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ヴァルデン地方の始まりの晩餐  作者: トモエ


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第四章 子供らしさ

 報告を受けたアベルが避難所へ着いた時には、リーナとマルタはすでに別の部屋へ移されていた。普段は軍人が使う簡素な部屋で、寝台が二つと小さな机があるだけだった。廊下には兵士が二人立ち、窓の外にも見張りが置かれている。

 

 リーナは寝台の端に座り、足をぶらぶらと揺らしていた。昼間に叱られたことはまだ気にしているらしく、マルタの隣で大人しくしている。事情を知らされていないマルタだけが、部屋へ入ってきたアベルとヴァイゲルトを険しい顔で見た。

 

「娘が何をしたのかは分かっています。勝手に軍の管理している場所へ入って、お供えまで食べました。でも、どうしてここまでされるんですか」

「申し訳ありません。今夜だけは、このままいてください」

 アベルが答えると、マルタは納得していない顔のままリーナを抱き寄せた。

「危険なんですか?」

「可能性があります」

「何が起きるんです?」

「それが分からないから、こうしています」

 それ以上は答えられなかった。

 ヴァイゲルトは壁際に立ったままリーナを見た。視線に気づいたリーナが少し身を縮める。

「怒られると思っているのか」

「……だって、食べたから」

「食べるなとは言われていたな」

「うん」

「そうだ、ならそこは反省しろ」

 リーナは小さく頷いた。

「でも、捨てるって言ったから、もったいないと思っただけなの」

「聞いている」

 ヴァイゲルトはそれ以上責めなかった。リーナが不思議そうに顔を上げる。

「あんなものさえいなければ、食べ物を粗末にしたくなかっただけの子供だ。言うことを聞かずに勝手なことをするのも、その辺にいる子供と変わらん」

「将軍、それ本人の前で言います?」

「その通りだろう」

「勝手なこと、そんなにしてないよ」

 リーナが口を尖らせた。

「今日しただろう」

「今日だけ」

「今日だけも何もないのよ、勝手な事したの」

 マルタが横から言うと、リーナは黙った。日が落ちてからも、何も起こらなかった。廊下を兵士が交代する足音が聞こえ、時折、外を巡回する者の影が窓を横切る。部屋の明かりは落とさず、アベルとヴァイゲルトもそのまま残った。これまで死者が出たのは夜が多かったが、現れる時刻までは読めない。

 

 リーナはしばらく起きていたが、やがてマルタの膝へ頭を預けた。マルタは何度か時計を見るように窓の外を確認していたが、そのうち娘の髪を撫でるだけになった。

 

 夜が深くなった頃だった。アベルは、部屋の中が妙に静かになっていることに気づいた。廊下には見張りの兵士がいるはずだった。少し前まで聞こえていた靴音も、交代の低い話し声もない。窓の外では風が吹いているのに、布が擦れる音も聞こえなくなっていた。静かなのではなく、部屋の周囲だけ音が遠ざけられたようだった。アベルは耳を澄ませた。

 

 そこで、もう一つ気づいた。扉を叩く音がしていない。これまで男が現れる前には、何度もあの音を聞いてきた。今夜も来るとすれば、まず扉が叩かれるものだと思っていた。アベルがゆっくり視線を上げると、部屋の隅に男が立っていた。扉が開いた音もしていない。窓も閉まっている。いつ入ってきたのかではなく、気づくまでずっとそこにいたのではないかと思えるほど、男は何の気配もなく立っていた。アベルが立ち上がる。

 

「将軍」

「見えている」

 ヴァイゲルトも男から目を離さなかった。

 マルタが異変に気づき、リーナを抱き寄せる。

「何ですか」

「そのまま動かないでください」

 アベルは男を見た。

 男の視線はリーナへ向いていた。

 以前なら、それだけで十分だった。人の前に現れ、相手へ近づき、首を折る。何度も繰り返された光景をアベルは知っている。

 

 だが、男は動かなかった。その隣に、もう一人いた。アベルは息を止めた。年老いた女だった。いつ現れたのか分からない。男のすぐそばに立ち、痩せた顔をリーナへ向けている。灰色がかった髪を後ろへまとめ、年齢の割に姿勢だけは妙に真っ直ぐだった。

「……あの女ですか」

「ああ」

 ヴァイゲルトが低く答えた。三ヶ月前、ヴァイゲルトだけが見たという女だった。

 

 老女が男へ顔を向けた。

「ほら」

 声は意外なほど優しかった。

「いつも通りでいいのよ」

 男は答えない。

「あの子、私たちのものを食べたでしょう。人のものを勝手に取るのは悪いことよね」

 幼い子供へ言い聞かせるような声だった。

「悪いことをしたら、ちゃんと分からせないと。また同じことをするかもしれないでしょう?」

 男の指がわずかに動いた。

「大丈夫よ。お母さんの言う通りにすればいいの」

 アベルは老女を見る。お母さん。その言葉を、女自身が使った。男は以前、アベルに言った。——母が、そう言ったのだ。ヴァイゲルトが見た老女と、男が口にしていた母親。その二つが、目の前で重なった。

「ほら、行きなさい」

 老女はリーナを指した。男は動かなかった。

「どうしたの?」

 声はまだ優しい。

「怖いの? あなたは優しい子だから、かわいそうだと思っているのね。でも大丈夫。お母さんがちゃんと分かってるから」

 男が僅かに首を振った。

「行きなさい」

「……嫌だ」

 アベルは男を見た。低い声だった。それでも、その言葉だけは妙に幼く聞こえた。老女も一瞬、黙った。

「何を言ってるの?」

「嫌だ」

「どうしたの。今までちゃんとできたでしょう?」

 男はリーナを見ていた。マルタが娘を胸元へ抱き込み、顔を隠す。リーナは母親の服へ頬を押しつけられ、何が起きているのか見えなくなった。

 

「やらない」

 次の瞬間、アベルのすぐ横で鈍い音がした。ベコッ、と壁が内側へ凹んだ。誰も触れていない。漆喰が割れ、細かな粉が床へ落ちる。

「下がれ!」

 ヴァイゲルトの声に、廊下の兵士が扉を開けた。その直後、甲高い音が部屋を貫いた。キーン、と耳の奥へ直接差し込んでくるような音だった。アベルは思わず片耳を押さえた。入ってきた兵士も顔を歪める。音の出所はどこにもない。壁からでも、天井からでも、男からでもない。ただ部屋全体が鳴っているようだった。

「嫌だ」

 男がもう一度言った。

「何を我儘を言ってるの」

 老女の声から、優しさが消えた。

「この子は私たちのものを盗ったのよ! 悪いことをしたの! どうしてお母さんの言うことが聞けないの!」

 男の肩が強く震えた。それを見た途端、老女の声がまた柔らかくなる。

「ああ、ごめんね。怒鳴ったりして。びっくりしたね」

 今度は男を宥めるように微笑んだ。

「お母さんだって怒りたいわけじゃないのよ。あなたがちゃんとしてくれれば、それでいいの。あなたはいい子でしょう?」

 男は何も言わない。

「お母さんのこと、困らせないで」

「……嫌だ」

「どうして?」

「嫌だ」

「理由を言いなさい」

「嫌だ」

「そんな言い方じゃ分からないでしょう!」

 老女が怒鳴った。再び壁が凹んだ。今度は窓の横だった。木枠が軋み、窓硝子が震える。

「お前のために言ってるのよ!」

「嫌だ!」

 甲高い音がさらに強くなる。アベルは歯を食いしばった。頭蓋の内側が震えるような感覚が続き、兵士の一人が片膝をついた。

「お母さんの言うことを聞けない子じゃなかったでしょう?」

 また声が変わる。

「ずっと二人でやってきたでしょう。お前はお母さんのことを分かってくれるものね?」

「……嫌だ」

「何が嫌なの?」

「嫌だ」

「何が!」

 

 男は答えられなかった。ただ首を振る。見た目は大人だった。生前にも成人していたはずで、死後は百年以上人を殺し続けてきた。それなのに老女の前にいる男は、叱られて言葉を失った子供のようだった。

「この子を殺しなさい」

 老女がリーナを指した。男の顔が上がる。

「ほら。早く」

 男が一歩進んだ。マルタがリーナをさらに強く抱き込む。

「来ないで!」

 男は二歩目を踏み出した。アベルは咄嗟に二人の前へ出ようとしたが、ヴァイゲルトに腕を掴まれた。

「待て」

「でも」

「見ろ」

 男の足が止まっていた。腕だけが上がる。リーナへ向かって伸びた手が、途中で震えた。

「そう。それでいいの」

 老女が嬉しそうに言う。

「やっぱりお前はお母さんのいい子ね。さあ、その子の首を――」

「嫌だ!」

 男が叫んだ。壁が大きく鳴った。同時に、耳を裂くような高音が一気に跳ね上がる。明かりが揺れたわけでもないのに、部屋全体が一瞬歪んで見えた。

「何をするの!」

「嫌だ! 嫌だ!」

「お母さんの言うことを聞きなさい!」

「嫌だ!」

「この子が悪いのよ! お前がやらないなら、また同じことをするわ! お母さんが困ってもいいの?」

 男は両手で耳を塞いだ。

「嫌だ、嫌だ!」

「お前にはお母さんしか――」

「嫌だあっ!」

 

 男の叫びと同時に、甲高い音が途切れた。男の姿も消えていた。あまりに突然だった。老女だけが、その場に残っている。女は男がいた場所を見た。それまで一度も崩れなかった表情に、初めて戸惑いが浮かんだ。

「……どこへ行くの」

 返事はない。老女は周囲を見回し、それから男を追うように姿を薄くした。数秒後には、何もいなくなった。マルタの腕の中で、リーナが顔を上げた。

「おじさん……」

 最後の瞬間だけは見えていた。男が消える直前、リーナの方を見ていた。その顔は、祈り所で絵を見ていた時とも違う。母親に命令されていた時とも違った。ひどく悲しそうな顔だった。しばらく、誰も動かなかった。先に息を吐いたのはヴァイゲルトだった。

 

「娘は」

 マルタがリーナを確かめる。

「大丈夫です。何もされてません」

「怪我は?」

「ありません」

 アベルも近づいて確認した。リーナの首にも腕にも異常はない。

「怖かった?」

 アベルが尋ねると、リーナはマルタに抱かれたまま首を傾げた。

「よく見えなかった」

「そう、それならいいの」

 マルタがすぐに言った。廊下にいた兵士たちも部屋へ入り、壁の凹みを確認した。一つはアベルのすぐ横、もう一つは窓の脇に残っている。どちらも人が殴った程度ではつかない深さだった。

「音は?」

 ヴァイゲルトが聞く。

「聞きました」

「俺もです」

 二人の兵士が答えた。

「外では?」

「廊下にいましたが、聞こえました。ただ、部屋の中ほどでは」

 原因は分からなかった。壁を凹ませたのが男なのか老女なのか、高い音がどちらから生じていたのかも判断できない。だが、一つだけはっきりしていることがあった。リーナは生きている。男は殺さなかった。マルタとリーナを別室へ移し、兵士をさらに増やした後、アベルとヴァイゲルトは廊下へ出た。

「見ましたよね」

「ああ」

「あの女」

「三ヶ月前に見た女と同じだ」

 アベルは閉じた扉を見る。

「男の母親だと思います」

「私もそう考える」

「自分で『お母さん』と言っていました。男も否定しなかった」

「お前が調べたエルゼ・ハルトマンか」

「おそらく」

 アベルは壁の凹みへ視線を戻した。

「それより、男です」

「殺さなかったな」

「はい」

 母親は明確に命じていた。男にも、その意味は伝わっていた。一度はリーナへ近づき、手まで伸ばした。それでも最後には止まった。

「以前、あの男にどうして人を殺すのか聞いたことがあります」

「覚えている」

「『母が、そう言ったのだ』と答えました」

 あの時、アベルにはその意味が分からなかった。

 食卓の決まりを母親から教わったという意味なのか。母親のために殺しているという意味なのか。それとも、死んだ母親が今も男へ何かを命じているのか。今夜、ようやくあの言葉の意味が一つ繋がった

「母親が言って、男が殺す」

 アベルが言った。

「今までは一つの怪異として考えていました。でも、違うのかもしれません」

 ヴァイゲルトはしばらく黙っていた。

「母親が命じても、息子が動かなければ人は死なない」

「少なくとも今回は、そうでした」

「一度だけだ」

「はい」

「これだけで決めつけるな」

「分かっています」

 ヴァイゲルトは壁へ目を向けた。

「だが、調べる価値はある」

 

 アベルも頷いた。二人の関係そのものを崩す。それが突破口になる可能性はある。ただ、分からないことの方が多かった。

「どうして今日だけ拒んだんでしょう」

「それは分からん」

「今まで百年以上、母親の言う通りにしてきたはずです」

「少なくとも、我々が知る限りではな」

 アベルは考えた。リーナがお供えを食べた。これまでなら、それだけで死んでいた。母親も当然のように息子へ殺せと命じていた。それなのに男だけが従わなかった。そもそも、男とまともに話す手段もない。現れる時も消える時も向こう次第で、今夜もリーナを殺すために現れたから接触できただけだった。

「切り離せたとして、その後どうなるかも分かりません」

「あの男だけが残って、今度は自分の意思で殺し始める可能性もある」

「あります」

「母親だけが残った場合も同じだ」

「はい」

 答えが見つかったわけではない。それでも、これまでとは違うものが一つ見えた。男は、母親に従わないこともできる。

「……あれは、拒絶だったんでしょうか」

 アベルが言った。

「嫌だと何度も言っていたぞ」

「そうなんですけど」

 百年以上人を殺してきた男が、ただ子供のように「嫌だ」と繰り返し、最後には叫んで逃げた。ヴァイゲルトは少し考えてから言った。

「理由まで説明できなくても、嫌なものは嫌なんだろう」

「随分単純ですね」

「今はその程度でいいんじゃないか」

 

 アベルは扉の向こうを見た。中には、母親に抱かれたリーナがいる。そして今夜、百年以上生きたあの男もまた、母親の前では子供のように『嫌だ』と繰り返した。


 それが百年以上続いたものを終わらせる最初の一言になるのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。

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