第17話:鮫も、世界も
テレシアス病院、特別治療室――
鎮静剤で眠っているザウテルの枕元で、アルキュオネは祈るようにずっと手を組んでいた。
長い夜が、ようやく明けつつあった。
吊るされたガラス瓶から滴る薬液に目をやる。それは、絞られた洗濯物から落ちる雫を連想させた。いつだったかの、リリィの言葉が思い出される。
『お嬢様も、どちらに付かれるか、お決めになった方がよろしいかと。どちらの方にもいい顔をなされていると、結局、どちらの方も失うことになりますので』
私は――選べなかった。
私が弁護を頼まなければ……いや、それでもザウテル様はラスティの弁護を引き受けただろう。むしろ、私がやめさせれば――やめさせることができたなら、もっと違う結果になったのだろうか? ザウテル様だけは、助けることができたのだろうか……
彼が、もし二度と目を開かなかったら……私はきっと、両方とも失うことになる。
失いたくないとあがけばあがくほど、大切なものは指の間から零れ落ちていく。魔王の血筋らしい私は、所詮疫病神でしかないのか――
この世界で生きると決めたはずなのに――
……神様、これが試練だというのなら、私にはもう無理です……
冷たくなった両手に、アルキュオネは深く皺の刻まれた眉間を擦りつけた。
「……こんなに見目麗しい天使がいるとは、ここは天国か?……」
突然の言葉に、彼女は驚いて顔を上げた。
ザウテルは、半分開いた目から灰色がかった青い瞳を覗かせて、ぼんやりとアルキュオネの顔を見ていた。ゆっくりと眉を顰める。
「……しかし、喪服を着ているのはいただけない……」
塔の帰りに病院へと直行したため、彼女は黒い外套を着たままだった。
「ザウテル様!……」
よかった――それすら言葉にならなかった。安堵の気持ちが、堰を切ったように瞳から溢れ出していた。
彼女が顔を伏せ、嗚咽を堪えながら肩を震わせているのを、ザウテルは黙って見ていた。
カーテンの隙間に、薄明の光が滲み出す。
どれくらい時間が経ったのか、ようやく彼女の涙が涸れようという時、彼は天井に目をやった。
「……アーネ、これはお前のせいではない。ラスティのせいでもない。強いて言うなら、世界のせいだ」
ゆっくりと彼は言った。
「どうにもならないことは、確かにある。だが、それを全て自分のせいにできるほど、我々は大それた存在じゃない」
そう言うと、彼はアルキュオネを見た。
「世界は強大だ。我々の意志とは関係なく、ただただ我々を翻弄する。殆ど全てのことは、その流れが引き起こしたことだ」
目を腫らしながら、彼女は彼を見返した。世界の流れ……
「ただ、ヤツにも隙はある。だから、それを見極めろ。じっと堪えて、ここだという時に、全身全霊を込めて銛を打ち込め。そうすれば、ヤツは仕留められる」
……仕留められる?……彼女が眉を顰めた時、彼は笑った。
「……と、カルハロス島で出会った鮫捕りのじいさんが言っていた」
アルキュオネは小さく苦笑した。
「世界は……鮫ですの?」
ザウテルは天井に視線を戻した。
「どうだろうな。まあ、食われる時の方が多いが……」
何かを思い返す一瞬の沈黙の後、彼は再びアルキュオネに目をやった。
「食えた時は旨い。カルハロス島の鮫料理は?」
突然の問いに戸惑いながら、アルキュオネは首を振った。
「食べたことはありません」
「そうか。旨いぞ。つまりは……」
もう一度天井を見る。いや、そこに見えていたものは、きっと別のものだった。
「……捨てたもんじゃないってことだ。鮫も、世界も」
アルキュオネはハッとした。
暫くの沈黙の後、彼女は微笑んだ。
「……私も、鮫料理、食べてみたいです」
ザウテルは嬉しそうに彼女の顔を見た。
「そうか! 連れて行ってやりたいところだが……まずは腹の傷を塞がないとな。せっかく食った鮫肉が出てしまう」
思わずアルキュオネは笑った。
ああ、どうしてこの人は、逆境に笑顔で立ち向かえるのだろう?
打開できるような確固たる根拠がある訳ではない。
それでも、「手はある」と彼は笑う。
その余裕が――自信が――根拠を生み出している。
本当は、余裕も自信もないのかも知れない。
でも、それがあると思わせることで、結果的に運を導いている。
そんな気がした。
アルキュオネは、改めて彼の存在に感謝せずにはいられなかった。
そして――
私は――彼の隣には相応しくない――そんな思いが胸を掠めた。
――だって、私は――




