第15話:どうして?
喫茶店『メギル・メギル』でエレクトラとロージェスタが座ったのは、奇しくも、以前アルキュオネとエレクトラが座った窓際の席であった。店内は、甘い香りと和やかな空気で満たされていたが、二人の周りまでは届いていないようであった。エレクトラ自身、もう少し穏やかな雰囲気で話せると思っていた。しかし、そうはできない知らせを、彼女は直前で受け取っていた。
「この間、私のミドルネームの話してたよね?」
腕を組んだまま、窓の外を見ながら、エレクトラは話していた。
「あ……ああ。ごめんなさい。つい興味本位で……」
ロージェスタは頭を下げた。
「……ロージェには教えるわ……」
「え?」
エレクトラはロージェスタを見据えた。
「Bは……ベアトリクスよ」
「ベアトリクス……第72代女王と同じ名前ね。なるほど、お父様の願いがこもってるのね」
ロージェスタの言葉に、エレクトラは目を伏せた。ゆっくりと腕組みを解く。
「……ロージェ……」
「何?」
一瞬の躊躇があった。
「……ロージェなら、ベアトリクスの逸話、知ってるでしょ?……」
ロージェスタは眉を顰めた。
「ベアトリクスの逸話って?」
エレクトラはちらりと翡翠色の視線をロージェスタに向けた。
「……女色家だったって話……」
「ああ……」
ロージェスタの軽い相槌に、エレクトラは身を乗り出した。眉根を寄せる。
「それが凄く嫌なの!」
ロージェスタは微笑んだ。
「大丈夫よ、エレクトラ。たまたま名前が一緒だっただけで、誰もあなたをそんな風には見ないわ」
「誰か、じゃないのよ」
再び俯くと、エレクトラは呟いた。
「え?」
「とにかく、それが理由。例え親がつけてくれた名前でも……」
そこで、エレクトラはロージェスタを見据えた。
「……嫌なものは嫌」
ロージェスタがそれをどう受け取ったかは分からない。しかし、その言葉には、彼女への精一杯の抗議の意味が込められていた。
「そう……」
ロージェスタは視線を落とした。沈黙が流れる。
やがてエレクトラは口を開いた。
「例の裁判、毎回傍聴してるんでしょ?」
顔を上げたロージェスタは目を瞠った。
「どうしてそれを?」
エレクトラは苦笑した。
「私の父も、あの裁判の行方には興味があるらしくて。それで色々とね」
「そう……」
ロージェスタは再び俯き、エレクトラは窓の外の雲の天蓋に目をやった。
「雲行き、良くないみたいね」
暫くの沈黙の後、観念したようにロージェスタは呟いた。
「……ええ……」
エレクトラは大きく息をついた。聞かなくてはいけないことを、聞く必要があった。
「……で、婚約したんだって?」
「え?!」
再び、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。エレクトラの顔を見返す暫くの沈黙の後、ロージェスタは苦笑した。
「……何でもお見通しなのね」
「相手はダイロンバールの御曹司とか」
エレクトラの鋭い視線を受け流すように、ロージェスタは目を逸らした。
「ええ。カイゼルリュート様よ。幼馴染で……多分、アーネとラスティリアード様みたいな関係かな。気心の知れた人よ」
エレクトラは顔を顰めた。
「じゃあ……もう決めたのね?」
エレクトラの問いに答えることなく、息をついたロージェスタは窓の外の雑踏に目をやった。
「小さい頃から、周りの雰囲気で何となく分かってた。ああ、この人と結婚するんだろうなって……」
エレクトラは小さく唇を噛んだ。
「なら、どうして……」
そこで一度、言葉を飲む。
「……どうして、アーネの従兄と」
ロージェスタは寂しそうに微笑んだ。
「私達が、本当に想いを寄せる方と添い遂げられないことはよく分かってる。だから、相思相愛なんて、所詮、物語の中だけの話だと思っていたわ……」
そこで、ロージェスタはエレクトラに視線を戻した。
「でも、アーネが言ってたの。例え実らない恋でも、種は蒔かなきゃって。そうしないと、最初からないのと同じになるって。始めなきゃ、終わったとは言えない。だから私は、始めることにしたの」
目を伏せたエレクトラは苦笑した。
「実らないのに種を蒔くなんて、馬鹿のすることよ」
ロージェスタの表情は変わらなかった。
「そうよね。でもね。実ることを夢見ている時が、一番幸せな気がするの。例え馬鹿でも」
顔を上げると、エレクトラは身を乗り出した。
「そんなの惨めだわ。だって、叶わないってわかってるでしょ!」
思いがけないエレクトラの語気に、ロージェスタは微かに眉を顰めた。
「私は……」
目を伏せると、膝の上で組んだ指をゆっくり擦り合わせる。
「私は、現実の方が惨めだと思う。でも、なす術もなくその現実を受け入れるよりは、少しでも夢を見たいの。現実を諦められるだけの夢を」
エレクトラは呆れたように笑った。
「所詮、夢じゃない」
ロージェスタはエレクトラを見た。その視線に、エレクトラは僅かに身を引いた。
「そう、私もそう思ってた。でも、違ったの。例え叶わなくても、その瞬間は、私にとっては本当のことなの」
一瞬の沈黙の後、エレクトラは苦笑した。
「意味わかんない」
ロージェスタは微笑んだ。
「そう?……だってそれは、私が、私の意志で選んだことだから……だから、本当の夢なの」
エレクトラは口を開きかけたが、言葉にはならなかった。やがて椅子の背に身を預け、目を伏せる。
「……夢でしかない夢もあるのよ……」
その呟きは、ロージェスタの耳には届かなかった。
腕を組むと、エレクトラはロージェスタを睨んだ。
「アーネにはどう言うつもり?」
その言葉に、眉間に深い皺を寄せたロージェスタは目を伏せた。
「……ずっと……考えてる……」
「アーネはきっと……従兄を捨てたと思うわよ」
「そうね……」
エレクトラは眉を顰めた。
「そうねって……」
長い沈黙の後、ロージェスタは言葉を押し出した。
「……だから……きっと……アーネも失うことになると思う……」
「いいの?! それで?!」
思わずテーブルに手をついて、エレクトラはロージェスタへと迫っていた。彼女の視線を避けたロージェスタは苦悶の表情を浮かべた。
「……嫌だけど……どうにもならないの……もう、どうにも……」
そこにノクティアと紫茶が運ばれてきた。エレクトラは体を席に戻した。皿やカップ、ポットが並べられる間、気まずい沈黙が辺りを満たした。
「まあ、美味しそう! 私、ここのノクティア、前から食べてみたかったのよ」
店員が去ると、明るい声音でそう言ったロージェスタはフォークを手に取った。
「いただきましょう!」
エレクトラを促す。息をついたエレクトラはゆっくりとフォークに手を伸ばした。
艶やかな濃褐色のエタルで覆われたノクティアにフォークを入れる。ロージェスタはそれを口へと運んだ。
「おいしい……」
嬉しそうに微笑む。しかし、琥珀色の瞳からは涙が零れ落ちていた。
「ロージェ……」
それ以上の言葉が出ないエレクトラに、涙を指で拭いながら、ロージェスタは笑った。
「不思議ね。おいしいと涙が出るなんて……」
* * *
「ありがとう、エレクトラ。今日は誘ってくれて」
『メギル・メギル』の前で、ロージェスタは笑顔を作った。
エレクトラは俯いた。本当は、こんな感じになるはずじゃなかった……ロージェを元気づけるって、アーネと約束したのに……
「お礼ならアーネに言って。アーネが……」
その時だった。二人の前へと馬車がやって来た。
扉に付いた盾に翼の紋章は、クロネッカ家のものだった。馬車が止まり切る前に、その扉が開いた。転がり落ちるように出てきたのは、アルキュオネだった。
御者が慌てて飛び降り、彼女を支えようとしたが、アルキュオネはその手を振り払った。彼女の顔は、衝撃の色で満たされていた。
「アーネ?!」
驚く二人に、彼女は詰め寄った。
「ロージェ! 婚約したって本当!?」
彼女の言葉に、ロージェスタは目を見開いた。思わず後ずさる。
「どうして?……ラスティが反逆者だから?……彼を捨てるの?」
アルキュオネの瑠璃色の瞳は、縋るようにロージェスタを見つめた。堪えられずに、ロージェスタは目を伏せた。
「アーネ……ごめんなさい……」
やがて、ロージェスタは言葉を絞り出した。エレクトラは驚いて彼女を見た。どうしてそんな言葉を……
「……え?」
一瞬の沈黙の後、アルキュオネは引き攣ったように笑った。
「何で?……」
ゆっくりとロージェスタに近づくと、彼女の両腕を掴む。
「……何で謝るの?」
何度も首を横に振る。
「ねえ、ロージェ、どうして?!」
悲愴な表情で、アルキュオネはロージェスタを激しく揺すった。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
ロージェスタは顔を伏せたまま、声を張り上げた。涙が零れる。
エレクトラは思わずアルキュオネの腕を掴んだ。
「やめて! アーネ」
「ロージェ、どうして?!」
エレクトラの声など耳に届いていないように、アルキュオネは泣きじゃくるロージェスタを揺すり続けた。その時――
平手打ちの音が、街角に響いた。
口を噤んだアルキュオネは、我に返ったような顔でエレクトラを見た。ロージェスタから離した手で、ゆっくりと自分の頬を押さえる。ロージェスタも驚いてエレクトラに目をやった。
エレクトラは、アルキュオネを睨んだ。
「正しいからって押し通せないことくらい、あんたにも分かってるはずでしょ!」
諭すつもりの言葉だったが、最後は叫び声になっていた。
目を瞠ったアルキュオネは、何も言い返せないまま立ち尽くしていた。
その時だった。
「いいぞ! クロネッカなんかぶちのめせ!」
『メギル・メギル』の周りにできた人だかりから、ヤジが飛んだ。
驚いて、アルキュオネは群衆に目をやった。
老若男女、全ての目が彼女に向けられていた。眉を顰める者、薄笑いを浮かべる者、隣と囁き合う者――彼らの視線が、遠慮なく彼女に突き刺さる。
鼓動が不規則に高鳴った。息ができなくなる。内臓が捩じれるような感覚。
またあの目だ――
次の瞬間、アルキュオネは馬車に飛び込んでいた。
「エルナト! 馬車を出して!」
アルキュオネは叫んだ。エルナトは慌てて席についた。
「はい! し、しかし、どちらへ?!」
「どこでもいいから早く出して! 早く!」
半狂乱でアルキュオネは叫んだ。
走り去るアルキュオネの馬車と入れ替わるように、エレクトラの自動車がやってきた。
「てめえら失せろ! 見せもんじゃねぇぞ!」
車が止まる前に飛び降りたバウシンガーが、野次馬に凄みをきかせた。散り散りになる輪の中心で、ロージェスタは膝を落としていた。路面が涙で濡れていく。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ひたすら繰り返す彼女の震える背中を、エレクトラは擦ることしかできなかった……




