに二人を呼んだ。執務室へ入った時、机の上にはすでに帝国側から集められた報告書が何枚も広げられていた。アベルが不在にしていた間にも情報は届いていたらしく、国境に近い街だけでなく、その周辺でも首を絞める自殺や未遂が確認されているという。

「座れ」

 ヴァイゲルトはそれだけ言い、アベルが差し出した記録を受け取った。

「最初から話せ」


 アベルは帝国へ入ってから確認したことを順番に説明した。首を絞めようとした人間の多くが、その直前に食事を譲るか、分けるか、他人の分へ手を出していたこと。生存者は女の声を聞いており、繰り返し責められるうちに自分が悪いと思い込まされ、最後には首を絞めるよう命じられていたこと。

「男は?」

「一度も見ていません」

「女だけか」

「少なくとも、俺が確認した範囲では」

 ヴァイゲルトは記録へ目を落とした。

「女は人間に触れたのか」

「それも確認できませんでした。俺が見た時も、父親自身が自分の首を絞めていました。俺たちが止めれば手を離させることはできたので、以前みたいに直接首を折っているわけじゃありません」

「息子がいなければ、同じ殺し方はできんということか」

「そうだと思います。ただ、声を聞かせることはできる。それで本人にやらせている」

 ヴァイゲルトは短く息を吐いた。

「面倒になったな」

 オスカーが隣で頷いた。

「ええ。見えない相手に首を絞められるならまだ止めようがありますが、自分でやっているように見えるので、周りからは怪異だと判断できません」

「お前にも女は見えたのか」

「いいえ。私は一度も」

「声は」

「聞いてません」

 ヴァイゲルトは今度はアベルを見る。

「お前には見えた」

「はい。父親のすぐそばにいました。以前ルーエンであなたが見たのと同じ老女だと思います」

「エルゼ・ハルトマン」

「おそらく」


 そこまで話したところで、アベルは一度口を閉じた。ヴァイゲルトは続きを促さなかった。記録を一枚めくり、黙ったまま待っている。アベルは膝の上で手を握った。

「それから、俺がエルゼを挑発しました」

 ヴァイゲルトの手が止まった。

「何を言った」

「息子に見捨てられたら、その程度なんだな、と」

 視線が上がった。

「なぜそんなことを言った」

「腹が立ったからです」

 答えてから、アベルは続けた。

「調査のために必要だと判断したわけではありません。息子をずっと支配していたことも、帝国で人を責め続けて自殺させようとしていたことも見て、感情的になりました」

 ヴァイゲルトは何も言わない。

「エルゼはそのまま消えました。その直後、近くにいた男が自分の首を絞め始めました。その人は食べ物を誰かに譲ってもいないし、奪ってもいません。それまで調べた事件とは違います」

「確認したのか」

「はい。オスカーも一緒にいました」

 ヴァイゲルトの目が隣へ移った。

「ベルナー」

「その通りです」

 オスカーは姿勢を正した。

「挑発する前に我々が確認した事件は、聞き取りができた範囲ではすべて食事に関係していました。ですが、最後の男にはそれがありませんでした」

「偶然の可能性は」

「あります。ただ、現象が変わった時期として無視はできないと思います」

 

 オスカーはそこで口を閉じた。アベルを庇う言葉も付け加えなかった。ヴァイゲルトはしばらく記録を読んでから、紙を机へ置いた。

「つまり、お前が余計なことを言ったせいで、女が食卓を守る神としての役割そのものを捨て始めた可能性があると」

「はい」

「帝国でこれから増える被害について、お前が全部責任を取れるのか」

「取れません」

「そうだろうな」

 低い声だったが、怒鳴られることはなかった。

「なら覚えておけ。調査官なら、相手を嫌いだからでも、可哀想だからでもなく、自分が何のために動くのかは見失うな」

「はい」

「怪異相手だから手順書なんぞない。時には刺激する必要もあるだろう。危険を承知で試さなければ分からんこともある」

 ヴァイゲルトはアベルの記録を指で叩いた。

「だが、次に何かする時は、失敗した後で理由を探すな。やる前に、その行動で何を確かめるつもりなのか、自分で答えられるようにしておけ」

「分かりました」

 

 ヴァイゲルトはそれ以上その件を責めず、再び記録へ目を落とした。

「それで、息子の方は帝国にいなかった」

「少なくとも確認できませんでした」

「ルーエンで娘を殺さなかった後から、母親だけが帝国で動き始めた。母親は息子がいなくても人間へ干渉できるが、以前のように直接殺すことはできず、人間自身にやらせている」

「はい」

「しかも今は、無差別に人を襲い始めている」

 ヴァイゲルトは椅子へ背を預けた。

「親子を一つの怪異として考える必要は、もうなさそうだな」

 アベルも頷いた。

「俺もそう思います」

「母親が命じ、息子が殺す。あの形が崩れても、二人とも消えはしなかった。だが、やり方が変わった」

「はい。エルゼが何でもできるなら、最初から息子に殺させる必要はなかったはずです」

 ヴァイゲルトは報告書を閉じた。

「母親をどうにかする方法は引き続き探す。ただし、それと息子をどうするかは別に考える」

「はい」

 その返事をした時、アベルは、これまで考えていたことをもう一度整理した。リーナを殺さなかったことで、母親が命じても男が従わなければ、これまでと同じ形では人を殺せないことが分かっている。帝国でも、男がいないエルゼは人間へ直接手を下さず、声で追い詰める方法を取っていた。ならば、男と母親の関係をさらに崩すことができれば、エルゼの力を弱められる可能性がある。ヴァイゲルトは立ち上がり、帝国から持ち帰った記録をまとめた。

「今日は休め。ベルナーもだ。二週間近く敵地を歩いて帰ってきた人間を、そのまま次の仕事に放り込むほど人手には困っていない」

「珍しいですね」

 オスカーが言うと、ヴァイゲルトが睨んだ。

「明日から働けという意味だ」

「安心しました。いつもの将軍ですね」


 オスカーは立ち上がった。出発前なら怪異についての報告をどこか他人事のように聞いていた男が、机に残された資料を一度振り返る。

「一つだけいいですか」

「何だ」

「帝国で聞いた声の話ですが、あれは普通の尋問や脅しとは違います。何度も同じことを言われて、自分が悪いと思わされたと言っていた人間が何人もいました」

 オスカーは少し眉を寄せた。

「言葉というより、呪詛に近い。聞かされ続けるうちに、考え方そのものをねじ曲げられていく感じです」

 オスカーは少し考えてから続けた。

「見えないから余計に厄介です。兵士でも、あれを長く聞かされたらどうなるか分かりません。念のため、兵士の単独行動は制限した方がいいかと」

 ヴァイゲルトは短く頷いた。

「対策に入れておく」

 アベルはオスカーを見た。帝国へ向かう前、怪異の調査を半ば「お化け退治」と呼んでいた男は、もう笑っていなかった。


 二人で執務室を出ると、外はすでに暗くなり始めていた。軍の敷地を出る前、アベルは祈り所の方へ目を向けた。今日の分の食事はすでに運ばれたらしく、入口には確認を終えた兵士が一人立っている。毎日同じ時間に二人分を置き、誰も触れていないことを確認する。それだけの作業が、今も続いている。


 エルゼは帝国にいる。ならば、男はどこにいるのだろう。以前のアベルは、母親から引き離すことができれば、あの男を救うこともできるのではないかと、どこかで考えていた。だが、それは自分が事情を知っただけで、相手のことまで分かったつもりになった驕りに過ぎない。そもそも、多くの人間を殺してきた男を救えるかどうかなど、アベルが考える立場にはなかった。それでも、母親との関係を崩すことで怪異を弱められる可能性があるなら、調べる意味はある。今も人が傷つき、死んでいる以上、それを止めることこそが、軍の調査官となったアベルに与えられた役目だった。

 今できるのは、確認した事実を積み重ねることだけだった。男が何を望んでいるのか。そして、自分が何をしてきたと思っているのか。


 次に会えた時は、そのどちらからも目を逸らさず向き合うと決めた。

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