第8話:尾行の報酬
イオ・テリオ通りとサンロシアス通りが交差する十字路の角で、ラスティリアードは誰かを待っている風だった。そこから一区画だけ入った商店の柱の陰から、アルキュオネは顔を覗かせていた。傍には、歩道の真ん中に腕を組んだまま立っているエレクトラがいた。
「ねえ」
囁くようにアルキュオネが声を掛ける。
「何?」
「ちょっと堂々とし過ぎじゃない?」
エレクトラは苦笑した。
「別に、私の顔は割れてないから、見られても平気でしょ? あんたの方こそ、怪し過ぎるわよ」
そういうと、エレクトラは、つばの広い帽子を目深に被り、鼻から下をスカーフで隠したアルキュオネを見返した。
「……蜂蜜でも採りに行くつもり?」
息をついたアルキュオネは、エレクトラの方に体を向けながら、ゆっくりと彼女の横に立った。横目で遠くのラスティリアードを見る。
「誰かと会うのかな?」
「さあ……でも、あんまり時間を気にしてる風ではないけど……」
「え? そんなこと分かるの? エレクトラ、凄いのね!」
思わず声を上げるアルキュオネに、彼女は肩をすくめた。
「……逆にあんたは何を見てるの?」
その時だった。サンロシアス通りから走って来た自動車がラスティリアードの前に停まると、彼は、自分で扉を開けてそれに乗り込んだ。
「え?!」
二人が十字路へと駆け出すより早く、騒々しい音を立てながら自動車は再び走り出した。
「そんな! まさか車に乗るなんて……」
スカーフを剥ぎ取ったアルキュオネは、眉根を寄せて落胆の息をついた。エレクトラは目を細めて、小さくなる自動車の後ろ姿を見ていた。
「……あれ、ベンドのW型だわ。あんな古いものをよく……」
「え、車の種類分かるの?」
アルキュオネは驚いてエレクトラを振り返った。……私には全部同じに見えるけど……
「そりゃ、うちの製品だからね」
苦笑するエレクトラに、アルキュオネは胸の前でスカーフを握り締めた。
「さすが社長令嬢!」
彼女の言葉に、翡翠色の鋭い眼差しが跳ね返る。
「……茶化すなら帰るわよ」
「え? 待って待って!」
慌てて追い縋ろうとするアルキュオネに、エレクトラは向き直った。
「で?」
腕を組む。
「何?」
「これは、成功? 失敗? 報酬はもらえるの?」
アルキュオネはゆっくりと帽子を取った。一度伏せた目をエレクトラに向ける。
「まあ……失敗だけど、報酬は支払うわ」
エレクトラは微笑んだ。
「そう。じゃあ、早速行こ」
「……うん」
* * *
ノクティアが有名な喫茶店『メギル・メギル』は、まだ午前中ということもあって、それほど混んではいなかった。
「よかった。仕事が早く終わって」
窓際の席に通されて、エレクトラは嬉しそうに言ったが、アルキュオネは複雑な表情を浮かべていた。
注文が済むと、エレクトラは椅子の背に寄り掛かった。
「ねえ、どうしてロージェに頼まなかったの? 彼女なら、報酬なしで付き合ったと思うけど」
アルキュオネは言葉に詰まった。確かに、ロージェならそうしてくれただろう。相手がラスティじゃなければ……。どうする? エレクトラに言ったら、ロージェは怒るだろうか?
暫く迷ったが、アルキュオネは真実を伝えることにした。
「それが……彼が、彼女の意中の人なの……」
ただでさえ大きめの翡翠色の瞳が見開かれる。
「へぇ……ロージェ、あんなのがいいんだ」
エレクトラの言葉に、アルキュオネは眉を顰めた。
「……あんなの、って何?……一応、私の従兄なんだけど……」
「ああ、そうだったわね。ごめん、忘れて」
特に慌てる風でもなく、エレクトラはひらひらと片手を振った。アルキュオネは息をついた。
「エレクトラはどんな人がタイプなの?」
「色恋には興味ない」
余りに直接的な切り返しに、思わず戸惑う。
「あ……そう。じゃあ……休みの日とかは何しているの?」
「まあ……読書とか」
「読書?……どんな本を読むの?」
アルキュオネは少し身を乗り出した。エレクトラは天井を仰いだ。
「そうね……ネイコス=ローとか?」
「ネイコス?……それってどんなジャンル?」
「哲学」
「て?!……あ……そう……」
……ダメだ……全然広げられない……でも……。アルキュオネは俯きかけた顔を上げた。無理やり微笑む。
「……まあ、うちの従兄なら、ネイコス=ロー知ってるかも。なんせ本の虫だから」
エレクトラは小さく眉を上げた。
「へえ? どんな本を読んでるの?」
アルキュオネは慌てた。まずい! 全然知らない。大体、趣味が違いすぎるし……。待って、あいつの本棚を思い出すのよ……
「えーと……えーと……確か、ガウゼ何とか、とか……」
「ガウゼ=リュードベル?」
「あー、多分……。それって哲学者?」
「ううん。数学者。でも、賢いのね」
翡翠色の瞳に、少しだけ好奇の光が宿ったように見えた。ああ、数学者なら合ってるかも……アルキュオネは安堵した。
「まあ、そうなのかな? ローゼンブラッド卒だけど」
エレクトラは身を乗り出した。
「ローゼンブラッド?! へー! 凄いじゃない」
……そう、彼の修学院の名前を聞いた人は、大抵そんな反応をする。
アルキュオネは微笑んだ。不意に窓の外を見る。
「そう?……合格した時は、父も凄く喜んでたけど……」
もちろん、誇らしい。そんな従兄を持って。それはそうなんだけど……。
少しだけ意識が沈み込んで、アルキュオネは会話が途切れたことに気付いていなかった。
「ねえ?」
「あ、何?」
エレクトラは腕を組んでいた。鮮やかな翡翠の瞳が向けられる。
「……この尾行は誰のため? ロージェのため? 従兄のため? それとも、あんた自身のため?」
思いもかけない質問に、アルキュオネは眉を顰めた。思わず視線を落とす。
……誰のため?……
「それは……」
その時、店員がノクティアと紫茶を持ってきた。
エレクトラは肩をすくめた。
「まあいいわ。いただきましょう」
艶やかな濃褐色のエタルで表面を覆われた楔型の菓子が白い皿に載せられていた。切り口からは、茶褐色の生地と、それに挟まれた琥珀色のオクルゼルが覗いている。
表面の深い艶に気を取られるアルキュオネをよそに、エレクトラは、早速フォークで褐色の楔の一部を切り取っていた。口へ運ぶ。
「おいしい!」
声のトーンと同じように、口元が大きく弧を描く。普段は少し釣り上がった目尻は、口とは反対にたわんでいた。下瞼に覆われた瞳に光が満ちる。
アルキュオネは、フォークを持ったまま、そんなエレクトラの表情に見とれていた。
至福の時間が過ぎて、彼女はアルキュオネの視線に気付いた。
「何?」
「あ、いや……エレクトラもそんな顔するんだと思って……」
アルキュオネに言われて、彼女は一瞬目を伏せた。頬が少しだけ赤らんだように見えた。
「いいから! 食べてみて」
「あ、うん」
促されて、アルキュオネはノクティアを口にした。エタリカの深い香りと、オクルゼルの仄かな酸味が静かに重なり合う、大人びた味わいだった。
「ほんとだ……おいしい……」
彼女は静かに呟いた。だが、エタルの濃厚な味に、先刻のエレクトラの問いのほろ苦さが混じった。
……私は一体、誰のために、何をしているの?……
意外に静かな彼女の反応に、エレクトラは眉を顰めた。やがて息をつく。
「ねえ?」
「何?」
「あの車の持ち主、調べて欲しい?」
紫茶のカップに手を伸ばしていたアルキュオネは、驚いて手を止めた。
「え?! そんなことできるの?!」
エレクトラは苦笑した。
「調べることはできるわ。分かる保証はないけど。どうする?」
アルキュオネは唇を噛んだ。……どうするの? 何をしているかも分かっていないのに、このまま走り続けていいの?……
彼女は顔を上げた。
傷付きたいわけじゃない……でも、やっぱり知りたいの!……
「……お願いできる?」
彼女の言葉に、エレクトラは小さく微笑んだ。
「メルカ・ビルっていう喫茶店のマケ・ラ・マケ、凄く美味しいらしいわ。それでどう?」
「分かった」
しっかりと頷いたアルキュオネは、紫茶を口にした。




