第三章 お絵描きしよう
ローゼンフェルト家の調査から戻って数日後も、ルーエンでは多くの住民が避難所での生活を続けていた。
帝国との戦争が始まってから、ルーエンの街中でも家を失ったり、被害を受けてそのまま暮らせなくなった者は少なくなかった。軍はそうした人々のために簡易的な避難所を設け、家族ごとに使える小さな区画を割り当て、食事や衣類を配給していた。軍の施設そのものとは分けられているものの、周辺には兵士の姿が多く、子供たちもすっかりその姿を見慣れている。
リーナも、その中の一人だった。母親のマルタと避難所で暮らし始めてからしばらく経ち、リーナも最初こそ慣れない避難所での生活に戸惑っていたものの、今ではすっかり慣れ、周囲を我が物顔で歩き回るようになっていた。その日はマルタが配給について係の者と話している間、紙と木炭を持って外へ出た。
そこに、小さな屋根のついた囲いが見えた。四本の柱に屋根をかけ、三方を厚い布で囲っただけの簡素な造りで、入口にも幕が垂らされている。入口の脇には兵士が一人立っていたが、ちょうど別の兵士に呼ばれてその場を離れた。
リーナは何のための場所なのか気になり、入口の幕をめくって中へ入った。中央には腰ほどの高さの石台があり、その上には二人分の食事が供えられていた。パンと豆を煮たもの、それに少しの肉が、ほとんど同じ量ずつ並べられていた。けれど、パンは少し乾いていて、煮物もすっかり冷めている。リーナには、しばらく前から置かれていた食事のように見えた。像も花もなく、教会の祭壇とはずいぶん違っていた。
リーナは石台の横に腹ばいになり、地面へ紙を広げた。静かで人もいないので、絵を描くにはちょうどいい。肘をつき、木炭を手にして紙の上へ線を引き始めた。
描いているのは、以前ルーエンの港で見た大きな船だった。実物はもっと複雑だったが、細かいところまでは覚えていない。帆を大きくして、その横に海鳥を描き足す。途中で鳥が大きくなりすぎたので、そのまま翼を広げた怪鳥に変えた。
しばらくして、紙の上に影が落ち、リーナは手を止めた。男が立っていた。いつからそこにいたのか分からなかった。軍服ではない。旅人にも見えない。年齢もよく分からなかったが、リーナから見れば十分に大人だったので、おじさんだと思った。男はリーナではなく、描かれた絵を見ていた。
「これ、船ね」
リーナが言った。
男は黙ったまま絵を見ている。
「こっちは鳥だったんだけどね、大きくなりすぎたから怪物にしてみた」
「……そうか」
「おじさん、絵が好きなの?」
男はすぐには答えなかった。リーナはまた木炭を動かし、大きくなりすぎた鳥に牙を描き足した。
「子供の頃、描いてた」
男の声は低かったが、怖いとは思わなかった。大人なのに、話し方はどこか子供のようだった。
「上手だった?」
「分からない」
「自分の絵なのに?」
「私より上手い子がいた」
リーナは顔を上げた。
「女の子?」
「ああ」
「仲良しだったの?」
男は石台の向こうへ視線を落とした。
「よく一緒に絵を描いてた」
「へえ。何を描いてたの?」
「花とか、鳥とか。家とか」
「その子も?」
「ああ」
リーナは木炭を置いた。男が話すまで待っていると、やがて続きが返ってきた。
「でも、お母さんは、その子の絵が嫌いだった」
「なんで?」
「くだらないって言ってた。そんなの描いて何になるのって」
「その子に?」
「うん。それに、あの子は僕のことも馬鹿にしてるって」
「おじさんのこと?」
「ああ」
男は、それを疑ったこともなかったように答えた。
「お母さんが、あの子とは遊ばない方がいいって言った。僕の絵を見て笑ってるし、いないところではもっと悪いこと言ってるって」
「ほんとに?」
男は黙った。
「その女の子が、おじさんにそう言ったの?」
「言ってない」
「じゃあ、お母さんが言ってただけ?」
男はそこで初めて、リーナの顔を見た。
「……お母さんは、嘘つかないよ」
そう答えた声には迷いがなかった。けれど男は、その後しばらく何も言わなかった。リーナは紙の端を指で押さえながら、男を見た。
「それで、絵やめちゃったの?」
「ああ」
「女の子とはどうなったの?」
「遊ばなくなった」
「なんで?」
「お母さんが、もう一緒にいない方がいいって言ったから」
「おじさんも、そうしたかったの?」
男はすぐには答えなかった。
「……お母さんが悲しむから」
「え?お母さんが悲しむの?」
「あの子といると、僕が馬鹿にされるから。そんなのを見ているのは辛いって」
「でも、おじさんはどうだったの?」
「……分からない」
「遊びたかったんでしょ?」
男はしばらく黙ってから、もう一度言った。
「分からない」
リーナは少し考えた。自分なら、絵をやめろと言われても、友達と遊ぶなと言われても、嫌だと言うと思う。もちろん、その友達が意地悪をするような子なら、母親も遊ばない方がいいと言うかもしれない。でも、何の理由もなくそんなことを言う母親ではないし、少なくとも絵を描きたければ、自分は描く。
「でもさ、絵を描くのにお母さんは関係ないでしょ?」
男がリーナを見る。
「おじさんが描きたいなら、好きに描けばいいじゃん」
男は何も答えず、しばらくリーナの顔を見ていた。やがて男の視線が、もう一度紙へ落ちた。
「その鳥は?」
「怪物にしたの」
「鳥じゃなかったの?」
「最初は鳥だったんだけど、失敗しちゃったから」
「失敗したなら、もうだめだろう。新しい紙に、ちゃんと描き直さないと」
リーナは男を見た。
「そんなことしてたら、紙がもったいないよ」
「でも、失敗したんだろう?」
「消せないなら、そこから描き足せばいいの」
リーナは怪鳥の横に長い尾を描き加えた。
「ほら、こっちの方がかっこよくなったからいいでしょ。これでいいの」
男は紙を見たまま黙っていた。
「リーナ!」
遠くから名前を呼ぶ声がした。マルタの声だった。リーナは入口の方を振り向き、立ち上がって幕を少しめくると、母親と兵士がこちらへ向かってくるのが見えた。
「お母さんだ」
もう一度男の方を見ると、そこには誰もいなかった。リーナは首を傾げたが、すぐに紙を拾い、入口の幕をめくって外へ出た。
「こんなところにいたの!」
駆け寄ってきたマルタが、リーナの肩を掴んだ。
「勝手にいなくなったら駄目でしょう。どれだけ探したと思ってるの」
「ごめんなさい」
「絵を描いてくるって言っただけでしょう。こんなところまで来るなんて」
「ここ、静かだったから」
一緒に来た兵士は、リーナが出てきた場所を見て表情を変えた。
「ここに入ってたのか?」
「うん」
「中のもの、触ったか?」
「触ってないよ」
「本当に何も触ってないな? 石台の上のものも?」
「何も触ってないってば」
一緒に来た兵士は、入口の前から中を覗き込んだ。石台の上のお供えにも、特に変わった様子はない。兵士はそれを確かめると、わずかに肩の力を抜いた。
「ここでは遊ばない方がいい」
「どうして?」
「軍が管理している場所だからだ」
リーナは中の石台を指差した。
「あれ、何?」
「祈り所だ」
「教会じゃないのに?」
「教会とは別だ」
説明に困ったように兵士がマルタを見る。マルタも事情を知らないらしく、首を傾げた。
「何を祀っているんです?」
「詳しくは俺から話せません。ただ、ここには毎日お供えをしています」
「お供え?」
マルタが戸惑う。ちょうど別の兵士がこちらへ歩いてきた。手には二人分のお供えを載せた盆を持っている。兵士はリーナとマルタを見て少し驚いたが、先にいた兵士から事情を聞くと、入口の幕をめくって中へ入った。リーナもその後ろから石台を覗き込む。前から置かれていたものを下げ、新しいお供えと入れ替えている。パンと豆の煮物、それから少しの肉。さっき見たお供えと、ほとんど同じものだった。二つの皿には同じくらいの量が盛られていた。
リーナが石台へ近づこうとすると、兵士はすぐに肩へ手を添えて少し離れさせた。
「近づくな。これは触ったら駄目だ。食べるのも駄目だからな」
「なんで二人分なの?」
「なんでもだ」
「これ、誰が食べるの?」
「誰も食べない」
「じゃあ、なんで置くの?」
「お供えだ」
「誰に?」
兵士は答えなかった。
「誰も食べないのに?」
「食べない」
「ずっと置いとくの?」
「次のお供えに替えるまではな」
リーナは二つの皿を見た。
マルタはまだ兵士へ尋ねている。
「毎日こんなことをしているんですか?」
「決まりなんです。理由については俺からは何とも」
リーナには、大人たちがなぜそんなに難しい顔をしているのか分からなかった。毎日食べ物を置くのに、誰も食べない。避難所で暮らし始めてから、残していい食べ物などほとんどなかった。配られたパンは翌朝まで取っておくこともあるし、マルタは小さな欠片まで袋へ入れている。
リーナは兵士が下げた古いお供えの方を見た。さっき中に入った時に見た、少し乾いたパンと冷めた煮物だった。
「そっちはどうするの?」
「古いお供えは、最後に焚き上げる」
「捨てちゃうってこと?」
「ああ」
リーナは盆の上のパンを見た。
「もったいないよ」
そう言うと、兵士が止めるより先に手を伸ばし、古い方のパンを少しちぎって口へ入れた。
「おい!」
「リーナ!」
マルタの声と兵士の声が重なった。だが、その時にはもう遅かった。リーナは口の中のパンをもぐもぐと噛んでいた。兵士の顔から血の気が引き、もう一人もその場で動きを止めた。リーナは二人の様子を見比べながら、そのままパンを飲み込んだ。
「……なに?」
「出せ!」
兵士が怒鳴った。
「え?」
「今食べたものだ! 吐き出せ!」
「もう飲んじゃった」
「リーナ!」
マルタがすぐに娘の腕を掴み、強く自分の方へ引き寄せた。
「何してるの! 触ったら駄目って言われたでしょう!」
「だって、捨てるって――」
「だからって勝手に食べていいわけないでしょう!」
「ちょっとだけだよ」
「ちょっとでも駄目なの! 何度も言われたでしょう!」
リーナが口をつぐむ。
「ちゃんと謝りなさい!」
「……ごめんなさい」
「兵隊さんにも!」
「ごめんなさい……」
それまで困ったように説明していた兵士の様子が完全に変わっていた。一人が、下げたお供えを載せた盆を確認する。もう一人はすぐその場を離れた。
「報告してくる」
「ああ。将軍と調査官にも」
マルタが兵士を見る。
「どういうことですか。何があるんです?」
「今は娘さんをここから離してください」
「だから、何が――」
「お願いします」
兵士の声が低くなった。リーナはようやく、自分がただ叱られているだけではないことに気づいた。さっきまで普通に話していた兵士たちの顔が、今は本気で青ざめている。マルタに手を引かれてその場を離れながら、リーナは何度も後ろを振り返った。
祈り所の中には、新しい二人分のお供えが並んでいる。兵士が手にした盆には、下げられた古い食事が残っていた。そのうち一つのパンだけが、ほんの少し欠けている。急に、自分がとても悪いことをしてしまったような気がした。
その日のうちに、リーナとマルタの部屋の前には兵士が配置された。事情を知らされないマルタは何度も説明を求めたが、詳しい話は返ってこなかった。リーナ自身にも、なぜパンを一口食べただけで大人たちがここまで騒いでいるのか分からない。ただ、部屋の外では兵士たちが交代で見張りを続けていた。
その報告はすぐに軍へ上げられ、ほどなくしてアベルとヴァイゲルトにも届いた。




