第一章 国境の向こう側
『ヴァルデン地方の正しい食卓』
https://ncode.syosetu.com/n1236mq/
の続編です。単体でも読めますが、前作から読むことをおすすめします。
アベルが時計を修理しなくなってから、三か月が過ぎていた。
以前なら机の上には、分解した懐中時計と細かな歯車が並んでいた。今そこにあるのは、古びた帳簿、教会の死亡記録、村から集めた手記、それから軍がまとめた不可解な死亡事件の報告書だった。
最後の一枚に目を通し、アベルは紙を伏せた。そこにも、また「原因不明」と記されていた。軍の記録としては、それ以外に書きようがないのだろう。閉ざされた部屋で首を折られた兵士、夜中に扉を叩く音を聞いた者、誰も入っていないはずの部屋で死んでいた者。生き残った者の証言には、決まって「母を食べたか」という言葉が残されていた。
三か月前までなら、それらは軍の中でも怪談として扱われていた。今は違う。少なくともヴァルデン地方を守る軍の上層部は、ただの怪談ではないことを知っている。他でもないアベル自身も、人の姿をした男が何もない部屋の中に現れ、目の前で人の首を折って殺すところを見ていた。
百年以上前、この地方の小さな村で飢饉が起きた。病弱な母親を抱えていた男は、食糧の配分を巡って村人たちと揉めていた。やがて母親が死ぬと、男は村人たちが母親を殺したと思い込み、多くの者を殺した。男自身も、最後には村人たちに殺された。それでも終わらなかった。死んだはずの男は夜になると家々の扉を叩き、人を殺した。怯えた村人たちは、男とその母親のために二人分の食事を供えるようになった。
その後、なぜ人が殺されるのか分からなかった村人たちは、男の母親の食事を減らしたことや、男が「母を食べたか」と繰り返していたことから、食事に関する何かが原因ではないかと考えた。恐怖の中で、どうすれば殺されずに済むのかを探り、他人の食事を取らない、自分に割り当てられた食事を他人へ与えない、一度決めた配分を変えないという決まりを作っていった。
いつしか、それは食べ物を公平に分けるための教えとして語られるようになった。多くの人を殺した男は、食卓を守る神として祀られるようになった。長い年月をかけて、人々から同じ役割を与えられ、同じ願いを向けられ続けたことで、男自身もその役割を受け入れてしまったのではないか。
以前、男が現れた部屋で、ヴァイゲルトは男のそばに年老いた女の姿を見ていた。アベルには見えず、その女が何者なのかも分かっていない。ただ、村の祈り所では百年近く、男だけでなく母親の分も含めた二人分の食事が供えられ、母親も男とともに祀られてきた。
さらに男は、アベルとの会話の中で『母が、そう言ったのだ』と口にしている。男の母親も死後に何らかの形で残り、百年間の信仰を受け続けている可能性はあった。しかし、ヴァイゲルトが見た老女と男の母親が同じ存在なのか、それが男の行動にどこまで関わっているのか。色々な事が、まだ推測の域を出ていなかった。
アベルは椅子から立ち上がった。窓の外には、冬を前にしたルーエンの街が広がっていた。海から吹き込む風はすでに冷たく、港には軍へ物資を運ぶ船が並んでいる。帝国との戦争が始まってから、街から軍人の姿が消える日はなかった。
アベルも今では、その一人に近い立場だった。軍服こそ着ていないが、胸元にはヴァイゲルト将軍から正式に身分を与えられたことを示す、小さな軍の徽章を留めている。肩書きは地方調査官。ヴァルデン地方に残る古い記録や民間伝承、原因の分からない事件を調査することになっている。怪異を調べることが正式な役職として通るはずもなく、軍の中で動くためにはそれらしい体裁が必要だった。この肩書きは、そのために用意されたものだった。
時計屋は、今は休業していた。いずれ戻るつもりではいる。だが、アベル自身もこの怪異によって母を殺され、その後も村とルーエンで何人もの死を見てきた。ここまで関わってしまった以上、あの男について何も分からないまま、今すぐ歯車だけを見て暮らす気にはなれなかった。
二人分のお供えを再開してから、村でもルーエンでも不可解な死は起きていない。だが、怪異が消え去ったわけでもなく、お供えをやめることもできない。根本的な解決とは言えなかった。
軍の敷地を出たアベルは、敷地の端に新しく設けられた祈り所へ向かった。四本の柱に屋根をかけ、三方を厚い布で囲っただけの小さな空間で、その中央には腰ほどの高さの石台が置かれている。近くには兵士が一人立っていた。
「お疲れさまです」
アベルが声をかけると、兵士は軽く頭を下げた。
「今日はもう置きましたよ」
「確認しても?」
「どうぞ」
石台の上には二人分の夕食が並べられている。パン。豆を煮たもの。少量の肉。二つの皿には、ほとんど同じ量が盛られていた。兵士が帳面を開く。
「十七時十二分。二名分、規定量。異常なし」
「ありがとうございます」
「これ、いつまで続けるんです?」
何気ない質問だった。
アベルは皿を見たまま答えた。
「分かりません」
「そうですか」
兵士も、それ以上は聞かなかった。村では今も、祈り所へ食事を運ぶ者がいる。誰も飢えませんように。皆が食事をできますように。家族が楽しく食卓を囲めますように。長い年月の中で付け加えられてきた祈りだった。
ルーエンには、その祈りさえない。決められた量の食事を置き、時間を記録し、翌日になれば処理する。軍にとっては、すでに一つの業務になっていた。それでも、二人分の食事を置き始めてから、ルーエンでは不可解な死者が出ていない。村でも、お供えが再開されてから同じだった。だから、やめられない。
「アベル」
外から呼ばれた。
振り返ると、伝令の兵士が立っていた。
「将軍がお呼びです」
「今ですか?」
「はい。軍議室へ」
アベルはもう一度二人分の食事を見てから、祈り所を出た。軍議室には、すでに数人の士官が集まっていた。地図の前に立っていたエルンスト・ヴァイゲルト将軍が、アベルを見る。
「来たか」
「何かありましたか」
「座れ」
机の上には、北部一帯の地図が広げられている。ルーエンから国境へ続く街道。その向こうには帝国領があった。ヴァイゲルトは地図の帝国側を指した。
「妙な報告が入った」
「帝国から?」
一人の士官が書類をアベルへ渡した。王国の諜報部門が帝国内から集めた情報だった。軍事施設の配置や部隊の移動に混じって、場違いな記述がある。
夜中、宿舎の扉を叩く音が続いている。アベルの手が止まった。次の紙をめくる。北部のある街では、兵士が宿舎の中で死亡していた。首の骨が折れている。争った痕跡はない。
「……いつからです?」
「最初の報告は二週間ほど前だ。その後、似た話がいくつか出ている」
ヴァイゲルトが答えた。アベルはさらに読み進めた。夜中の音。誰もいない廊下。閉ざされた部屋。首を折られた死体。
「ルーエンで起きたことと、似ています」
「ああ」
ヴァイゲルトは机へ両手をついた。
「偶然だと思うか?」
「思いません」
アベルは即答した。
士官の一人が腕を組む。
「だとすれば、問題はどうやって帝国まで届いたかだ」
アベルは地図を見る。村からルーエンへ怪異が広がった時には、きっかけと考えられる出来事があった。村の祈り所を訪れた兵士たちが、一度供えられた食事へ手を出した。その兵士たちがルーエンへ戻った後、街でも扉を叩く音が聞かれるようになった。人間を介して、怪異と新しい土地との間に縁ができた。少なくともアベルは、そう考えている。
「誰かが、ここから帝国へ持ち帰った可能性があります」
「誰か?」
ヴァイゲルトが尋ねた。
「分かりません。ルーエンには今も人の出入りがあります。戦争中でも完全には止められません」
「帝国の人間が入り込んでいた可能性もあるか」
「はい。密偵なら、なおさら何をしていたか分かりません」
それはあくまで可能性だった。ルーエンに帝国の密偵が潜入していたという証拠はない。ただ、戦時中の軍需都市である。敵国の人間が一人も入り込んでいないと考える方が楽観的だった。別の士官が地図を覗き込んだ。
「密偵でなくても、商人や流民が国境を越えた可能性はある」
「そうですね。何が縁になるのかも、まだ完全には分かっていません」
アベルは書類へ目を戻した。確かなのは、帝国でルーエンとよく似た現象が起き始めていることだけだった。
「帝国で勝手に暴れてくれるなら、こちらとしては助かるんじゃないですか」
一人の士官が言った。室内の何人かが黙った。軍人として考えれば、不自然な意見ではない。帝国兵が原因不明の死を遂げれば、その分だけ王国の兵士が助かる可能性がある。ヴァイゲルトもすぐには否定しなかった。
「戦況だけを見ればな」
アベルが顔を上げる。
ヴァイゲルトは地図を見たまま続けた。
「帝国北部で混乱が広がれば、こちらが優位に立つ可能性はある。軍の宿舎や補給拠点にまで被害が出れば、なおさらだ」
「将軍」
「分かっている」
ヴァイゲルトはアベルを見る。
「利用できるものではない。制御もできん」
「はい」
「こちらでは食事を供えて、ようやく止まっているだけだ。そんなものを兵器扱いする気はない」
別の士官が言った。
「国境なんて気にしてくれる相手でもなさそうですしね」
「その通りだ」
ヴァイゲルトは地図の国境線を指でなぞった。
「だが、帝国北部が混乱するなら、別の使い道はある」
「別の使い道?」
「停戦交渉だ」
室内が静かになった。
「帝国側の事情が悪化すれば、向こうも北部戦線を維持する余裕を失う。こちらにも戦争を長引かせる利点はない。理由が怪異である必要はない。軍の維持が難しくなったという事実だけで、交渉材料にはなる」
士官の一人が言った。
「まだ早くありませんか」
「早い。今すぐ何かするとは言っていない」
ヴァイゲルトは帝国側へ置いていた指を離した。
「まず、本当に同じ現象なのか見極める必要がある」
「こちらから調べるんですか?」
「敵国へ正式な調査団を送れるなら苦労はしない」
そこで話はいったん切れた。アベルは手元の報告書へ目を落とした。軍の宿舎だけではない。帝国の街中でも夜中に扉を叩く音を聞いたという話が混じっていた。そこに暮らしている全員が兵士ではない。子供もいる。老人もいる。王国と帝国が戦争をしているからといって、彼らまであの男に首を折られていい理由にはならない。
「気になるか」
ヴァイゲルトが言った。
「はい」
「敵国だぞ」
「分かっています」
「帝国の兵が減れば、その分こちらの兵が助かるかもしれん」
「それも分かっています。ですが、向こうにいるのは兵士だけじゃありません。普通に暮らしている人たちもいる」
アベルは報告書を閉じた。
「ヴァルデン地方から広がったものなら、良い気分はしません」
ヴァイゲルトはしばらく黙っていた。
やがて、地図から離れる。
「お前は軍人には向いていないな」
「調査官ですから」
「便利な肩書きだ」
ヴァイゲルトの口元がわずかに動いた。
それからすぐに元の表情へ戻る。
「帝国の件はこちらでも情報を集める。お前は今までどおり、ヴァルデン地方を調べろ」
「男のことを?」
「男だけではない」
アベルはヴァイゲルトを見る。
「あの部屋で私が見た女もだ。あれが何者なのか、我々は何も知らん」
男が言った「母」という言葉。ヴァイゲルトが見た老女。二つが無関係とは思えない。だが、同じものだと決めつけるには材料が足りなかった。
「男の名前すら分かっていません」
「百年以上前だ。当然だろう。だから調べろと言っている」
アベルも頷いた。
「分かりました」
軍議室を出たところで、窓の向こうに先ほどの祈り所が見えた。今夜も二人分の食事が置かれている。村にも同じものがある。誰も祈らなくなっても、ルーエンでは毎日欠かさず食事が運ばれる。
その一方で、国境を越えた帝国では、今頃どこかで同じ怪異によるものと思われる被害が起き始めている。誰が縁を運んだのか。男のそばにいた女は何者なのか。なぜ二人分の食事を置けば、今も死者が止まるのか。アベルは腕に抱えた資料を見た。分からないことは多い。
まずは、人間だった頃の男が何者だったのか。そこから調べるしかなかった。




