第16話:この世界で
御者のエルナトは、アルキュオネ邸の車寄せで、彼女が出てくるのを待っていた。
やがて、黒い外套と濃紺の長いスカートに身を包んだアルキュオネが、玄関を開けてゆっくりと出てきた。馬車の扉を開いたエルナトは頭を下げる。
「エルナト、塔まで行って頂戴」
「塔……でございますか。しかし……」
躊躇するエルナトに向かって、乗り込みかけたアルキュオネは微かに微笑んだ。
「大丈夫。何もしないわ……」
「……承知致しました」
エルナトは扉を閉めた。
馬車に揺られながら、アルキュオネはここ数日の出来事を思い返していた。ラスティリアードは、あの大魔王ダイリット・サールである疑いをかけられていた。終末の日に降臨すると言われている、地獄の門を開く者、ダイリット・サール。彼が引き連れた海魔が大地を引き裂き、龍王が山々を薙ぎ払い、炎が地上を七度焼き尽くして、人々を絶望の淵へと突き落とす。それが事実か否かに関わらず、魔王と見なされた彼が罰を逃れることは、もはや不可能に思えた。
……私は一体、何をしているの?……
できることは全てやったつもりだ。でも、何ができた? ラスティに禁断の研究を止めさせるどころか、何をやっているのかすら知ることはできず、ラスティと……ロージェとの仲を取り持つこともできなかった。そして今は、裁判の進行にまるで関わることができていない。……私はただ……ただ、ベッドの中で泣いていただけだ……
……私が、ここにいる意味はあるの?……
アルキュオネは深く息をついた。幼い頃から胸に秘めてきた、自分はここにいていいのだろうかという想い……。ずっとはぐらかして来たその想いに、また向き合うことになるとは……
ただ、今回は分かった気がした。私がここにいる意味は……きっとない……
* * *
ブラキウムにある教会には、高い塔が聳えていた。ティレリナでも有数の高さを誇るその塔からは、カウスメディアの街並みまで見渡すことができた。
蝶番を軋ませながら、塔先端の鉄扉を開けると、鳩の群れが慌ただしく飛び立っていった。鉄扉の前は彼らの休憩場所になっているらしく、先端まで登った時には、必ず彼らの羽音を間近で聞くことになった。
その鳩の群れが飛び去って行く先を目で追う。ブラキウムの街並み、幾重にも続く畑や果樹園の丘、そして、灰色に霞む地平線の彼方には、カウスメディアの大聖堂が見えていた。そして、それらを覆う雲の天蓋――
風は強かった。搔き乱される髪を押さえて、アルキュオネは足を進めた。
低い柵に近づいて、下を見下ろしてみる。目も眩むような高さだった。
だが、天蓋に近づいたようには感じない。
これが、母が最期に目にした風景だった。
あの雲の天蓋の向こうに、本当に、主の宮殿――天国はあるのだろうか?
タイジェートは、そこに行けたのだろうか?
もし――
もし翼があれば、あの天蓋の向こう側に飛んで行って、それを確かめることができるのだろうか?
塔の先端で風が鳴く。
母の悲しみはわかるつもりだ。
でも、私などどうでもよくなるほど、その悲しみは深かったのだろうか?
それとも、タイジェートを救えなかった私には、何の価値もなかったのだろうか?
私はずっと――迷子のままだ。
――本当のことが知りたい――
――『それ』は、どこにあるの?――
遙か地平線を見渡す。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
遠くに見えた湖の水面の色に、不意にエレクトラの瞳が浮かんだ。
――今見えているものが本当のこと――彼女はそう言っていた。
今見えているものが、本当のこと――
今見えているのは、この世界だ。
天国も地獄も、私には見えない。
神節典には事細かに描写される天国と地獄――
だが、それを見た者は誰もいない。
見えないなら、無いのと一緒だ。
そうだとしたら、私にはこの世界しかない。
例え、力のなさに打ちひしがれ、意味のないことに苛まれても、逃げ込めるところなど、どこにもありはしないのだ。
そして――
天国で善行が報われることも、地獄で悪行の報いを受けることもないのなら――
私の行いは、私が決めるしかない。だから――
私は、この世界で、私の思うことをする――
それが――私にできることだ――
アルキュオネは長い息をついた。今更ながらに、足が竦む。
ふと振り返ると、鉄扉の前には、心配そうな表情でエルナトが立っていた。
一瞬驚いた彼女は、ゆっくり彼へと歩み寄った。
「……言ったでしょ?」
そう言って微かに微笑むと、アルキュオネは鉄扉の取っ手に手をかけた。
もう一度、雲の天蓋に目をやる。
飛び去った鳩の群れが、再び塔の周りへと集まってきていた。
「さあ、帰りましょうか?」
* * *
教会を出ると、辺りは騒然としていた。若い新聞売りが号外を配っていた。周りの人だかりをゆっくり押し退けるようにして、若者はアルキュオネとエルナトの方へ移動してきた。
「号外! 号外!」
大きな声を上げながら、目の合ったアルキュオネへと新聞を差し出す。
嫌な予感がした。紙面を見るのが怖い。
まだ何かあるの?……
アルキュオネは祈る思いで号外に目を落とした。
『青の貴公子、刺される』
そこには、大きな文字でそう書かれていた。
不意に、周囲の喧騒が聞こえなくなった。手の震えで文字が踊り、よく読めない。
『傍聴席の暴漢が、公判中のクロネッカに襲い掛かり、それを庇ったエッセンニーカは腹部に……』
凄まじい眩暈に堪え切れずに、アルキュオネは倒れ込んだ。慌ててエルナトが抱きかかえるが、糸の切れたような彼女を支え切れずに、彼自身も膝をつく。
「お嬢様?!」
彼の腕の中で、不規則な息をつきながら、苦悶の表情を浮かべた彼女は、それでも目を開いた。
「エルナト……テレシアス病院へ……」
「はい?!」
「ザウテル様のところへ! 早く!」
声を振り絞って、アルキュオネは叫んだ。




