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ヴァルデン地方の始まりの晩餐  作者: 巴


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第七章 挑発の代償

 帝国での調査最終日、アベルとオスカーは朝から市場へ出た。

 

 昨日までに話を聞けた生存者は二人。どちらも最初に食事のことを責められ、そこから自分が気にしていたことを次々に囁かれ、最後には自分の首を絞めていた。女の声を聞いたという証言も一致している。

 ただ、それだけでは足りなかった。アベルは母親が関わっていると考えていたが、姿を見た者はいない。男を見たという話も見つからなかった。

「今日何も出なければ、昼過ぎには戻る準備をしましょう」

 人混みを歩きながら、オスカーが言った。

「そうですね。ヴァイゲルト将軍にも四日間と言われていますし」

「約束を破って帝国に居残るのは勘弁してくださいね。連れ戻すのは私なんですから」

「そこまではしません」

「安心しました」

 市場には朝から人が多かった。戦争の影響で以前より品数は減っているらしいが、野菜や穀物、布、日用品を扱う店が道の両側に並び、焼いた肉やパンの匂いも漂っている。聞き込みを続けながら歩いていると、オスカーが何人かの商人と言葉を交わしたが、新しい情報は得られなかった。

 

 昼が近づいた頃、アベルは通りの向こうで子供の声を聞いた。

「僕も食べたい」

「分かった、分かった」

 屋台の前に、父親らしい男と十歳にもならない子供がいた。男は焼きたての丸いパンを一つ買い、紙に包まれたそれを持って歩き出す。子供が隣から覗き込むと、父親は笑いながらパンを二つに割った。

「熱いから気をつけろよ」

 大きい方を子供へ渡す。何でもない光景だった。アベルが足を止めたのは、そのすぐ後だった。父親の動きが止まった。パンを持つ手が宙で止まり、顔から血の気が引いていく。

「お父さん?」

 呼ばれても返事をしない。男の手から残ったパンが落ちた。

「どうしました?」

 アベルが近づこうとした時、男は突然両手を自分の首へ回した。

「おい!」

 オスカーが先に走った。男は両手で喉を掴み、そのまま力を込めた。顔が歪み、オスカーが後ろから腕を掴んだが、男は首から手を離そうとしなかった。

「手を離してください!」

「違う……違う……」

 男が掠れた声を漏らす。

「何が違うんです」

「俺は……そんなつもりじゃ……」

 アベルも片方の腕を掴んだ。二人がかりで指を引き剥がそうとしても、男は尋常ではない力で自分の首へしがみついている。

「お父さん!」

 子供が泣き出した。周囲の人間が騒ぎ始める。

「誰か、この子を!」

 オスカーが叫ぶと、近くにいた女が子供を抱き寄せた。アベルは男の右手の指を一本ずつ外した。二本、三本と剥がしたところで、男がまた力を入れる。

「悪かった……俺が悪かった……」

 呟きが聞こえた。アベルの手が止まりかける。

「何を言われたんです?」

「取った……分けた……勝手に……」

 男の視線はどこにも合っていない。

「誰に言われたんです」

「俺が悪い……」

 その時だった。男のすぐ後ろに、女が立っていた。アベルは息を呑んだ。灰色の髪を後ろへまとめた、痩せた老女だった。ルーエンで見た姿と同じだった。エルゼ。男の耳元へ顔を寄せ、何かを囁いている。周囲の人間は誰もそちらを見ていない。オスカーも男の腕を押さえたまま、老女には気づいていなかった。エルゼの唇が動く。何を言っているのか、アベルには聞こえない。だが、男の顔がさらに歪んだ。

「お前が悪い」

 男自身の口から、その言葉が出た。

「お父さんは悪くないよ!」

 子供が泣きながら叫ぶ。エルゼは子供を見もしなかった。アベルは男の腕をオスカーへ預けた。

「すみません、少し任せます!」

「どこへ」

 答えず、立ち上がる。エルゼがこちらを見た。視線が合った。老女の顔から、穏やかな表情が消えた。

「エルゼ・ハルトマン」

 アベルが名前を呼ぶ。女の目が大きく開いた。次の瞬間、エルゼは男のそばから離れた。人混みの中へ入っていく。

「待て!」

 アベルは追った。

「ちょっと!」

 背後でオスカーの声がしたが、振り返らなかった。エルゼは歩いているようにしか見えないのに、異様に速かった。市場を行き交う人々の間をすり抜け、誰ともぶつからず進んでいく。アベルは荷車を避け、露店の間を抜けて追った。

 女が路地へ曲がる。アベルも続いた。細い路地には人がいなかった。エルゼは少し先に立っていた。逃げるのをやめ、こちらを見ている。

「やっぱり、あなただったんですね」

 息を整えながらアベルが言う。エルゼは答えない。

「帝国でも人を殺している」

「殺してなんかいないわ」

 初めて声が返ってきた。

「自分でやっているだけでしょう」

 穏やかな声だった。

「悪いことをしたから、分からせてあげているの。あの人たちが自分で反省して、自分で罰を受けているだけ」

「首を絞めろと命じているだろう」

「私は正しいことを教えているだけよ」

 ルーエンで息子へ話していた時と同じ声だった。自分が命令しているのではない。相手のために教えているだけなのだと、本当にそう思っているように話している。

「息子がいなくても、できるんですね」

 エルゼの表情がわずかに変わった。

「何?」

「今までは、息子に人を殺させていた」

「違うわ」

「あなたが命じて、息子がやっていた」

「違う」

 声が低くなる。

「あの子が私を守ってくれていたの。あの子は分かっていたから」

「でも、もう言うことを聞かなかった」

 エルゼの頬が引きつった。

「黙りなさい」

「あの子を殺せと言っても、殺さなかった」

「黙れ」

「それから帝国では、自分で人を殺すこともできず、声で追い詰めて、自分の首を絞めさせている」

 エルゼの目が細くなる。

「……何が言いたいの」

「息子がいた頃は、もっと簡単に人を殺せたんでしょう。気に入らない人間がいれば、あの人に手を下させればよかった。でも今は、それすらできない」

「黙りなさい」

「息子に見捨てられたら、その程度なんですね」

 エルゼが動きを止めた。

 ほんの一瞬、何を言われたのか理解できなかったような顔をした。次いで、その顔が大きく歪んだ。

「見捨てられてなんかいない!」

 怒鳴り声が路地へ響いた。

「あの子は私の息子よ! 私のことを一番分かっているの!」

「だったら、どうして逃げたんです」

「あのガキのせいよ!」

 即座に返ってきた。

「あのガキが余計なことを言ったから! あの子は昔から優しい子なの。人に騙されやすいのよ。私がいないと何も分からない。何が正しいのかも、自分が何をしたらいいのかも!」

 アベルは何も言わずに見ていた。エルゼの背が、先ほどより伸びているように見えた。曲がっていた腰が少しだけ真っ直ぐになっている。気のせいかと思ったが、そうではなかった。深く刻まれていた頬の皺が薄い。灰色一色だった髪にも、ところどころ暗い色が混じっていた。エルゼは、自分の変化を気にする様子もなかった。

「村の人間もそうだった。何も分かってないくせに、私のことばかり悪く言った。夫だってそう。最初は私の味方だったのに、最後にはあいつらと同じになった」

 先ほどまでの老女の口調ではなかった。言葉が速くなり、息継ぎもせず続く。

「それでもあの子だけは違ったの。あの子だけはずっと私の味方だった。百年よ。百年ずっとそうだったのに、あんたたちが余計なことをした!」

「俺たちは何もしていません」

「したでしょう!」

 エルゼが叫ぶ。

「あんたが調べた! あのガキが話した! みんなであの子を私から離そうとしてる!」

「誰もあなたから奪っていません」

「嘘よ!」

 壁へ何かが叩きつけられたような音がした。石壁の一部に細い亀裂が走る。

「みんなそう言うの。私は何も悪くないのに、いつも私が悪いことにされる。両親も、夫も、村の人間も。今度はあんたたちまで」

 エルゼの声は、もう母親が子供を諭す声には聞こえなかった。

「お前たちがいなければ、あの子はちゃんと私の言うことを聞いてたのに」

「それを、本人に聞いたんですか」

 アベルが静かに言う。エルゼが睨む。

「必要ないわ」

「どうしてです」

「母親なんだから分かるに決まってるでしょう!」

 答えた瞬間、エルゼの姿が揺らいだ。顔立ちがさらに変わった。市場で見た時より明らかに若くなっている。垂れていた頬が上がり、目元の皺も減っている。髪の根元には灰色ではない色が広がっていた。アベルはその変化を見つめた。エルゼ自身は、自分が少しずつ若返っていることに気づいているのだろうか。

「もういい」

 女が言った。

「何がです」

「こんな人たち、どうでもいい」

 声に先ほどまでの取り繕った優しさはなかった。

「ちゃんと食べない人も、私の言うことを聞かない人も、私を馬鹿にする人も、みんな同じよ」

 アベルの眉が動いた。

「同じ?」

「私を怒らせるんだから」

 エルゼは笑った。その笑い方は、老女のものではなかった。

「悪いことをしたかなんて、もうどうでもいい」

 アベルが一歩踏み出した。

「待て!」

「嫌よ」

 エルゼの姿が薄くなる。

「エルゼ!」

「あの子だって、すぐ戻ってくるわ」

 最後までそう言い切り、女は消えた。アベルはしばらくその場に立っていた。

 少し遅れて、路地の入口からオスカーが走ってきた。

「どうしたんですか。急に」

「いました」

「誰が?」

「エルゼです。さっきの男のそばにいた」

 オスカーは路地の奥へ視線を向けたが、そこにはもう誰もいなかった。

「私には何も見えませんでした」

「やっぱり、見えてなかったんですね」

「あなたが突然人混みを抜けて走り出したところしか」

「目が合ったら逃げたんです。ここまで追ってきたんですが、消えました」

「それで、どうなったんですか?」

「少し話せました」

「幽霊と、何を話すんですか?」

 アベルは答えず、わずかに眉を寄せた。その反応を見て、オスカーも表情を改める。

「……その顔だと、穏便な話ではなさそうですね」

 アベルは答えなかった。

「さっきの父親は?」

「周りの人に任せました。首から手は離れています。子供も無事です」

「よかった」

 アベルは頷いた。

「戻りましょう」 

 市場へ戻る途中、通りの角で人が騒いでいた。二人が近づくと、一人の若い男が地面へ押さえつけられている。数人が腕を掴み、首へ伸ばそうとする手を必死で止めていた。

「またか」

 オスカーが駆け寄る。アベルも続いた。

「何をしていた人です?」

 近くにいた男へ尋ねる。

「何って、歩いてただけだよ。急に止まって、自分の首を絞め始めたんだ」

「食事は?」

「食事?」

「何か食べたり、誰かに渡したりしていませんでしたか」

「よくわかんないけど、何もしてないよ。ずっと一人で歩いてた」

 アベルは倒れている男を見る。

「うるさい!」

 男が叫んだ。

「大丈夫ですか?」

「女が……うるさい……」

 両腕を押さえられながら、男は首を振った。

「俺が気に入らないって……偉そうに歩くなって……何様だって……」

 オスカーがアベルを見る。これまでとは違う。パンを分けたわけでも、食事を奪ったわけでもない。ただ歩いていただけの人間が、女の声に責められている。アベルは先ほどのエルゼの言葉を思い出した。悪いことをしたかなんて、もうどうでもいい。男の手を押さえる人数が増え、ようやく首へ伸ばそうとする力が弱まった。

「……今の、関係ありますか」

 オスカーが低い声で尋ねた。

「おそらく」

「何をしたんですか、あなた」

「話しました」

「何を?」

 アベルは少し黙った。

「息子に見捨てられたら、その程度なのかと」

 オスカーは一度目を閉じた。

「随分と思い切ったことを言いましたね」

「すみません」

「私に謝られても困ります」

 そう言いながらも、オスカーの目は笑っていなかった。

 二人はもう一度、地面に押さえられている男を見る。これまでエルゼは、祀られていたから、食卓の決まりに触れた者を責めていた。それさえ、なくなった。アベルが初めて見た時、エルゼは年老いた女だった。先ほど消える直前の顔は、少し若くなっていた。あれが何を意味するのかは分からない。ただ一つ分かるのは、息子が従わなくなったことで怪異が弱まったわけではないということだった。


 エルゼは、自分を縛っていたものまで捨て始めていた。

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