第6話:海の布
「まあ、これは一体何の騒ぎですの?!」
自宅の応接間に入ったアルキュオネは、テーブルや絨毯の上に広げられた仕立ての道具に目を丸くした。それらの間を動き回っていた仕立て屋の三人がそれぞれ頭を下げる。
「ああ、すまんすまん。例の土産の件だ」
笑いながらザウテルが近づいた。
「お土産?」
「ああ、カラウリア島でいい生地を見つけてな。是非アーネにと思ったんだが、生地だけ渡すのも味気ないかと思って」
そこで背後の三人を振り返ると、ザウテルは彼女達に向かって手を広げた。
「いい仕立て屋を探していたら、こんな時期になってしまった」
彼女達にぎこちなく微笑んだ後、アルキュオネはザウテルに尋ねた。
「……で、生地というのは?」
「おう、そうだ。こっちに来てくれ」
彼に導かれて、彼女はテーブルへと足を進めた。
「あそこは絹織物が有名だが……藍染は知っているか?」
「藍染?」
「ああ。これだ」
彼が手にしたそれは、南国の遠浅な海を連想させるような澄んだ水色だった。表面の微かな光沢は、渡る風に揺らめく波紋のようにも見えた。
「まあ!……」
アルキュオネは言葉を失っていた。こんな生地を、ザウテル様が私のために買ってきてくれたなんて……
目を瞠ったままの彼女の顔を、彼は少し不安そうに覗き込んだ。
「どうだろう? カラウリアの海を切り取ったかのような色合いなんだがな」
「ありがとうございます! とても気に入りました!」
彼女の言葉に、彼は安堵の息をついたようだった。
「よかった。男の見立てではどうかと思ってな……」
一瞬躊躇した後、悪戯っぽい笑みを浮かべて、アルキュオネは尋ねた。
「この色、青の貴公子様とお揃いですね!」
ザウテルは一瞬目を見開くと、後頭部を掻いて苦笑した。
「そうか。それには気付かなかった」
……ああ、やっぱり言うべきじゃなかった……心の中で呟きながら、アルキュオネは顔色を変えずに更に尋ねた。
「でも、どうしてこの色を?」
そう言われて、ザウテルはアルキュオネの顔を見つめた。暫くの沈黙があった。
「……まあ、何となくだ。たまには違う色もいいだろうと思ってな」
眉をひそめるアルキュオネをよそに、ザウテルは立ち上がった。
「さて! では本題だ。アーネにこの海を纏ってもらうために、採寸させてくれないか?」
彼の言葉を合図に、仕立て屋達がアルキュオネへと近づいた。
「え? ああ、でも……お茶が……」
戸惑うアルキュオネに微笑むと、ザウテルは一人応接間の扉へと向かった。
「お茶は後だ。終わるころには戻る」
* * *
一通りの採寸が終わり、仕立て屋達が帰った応接間で、アルキュオネとザウテルは紫茶を飲んでいた。
「デザインは決まったのか?」
カップを置くと、ザウテルは尋ねた。アルキュオネは肩をすくめた。
「いいえ。全然イメージがまとまらなくて……」
「そうか。なら、今度見本を見に行こうか? あの仕立て屋、店に色々と見本を置いていると聞いている」
「ご一緒頂けるので?!」
思わず身を乗り出した彼女は、カップの中で零れんばかりに揺れる紫茶に慌てた。ザウテルは苦笑した。
「もちろん。送り主としては、最後まで見届ける必要があるからな」
「ありがとうございます!」
満面の笑顔で、アルキュオネは答えた。まさかこんな話になるなんて。彼の厚意に、どう答えよう? そこで、便利な妹のことを思い出した彼女には、同時にリリィの忠告の言葉も蘇っていた。違う。選ぶわけじゃない。ただ……
暫く目を伏せていた彼女は、思い切って切り出した。
「あの……ラスティの件ですけど……」
ザウテルは眉を上げた。
「ん?……ああ……」
カップを置くと、アルキュオネは身を乗り出した。
「当主になった今でも、しょっちゅうどこかへ外出しているようです」
「そうか……」
ザウテルはゆっくりソファへと身を沈めた。その表情からは、彼の思いを読み取ることができなかった。
「どこに行っているか、探ってみましょうか?」
少しだけ声を潜める彼女に、不意に身を起こすとザウテルは笑顔を作った。
「いや、いいんだ」
アルキュオネは眉を顰めたが、ザウテルは真剣なまなざしで彼女を見返した。
「すまない。俺のわがままで、アーネにスパイのようなことをさせて。お前達の仲にひびが入るようなことはしたくない。忘れてくれ」
「……ザウテル様……」
彼の言葉に、彼女は、ここ何ヶ月かの胸のつかえがとれた気がした。そうよ。全ては仮定の話。何もかも、仮定の話よ……
ザウテルはテーブルの上に視線を落としていた。不意に、果物盛りの中から林檎を手に取る。立ち上がった彼は、それを何度か宙へ放り上げながら、ゆっくりとソファの後ろへ回り込んだ。やがてソファの背に腰を下ろすと、手の中の林檎を眺めながら苦笑した。
「それより相談があるんだ」
振り返りながら、彼は言った。
「例えば……アーネの親友がある男にぞっこんだったとする。ただ、その男にはいい噂を聞かない。アーネならどうする?」
微笑みながら聞く彼の言葉に、アルキュオネは思わず息を飲んでいた。ザウテルがロージェスタとラスティリアードのことを知るはずはない。本当に、単なる例えだ。しかし、真実と見紛うような例えに衝撃が走った。咄嗟に答えられずに、彼女はザウテルを見つめた。
彼女の思わぬ沈黙に、彼は微かに眉を顰めていた。ようやくアルキュオネは苦笑した。
「……いい噂を聞かないというのは……例えば?」
「まあ、そうだな……法を犯すような、かな?」
天井を見上げながら、軽い感じで彼は答えた。
これは何の話? ラスティが、良くない何かに夢中ということ? それが、あの危うい感じになっているの? そして……ロージェは……
それが一瞬だったのか、暫くだったのか、アルキュオネには分からなかった。気付くと、彼女は果物盛りの中の葡萄をぼんやりと見つめていた。
「私なら……まず、その噂が本当か確かめます」
ザウテルに視線を戻すと、彼女は言った。
「もし本当だったら?」
ザウテルの語り口は相変わらず軽かったが、アルキュオネを見返す眼差しは真剣だった。
「……その時は……その男に、親友から離れてくれるよう頼むと思います」
ゆっくりと彼女は答えた。
「親友を説得するのではないのか?」
彼の言葉に、アルキュオネは苦笑した。ロージェの顔が浮かぶ。
「多分……彼女は、私の話を聞かないでしょう……だから……」
物憂げな表情を浮かべる彼女に、彼は肩で息をついた。
「……そうかもな……」
林檎を見る。
「男にか……。それができれば苦労はないんだがな……」
そう言うと、ザウテルは林檎にかぶりついた。
「……うまいな! これもアーネの農園のものか?」
「ええ……」
アルキュオネは苦笑した。ザウテルを見つめる。
「……今のは……ラスティの話ですか?……」
林檎を食べながら、ザウテルは笑った。
「……いいや、別の友人の話さ……」
そう言うと、彼はソファの前に回り込み、勢いよく腰を下ろした。
「……はあ。全く、厄介事ばかりだ……」
その言葉に、アルキュオネはハッとした。それは、数ヶ月前の彼女の呟きと同じだったからだ。ザウテルは身を乗り出していた。アルキュオネに微笑みかける。
「……お互いにな……」
心の裡を見透かされたようで、アルキュオネは狼狽を取り繕うのに時間がかかった。ようやく笑顔を作る。
「……何かご存じですの?」
ザウテルは再びソファに背を預けた。天井を仰いで林檎を齧る。
「……いいや。そんな気がしただけだ」
アルキュオネは俯いた。胸のつかえは無くならなかった。さっき見たばかりの水色の生地の話が、まるで夢だったように感じる。
……ラスティ……あなたは一体、何をやっているの?……




