第4節:濡れた黒瞳
その夜、私は眠れなかった。天井に――本来は壁だった訳だが――貼られた海図を眺めながら、私は今までのことを思い返してみていた。
父がデヴィーサイドの陰の支援者だったとは……この二十四年間、私はこの二つの目で、一体父の何を見てきたのだろう? 私は、父についてどれだけのことを知っていたのだ?
私の目は、いつも天に向けられていた。その理由は誰も知ってはいなかった。多分、父も……私はそれでいいと思っていた。空を飛びたい――その願いは、誰にも理解されることのないものだから。ただ、誰一人賛同してくれなくても、私はその願いを捨てられない。だから、私は天を仰いだ。
しかし、俯いて足元を見つめる人々の中で、周囲に流されずに空を見上げた人間は、私一人ではなかった。その人は、驚くほど私の身近にいたのだ。何故それに気付けなかったのか……たった一度、辺りを見回せば済んだことだったというのに……
自分は、古きことに縛られて、新しいことを為す勇気がなかった。お前は、私の代わりに何事か思うことを為せ――父の遺言に込められた本当の思いを、一年も経ってから知ることになろうとは……私は両手を額の上に載せた。
ふと、私はベッドの上に身を起こした。父は果たして、私が天を仰ぐ理由を知らなかったのだろうか?……私の代わりに何事か思うことを為せ――その言葉の裏には、例え禁断の願いでも決して諦めるな、という意味があると考えることはできないだろうか?……だが、その真意は、亡くなった父自身にしかわからないことであった。何故、私はもっとよく父と話し合わなかったのか。空への憧れのことではなくてもいい。語るべきことは他にもあったはずだ。私は何をしていたのだ?!……
私は船室を出た。胸の奥が灼かれるようで息苦しかった。どこへ行こうと同じことではあったが、じっとしているのは耐え難かった。
船尾の梯子を登って砲塔の上に出た時、私はそこに先客がいることに気付いた。
大きな無地のシャツを羽織っただけで、細い素足を春風に曝していたのは、ラムであった。彼女は濁酒のグラスを傾けながら、不浄の地の闇をぼんやりと見つめていた。
「同席してもよろしいですか?」
私のかけた言葉に、彼女はうっすらと薔薇色に染まった顔を向けた。
「クロネッカ様?!……ええ、どうぞ」
私は彼女の隣へと腰を下ろした。砲塔の錆びた鉄板はひんやりとしていた。
「いかがですか? グラスはこれ一つしかありませんけど……」
「ありがとう」
彼女が差し出した濁酒を、私は口にした。
「ラムさんも眠れないんですか?」
「……ええ……」
彼女は膝を抱えた。
砂漠を渡る風が砂塵を巻き上げる音が、打ち寄せる波のように聞こえていた。
「あと一ヶ月ですね……」
ラムが呟いた。
「ええ……博士も倒れられてしまったし、ラムさんには更に苦労をかけることになると思いますが……よろしくお願いします」
「いえ、私の方は構わないんです……」
彼女は微笑んだ。しかし、その笑顔には蒼い翳りがあった。
「……私、感動しました。クロネッカ様が、国中の人々を敵に回されてでも、御自分の主張を一歩も譲られることなく、正々堂々と戦われたとお聞きして……」
私は苦笑した。
「しかし、私は敗れました。一ヶ月後には、私は生きていないかも知れません」
「いえ、クロネッカ様は御自分に勝たれたのです……それに引き換え私は……」
彼女は膝に顔を埋めた。夜風に長い黒髪がなびいた。それは、ロージェスタ嬢の銀髪のような光波打つきらびやかな感じではなかったが、しっとりと落ち着いた美しさがあった。
「どうか、したんですか?……」
普段とは違う、沈んだ雰囲気のラムに戸惑いながら、私は尋ねた。彼女のその様子は、初めて会った馬車の中で、自分の身の上を話した時によく似ていた。
彼女は顔を上げた。その黒い瞳に湛えられた苦悩の光に、私はハッとした。
「私は、祖国を捨てました。争いと死に蝕まれたあの国に、もはや『大いなる秩序』はおられないと思いました。……しかし、それは間違いだったのです!」
ラムは、指が白くなるほど両腕をきつく握り締めた。
「私は祖国に残るべきでした。『大いなる秩序』は探し回るものではなく、招き寄せるものだったのです!……クロネッカ様のお話をお聞きして、私は初めてそれに気付きました。私が本当に為すべきことは、例え相手が国家であっても、間違いを間違いだと指摘することだったのです! 『正義』は我々を見捨ててなどいなかった。ただ、私の心にはそれを行う『勇気』がなかったのです!……私は、人生の敗残兵です……」
刺青のある白い額に、深い皺が刻み込まれた。苦悶と悔恨の雫が瞳から零れ落ちた。
「……ラムさん……」
「……私は、亡命組十六人のリーダーでした。しかし、私は結局、自分の身の安全しか考えてはいなかったのです。国のやり方に疑問を抱いていたとしても、逃げ出すことのできないベル・ロニア一億八千万の国民のことを、私は考えてはいませんでした。いえ、考えないようにしていたのです。しかし、『公正』はすべてをご存じでした。私が誤ちに導いた十五人の同志は『死』に連れ去られ、私だけがその罪を背負って生き長らえている……クロネッカ様もエッセンニーカ様も博士もクリスも、私に大変良くして下さいます。しかし、この国では、私は招かれざる客なのです。ここには美しき秩序があります。ですが、私はその中に入ることはできません。私の存在は、ここでは『乱れ』になるのです。私はティレリナの国民にはなれません。例えベル・ロニアの信仰を捨てたとしても、この刺青までを消すことはできないのです!」
ラムは額を押さえた。
「……この刺青は、『輝ける方々』への信仰の証しでした。しかし、ティレリナでは異教徒の烙印でしかありません。皮肉なものです……十五人の同志の命を奪ってまで私が手に入れようとした秩序は、すぐ目の前にあるというのに、私は決してそれに触れることはできないのですから……。しかし、誤ちに気付いたところで、私には後戻りできる道も、帰るべき場所もありはしないのです……」
彼女は声を詰まらせた。涙が風に舞った。
それは、我々の話を聞いて俄かに起こった考えではないだろう。彼女の心の裡には、祖国の大地を離れた直後から、絶えず敗走者としての負い目があったのだ。自分の判断は、果たして正しかったのか? その答えは誰にもわからなかった。時が満ちるまでは……だからこそ、自分の判断の正しさは、自分で信じるしかないのだが、彼女は、それが誤ちであることに気付いてしまったのだった。しかし――
いつだったか、訪れたブリザルディア家でロージェスタ嬢は言った。私の目は、ものの本質を見透かしているような、神秘的な輝きを持っていると……だが、実際はどうだ。私は、父の憧憬も、ラムの苦悩も見抜けなかったではないか。この二つの青い瞳は、顔に張り付いた底の浅いガラス玉にでも等しいものでしかなかった。私という人間は、一体何なのだ。私には、先人達の夢を担う資格があるのか?……
「……そんなことはありませんよ……」
苦い思いに捕らわれながらも、私はラムを励まそうと努めた。
「ラムさんがいてくれなければ、我々は今でも、新材料を探して奔走していたことでしょう。とてもリウヴィル号建造どころじゃなかった……。一ヶ月後の刑の執行を前にして、私がこうして落ち着いていられるのも、ラムさんのおかげなんです。『龍の眠る日』に間に合って空を飛ぶことができれば、私はそれで本望なのですから。我々にはあなたが必要だったのです。そしてあなたは来てくれた。いつか言っていたではありませんか。自分は来るべくしてここに来たのだと……自分の技を、創造という目的に使うことができて嬉しいと……。あなたは間違っていません。私が戦えたのも、あなたがいてくれたからなのだから……。アルフル・サマカーは、あなたと共にあったのです」
ラムは闇を見つめたまま、私の言葉を聞いていた。濡れた黒瞳からは、懊悩の色が薄らいだような気がした。
「……ありがとうございます……」
涙を振り払うようにして、彼女は顔を上げた。
「今、わかりました。私が本当に為すべきことは何なのかが……」
口元がほころんだ。私は安堵した。
「私、作ります。リウヴィル号を……銀色の翼を……」
彼女は私の顔を見つめた。まだ潤む瞳は、まるで、穴を穿つかのように、私の目の奥を凝視した。それは、私が困惑を覚えるほどであった。
「……クロネッカ様、私の国には、『ラスティル』という名の神がおられます。どんな神か、おわかりになりますか?」
「いや……」
ラムは微笑んだ。落ち着いた、柔らかな笑みであった。
「……『ラスティル』は、『希望』の神です……」
グラスを持った私の手を、彼女は不意に握り締めた。濁酒が膝の上に零れた。
「あなたを死なせはしません……」
ラムの細い指には、驚くほどの力が込められていた。それは、彼女が国を捨てた時以上に重大な決意であった。しかし、私の青いガラス玉は、またしてもそれを見極めることができなかった。
ツァフィア号には、いつまでも砂の波が打ち寄せていた……




