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ヴァルデン地方の始まりの晩餐  作者: トモエ


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第二章 名前のない男

 百年以上前の人間を探す作業は、死者の記録を読むところから始まった。

 

 アベルは村に残っていた古い帳簿と、周辺の教会から集めた住民記録を年代順に並べた。百年前の飢饉よりさらに十年、二十年と遡り、同じ姓がどの家に住み、誰が結婚し、誰が死んだのかを一つずつ確認していく。

 怪異となった男について、ヘンリクが残した記録には名前が書かれていなかった。惨劇についても「あの男」「母親」「村人」といった記述が多く、当時の人間なら名前を書かなくても誰のことか分かったのだろう。百年以上後に読む者が現れることまでは考えていなかったらしい。男本人から辿れないなら、家族構成から探すしかなかった。

 ヘンリクの記録では、事件当時、男は病弱な母親と二人で暮らしていた。母親はすでに高齢で、男も子供ではなく、村の労働力として扱われる年齢の成人だった。それなりの年齢でありながら、妻や子供についての記述は一度もない。惨劇の前後について詳しく書かれた記録にも家族の姿がないことを考えれば、少なくとも事件当時は未婚だった可能性が高かった。

 アベルは飢饉の直前に作られた徴税記録を開き、村にいた世帯を一つずつ確認していった。高齢の親と成人した息子が同居している家。その中から、息子に妻や子供がいる家を除いていく。農地をほとんど持たない家、年老いた夫婦だけの家、すでに子供が独立している家。紙の端が欠け、文字が滲んでいるものも多く、家族全員の名前まで残されている帳簿は少なかった。

 まず父親から辿った。事件当時にはすでに父親が亡くなっていた可能性も考え、少し前の住民記録や死亡記録まで遡ったが、それだけでは候補を絞れなかった。父親の死後に世帯主が母親へ変わっている家を探し、今度は母親の名前と家族人数を照らし合わせていく。


 その中に、ハルトマンという姓があった。アベルは別の年の帳簿を開いた。数年前までは夫婦と子供のいる家として記録されている。その後、夫の名前が消え、世帯を示す欄にはエルゼ・ハルトマンという女の名前が残っていた。家族の人数を記した欄には、成人した男が一人いることだけが書かれている。名前はない。徴税のための帳簿なら、世帯主以外の家族まで詳しく記録しなかったとしても不思議ではなかった。

 アベルはさらに教会の記録を調べた。ハルトマン姓の男が死亡した記録を見つけ、その前後から婚姻に関する記録を探す。村そのものに残された資料だけでは足りず、近隣の教会へ照会を出し、古い書類を何度も取り寄せた。


 数日後、別の教区から送られてきた婚姻記録の写しに、エルゼの名前を見つけた。エルゼ・ローゼンフェルト。結婚後の姓はハルトマン。年齢と時期も合っていた。婚姻相手の男は、その後村で死亡したハルトマン家の男と一致する。アベルは紙の横へ小さく印をつけた。飢饉の頃に村の外れで成人した息子と暮らしていた女であり、夫はそれ以前に死亡している。ヘンリクが残した記録とも矛盾しなかった。


 次に調べるべき場所は決まった。ローゼンフェルト家は今もヴァルデン地方に残っていた。軍から正式な照会を出すと、現在の当主は古い家族記録の閲覧を認めた。アベルは軍の徽章を胸につけ、ルーエンを離れた。街道を南へ進むにつれて海は見えなくなり、代わりに畑と低い丘が増えていった。

 ローゼンフェルト家は大貴族ではなかったが、百年以上前から土地と商売を持っていた家だった。屋敷も当時の建物が一部残っており、古い帳簿や家族の書簡は倉庫の奥にまとめて保管されていた。

「この頃のものなら、こちらです」

 案内された部屋には木箱がいくつも積まれていた。軍から依頼された内容についてはすでに伝わっており、該当する年代の資料が机の上に用意されている。

 アベルは礼を言い、一冊目を開いた。ローゼンフェルト家の出生記録には、エルゼの名前があった。家の娘として生まれ、幼少期をこの屋敷で過ごしている。病弱だったという記述はない。食事に困っていた様子もなく、当時のヴァルデン地方では比較的恵まれた家庭だったことが分かる。それ以上のことは、公的な帳簿にはほとんど書かれていなかった。

 

 エルゼについて詳しい記述が残っていたのは、家族が保管していた私的な日誌や書簡だった。母親が書いたと思われる日誌には、娘について何度も触れられていた。欲しいものが手に入らないと長く機嫌を損ねる。兄弟や使用人と揉めることが多い。自分が叱られた理由より、叱った相手への不満を訴える。成長してもその気質は変わらず、両親は娘の扱いに手を焼いていた。

 もっとも、それは家族の側から見たエルゼの姿だった。書かれていることをすべてそのまま信じるわけにはいかない。アベルは慎重に、必要な箇所を書き写していった。

 

 記述が急に増えるのは、エルゼが結婚相手となる男と知り合ってからだった。両親は二人の交際に反対していた。理由については、家柄だけではなかったらしい。相手の男に十分な財産がなく、定まった仕事も持っていなかったことに加え、知り合ってから間もないうちに結婚の話を進めようとしたことを心配していた。しかし、エルゼは両親に反対されるほど、かえって強く反発した。

 日誌には、家族との言い争いについて何度か記されている。両親が心配していると説明しても聞こうとせず、自分だけが不当に自由を奪われていると訴えた。『誰も私のことを分かってくれない』その言葉だけは、何度も書かれていた。

 

 アベルはそこでもう一度、同じ頁を読み直した。別の書簡には、相手の男がエルゼの味方をしていたことも残っている。両親が厳しすぎる、自分はエルゼの気持ちを理解していると主張し、二人で暮らすことを望んでいた。当時のエルゼにとって、その男は周囲で唯一、自分の側に立った人間だったのだろう。

 

 そこで 記録の内容は、突然途切れた。エルゼは男とともに家を出ていた。正式に家族から認められた結婚ではなく、両親の反対を押し切った駆け落ちだった。家を出た直後、ローゼンフェルト家では親族や知人を通じて二人の行方を探している。しかし、詳しい移住先を確認することはできなかった。数年後の書簡に、エルゼがまだヴァルデン地方内にいるらしいという記述が一度だけあった。それ以上の場所は書かれていない。その後、家族との連絡はほとんど途絶えていた。

 

 アベルは資料を年代順に並べ直した。裕福な家に生まれたエルゼ・ローゼンフェルト。家族から結婚を反対され、誰も自分を理解しないと反発した。自分の側に立った男と家を出て、ハルトマンとなった。その後はどこかで暮らし、やがてヴァルデン地方の山間の村へ辿り着いた。そこまでは繋がる。しかし、その先がなかった。夫との間に子供が生まれたという知らせも、息子について書かれた手紙もない。生家側の記録だけを読めば、エルゼ・ローゼンフェルトという女は男と駆け落ちしたところで姿を消したようなものだった。怪異となった男の名前に繋がるものは、一つも見つからなかった。

 

 ルーエンへ戻ったのは、それから数日後だった。アベルは屋敷で写した記録と教会から集めた資料を持ち、そのまま軍の庁舎へ向かった。ヴァイゲルトは執務室にいた。机の上には軍から届いた報告書が積まれており、アベルが入っても筆を置かなかった。

「戻ったか」

「はい」

「何か出たか」

「母親と思われる人物については」

そこでようやくヴァイゲルトが顔を上げた。

アベルは資料を机へ置き、一番上の紙を開いた。

「村の記録から、事件当時に高齢の母親と未婚の成人した息子が暮らしていた家を絞りました。父親の死亡時期や家族構成まで照らし合わせると、条件に残ったのはハルトマン家だけです。まず間違いないと思います」

「母親の名前は?」

「エルゼ・ローゼンフェルト。結婚後はエルゼ・ハルトマンです」

「ローゼンフェルト」

「この地方に今も残っている家です。元々は比較的裕福な家庭で育っています」

ヴァイゲルトは報告書へ目を落とした。

「村の生まれではなかったのか」

「はい。若い頃、後に夫になる男との結婚を家族に反対されて、そのまま二人で家を出ています」

「駆け落ちか」

「そうです」

「それから、あの村へ行ったわけか」

「おそらく。それを直接示す資料はありません。ただ、村に残っているハルトマン家の記録と年代は一致します」

ヴァイゲルトは数枚の紙をめくった。

「どんな女だった」

「家族の記録なので、どこまで客観的かは分かりません。幼い頃から我儘で手を焼いたとは書かれています。結婚を反対された時には、家族から理解されていないと強く反発していたようです」

「理解されていない?」

アベルは該当する箇所を指した。

「『誰も私のことを分かってくれない』と何度も言っていた、と」

 ヴァイゲルトの視線が文字の上で止まった。アベルも黙ってその頁を見た。男は以前、自分が人を殺す理由について「母が、そう言ったのだ」と答えている。そしてヴァイゲルトは、男のそばに年老いた女を見ていた。ただし、それだけでエルゼが今も男のそばにいる存在だと断定することはできない。

「夫は?」

「自分は彼女の気持ちを理解していると、エルゼを庇っていたようです」

「その後は」

「ありません」

アベルは首を横に振った。

「家を出たところで、ほとんど記録が途切れています。夫が村で死んだことまでは別の記録から確認できましたが、夫婦がどんな暮らしをしていたのかまでは分かりません」

ヴァイゲルトは資料を机へ戻した。

「息子は」

「生家側には存在そのものが残っていません。村の徴税記録には成人した男が一人同居していたことだけあります。名前は書かれていませんでした」

「百年以上前の農村の帳簿なら、そんなものだろうな」

「はい」

 いっそ調査が足りないと責められた方が楽だったかもしれない。母親の名前も、生まれ育った家も、若い頃のことも少しずつ分かってきた。それでも、怪異を消す方法や、なぜ今も二人分のお供えで被害が止まるのかといった核心には、まだ何一つ辿り着けていなかった。

「母親の名前は分かりました。でも、怪異を消す方法に繋がるものは何もありません」

「最初から一度の調査で答えが出るとは思っていない」

ヴァイゲルトは椅子へ背を預けた。

「生きていた頃の人間が少し分かった。それで十分だ。次を探せ」

「簡単に言いますね」

「そのための調査官だろう」

「便利な肩書きですね」

「お前が言うのか」


 ヴァイゲルトは再び書類へ目を落とした。アベルは机の上に残した報告書を見た。エルゼ・ローゼンフェルト。百年以上の間、「男の母親」としか残っていなかった女の名前まで辿り着いた。その下にいる息子について書けることは、まだほとんどない。アベルは空白のまま残った欄を指で押さえた。人を殺した男。死んだ後も殺し続けた男。百年間、食卓を守る神として祀られてきた男。


 それでも、生きていた頃には名前があったはずだった。

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