第14話:命の匂い
「お嬢様! お客様がお見えです……」
「今は誰にも会いたくないの」
アルキュオネはベッドの上で寝返りを打った。
……そう、私も反逆者の仲間だというのなら、石を投げられる存在だというのなら、私には、もう何の資格もない。笑う資格も、楽しむ資格も、そして、自分にできることを探して奔走する資格も。……世界が、それを許さない……
突然、ドアが開いた。メイドを咎めようとアルキュオネは身を起こしたが、入ってきたのはエレクトラだった。
「エレクトラ?! 学校はどうしたの?」
「あんただってサボってるじゃない」
扉の外で慌てているメイドに目配せして、アルキュオネはドアを閉めさせた。
ベッドの横まで来ると、エレクトラは、大きな翡翠色の瞳でアルキュオネを凝視した。息をつく。
「向日葵、すっかり萎れてるわね……」
目を逸らしたアルキュオネは指で髪を梳こうとしたが、すぐに癖毛が絡まった。目元も気になったが、取り繕うことはできないと観念した。
エレクトラは腕を組んだ。
「栄養、補給しに行くわよ!」
「栄養? 行くってどこに?」
「『メルカ・ビル』よ。奢ってくれるんでしょ? マケ・ラ・マケ」
アルキュオネは苦笑した。
「ごめん、エレクトラ。今はそんな気分じゃ……」
言い終わる前に、エレクトラはアルキュオネへと顔を近付けた。顔を顰める。
「契約不履行? そう言えば、口止め料も加算してたよね?」
有無を言わせない口調に、アルキュオネは深く息をついた。ベッドから足を降ろす。関節の軋むような感覚に抗って、彼女は立ち上がった。
「……分かったわ……少し待って」
アルキュオネ邸の車寄せには、黒い自動車が止められていた。その車体の鈍い輝きに、アルキュオネは少しだけ目を瞠った。
「馬車じゃないのね……」
エレクトラは苦笑した。
「まあ、うちの製品だからね。率先して使わないと」
「私、自動車に乗るの初めてかも」
「そう? よかったじゃない」
扉の前には、黒服に黒眼鏡の男が立っていた。
「おはようございます、ミス・クロネッカ。グレーハルト=バウシンガーと申します。以後お見知り置きを」
「おはよう。ミスター・バウシンガー」
二人が乗り込むと、前の座席には、同じく黒服の男が乗っていた。軽く会釈する。その隣に、バウシンガーが乗り込んだ。
「ねえ、自動車って二人で運転するの?」
眉を顰めたアルキュオネは、エレクトラに耳打ちした。
「まさか! 一人で運転できるわよ」
「じゃあ、この方は?」
「ボディガード」
エレクトラの言葉に、アルキュオネは思わず驚きの声を上げた。
「へぇ。さすが社長令嬢」
エレクトラは肩をすくめた。
「私のじゃないわ」
「え?」
「あなたのボディガードよ」
「私の?」
「そう。今、色々と物騒になってるからね。あなたの周り……」
そう言われて、アルキュオネは先日の馬車への投石を思い出した。小さく体が震える。
「そう……何か、ごめんね」
エレクトラは息をついた。
「別に。私は契約を履行してもらいたいだけよ」
* * *
喫茶店『メルカ・ビル』の一角には、異様な雰囲気が漂っていた。アルキュオネとエレクトラがかけた席を挟み込むように、黒服の男が一人ずつ、席を占領していたからである。バウシンガーと運転手――名をボッカといった――は、『メルカ・ビル』には全く似つかわしくない刺すような眼つきで、店内を舐め回していた。
それでも、彼女達の周辺以外には、和やかな空気が満たされていた。語り、微笑み、菓子や紫茶を口にする人々。以前、目の前のエレクトラと行った『メギル・メギル』と同じように、終始、穏やかな時間が流れている。まるで、ラスティリアードの事件のことなど、なかったかのようであった。そう、私も、少し前まではあちら側にいたはずなのに……。
ただ、何というか、世界は一つではない、そんな思いも湧いた。絶望に打ちひしがれるだけが世界ではない。そうではない世界も、確かにあるのだ……
「この間、私のミドルネームの話してたよね?」
気が付くと、エレクトラがしゃべっていた。思考の歯車も油切れのような気がした。ようやく思い出す。
「あ……ああ。でも、単なる世間話だから。嫌なら教えてくれなくていいのよ」
「……嫌だけど教えるわ……」
不機嫌そうな顔で、エレクトラは答える。
「え?」
「Bは……ベアトリクスよ」
「ベアトリクス……女王と同じ名前?! ええと、何代目だっけ?」
アルキュオネは少しだけ身を乗り出した。
「第72代」
「確か、絶世の美女と謳われた女王よね?」
「……そうよ……」
エレクトラはつまらなそうに目を逸らした。アルキュオネは何度も小さく頷いた。
「それで……」
「何?」
急に翡翠色の瞳が向けられる。……え、そういうことじゃないの?……
「……ああ、いや、それがどうして嫌なの?」
エレクトラは大きく息をついた。
「だって、絶世の美女なのよ」
「あ……うん」
……やっぱり、そういうことなんじゃない……
複雑な表情を浮かべるアルキュオネに、エレクトラは一瞬目をやった。そのまま目を伏せると、今度は天井を見上げる。
「父には感謝してる。成り上がり者にはどうかと心配されたけど、もっと高度な教育を受けたかったから、エリリア修学院にも入れてもらったし。だから、みんなから敬遠されるのは想定内」
「あー、それは、かわいげの問題かな、と思うけど……」
ぼそりとアルキュオネは呟いた。
「何?」
「いえ、何でもない」
再び睨まれて、アルキュオネは身をすくめた。隣のバウシンガーが一瞬笑ったように見えた。
「……でも、父が憧れる分には勝手だけど、それを子供に押し付けないで欲しいの」
その言葉に、まるで鞭を振るわれたように感じたアルキュオネは目を見開いた。エレクトラと目が合う。
「私が何に憧れて、何を好きになるかは、私が決めるわ」
エレクトラの瞳の中には、揺るがない想いが光となっている――そんな気がした。
……そうだった……私のことは、私が決める……
「……そうね……」
暫くの間をおいて、アルキュオネは呟いた。
自分の言葉が彼女の内側に届いたであろうことを確認すると、エレクトラは椅子の背に体を預けた。腕を組む。
「……縁組の話、あるんだって?」
それが自分のことであるのを理解するのに、アルキュオネは暫く時間がかかった。
「ああ……そう言えば、そんな話もあったわね」
「そんな話って……」
顔を顰めるエレクトラを、アルキュオネはしっかりと見返した。
「大丈夫。私は承諾してない」
そこに、マケ・ラ・マケが運ばれてきた。
その名の通り、薄い黄金色の生地が何層にも重なり、その隙間を淡いクリームが満たしている。表面には白い粉砂糖が雪のように降り積もり、微かに輝いていた。
「綺麗ね……」
アルキュオネの言葉に、エレクトラは頷いた。
「ここのマケ・ラ・マケは、カウスメディアで一番おいしいらしいから」
マケ・ラ・マケは、両側の黒服の男達にも配られていた。彼らはそれぞれに戸惑った表情を見せた。
「どうぞ」
エレクトラに勧められて、アルキュオネはマケ・ラ・マケにフォークを入れた。
薄い生地が次々割れて、小気味よい音を立てる。その音と共に、焼いた小麦とバターの香りが漂うような気がした。
……命の匂いだ……根拠もなく、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
クリームの上で、今にも崩れそうな生地の櫓を、そっと口に入れる。
とびきり甘いわけではなかった。ただ、味そのものが、一瞬で全身に広がっていくような気がした。生地が口の中の水分を奪い取った後に、滑らかなクリームが塗り込められていく。そして、洪水のような勢いで、味が沁み込んでくる。そう、味だった。甘いのか、塩辛いのか、見極める前に、ただただそれは押し寄せた。
何日か振りの食事に眩暈を感じて、アルキュオネは目を閉じた。生地を噛み締める。やがて、感覚の嵐が去ると、鼻の奥には、バターとミルクが香っていた。口の中には何も残すことなく、生地とクリームは溶けるように消えていった。
気が付くと、エレクトラが心配そうに彼女の顔を窺っていた。
アルキュオネは微笑んだ。
「……おいしい……」
エレクトラは椅子の背に身を預けた。大きく息をつく。
「そう?……よかった……」
何だろう? 何か、『メルカ・ビル』の中に灯りが灯ったような気がした。全てのものが、明るく鮮やかに色付いて見える――そんな気がした。
エレクトラは、自分のマケ・ラ・マケには手を付けずに、アルキュオネを見つめていた。
どうなのだろう? 自分は、ほんの少しでも元気な向日葵になれたのだろうか?
「……ありがとう、エレクトラ……」
ゆっくりと話す彼女の言葉に、何度も目を瞬かせたエレクトラは、大きく鼻をすすった。
「あなたの奢りだから、ありがとうを言うのはこっちよ」
苦笑したアルキュオネは、改めてマケ・ラ・マケに目をやった。
「でもこれ……凄く食べにくい」
隣のボッカが小さく何度も頷き、アルキュオネは彼の顔を見た。
「ね?」
唖然としたエレクトラは、呆れ顔で天井を仰いだ。
「もう! 台無し!」
ただ、彼女の口角が少し上がったことに、アルキュオネは気付いていなかった。
息をつくと、アルキュオネはもう一度マケ・ラ・マケへと視線を落とした。
自分には、マケ・ラ・マケを食べる資格なんてないと思っていた……でも……
資格があるとか、ないとかじゃない……
まだ、私には、私の思うことをなせる自由がある……
居住まいを正すと、アルキュオネはエレクトラを見つめた。
「エレクトラ、実はお願いがあって……」




