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ヴァルデン地方の始まりの晩餐  作者: 巴


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第五章 歪み

 あの夜から数日が過ぎても、リーナには何も起こらなかった。

 

 軍は念のためマルタとリーナの部屋の周辺に兵士を置き、夜間の見回りも続けていたが、男も老女も姿を現さなかった。リーナ本人は自分がどれほど危険なことをしたのか理解していないらしく、最初の一晩こそ母親に厳しく叱られてしょげていたものの、翌日にはいつも通り紙を広げて絵を描いていた。

 アベルも様子を確かめるため、日に一度は二人のところへ顔を出した。

「本当に、何も教えていただけないんですか」

その日もリーナが床で絵を描いている横で、マルタが声を潜めて尋ねた。

「娘が勝手なことをしたのは分かっています。触るなと言われたものを食べたんですから。でも、あの夜のあれは何なんですか。娘は、何に狙われたんですか?」

「申し訳ありません。その事については、俺の判断で詳しいことを話すことはできません」

 アベルがそう答えると、マルタは困ったように眉を寄せた。軍に保護されている立場では、それ以上強く問い詰めることもできない。それでも、マルタはなお何か言いたそうにしていた。

「ただ、今のところリーナに異常はありません。少なくとも、あの夜に心配していたことは起こりませんでした」

「心配していたことって?」

「それも……」

「おじさんの話?」

 床に腹這いになっていたリーナが、不意に顔を上げた。アベルはそちらを見る。

「おじさん?」

「うん。祈り所にいたおじさん」

 手にした木炭を紙の上へ置き、リーナは何でもないことのように言った。アベルはしばらく言葉を返せなかった。

「リーナ。あそこに誰かいたのか」

「いたよ」

「お供えを食べる前から?」

「うん。私が絵を描いてたら見てた」

マルタも初めて聞いたらしく、娘を見下ろした。

「そんなこと、あなた言ってなかったでしょう」

「聞かれなかったもん」

「そういうことじゃなくて」

 マルタが額を押さえたが、アベルはすぐにリーナのそばへしゃがみ込んだ。

「その人と話をしたの?」

「したよ」

「どんな話をしたの」

 リーナは少し考え、それから描きかけの紙を持ち上げた。家らしい四角と、その横に大きな木が描かれている。

「絵の話。おじさんも昔、描いてたんだって」

アベルの手が止まった。

「昔?」

「うん。でも、もう描かないって」

「どうして」

「お母さんに言われたから」

リーナはあっさり答えた。

「おじさんより上手な女の子がいたんだって。でもお母さん、その子の絵が嫌いだったみたい。下手とか変とか言ってたって」

「その女の子を、お母さんが嫌っていた?」

「たぶん。おじさんのことも馬鹿にしてるって言ったんだって」

 リーナの説明はところどころ順番が入れ替わり、誰が誰へ言ったことなのか分かりにくかった。何度か聞き直すうち、男が幼い頃、一緒に絵を描いていた少女がいたこと、エルゼにその少女も絵も否定され、男は自分から絵をやめ、少女とも離れたことがわかった。

「それを、あの男…おじさんが自分で話したのか」

「うん」

「お母さんに言われたから、友達とも遊ばなくなったって?」

「そう。だから私、変だよって言ったの」

マルタがすぐに娘を見る。

「リーナ」

「だって変でしょ?」

 母親に睨まれても、リーナは納得していない顔だった。

「絵を描くのに、お母さんは関係ないもん。描きたいなら描けばいいでしょ。それに、本当におじさんを馬鹿にしてたかどうか、おじさんは女の子に聞いてないって言うし」

 

 アベルは何も言わなかった。あの夜、老女は男へ何度も言い聞かせていた。お母さんの言うことを聞けるでしょう。お前は優しい子だから迷っているだけ。お母さんは全部分かっている。男が拒めば怒鳴り、怒鳴った直後にはまた優しい声で宥め、自分に従うことこそ男自身の正しい判断であるかのように語り続けていた。


以前の男の言葉が蘇った。――母が、そう言ったのだ。

 

 これまでは、母親のために人を殺しているという程度にしか受け取っていなかった。だが、あの夜に見たものはそれだけではなかった。男は母親の命令を聞きながら、自分の意思をうまく言葉にできていなかった。嫌だ、やらないと、ただそれだけを繰り返していた。大人の男ではなく、叱られながら必死に首を振る子供のようだった。

「ほかには?」

「ほか?」

「おじさんは、何か言っていなかったか。お母さんのことでも、その女の子のことでもいい」

リーナは頬に指を当てた。

「お母さんが怒るから、っていっぱい言ってた」

「いっぱい?」

「女の子と遊ぶのも、お絵描きするのも。あと……」

しばらく考えてから、リーナは首を傾げた。

「お母さんが悲しむから、だったかな」

 アベルはゆっくり息を吐いた。マルタが不安そうに二人を見比べる。

「その人は、いったい誰なんですか」

「今はまだ話せません」

「危険な人なんでしょう」


 返答に迷った。危険ではある。少なくとも、百年以上にわたって人を殺してきた。だが、リーナは生きている。母親から明確に命じられ、一度は手まで伸ばしながら、あの男は殺さなかった。

「リーナ」

「なに?」

「その人と話して、怖くなかった?」

「別に」

「祈り所で一人だったし」

「おじさんも一人だったよ」

 あまりにも簡単に返され、アベルは黙った。リーナはまた紙へ目を落とした。

「ちょっと変なおじさんだったけど」

「どこが?」

「何でも『お母さんが』って言うところ」

木炭が紙の上を走り始める。

「それに、自分がどうしたかったかは、分からないって」

アベルはその言葉を聞き逃さなかった。

「そう言ったのか」

「うん」

 

 リーナはもう話への興味を失ったらしく、木の枝を何本も描き足していた。アベルは立ち上がり、窓の外へ目を向けた。男が突然変わったわけではない。長い間忘れていたことを思い出しただけなのかもしれない。母親に否定される以前、自分の意思で絵を描き、母親とは関係なく誰かと過ごしていたことを思い出しただけなのかもしれない。それを思い出した直後に、母親からまた人を殺せと命じられた。だから拒んだのだとすれば、あの夜に初めて起こったことにも説明がつく。問題は、確かめる手段がないことだった。

「おじさんに、もう一回聞けばいいんじゃない?」

アベルが振り返る。

「何を」

「何か、いろいろ」

「簡単に言うな」

「だって聞くだけでしょ」

「その相手が、いつ現れるか分からないんだ」

リーナはそこで初めて不思議そうな顔をした。

「そうなの?」

「普通は、会おうと思って会える相手じゃないんだ」

「ふうん」

 リーナには大した問題ではないらしい。アベルにとっては、それが一番の問題だった。怪異を追い払う方法も、閉じ込める方法も分からない。向こうが現れる時を待つしかなく、こちらから呼び出す手段もない。

 男は母親に逆らった。そして、リーナには自分から過去を話した。人を殺すため以外の理由で、生きている人間と言葉を交わした。少なくとも、これまでにはなかった変化だった。


***


 軍が管理する祈り所では、それからも毎日二人分の食事が供えられていた。


 決められた時刻になると、担当になった兵士が厨房から食事を運び、決められた台の上へ並べる。量に差がないことを確認し、記録簿へ時刻を書き込む。それが終われば、長居することなく部屋を出る。以前の村では、毎日そこへ食事を置き、手を合わせる者がいた。

 何を祈っていたのかを知る者はもうほとんどいない。災いが起こらないように。家族が無事であるように。公平な食卓を守る神が怒らないように。世代を重ねるうちに理由が変わっても、人々はそこに何かがいると信じ、頭を下げ続けてきた。ルーエンの祈り所には、それがなかった。


「二人分、確認」

兵士の一人が皿を見比べる。

「記録するぞ。夕刻、異常なし」

もう一人が帳面へ書き込み、そのまま扉へ向かった。二人が退出すると、祈り所は静かになった。台の上には、同じ量の食事が二つ並んでいる。湯気が細く立ち上り、やがて消えていく。誰も戻ってこない。


 しばらくして、部屋の隅に人影が立った。背を丸めた老女だった。エルゼはお供えを見た。以前と同じように、二人分がきちんと用意されている。それなのに、誰も自分を見ていなかった。誰も祈らない。感謝もしない。恐れて頭を下げることすらしない。人間たちはただ食事を置き、確認し、仕事を終えた顔で出ていく。

 

 百年の間、村人たちは自分たちを忘れなかった。食事を置き、手を合わせ、決まりを守った。子供が生まれれば教え、その子供もまた次の世代へ伝えた。祈りの言葉が変わっても、村人が何を願っていても、そこには必ず自分たちがいた。それは当然のことになっていた。生きていた頃には、誰も自分を正しく見なかった。

両親はわがままだと言った。夫もやがて自分の言葉を聞かなくなった。村人たちは陰で悪く言い、自分がどれほど苦しい思いをしているのか理解しようともしなかった。

 

 けれど、死んでからは違った。人々は毎日食事を運んだ。自分たちの機嫌を損ねないように振る舞い、自分たちが何を望んでいるのかを考えた。いつしか神と呼ぶ者まで現れた。あれほど自分を軽んじていた人間たちが、自分を畏れ、自分を必要とし、自分のために決まりを作った。エルゼにとって、それはようやく受け取った当然の扱いだった。だから、今さら人間たちが自分を敬わなくなった理由が分からなかった。


 食事さえ置けばいいと思っている。それで役目を果たしたつもりになっている。誰のおかげで、これまで食卓が守られてきたと思っているのか。誰が見ているから、人間たちは決まりを守ってきたのか。自分たちがいなくなれば困るのはそちらのはずなのに、軍人たちはまるで厄介な仕事を片づけるように食事を運び、顔すら向けずに帰っていく。

 

 これを食べたいわけではなかった。こんなものが欲しかったわけではない。人間が自分たちの存在を忘れず、自分たちを気にかけ、自分たちのために行動する。そのことに意味があった。食事は、その証だった。今ここに置かれているものには、それがない。自分が敬われているからではなく、危険だから処理されているだけだった。

 

 エルゼの口元がわずかに歪んだ。以前なら、それでも息子がいた。人間が何を言おうと、息子だけは自分を信じた。自分が苦しめば一緒に怒り、自分を傷つけた者を憎み、自分が悪いと決めた者を罰した。夫が自分を理解しなくなっても、村人たちが敵になっても、息子だけは違った。あの子だけは、自分を選んだ。ずっとそう思っていた。

 

 だからこそ、あの夜のことが理解できなかった。あの子供は、自分たちの食事を盗んだ。悪いことをしたのだから、罰を受けるのは当然だった。息子も分かっているはずだった。これまで何度も同じようにしてきた。自分が言えば、息子は従った。それは命令などではなく、母親を信じているからだった。自分を愛しているからだった。


 それなのに、息子は嫌だと言った。一度ではない。何度言っても、言うことを聞かなかった。自分の言葉より、あの子供を選んだ。エルゼの指がゆっくりと曲がった。あの娘が来るまでは、こんなことはなかった。息子はずっと自分のそばにいた。百年以上もの間、一度も逆らわなかった。あの娘が何かを言ったからだ。余計なことを吹き込んだのだろう。そうでなければ、息子が自分に逆らうはずがない。息子は優しい子だった。昔から、自分を一人にしない子だった。自分がどれほど苦労してきたのかを知り、ほかの誰よりも分かってくれていた。だから、息子が自分からそんなことをするはずがない。なら、誰かに惑わされたに違いなかった。


 エルゼは、息子のために用意されたもう一方の皿を見た。あの夜、息子は自分を置いて消えた。それでも、戻ってくると思っていた。少し混乱しているだけだ。あの子供のせいで、何かおかしなことを考えているだけだ。自分がもう一度きちんと言い聞かせれば、以前のように戻る。自分の息子なのだから。自分だけを分かってくれる子なのだから、他人に取られていいはずがない。エルゼはしばらく黙ったまま、やがてゆっくりと顔を上げた。

 

 人間たちは祈らなくなった。息子まで、自分の言うことを聞かなくなった。悪いのは自分ではない。人間たちが恩を忘れ、余計な者が息子へ近づいたせいだ。皆、自分から奪おうとしている。エルゼの顔から、すべての表情が消えた。食事は二人分ある。けれど、もうそれだけでは足りなかった。


 老女の姿は、湯気が消えるよりも静かに、その場から消えた。

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