第5話:午後の睡蓮池
「銀翼のキセキ外伝 もう一人のクロネッカ」をお読み頂きましてありがとうございます。本第5話は、「銀翼のキセキ外伝 ミス・エスメーラ達の午後」第3話の後日譚となります。先に第3話をお読み頂くと、本第5話がよりお楽しみ頂けると思います。引き続き、お付き合い頂ければ幸いです。
アルキュオネとラスティリアードは、睡蓮の池公園へと向かう馬車に乗っていた。
彼女の横に置かれたバスケットに目をやった彼は、ふと気付いて声をかけた。
「そう言えば、この間の葡萄、おいしかったよ。ありがとう」
「どういたしまして!……結構前の話だけどね」
微笑むアルキュオネの嫌味に、ラスティリアードは肩をすくめた。
「ねえ」
「ん?」
「しゅっちゅう留守にしてるみたいだけど、どこ行ってるの?」
「……どこでもいいだろ」
彼女の詰問の視線に、彼は目を逸らした。彼女は眉を上げた。
「いいご身分ね」
彼は苦笑した。
「ハンザ・ミルにうつつを抜かしている学生には言われたくないね」
一瞬顔を顰めたアルキュオネは、少しだけ身を乗り出した。
「当主の仕事、ちゃんとやれてるの?」
窓の外を眺めたまま、ラスティリアードは視線だけを彼女に戻した。
「やってるよ!……やりたかないけど……」
息をついた彼女は椅子に背を戻した。
「……それより……」
流れ去る街の風景を目にしながら、ラスティリアードが話しかけた。
「……お前、何で人参のことをロージェスタ嬢に言ったんだ?」
苦笑したアルキュオネは、窓の外に目をやった。
「何でって、本当のことでしょう?」
「恥ずかしいだろう」
彼はアルキュオネに抗議の視線を向けた。
……恥ずかしいとは思ってるんだ……
彼女も彼に目を戻すと、負けずに睨み返す。
「なら克服しなさいよ。二十歳を過ぎてみっともない!」
彼は肩をすくめると息をついた。
「……嫌いなものは嫌いなんだよ……」
「……ほんと、餓鬼ね……」
「……うるさい……」
不機嫌に目を逸らす彼の横顔を、アルキュオネは見つめていた。
……嫌いなものは嫌い、か……
また、リリィの言葉が思い出される。彼女の忠告は、分からないではない。でも……。納得したくない自分がいる。私は……どうしたい?
馬車が止まった。
「旦那様、アルキュオネ様、到着致しました」
窓から見える、鷹の頭部の紋章のついた馬車に、アルキュオネは腰を浮かせた。
「ロージェ、もう来てる!」
御者のワズンが開けるのを待たずに、扉を開け放った彼女は、馬車を降りかけて、ふと車内のラスティリアードを振り返った。
「緊張してる?」
「まさか!」
苦笑する彼に満足げに頷くと、彼女は馬車を飛び降りた。慌てて近寄るワズンに、バスケットの中から小さな紙袋を取り出すと、彼へと差し出す。
「はい! おやつ! ワズンの分」
「これは!……ありがとうございます」
「じゃあ、夕方までお願いね!」
微笑んだ彼女は、ブリザルディア家の馬車へと駆け寄っていった。
遅れて馬車から降りたラスティリアードは、彼女の後ろ姿に息をついた。
「じゃあ、暫く頼む」
前を通り過ぎようとしたラスティリアードに、ワズンは声を掛けた。
「旦那様。御武運を……」
驚いて振り返るラスティリアードに、ワズンは微笑みながら頭を下げた。
「……なんだよ、それ……」
苦笑したラスティリアードは、遠くで手を振るアルキュオネの隣に立ったロージェスタに軽く会釈した。
* * *
そこかしこに白や薄紅色の睡蓮の花が咲く池には、多くのボートが浮かんでいた。
貸しボート屋で小型のボートを選んだアルキュオネは、ラスティリアードの隣に腰を下ろすなり、露骨に顔を顰めた。
「ねえ、ちょっと、凄く狭い!」
「だから言っただろ」
「え、前はもっと余裕あったのに」
「いつの話をしてるんだよ!」
肩を押し付けて言い合うアルキュオネとラスティリアードに、艫側に座って傘を差したロージェスタは、遠慮がちに声を掛けた。
「二人は……よくそうしてボートに乗ってたの?」
オールを手にしたアルキュオネは微笑んだ。
「ええ。初等院の頃かな」
ラスティリアードが言葉を繋ぐ。
「二人とも、自分が漕ぐって聞かなくて……」
「でも、ボートが大き過ぎて、両手ではうまく漕げなくて、ね」
「結局、今みたいに片側ずつ二人で漕ぐことになったんですけど……」
「全然思った方へ進めない」
悪戦苦闘した過去を思い出して笑う二人に、ロージェスタもつられて微笑む。
「まあ。それで?」
「何度も喧嘩したけど……解決策を編み出して……2・3・2でいい?」
アルキュオネはオールで岸の杭を押した。ラスティリアードは一度舳先を振り返った。
「いや、2・3・1かな?」
「わかった」
二人は同時にオールを沈めた。ゆっくりと体を倒して水を掻く。ボートは池へと進み出した。睡蓮の花が、次々と両舷を通り過ぎる。
「今日はボートが多いな」
何度か舳先を振り返りつつ、ラスティリアードは呟いた。
「そうね。あそこまでは抑えて、そっから一気に池の真ん中まで行く?」
「そうだな」
岸の近くに漂う他のボートと睡蓮の茂みを避けながら、三人のボートは少し開けた場所へと出た。
「よし、今から3・2・3で」
「わかった」
二人はオールに力を込めた。ボートは、人気のない池の中心に向かってぐんぐんと進み出した。
「あの……それって、ハンザ・ミルの拍ですよね?」
思い切ってロージェスタが尋ねた。
「ええ、そう」
アルキュオネの答えに、ロージェスタは眉を顰めた。
「どうしてそれを今?」
ラスティリアードは笑った。
「これが解決策でして。タイミングを合わせて漕ぐことにしたんです」
「そしたら真っ直ぐ進めるようになって」
漕ぎ続けながら、ふとラスティリアードは怪訝な顔をした。
「どっちから言い出したんだっけ?」
「ラスティじゃない? いかにも言いそうだし」
「そうか? あの時は、お前の方がハンザ・ミルにはまってただろ?」
「さあ? 覚えてない」
ラスティリアードはうんざりしたように息をついた。
「出たよ。『覚えてない』。その分だと、僕を池に落としたことも覚えてないんだろ?」
「あれはラスティが勝手に落ちたんじゃない」
「は、よく言うよ」
「お二人は!……」
思わず声を上げたロージェスタに、驚いた二人は彼女を見た。ハッとしたロージェスタは思わず目を伏せていた。
「……本当に仲がいいんですね」
「「よくない! よくない!」」
重なるように答えて、二人は顔を見合わせた。互いに苦笑する。
「……本当に喧嘩ばっかりでしたよ」
「大体ラスティが負けてたけどね」
「そんなの自慢にならないだろ。初等院でのこいつのあだ名、知ってますか? クロネッカの女帝ですよ。あの頃は男子顔負けでしたからね」
「さあ? 覚えてない。……いいんじゃない、この辺で」
「ああ、そうだな」
ボートは池の中心へと来ていた。木々のざわめきも遠くになり、音は妙に響かなくなっていた。風が渡っていった。
「あ~、疲れた~」
急にそう言うと、アルキュオネは天を仰いだ。
「は? 早すぎるだろ」
顔を顰めるラスティリアードを横目に、微笑んだアルキュオネは身を乗り出した。
「ロージェ、替わって!」
驚いてロージェスタは身を引いた。
「え?! いや、私……漕いだことない……」
「大丈夫よ! ハンザ・ミルと変わらないから」
「無茶言わないで……」
また始まった、と言わんばかりに、ラスティリアードは肩で息をついた。ロージェスタに目をやると微笑みを作る。
「差し支えなければ、お教えしますよ」
「え、いや、でも……」
すっかり腰の引けているロージェスタに構わず、アルキュオネは立ち上がっていた。揺れるボートに注意しながら、ゆっくりとロージェスタのいる艫側に移動する。
「ほら、早く隣に行って!」
彼女に顔を近付けながら、アルキュオネはウインクしていた。その密やかな意図を悟って、ロージェスタは目を瞠った。
「……アーネ……あなた……」
アルキュオネは黙って彼女から傘を受け取った。
ロージェスタはおずおずと舳先に進んだ。ラスティリアードが手を差し出し、一瞬の躊躇の後で、彼女はそれを掴んだ。そのまま彼の横へと腰を下ろす。
「……失礼します」
「すいません。狭いですけど」
「いえ……」
触れ合う肩に目をやって頬を染めるロージェスタの姿を、傘を差したアルキュオネは満足そうに眺めていた。彼女の視線に気づくと、ロージェスタは、恥ずかしいような、嬉しいような、そして有難いような、何とも言えない表情を彼女に投げかけた。
ロージェスタの紅潮に気付かず、ラスティリアードは早速レクチャーを始めていた。
「いいですか? オールはこう持って」
「はい……」
「初拍はこう。……中拍はこう。……後拍はこう」
「はい……」
「中拍の時は、オールが回転しないように、しっかり握って下さい」
「わかりました……」
二人のやり取りに、苦笑したアルキュオネは肩をすくめた。……やっぱり朴念仁か……
「では、やってみましょうか? 最初は2・3・1で。行きますよ」
「はい……」
ロージェスタのオールが水面を削ぐように走って、水飛沫が上がる。
「ああ、ちょっと浅すぎますね」
「すいません」
「大丈夫ですよ。最初はそんなものです。もう少し深く」
「こうですか?」
「うん……そうですね。しかし、ミス・ブリザルディア。オールをしっかりグリップできているのが素晴らしいですね」
「そうですか。ありがとうございます……」
「ロージェは握力強いからね!」
艫側からアルキュオネが口を挟んだ。途端にロージェスタの顔が青ざめる。
「アーネ!」
ラスティリアードは苦笑した。
「いいことです。じゃあ、合わせてみましょうか?」
「はい……」
「行きますね。1,2,1,2,3,1」
ボートは真っ直ぐに進み出した。
「ロージェ、上手いじゃない!」
「ありがとう、アーネ……」
「タイミングはいいですね。あとは深さです。私の手の位置に合わせて」
「わかりました」
ロージェスタは、ラスティリアードを見て嬉しそうに微笑んだ。彼も微笑み返す。
アルキュオネはゆっくりと傘を回すと、流れ去る睡蓮の花から、雲の天蓋へと視線を逸らした。
「……ほら、みんな仲良くできるじゃない……」
傘の陰で微笑んだ彼女は一人呟いた。
* * *
「やはり、スポーツをやられているので飲み込みが早いですね。もう教えることがない」
「ありがとうございます。アドバイスが的確なので」
楽しそうに話す二人に、アルキュオネは短く息をついた。
「よし! 十分休んだ。ラスティ、替わって!」
「え?! 僕が?」
「そう! 知ってる? 今度の試合、ロージェとペアで出るの。息の合ってるところ、見せてあげる!」
言いながら、アルキュオネはラスティリアードの前へと移動してきていた。傘を差し出す。肩をすくめた彼は、傘とオールを交換した。彼が艫へと移動する間、アルキュオネは小声でロージェスタに話しかけた。
「どうだった? レクチャーは?」
ロージェスタは恥ずかしそうに一瞬目を伏せたが、しっかりとアルキュオネを見返した。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
ロージェスタの隣に腰を下ろしたアルキュオネは、ふと眉を顰める。
「ロージェ、あなた、肩が汗でびちゃびちゃよ」
「え?! 嘘?!」
慌てて、さっきまでラスティリアードと触れていた自分の肩を確かめる彼女に、微笑んだアルキュオネは顔を近付ける。
「嘘よ」
意味を悟るまでの一瞬の沈黙の後、天を仰いだロージェスタは全身で息をついた。泣きそうな顔でアルキュオネの太腿を叩く。
「もう! やめてよ!」
「どうされました?」
傘を閉じながら、艫側に座ったラスティリアードが尋ねていた。
「なんでもない! 気合を入れたの」
微笑んだアルキュオネはオールを構えた。ロージェスタは暫くその横顔を睨んでいたが、やがてゆっくりと同じようにオールを構えた。
「何で行く?」
アルキュオネが尋ねる。
「……じゃあ、2・1・1で」
ロージェスタの答えに、アルキュオネは思わず彼女を見返した。
「いきなり2・1・1は無理じゃない?」
ロージェスタは顔を顰めた。
「大丈夫。できるわ!」
アルキュオネは肩をすくめると、正面のラスティリアードに声を掛けた。
「ラスティ、ぶつかりそうだったら早めに言ってね!」
ラスティリアードは苦笑した。
「ミス・ブリザルディア、さすがに2・1・1は無理で……」
彼が言い終わる前に、ロージェスタは掛け声をかけた。
「用意……始め!」
二人は同時に身を屈めると、勢いよく背を反らした。急に動き出したボートに、ラスティリアードは思わず縁を掴んだ。
水飛沫を上げるかのような勢いで、ボートは睡蓮の葉を蹴散らしながら一直線に進んだ。
最初は焦っていたラスティリアードだったが、アルキュオネとロージェスタの息の合った動きに、やがて微笑みを浮かべた。前髪を激しく揺らす風に身を預ける。
「ロージェ! もういいわ! ここからは惰性で……」
岸に近づいたことを悟って、アルキュオネは声を掛けた。両舷のオールが上げられる。
肩で息をつきながら、二人は互いを見つめた。思わず微笑み合う。
……どう?……そう声を掛けようとして、アルキュオネは息を飲んだ。
ラスティリアードは、風に吹かれながら、瑠璃色の瞳でぼんやりと天を見つめていた。そこには、触れるのが憚られるような、彼の世界があるような気がした。
……ロージェが言っていたのは、この顔のこと?……
こっそり彼女に尋ねようとして、アルキュオネは再び言葉を失った。
ロージェスタの琥珀色の瞳は、物思いにふける彼へと向けられていた。その視線には、恍惚の光があった。
アルキュオネは、ゆっくりとラスティリアードへと目を戻した。
……そんなに魅力的かな?……私には、何ていうか……
そこで、彼女は微かに眉を顰めた。
……少し、危うい感じに見えるけど……
睡蓮の池は、気だるいくらいに穏やかだった。




