第5節:尾行
「これはこれは、クロネッカ様。この度はとんだことで……」
キタルファ新興社の応接室で私とラムを迎えたのは、会社常務のニールス=ロアンスキン氏であった。カップと受け皿をカタカタと震わしながら紫茶を出した女子社員ほど、彼はあからさまではなかったが、しかし、鈎鼻の上に載った眼鏡の奥には、やはり警戒のまなざしがあった。
「ザウラク鉄工所の焼け跡の冷却糟の中から、金属板を回収したのはこちらだとお聞きして伺ったのですが……」
挨拶もそこそこに、私は本題に入っていた。
「はい。確かに、あの新材料を回収致しましたのは私どもでございます。ええと、鋼銀と申しましたか」
ロアンスキン氏は、そう言って右手の二本の指で額をつついた。私とラムは、思わず安堵の溜め息を漏らしていた。
小さく咳払いをして、私はソファーから身を乗り出した。
「ええ。その鋼銀なのですが……私に譲っては頂けませんか?」
沈黙があった。それは、我々が歓迎せざるべき重苦しい静寂であった。痩せこけた頬をこすりながら、氏は深々と息をついた。
「さあて、どうしたものですか」
黒檀のテーブルに視線を落とした氏は、何度か両手を組み直すとやがて顔を上げた。落ち窪んだ瞳の光は、拒絶の色に変わっていた。
「実はですね、あの材料は私どもの方で、つい半月ほど前に王立院から特許を頂いておりまして、キュレーナイカに新しく製造工場を建設することが、昨日の会議で決定されたばかりなのですよ。ですから……」
氏の空虚な笑みの向こうには、我々の絶望的な未来が、既に見え隠れし始めていた。
「ただでとは申しません。そちらが納得頂けるだけの代金はお支払います。何とかお譲り頂けないでしょうか?」
私は必死の思いで食い下がった。何としても、鋼銀だけは手に入れなくてはならない。それは、時間以上に切実な問題だった。
「そちら様のご事情はよく存じ上げているつもりですが……」
ロアンスキン氏は灰色の頭を掻いた。
「失礼ですが、クロネッカ様は貴族の称号を剥奪されてしまわれたそうで、私どもと致しましては、そういった方とお取引をするのは、果たしてどういうものかと……」
言いながら、氏は、淡い水色の瞳で私の顔色を窺った。
「環座会の方からも、クロネッカ様に対しましては、いかに微弱であろうとも、お力添えして差し上げることまかりならぬと、勧告があったばかりでございまして」
その足がかりのない乾いた口調に、私は拳を握り締めた。ラムは眉間を蒼く翳らせて、小さく震える私を見つめていた。
「では、どうしても?」
「誠に済みませんが、私どもも物を売って身を立てております以上、世間様の信用を失う訳には参りませんので……申し訳ございません」
私の言葉は空しく空に舞った。
「……わかりました……」
俯いた私は奥歯を噛みしめた。口の中に、苦い鉄の味が広がった。
* * *
鉛が埋め込まれたように重い足を引きずって、私はストロ・ハル通りを歩いていた。街の賑わいも、今は耳に届かなかった。キタルファの真新しい社屋を出てから、既に五ヶ所の鉄工所をまわっている。しかし、鋼銀調達の目処は未だについていなかった。あるところは冷ややかに、あるところは同情しながらも、結局は監察局、環座会、あるいは世間の目を恐れて、鋼銀製造の契約を前に首を縦に振ろうとはしなかったのである。材料が手に入らなければ、例え期限が一年あろうとも間に合う道理がなかった。増して、博士が倒れ、残された時間は一ヶ月しかないという状況の中で、どうやってこの窮地を切り抜ければいいというのだろう?
何度目かの深い溜め息をついた私は、背後に忍び寄る暗い影を振り払うように頭を振った。何もしないうちから諦めるな、ラスティリアード。お前は一人ではない。お前に力を貸してくれた人々に報いるためにも、お前は全力以上の力を以て事にあたると決意したではないか。夢を諦めるのに、決して遅すぎるということはないのだ!……
「クロネッカ様」
私を通りの喧騒の中に引き戻したのは、押し殺したようなラムの声だった。隣りを歩く彼女に顔を向けた私はハッとした 。
そこに、普段目にしていたラムの柔らかな表情はなかった。眉間には深く皺が刻み込まれ、正面を見据えるまなざしには白刃の鋭さが潜んでいた。彼女の視線が焦点を結ぶ先には、特に警戒を促すものなどなかったが、確かに、彼女は何かを感じたようであった。
「そのままでお聞き下さい」
白い頬を微かに粟立てて、彼女は言った。頷きながら、私は口の中が乾くのを覚えた。
「私達、どうやら尾行られているようです……」
「つけられている?」
私は眉をひそめた。とっさに振り向きたくなる衝動を抑えて、私とラムは石畳みの通りをゆっくりと歩いていった。
やがて、道の突き当たりにあった時計屋のショーウインドウの前で、二人は足を止めた。
「いつ頃からか、わかりますか?」
棚の上に並べられた懐中時計を眺めるようにしながら、私は窓ガラスに映る背後の街頭を睨んだ。
「いえ、はっきりとは……ですが、少なくともキタルファ新興社を出た後からです」
後ろには、右手は本屋、パン屋、床屋と店並みが続き、左手のアイデイ初等院の塀の前には市が出ている。甘藍や芋を手に取り、買い物と談笑に熱中する人込みの中には、追跡者の姿を見つけることはできなかった。
「監察局の監視者だろうか?」
「わかりませんが、用心なさった方がよろしいかも知れません」
ガラスを介して目が合うと、強張った顔でラムは言った。店の中の大きな柱時計が刻を告げて、私は一瞬身を固くした。彼女の様子はただ事ではない。私にははっきりとは感じられなかったが、彼女の表情を険しくさせているのは危機感に違いなかった。それほど危険な人物が、我々の後をつけてきているというのだろうか? 法廷での、救世団の少年の姿が脳裏をよぎった。
「行きましょう……」
息を整えると、私はラムを促した。我々はプラントル通りへと折れた。
初等院の校庭を右手に見ながら、歩を進める私は全神経を背中へと集中させた。学院帰りの生徒達は、我々の尋常ならざる顔色に気がついて、怯えたように道をあけた。すれ違うと、彼らの好奇の視線がスーツの背に投げかけられたが、やはりそれ以上の気配を感じることはできなかった。
「二人になりました」
ラムが言った。静かな声音だけに、その言葉には慄然とする響きがあった。私が尋ねる前に、彼女は続けた。
「わかります。空気のザラつきが増しました」
校庭を過ぎた先には民家が続いていた。人通りはまばらになってきている。今なら、彼女の言う尾行者の姿を確認できるはずであった。
私が振り向こうとした時、ラムは私の左腕を取った。
「どうしました?」
驚いて立ち止まった私に、彼女は漆黒の瞳を向けた。
「夕べの約束を、覚えておられますか?」
「え?」
私は、眉根を寄せる自分の顔が映った彼女の澄んだ黒瞳を見返した。黒曜石のような瞳の奥には、穏やかな、しかし力強い輝きがあった。
「私が引き付けますから、クロネッカ様はその隙に」
その意味を悟って、私は慌てて声を上げた。
「何を言うんですか?!」
「御心配はいりません。私の祖国では、例え技官であっても一応の体術を身につけています。追っ手を巻くくらいなら……」
小さく微笑んで身を引こうとした彼女の腕を、私はきつく握った。
「そんなこと、私が承諾できるはずがないじゃありませんか! 婦人を守るのは、男子たるものの務めです」
「ですが」
その時だった。
後ろから走ってきた黒塗りの自動車が、突然我々の行く手を塞いだ。車輪が止まらないうちに、数人の黒マントの男達が中から飛び降りると、素早く我々の背後を囲んでいた。
「何者だ?!」
ラムを庇うようにして、私は身構えた。明らかに監察局の者ではない。
開かれた車のドアの中から、黒眼鏡の男が降り立った。鋭く睨みつける私に、その男は軽く頭を下げた。
「クロネッカ様ですね。我々と御同行願います」
意外にも、穏やかな語り口だった。それがかえって無気味でもあった。
「断わる!」
私は敢然と言い切った。いや、そうしようと努めた。
「それは困ります」
黒眼鏡の男が小さく頭を動かした時であった。私が気付くよりも早く、背後にいた一人が、そばからラムの身を強引に引き離した。
「ラムさん?!」
引き戻そうと手を伸ばした私を、別の一人が遮った。ラムを抱えた男は、表情のない顔で彼女の尖った顎をつかんだ。私は歯軋りした。
「いかがでしょうか?」
眼鏡の男は平然と尋ねた。嘲りとも取れる声音であった。もはや、逃れる術はない――男の声がそう言っていた。
私は、肩を落として俯いた。
「わかった。その代わり、彼女は放せ」
「いえ。彼女にも御一緒してもらいます」
黒マントの男達は、私とラムの両腕を取った。




