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ヴァルデン地方の始まりの晩餐  作者: 巴


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第六章 自責の囁き

 帝国側から入る報告の内容が変わり始めたのは、リーナが祈り所の食事へ手を出してから十日ほど経った頃だった。

 

 ヴァイゲルトの執務室へ呼ばれたアベルは、机の上に並べられた数枚の紙へ目を通した。いずれも国境付近から密かに集められた情報で、帝国軍の動向や物資の輸送状況に混じって、不可解な死亡事件についても記されていた。

「減っていますね」

「ああ」

ヴァイゲルトは椅子へ深く腰掛けたまま答えた。

「扉を叩く音を聞いたという話も、首を折られて死んだ者の報告も減っている。完全になくなったわけではないが、少なくとも一月前までとは明らかに違う」

 

 アベルは一枚を横へ避け、次の紙を手に取った。怪異の被害が減ったのなら、それだけを見れば悪い報告ではない。だが、新しく記されるようになった死亡原因に目を通すうち、その考えはすぐに消えた。

「自殺ですか」

「そう処理されている」

 首を吊ったわけでも、刃物を使ったわけでもない。死者は皆、自分の両手で首を絞めていた。死亡した者だけではなく、家族や通行人に止められて未遂に終わった例もある。突然何かに怯えたような様子を見せ、その直後に自分の首へ手をかけたという証言が、複数の街から上がっていた。

「自分で自分の首を絞めて、死ねるものなんですか」

「普通は無理だろう」

ヴァイゲルトが答えた。

「意識を失えば手も緩む。だが、この報告では、気を失いかけても手を離さなかった者がいるらしい。家族が指を一本ずつ外して止めたとある」

 アベルはもう一度紙を読む。発生しているのは、以前から怪異の噂が多かった帝国側の国境都市と、その周辺だった。

「時期は」

「お前もそこを見ると思っていた」

 ヴァイゲルトが別の紙を差し出した。日付がまとめられている。首を折られる死亡事件が減り始めた時期と、自ら首を絞める事件が増え始めた時期はほぼ重なっていた。そして、その境目は、男がリーナを殺さなかったあの夜に近かった。アベルは紙から目を上げた。

「男じゃない?」

「可能性はある」

「母親だけが動いているんじゃないでしょうか」

 ヴァイゲルトはすぐには答えず、指で机を二度叩いた。あの夜、母親が命じても男は動かなかった。そしてリーナは生き残った。帝国で首を折られる死者が減ったのも、それ以降だ。

「だが、なぜ母親が帝国でも動けるのかは分からん」

「そもそも、どこにいるという言い方ができる相手なのかも分かりません」

「それもそうだ」

 一度つながってしまえば、怪異に国境や距離は関係ないのかもしれない。帝国の誰かがルーエンのお供えへ触れたことが原因なら、その時点で帝国まで連れて帰ってしまったのかもしれない。だが、それも推測にすぎなかった。アベルは報告書へ視線を戻した。

「生き残った人間はいないんですか」

「いる」

ヴァイゲルトは待っていたように一枚抜き取った。

「三日前。国境から二つ目の街だ。市場で突然自分の首を絞め始めた男を、周囲の人間が取り押さえている。その前にも似た例が二件ある」

「話を聞けますか」

「王国の調査官が、敵国の人間に正面から聞けるならばな」

アベルは黙った。ヴァイゲルトの口元がわずかに動く。

「行く気か」

「ここで紙を読んでいるだけでは、母親が関わっているかどうか確かめられません」

「お前は軍人になったわけではない」

「軍所属にはなりました」

「便利なところだけ使うな」

 そう言いながらも、ヴァイゲルトは止めなかった。帝国だけで人が死んでいるのなら、王国がわざわざ手を出す理由はない。まして今は戦争中だった。

 だが、相手が人間の軍隊ではなく、国境も戦況も関係ない怪異である以上、帝国で拡大したものが再び王国へ戻らない保証もなかった。

「四日間だ」

ヴァイゲルトが言った。

「現地で動けるのは、その程度にしておけ。往復を合わせれば、二週間はルーエンを空けることになる」

「分かりました」

「もちろん、一人では行かせん」

 

 アベルが顔を上げると、ヴァイゲルトは机の端に置かれた鈴を鳴らした。しばらくして扉が開き、一人の男が入ってきた。年齢はアベルより少し上に見える。軍服ではなく、どこにでもいる商人のような上着を着ており、髪も兵士のように短く整えられてはいなかった。

「お呼びですか、将軍」

「オスカー・ベルナー。しばらくこいつと帝国へ行け」

男はアベルを見た。次にヴァイゲルトを見た。

「しばらく、というのは?」

「二週間程度だ」

「内容は?」

「お化け退治だ」

オスカーの眉が上がった。

「それはまた、ずいぶんな任務ですね」

「怖いか」

「怖い話そのものは好きですよ。仕事でお化けを追いかけたいとは思いませんが」

そう言ってから、オスカーは改めてアベルを見た。

「あなたが噂の調査官ですか」

「どういう噂です」

「元時計屋が、仕事でお化けを追いかけている」

「だいたい合っています」

「本当に合ってるんですね」

ヴァイゲルトが咳払いをした。

「遊びに行かせるわけではないぞ」

「承知しています」

オスカーの表情から軽さが消えた。

「どの街へ入ります」

 ヴァイゲルトが地図を広げる。そこから先の会話は早かった。国境を越える場所、使う街道、帝国内での身分、滞在先、撤退時の経路。オスカーは一度説明を聞いただけで必要な点だけを確認し、地図の数か所へ指を置いた。アベルには分からない抜け道や検問の交代時刻についても、すでに頭へ入っているらしい。

「俺はどうすればいいですか」

「私の兄で」

「兄?」

「嫌なら従兄でもいいですが、二人の男が長期間一緒に動く理由が必要でしょう。行商なら荷が要る。職人なら道具が要る。親族なら何も要らない」

「分かりました」

「素直ですね」

「お化け退治より面倒なことは任せます」

「それは責任重大だ」

オスカーは笑ったが、地図を見る目は変わらなかった。


 出発は三日後になった。アベルは調査資料の一部を必要最小限だけ写し取り、帝国で得たい情報を整理した。首を絞めた者が何を見たのか。何を聞いたのか。その直前に食事へ関する行動があったのか。男を見た者はいるのか。老女を見た者はいるのか。そして、リーナとマルタにも、しばらくルーエンを離れることだけを伝えた。

「どこに行くの?」

「仕事だよ」

「遠い?」

「少し」

「おじさんを探しに行くの?」

アベルは答えに詰まった。

マルタが娘の肩を軽く叩く。

「何でも聞かないの」

「だって、おじさんのこと調べてるんでしょう」

「まあ、関係はあるかな」

リーナは納得したらしく頷いた。

「じゃあ、会ったら言っとく」

「何を」

「アベルいないよって」

「……会わなくていい」

「でも来たら仕方ないでしょ」

それはそうなのだが、できることなら、もうリーナの前には現れてほしくなかった。

「お母さんの言うことを聞いて、知らない相手には近づかない。祈り所にも入らない。分かった?」

「分かってる」

「前にもそう言って入っただろう」

「今度は入らないよ」

マルタが申し訳なさそうに頭を下げた。

「私も気をつけます」

 アベルはそれ以上言わなかった。あの男がまた現れないとは限らない。それでも、少なくとも今のところ、リーナへ危害を加える様子はなかった。しかし、あれは百年以上、人間を殺してきた怪異なのだ。あの夜の『嫌だ』という声を思い出すと、かつて人間だった頃の男のことを考えずにはいられなかった。

 

 出発の日、オスカーはすでに別人のような格好をしていた。着古した外套に泥のついた靴を履き、荷物も必要最低限しか持っていない。

「その顔で国境を越えるんですか」

「顔は替えられませんからね」

「そういう意味じゃなくて」

「安心してください。あなたよりは慣れています」

実際、その言葉に嘘はなかった。

 王国側の兵が管理する場所までは通常の街道を使い、そこから先は山沿いへ外れた。道と呼べるものがなくなってからも、オスカーは迷わず進み、日が落ちる前には古い炭焼き小屋へ辿り着いた。翌朝には帝国側へ入り、その日の午後には小さな集落で服を替えた。

「ここからは私が話します。余計なことを聞かれても、あなたは愛想の悪い兄で通してください」

「分かりました。やってみます」

「適性ありそうなんで、大丈夫ですよ」

 アベルは少しだけ眉を寄せたが、オスカーは気にした様子もなく歩き出した。

 

 帝国へ入ったからといって、風景そのものが大きく変わるわけではなかった。同じ山があり、同じような畑があり、道沿いには王国と変わらない木造の家が並んでいる。戦争中の敵国とはいえ、そこに暮らしているのは普通の人間だった。荷車を引く老人がいる。子供を叱る母親がいる。分かっていたことではあるが、それでも実際に歩いてみると、目の前の人々まで敵だと思うことはできなかった。

「何を見てるんです」

隣を歩くオスカーが尋ねた。

「普通だなと思って」

「帝国人に角でも生えていると思ってました?」

「そこまで馬鹿じゃありません」

「それならよかったです」

オスカーは前を向いたまま言った。

「こっちも、王国人を見れば同じことを思うでしょう。戦争は国同士でやるものですけど、巻き込まれるのは普通に暮らしてる人たちです」

 その言葉を最後に、オスカーはまた黙った。


 国境から最も近い街へ入ったのは、その日の夕方だった。城壁は低く、軍事拠点というより交易のために発展した街に見える。戦争の影響で通行人は少なかったが、市場にはまだ店が並び、宿も営業していた。

 オスカーは偽名で部屋を取り、宿の主人と雑談を交わしながら、翌朝には最近の死亡事件について聞き出していた。

「自殺ですよ」

宿を出てから、オスカーが言った。

「この街だけで三人。隣の都市ではもっと多いらしい」

「首を絞めた?」

「二人はそうです。一人は未遂。家族が止めた」

「食事の話は」

「まだ何も」

 

 そこから二人は、街を移動しながら聞き込みを続けた。正面から怪異について尋ねれば警戒されるため、オスカーは商売の話や戦争による治安悪化の話から自然に死亡事件へ移った。酒場では酔客から、宿では主人から、市場では商人から情報を集める。

 アベルは横で聞きながら、共通する点を書き留めていった。食事を人へ譲った者、自分の分を家族へ分けた者、反対に他人の皿からもらった者。細かな状況は違っていても、どの事件にも食事のやり取りがあった。以前と同じだった。

 違うのは、その後だった。これまでは男が現れ、人の首を折っていた。今は男の姿を見たという者はおらず、代わりに女の声を聞いた者が、自分自身の首へ手をかけている。

「やっぱり、食事は関係してますね」

 宿の狭い部屋で、アベルは集めた記録を並べた。

 オスカーが寝台の端へ腰掛ける。

「食事を分けたり、もらったりした人ばかりですか」

「今のところは」

「前に聞いた話と同じですね」

「同じです。ただ、殺し方が違う」

「前は、あの男が首を折っていた」

「はい」

「今は女の声に言われて、自分で首を絞める」

 アベルは頷いた。

「男がやらなくなった分を、母親が別のやり方で続けてるのかもしれません」

「ずいぶん執念深いですね」

「百年以上続けてますから」

 オスカーは少し嫌そうな顔をした。

「それはもう、執念深いというか、何というか……」

 アベルは再び記録へ目を落とした。隣の都市で起きている件数が最も多い。翌日、二人はそこへ向かった。


 生存者に会えたのは、到着した翌日だった。

 三十代半ばほどの女で、夫と二人で小さな織物店を営んでいる。事件以来ほとんど店へ出ておらず、オスカーが遠縁の商人を装って話をつけた。女は家の奥の椅子に座り、首へ布を巻いていた。自分の指で強く締めた痕が、まだ残っているらしい。

「急にだったんです」

 女は膝の上で両手を重ねていた。

「その時、何か見えたりはしましたか」

 オスカーが穏やかに尋ねる。女は首を振った。

「見てはいません」

「では、何か聞こえたんですか」

「声がしました」

 アベルが顔を上げる。

「男の声でしたか。それとも、女の声ですか」

 女の目がこちらへ向いた。

「女です」

「どんな声でした?」

「お婆さん……だと思います」

 アベルは手元の紙へ何も書かず、続きを待った。

「最初は、何を言っているのか分かりませんでした。誰かが後ろで話しているのだと思って振り返ったんです。でも、誰もいなくて」

「それでも、声は続いたんですね」

「はい」

 女の指が互いを強く握った。

「私が悪いって」

「何が悪いと?」

「分かりません」

「何か理由のようなことは言っていましたか」

「言っていたような気もします。でも、途中から……何が悪かったのか、本当に分からなくなって」

 女は一度口を閉じた。

「ちゃんとしなさいって。人のものを取ったでしょうとか、欲張ったでしょうとか。そんなことを言われたと思います。でも私、その日は店にいただけなんです。誰かのものなんて取っていません」

「突然こんなことを聞くのも失礼ですが、その日、食事のことで何か普段と違うことはありませんでしたか。誰かに分けたり、もらったりしたことでも構いません」

 アベルが尋ねた。

 女は考えた。

「昼に、夫のパンを少しもらいました」

 アベルの手が動く。

「それは普段からされていることですか」

「ええ。半分ずつにすることもあります」

「その日は、最初から半分ずつにしていたんですか」

「そんなこと、考えたこともありません」

 当然だった。普通の食卓で、誰が最初の配分など気にするだろう。

「そのあと、声は何と言っていたんですか」

 女は唇を舐めた。

「ずっと責められました」

「パンのことを、ずっとですか?」

「違います。最初はパンのことだったと思います。でも、そのうち、夫に迷惑をかけているとか、店の役に立っていないとか、子供も産めなかったとか……」

 オスカーがわずかに姿勢を変えた。アベルは女から目を逸らさなかった。

「それも、すべてその声が言ったんですか」

「はい」

 アベルは少し間を置いた。

「答えづらければ、無理に話さなくても構いません。その声が言ったことの中に、ご自身でも気にしていたことはありましたか」

 女は答えなかった。しばらくして、小さく言う。

「少しは」

 その返事をした瞬間、女の表情が崩れた。

「だから、だんだん本当に全部私が悪いような気がしてきたんです。夫はそんなこと一度も言ってないのに、きっと本当はそう思っているんだって。私がいなければ楽なんだって」

 膝の上の手が震えている。

「最後に、首を絞めろと言われました」

 部屋の空気が重くなった。

「……誰の首を、と言われたんですか」

 アベルが静かに確認する。女は自分の喉元へ手を置いた。

「自分のです」

「それで、ご自分の首に手をかけたんですか」

「嫌でした」

 即答だった。

「死にたくなんてなかった。でも、逆らえなくなっていたんです。その声が言うことが全部正しいような気がして。私が悪いなら、そうしないといけないって」

「その声の主の姿は、最後まで見えなかったんですね」

「見ていません」

「ほかに、男の姿を見たりはしませんでしたか」

「男?」

 女が首を傾げる。

「いえ。何も」

 アベルはそれ以上聞かなかった。話を聞かせてもらった礼を伝えると、オスカーも丁寧に頭を下げた。帰り際には、見舞いとして用意していたものを家族へ渡した。女は最初こそ遠慮したが、店にもほとんど出られていないと聞いていたため、オスカーが「話を聞かせてもらった分もありますから」と押しつけない程度に勧めると、最後には受け取った。

 外へ出ると、オスカーはしばらく無言で歩いた。人通りの少ない通りまで来たところで、ようやく口を開く。

「今まで聞いていた話とは違いますね」

「何がです」

「扉を叩いて、人の首を折る男でしょう。今のは随分と回りくどい」

「男じゃないのかもしれない」

オスカーがこちらを見る。

「母親ですか」

「可能性は高いです」

「あなたが言っていた老女」

「あの夜、男へ同じことをしていました」

 優しい声で自分が正しいと思わせ、拒めば責める。罪悪感を与え、相手自身の判断を奪っていく。リーナを殺せと命じた時のエルゼと、今聞いた証言はよく似ていた。違うのは、命令される相手が息子ではなく、生きている人間になっていることだった。

「息子が人を殺さなくなったから、自分で代わりを探している?」

オスカーが言う。

「まだ決めつけられません」

「慎重ですね」

「百年前もそれで多くの人が死にました。もう、思い込みだけで人を死なせたくないんです」

 オスカーはそれ以上茶化さなかった。


 その日のうちに、もう一人の生存者からも話を聞いた。内容はよく似ていた。最初は食事について責められたという。弟へ自分の皿から肉を一切れ渡した直後だった。だが、声はそこだけで終わらなかった。弟を甘やかしている。家族の負担になっている。仕事が遅い。父親から期待されていない。普段本人が気にしていたことを次々に突かれ、最後には「お前が悪い」「罰を受けろ」と繰り返されたという。その男も、自分の首を絞め始めたところを弟に止められていた。


 宿へ戻る頃には、外は暗くなっていた。アベルは机へ二人分の証言を並べる。

「最初だけ食卓の規則に触れている」

「その後は何でもありですね」

オスカーが向かい側から紙を覗き込んだ。

「本人が気にしていることを探して、そこを責めているように見える」

「食事はきっかけにすぎないのかもしれません」

「以前は、それだけで男が殺していた」

「はい」

アベルは頷いた。

「でも今は、男がいない」

その言葉のあと、二人とも少し黙った。男が本当に帝国側へ現れていないのかは、まだ確かめられていない。エルゼ自身も、誰も姿を見ていない。ただ、声だけがある。そしてその声は、人間が自分で自分を殺すまで責め続ける。


 アベルは二人の証言の横へ、リーナの言葉を書いた紙を置いた。――自分の話なのに、何でも『お母さんが』と言う。男が百年以上聞き続けてきたものと、同じやり方なのかもしれなかった。エルゼは息子へ行ってきたことを、今度は他人へ向けている。

 相手の中にある不安や罪悪感へ入り込み、自分の言葉を相手自身の考えだと思わせ、最後には命令へ従わせる。

「明日が最終日になりそうですね」

アベルが言った。

「ただ、この二人だけなのか、同じ声を聞いた人がほかにもいるのか確かめたいです」

「それなら、明日は市場を回りましょう」

オスカーは寝台へ横になった。

「ところで、一つ聞いていい?」

「何ですか」

「その母親が本当にそこまで厄介なら、息子はよく百年も付き合ってきたなと思って」

アベルは答えなかった。しばらくして、机の上の紙へ目を落としたまま言った。

「多分ですが……生きていた頃からです」

「なるほど」

 オスカーはそれ以上聞かなかった。灯りを消したあとも、アベルはしばらく眠れなかった。女の証言が耳に残っている。嫌だった。死にたくなかった。それでも、声の言うことが正しいと思った。百年以上、人を殺してきた男も、そうだったのだろうか。母親の言葉が正しいと思い込み、逆らうという選択そのものを失っていた。

 だとすれば、リーナを殺さなかったあの夜を境に、百年以上噛み合っていた親子の歯車が、どこかで狂い始めているのかもしれない。

 

 そして、もしエルゼが息子を失った代わりに、帝国の人間を同じ方法で支配し始めているのだとすれば、怪異が弱くなったわけではなく、手段を変えただけだ。

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