俳句 楽園のリアリズム(パート4・完結ーその3)
幼少時代をすぎてから刻まれた記憶が、俳句の言葉をとおして、どうして、はるか時間の彼方、私たちの幼少時代を呼びさまして、どうして、はるか記憶の彼方、遠い日の宇宙的幸福で私たち俳句の読者の心を満たすことになるのか、その謎に迫る部分を今回の作品はふくんでいます。
……以下は詩を読む話のつづきです。はじめのうち読んでいただくのは、人生への郷愁や愛やあこがれをめざめさせてくれる、私のいちばん好きな大木実という詩人の、ただの散文を行分けしただけのような読みやすくてやさしい詩ですが、それでも、詩のあたえてくれる詩情や詩的な喜びや慰めを確実に受けとるためには、どうしてもそれなりの詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚が必要となってきます。週一回の新作を読んでいただいているだけではふつうの詩を味わうのはまだまったく無理なはなしで、順番どおりだと6月の終わりの(パート7-その1)で大木実の2篇がまず登場することになりますが、それまでに、どこでもいい、たくさんの俳句作品をくりかえし読んでいただいては俳句のポエジーに、ふつうの詩を味わうための能力を短期間で育成してもらう必要があると考えます。なお、直前におとどけする(パート6・完結ーその3)ではバシュラールの言葉の手助けだけで150句の俳句を味わっていただくことになっているので、それをくりかえし読んでいただけたなら私たちの詩を味わう能力もまちがいなくレベルアップするはずなので、その時間をふやすためにも、大木実の「陸橋」というおなじタイトルの詩2篇を味わうことになる(パート7ーその1)の掲載は、1、2週間見あわせることになるかもしれません。
まあ、詩を味わえるようになるのは時間の問題なので、そのときにはまだ無理でもそのまま読んでいただいてもかまわないのですが、それまでにふつうの詩をそれなりに味わえるようにしておくことのメリットは計り知れないものがあると思うので、そのことを早くお知らせしたくて予定外ですが本稿をいまおとどけすることにしました。
ぼくたちの幸運を確かめる意味でも、先ほどの長い4つ文章からポイントとなる部分をもう一度引用させてもらおう。
「孤独な子供がイマージュのなかに住む
ように、わたしたちが世界に住めば、そ
れだけ楽しく世界に住むことになる」
「この幸福な孤独のなかで夢想する子供
は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に
結びつける夢想を知っているのである。
わたしの意見では、人間のプシケの中心
にとどまっている幼少時代の核を見つけ
だせるのは、この宇宙的な孤独の思い出
のなかである。そこでは想像力と記憶が
もっとも密接に結合している」
「わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大
さはわたしたちの内面に残されている。
それは孤独な夢想のなかにまた出現する」
「……このようにして子供は孤独な状態
で夢想に意のままにふけるようになるや、
夢想の幸福を知るのであり、のちにその
幸福は詩人の幸福となるであろう。いっ
たい、夢想家としての現在のわたしたち
の孤独と、幼い頃の孤独とのあいだに相
通じるものがないなどと考えられるだろ
うか。だから、静かな夢想のなかで、し
ばしばわたしたちが幼い頃へと導く坂道
を降りていくことは、偶然として片づけ
られることではないのである」
「これらの夢想はわたしたちの現在の孤
独を人生の最初の孤独へとつれていく」
これだけ中身の濃い補足のあとでならぼくたちをいやでも夢想させてしまうメカニズムへの信頼もさらに深まっただろうから、つづけて『夢想のメカニズム』のメモを読んでみることにしよう。まあ、いま読みかえしてみたらあまりにもデタラメで大雑把すぎて、たぶん呆れてしまうことになると思うけれど、それは、こうしたメカニズムに対する認識が深まったことの証拠、と考えていただきたい。
『幼少時代には、世界のあらゆる事物は美しいイマージュの表情を見せていたものだった。そうしたイマージュとしての世界を夢想していた子供の<宇宙的な幸福>が、夢想・イマージュ・幸福・ポエジー・美的感情・喜びの感情・孤独・自由の、原体験・原型・源泉といったものになる。
ひとたび「幼少時代の核」が復活すると、目にする世界や過去の記憶や詩の言葉が、幼少時代の夢想を再現させる美的機能をもったイマージュとして「心の鏡」に映し出され、ぼくたちはそうしたイマージュによって幼少時代の幸福な夢想をそっくり真似することになり、心は、幼少時代の夢想の幸福、宇宙的幸福、ポエジーで満たされる。
ただし、「幼少時代の核」にもレベルのようなものがあって、それに応じたポエジー、幸福を手に入れることになる。幸福な幼少時代を人生の楽園とするなら、50%よみがえった幼少時代は50%分の<楽園の幸福>を人生にもたらしてくれる。この幸福感はとてつもないものなので、たとえ30%分の幸福だろうと、人生の至福として、ぼくたちはそれを受けとることになるだろう。
このメカニズムは「幼少時代の核」が復活しさえすればきまって機能し、例外なくポエジーという幸福の現象をひきおこしてくれる』
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福は詩人の幸福となるであろう」
つぎの鷹羽狩行の沈黙に縁どられた一句一句の俳句作品を読むだけでも、遠い日の夢想の幸福は、このいま、ぼくたち俳句の読者の幸福となってくれるだろうか……
梅林の柵につらなり牧の柵
吹き降りの分教場の八重桜
「ひとつの詩的情景ごとに幸福のひとつ
のタイプが対応する……
鶯よ湖に風紋さつと立ち
鶯やことりともせぬ水車小屋
「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを
立ちあわせる……
激流のしぶく岩裏すみれ濃し
門灯がともる落花のせわしさに
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福はぼくたち俳句の読者の幸福となるで
あろう……
浜砂に片手をつけば桜貝
揚羽蝶わが指紋もち何処までも
まさに、遠い日の〈イマージュの楽園〉そのままの世界。
「幼少時代へ向う夢想は最初のイマージ
ュの美しさをわたしたちに取り戻してく
れる……
梅林の柵につらなり牧の柵
さて、ここでは、素晴らしいフレーズのちりばめられた先ほどの4つの長い文章のなかから「最初のイマージュ」と「最初の美」という言葉をとりあげてみることにしよう。それとは別に「最初の幸福」という言葉も。
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
「子供が<ものごころつく年齢>に達する
や、つまり世界を想像する絶対的権利を
喪失するや……」
「最初のイマージュ」の「最初の美」によっていつでも宇宙的な孤独のなかで夢想することができたから、つまり、大人が喪失した世界を想像する絶対的権利を子供のときみたいに復権させて、遠い日の「最初の幸福」をだれよりもリアルに追体験することができたから、バシュラールは人類史上最高の幸福を手に入れることができたのだと思うけれど、それにしても「世界を想像する絶対的権利」って、これもまたすごい言葉だと思う。
「この幸福な孤独のなかで夢想する子供
は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に
結びつける夢想を知っているのである」
ぼくたちだれもが世界を想像する絶対的権利を有した子供のときには、全想像力を駆使して現実のイマージュ、つまり、世界に満ちあふれていたさまざまな「最初のイマージュ」でもって夢想なんかしてしまって、それら「最初の美」がもたらす「最初の幸福」でもってぼくたちの心はあふれるほどに満たされていたものだった。(そんなことぜんぜん覚えていないけれど、バシュラールの教えによると)
「夢想する子供とは何とすばらしい宇宙
的な存在であろうか」
いまの段階でも、こうした世界を想像する絶対的権利を大人になってから復権させて、それを行使することのできるたったふたつの「場」が、たぶん、旅先と俳句なのだ。
俳句について言ってみるなら、俳句のすべてのイマージュが遠い日の〈イマージュの楽園〉の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られていて、いつでも幼少時代の色彩で彩られているような素晴らしい印象をあたえるのも、一句一句の俳句作品の背後に幼少時代の子供のたましいを召喚することに成功した俳句形式が、ぼくたちすべての俳句の読者に、ひととき、そのときだけは世界を想像する絶対的権利を取り戻させてくれるから、と、そんなふうにも言えるのではないだろうか。一句の背後に天使をイメージして俳句が読めてしまったのも、そうしたわけだったのだ、と。
それと、オマケとしてあげた4番目の文章末尾の「最初の夢想の効力を取り戻す」という、これもまたものすごい言葉。
幸運にもぼくたちには旅や俳句があるわけだし、旅先の風景や俳句のなかの「最初のイマージュ」で夢想なんかしてしまって「最初の美」を生きることによって「最初の幸福」でもつてこの瞬間を満たすことを試みつづけるならば、この人生で、そのうち「最初の夢想の効力を取り戻す」なんてすごいことが、実際に起こってしまうかもしれないのだ。
散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては心ゆくまで旅情を満喫したり、何度も登場するこの「俳句パート」のなかの俳句で、次第にレベルアップしていくポエジーを何回でもくりかえし味わっていただいたり、つまり、人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールの教えに忠実に夢想することを試みつづけるならば。
「人間と世界との詩的調和をあたえる原
型」
「最初の夢想の効力」を取り戻して「人間と世界との詩的調和」を取り戻すことこそ、長い間の人類の夢であり、バシュラールがはじめて、それを、実現可能なものとしてそのためのヒントを人類のために書き残してくれたのだ、とぼくは思う。
だけど、実際問題として、バシュラールの著作をいくら読みこんでみたって(ごく一部のひとたちをのぞくと)そのためにどうしたらいいか途方にくれるばかりでたぶんぜんぜんダメであって、ちょっと大胆に言ってしまうと、この本だけが、だれもが実現可能なものとしてその具体的な方法を提示していることになるのではないだろうか。
そうなのだ。散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。時おり旅に出たり、あるいは、いまさら旅になんか出なくたって多少ハンディはあっても、気が向いたときにこの本のなかの俳句を読んだりしては、バシュラールの教えに忠実に「世界を想像する絶対的権利」を行使しながら「最初の夢想の効力を取り戻す」ための、手軽で、効率的で、最高に理想的な試みを、まさにいま、ぼくたちは試みつづけていることになるのだから。ぼくたちだれもが、幼少時代から遠く隔たった、かけがいのない人生の、この一瞬を、「最初の幸福」でもってまぶしいほどに彩るために……。
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
バシュラールはこんなふうに言っているのだけれど、もちろん、ぼくたちの幼少時代が実際に楽園みたいだったかどうかなんてだれも覚えていないわけだし、そんなこと、ほんとうは、どうだっていいことなのだった。
「わたしたちの幼少時代は人間の幼少時
代、生の栄光に達した存在の幼少時代を
証言している」
一句一句の俳句作品が呼びさましてくれるのは、もうひとつの幼少時代、つまり、ぼくたち自身の幼少時代というよりも、まさに、生の栄光に達した存在の幼少時代。つまり、そうでありえたかもしれない、理想化された、人生の黄金時代。まさに、この世の夢の楽園。
この本を有効に活かしていただくためにも、このことをしっかりと確認しておきたい。
「実際の幼少時代を想起するよりも、夢
想のなかで幼少時代を思い起こそうとす
ると、わたしたちは幼少時代のさまざま
な可能性をよみがえらせることができる」
俳句の詩的情景がありありとよみがえらせてくれるのは、ぼくたち自身の幼少時代というよりも、名前をつけて区別する必要のない幼少時代。そうでありえたかもしれないもうひとつの幼少時代。つまり、そう、まさに、この世の夢の楽園……
雪の果樹園白塗りの雪の柵
ぼくたちの幼少時代が、そうでありえたかもしれない可能性としての幼少時代、生の栄光に達した存在の幼少時代を証言してくれている以上、だから、だれも幼少時代のことなんてほとんど覚えていないにしても、かえって、自分自身の幼少時代に信頼をよせるだけでよくなってくるのだ。
「夢想にふける子供は、ひとりぼっちだ、
本当に孤独なのである。かれは夢想の世
界で生きている。この幸福な孤独のなか
で夢想する子供は、宇宙的な夢想、わた
したちを世界に結びつける夢想を知って
いるのである。わたしの意見では、人間
のプシケの中心にとどまっている幼少時
代の核を見つけだせるのは、この宇宙的
な孤独の思い出のなかである」
旅先に自分を置いてあげているわけでもないのに、宇宙的な沈黙に縁どられた、たった一行の静謐で寡黙な俳句作品が、ぼくたち自身がかって宇宙的な孤独のなかで実際に夢想なんかしていたかどうかに関係なく、はるか時間の彼方、静謐な世界、夢想の世界のなかにぼくたち俳句の読者を導いてくれる、この、不思議な魔法……
月照りて落ち来る雪もなくなれり
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である」
つぎの青柳志解樹の俳句作品もまた、静謐な世界、夢想の世界のなかにぼくたちを導いてくれるだろうか。5・7・5とゆっくりたどるだけで、背後の深い沈黙と俳句の言葉たちが呼びさましてくれる、世界がかくも美しかったときの、あの、静謐な世界、夢想の世界とは……
五月来ぬみどり豊かに聖母像
垣に薔薇あふれしは聖女学院
緑陰を横切ってゆく神父かな
「花を前に、または果実を前に、俳句作
品はある幸福の誕生にわたしたちを立ち
あわせる。まさに俳句の読者は<永遠な
る幼少時代の幸福>をそこに発見するの
である……
河原への道野茨の花の道
落日のかくれなきさま百日紅
山宿は若葉のいろに灯をともし
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である……
ひそかにも炎天の村通りけり
桐咲いてむかしもいまも寺の鐘
夕焼の顔ぽつねんと山の駅
「あたかも俳句は、充分その役目を果た
していない幼少時代、しかもわたしたち
自身の幼少時代であって、おそらく何度
もくりかえしてわたしたちが夢想した幼
少時代をひきつづき持続させ、完成させ
るかのように思われる。わたしたちが選
び集める俳句作品は、わたしたちの幼少
時代の夢想と同一の夢幻状態へと導いて
いく……
落日のかくれなきさま百日紅
通常は幼少時代なんてほとんど復活することなく一生を終えてしまうことになるわけだけれど、この本を手にしていただく前の人生では充分にその役目を果してくれていなかったぼくたちの幼少時代を、旅先で強引にめざめさせたり、この本のなかの俳句でなんとかめざめさせてしまうことに成功するなら、あとは、一句一句の俳句作品が、それをひきつづき持続させ、完成させてくれる、はず!
「(幼少時代とは)輝きだす瞬間、つま
り詩的実存の瞬間といっても同じことだ
が、その瞬間にしか現実の存在とならな
いものである……
五月来ぬみどり豊に聖母像
「いまわたしたちが俳句作品のなかで愛
するとすれば、甦った幼少時代、わたし
たちのだれもが潜在的にもつあの幼少時
代から発して復活された幼少時代のなか
で、愛しているのである」
それにしても、幼少時代を過ぎてから身につけた知識や記憶で成りたっていることの少なくない俳句のイメージを、幼少時代の世界とおなじ、まさに黄金の、宇宙的なイマージュに変えてしまう俳句形式と詩的想像力とによる錬金術って、いったいどうなっているのだろう?
歳時記ではじめて覚えたたとえば「金縷梅」(早春にいちはやく、あまり高くない低木に、ひもがよじれたような地味な黄色い花をつける)の句を読んで、まるで幼少時代にそれを目にしたことがあるかのように、遠い日の早春の記憶がありありとよみがえってくるのは、どうしたわけなんだろう……
まんさくや小雪となりし朝の雨 水原秋桜子
自分自身の記憶だけにこだわる必要はないなんて言われても、考えてみれば、やっぱり、ちょっと不思議だ。
ただの事物のイメージがイマージュに変換されるだけで、どうして「最初の幸福」の味わい深いバリエーションを心のなかに生じさせるのか、一句ずつ俳句作品を添えて引用させてもらったバシュラールのつぎの文章を考えあわせてみれば、イマージュと記憶とポエジーの関係が納得できるようになって、詩的想像力の恩恵をよりゆたかに受けとれるようになるかもしれない。(ひとつだけ詩人のままのものもあるけれど、例によって詩や詩人とあるところを俳句とかに変えてしまったので、それにあわせて訳文の一部に手を加えてしまったものもあることをお断わりしておく)
「想像力はきわめて現前的な能力であり、
幼少時代の思い出のなかにまで〈バリエ
ーション〉を生じさせるのである。わた
したちが昂揚状態で抱く詩的なあらゆる
バリエーションはとりもなおさず、わた
したちのなかにある幼少時代の核が休み
なく活動している証拠なのである……
吹き降りの分教場の八重桜
「わたしたちは単調な夢想を豊饒にし、
繰りかえされる〈無垢な思い出〉を生き
いきとさせるために、俳句が提供する〈
バリエーション〉からどんなに援助をう
けていることか……
梅林の柵につらなり牧の柵
「忘却がわたしたちを取りまいていると
き、過去をはっきり再現するのに、詩人
たちは失われた幼少時代をわたしたちに
想像させる。詩人たちは〈記憶の奔放さ
〉を教える。過去を作りださなければな
らない、と詩人はいう……
鶯よ湖に風紋さっと立ち
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマ―ジュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの幼
い頃の思い出よりももっと昔へと溯る幼
少時代のある状態を甦らせることが可能
になるだろう……
門灯がともる落花のせわしさに
「しかしこのイマージュは原則として、
完全にわたしたちのものであるとはいえ
ない。それはわたしたちの単なる思い出
よりもっと深い根をもつからである。わ
たしたちの幼少時代は人間の幼少時代、
生の栄光に達した存在の幼少時代を証言
している……
激流のしぶく岩裏すみれ濃し
「わたしたちの過去への夢想、幼少時代
を探し求める夢想は、実際には起こらな
かった生に、想像された人生に、生命を
ふたたびもたらすように思われる。夢想
のなかで、わたしたちは運命が利用でき
なかったいろいろの可能性と接触する……
鶯やことりともせぬ水車小屋
「わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大
さはわたしたちの内面に残されている。
それは孤独な夢想のなかにまた出現する。
この宇宙的な幼少時代の核はこのときわ
たしたちの内部で見せかけの記憶のよう
な働きをする……
揚羽蝶わが指紋もち何処までも
「わたしたちが選びあつめる俳句作品は、
わたしたちの幼少時代の夢想と同一の夢
幻状態へと導いていく……
砂浜に片手をつけば桜貝
「詩人たちは<記憶の奔放さ>を教える。
過去を作りださなければならない、と詩
人はいう」
「宇宙的な幼少時代の核はこのときわた
したちの内部で見せかけの記憶のような
働きをする」
「幼少時代の思い出のなかにまで〈バリ
エ―ション〉を生じさせる」
「何千というイマージュに増殖された幼
少時代」
やっぱり、ぼくたちの幼少時代が実際に楽園のようだったかどうかなんてどうでもいいことだし、セレクトされた700句のイマージュがぼくたち自身の幼少時代の記憶に根ざしているかどうかなんてことも、やっぱり、どうだっていいみたいだ。
「しかしこのイマージュは原則として、
完全にわたしたちのものであるとはいえ
ない。それはわたしたちの単なる思い出
よりもっと深い根をもつからである」
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい。幼少時代がなければ真実の
宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ
エジーはない。俳句はわたしたちに幼少
時代の宇宙性をめざめさせる」
「幼少時代の夢想と同一の夢幻状態へと導いて」くれるこの本のなかの700句の俳句のイマージュを味わうだけで、ぼくたちの「幼少時代の思い出のなかにまで<バリエーション>を生じさせ」て、そうして、そのうちふつうの詩を読むようになれば、それら「何千というイマージュに増殖された幼少時代」をぼくたちは自分のものにすることができる。
つまり、幼少時代を過ぎてからの記憶だろうと、言葉を媒介にそれが〈最初のイマージュ〉に変換されてポエジーを生んだそのときには、ぼくたちだれもの内部で「幼少時代の核」が見せかけの記憶のような働きをしつつ幼少時代の思い出のなかにまでバリエーションを生じさせていたはずであって、そうした新しいイマージュのひとつひとつが、ぼくたちの幼少時代を無限に増殖するという信じられないようなことが「言葉の夢想」においては、実際に起こってしまうらしいのだ。
それもまた、詩的想像力というものの機能のひとつらしい。まさに、ぼくたちの幼少時代は、何千というイマージュに増殖されて、植物のようにどこまでも成長することをやめないものらしい。
「成長をやめない幼少時代、それこそ詩
人がわたしたちにひとつの幼少時代を生
きさせるとき、詩人がわたしたちの幼少
時代を甦らせるとき、かれの夢想を活気
づける力動性なのである。詩人にしたが
いつつ、幼少時代への夢想を深めていく
ならば、わたしたちの運命の樹はより深
く根を下ろすように思われる」
「幼少時代の植物のような力は、わたし
たちの内部に一生涯残っているのだ。わ
たしたちの内奥の植物的生命力の秘密が
そこにある」
「ひとりの人生のあらゆる年齢をこえて
続く、幼少時代の堅固な植物的生にはど
んなに深い意味があることだろう」
「(幼少時代とは)輝きだす瞬間、つま
り詩的実存の瞬間といっても同じことだ
が、その瞬間にしか現実の存在とならな
いものである」
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
旅情も俳句のポエジーも、詩的実存の瞬間にぼくたちが抱く、最高に快い詩的なバリエーションのひとつ。それは、いつでも「幼少時代の核」とセットではたらく詩的想像力が、まぎれもなくしっかりと活動したことの証拠でもあるのだった。
「詩人は宇宙的な夢想によって、原初の
言葉として、原初のイマージュとして、
世界を語っているのだ。語、美しい語、
自然の雄大な語は、それを作ったイマー
ジュを信じている」
こんな言葉を読むと、やっぱり、詩人を、俳句形式と書き換えたくてたまらなくなってくる。そのほうが、絶対、ピッタリする。ためしに文章の一部を勝手に変えてしまうとこんな具合だ。
「俳句形式は、原初の言葉として、原初
のイマージュとして、世界を詠っている
のだ。語、美しい語、自然の雄大な語は、
それを作ったイマージュを信じている」
知覚のためにコーティング加工をほどこされてしまったような世界と、原初の世界。情報を伝える意味作用の奴隷になってしまったような言葉と、原初の言葉。
「命名された事物はその名前の夢想のな
かで蘇るであろうか……
垣に薔薇あふれしは聖女学院
「語、美しい語、自然な雄大な語は、そ
れを作ったイマージュを信じている……
落日のかくれなきさま百日紅
「まさにしかり、語も夢をみるのだ」
原初の言葉とは、俳句作品のなかでいまなお夢見ている名詞みたいに、原初の世界の最初の事物を直接名ざしてしまう言葉のことをいうのだろう。
そうした原初の言葉の助力をえて、一句一句の俳句作品のなかで、まさにしかり、俳句形式もまた夢をみるのだ……
河原への道野茨の花の道
さて、つぎの俳句作品のなかの原初の言葉をとおして、原初の事物たちはありありとよみがえってくれるだろうか。
5・7・5と言葉をたどっただけでよみがえる、あの、幼少時代という<イマージュの楽園>そのままの世界とは……
枝先に雫してをり春の雪
目の前に大きく降るよ春の雪
「一句一句の俳句作品のなかで、俳句形
式は、宇宙的な夢想によって、原初の言
葉として、原初の事物として、世界を詠
っているのだ……
一せいに街灯ともり冬の雨
バス降りてひたすら歩く冬の雨
バス降りて駅へ小走り秋の雨
星野立子。俳句形式にとり込まれるとバスという言葉さえ、遠い日の宇宙性をおびてくる。俳句作品のなかのなんでもない言葉と事物を原初の言葉、原初の事物に変えてしまう、まさに、俳句形式の恩寵。あるいは、楽園のリアリズム。
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい。幼少時代がなければ真実の
宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ
エジーはない。俳句はわたしたちに幼少
時代の宇宙性をめざめさせる」
春に降った季節はずれの雪がやんで、ひんやりした冷気と明るい陽ざしのなか、枝先から、ぽとりぽとりと雪がとけてしずくしはじめている……。そんな情景をはじめて目にしたときの、遠い日の記憶が、鮮やかによみがえってくるようだ。幼少時代の色彩で彩られた、まさに、楽園のような世界……
枝先に雫してをり春の雪
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での<幻想の聖歌>なのである……
一せいに街灯ともり冬の雨
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである……
歩きつゝ人やり過す木下闇
噴水を見る椅子あきぬ腰かけぬ
自動車の過ぎし埃に秋の蝶
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない……
秋風や浅草いつも祭りめき
トンネルを出れば北見の国の秋
秋風や静かに落つるぶな落葉
《俳句形式のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……
木を倒す音静まりし冬の山
雪の日の障子明るき朝寝かな
昃れば春水の心あともどり
星野立子が中身をこさえてくれた一行の小さなイマージュの宝石箱。
こうした俳句の原初の言葉にふれてポエジーを味わうことがぼくたちの詩的想像力や詩的感受性を育てないはずはなく、セレクトされた700句の俳句をくりかえし味わうことが、バシュラール的な書かれた言葉の夢想家になるための、最高に理想的なプロローグとなってくれるのは、やっぱり、間違いないことだと思われるのだ。
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響があ
らわれる。そしてそれは極端に単純なか
たちで、われわれに言語を支配する力を
あたえる」
つぎの及川貞の俳句作品も5・7・5と書かれた言葉をゆっくりたどるだけでよかった。一句の詩的情景が生む、現象学的反響。すなわち、極上のポエジー……
そよ風の麦の夜道となりにけり
「言語の生命そのもののなかに深く入り
こんでいくような夢想をしなければなら
ない……
夜は谷の水音ちかくプール澄む
郭公や梅雨ぞらのまゝ暮れてゆく
「語の内部のポエジーやひとつの単語の
内部の無限性を体験するには、いかにゆ
るやかに夢想することをわれわれはまな
ばなければならぬことか……
ひたそよぐ萩むら白く驟雨くる
赤とんぼ沢のキャムプが見えてゐる
「語は夢想により、無限なものになりか
わり、最初の貧弱な限定を棄ててしまう……
さそり座も夜々傾きて秋に入り
幾色の紅葉の丘に照る日あり
「語られた夢想は孤独な夢想家の孤独を
世界のあらゆる存在に開かれた連帯関係
に変容させる……
細きみち人に遇はざり咲く通草
どんぐりや林も庭もけぢめなく
「わたしはまさしく言葉の夢想家であり、
書かれた言葉の夢想家である……
春の雪吹雪となりて行きなやむ
「夢想する幸せがわたしたちを活気づけ
る」
「ゆっくりと読書をすると、なんと多く
の夢想が湧き上がってくることだろう」
「わたしの夢想をみている幸せな人間、
それはわたしである。また思考するとい
う義務などもはやなく閑暇を楽しんでい
るのはわたしだ」
「世界のこういう美のすべてを、今わた
したちが俳句作品のなかで愛するとすれ
ば、甦った幼少時代、わたしたちだれも
が潜在的にもつあの幼少時代から発して
復活された幼少時代のなかで、愛してい
るのである」
どうしたわけか全14パートで構成されていると思いこんでいましたが、数えてみたら実際には13パートしかなかったので、ここで訂正しておきます。
とりあえず本稿を読んで少しで興味をもっていただけたなら、次週のこのサイトにおける新作を待つあいだに、本稿のあとに載っている「作者マイページ」で開いた私の全作品のトップに代表作として掲載されている、この連載の最初の(パート1-その1)をまず読んでいただければ私の基本的な考えを理解していただけると思います。「ヒサカズ ヤマザキ」の名前で検索してもそれまでに投稿した私の全作品を読むことができますが、本稿のすぐ下の、ワードの原稿を転送したときに生じたひどい行の乱れを直した(パート1)の残りの4編を順を追って読んでいただくとありがたいですが、私の作品がどうして旅というものにこだわるのかを分かっていただくためにも、早いうちに(パート2ーその1とその2)も読んでいただくことをおすすめします。何度も言っているように、原稿用紙にして1200枚ある私の作品には終わりというものはなくて、どこでもいい、発表順にこだわらず、あとは好きなところをくりかえし読んでいただいて、俳句で味わうことのできるポエジーをどこまでもレベルアップしていくことに意味があると考えています。
これから毎回しつこいほどお願いするつもりでいますが、私の作品とこのサイトのほとんどの読者の好みにはちょっとばかりズレがあるようで、本にしてもらいたくて頑張って投稿しているのにこのままでは読者の大幅な増加は期待できないので、もしも本稿を気に入っていただけたなら、この状況では口コミの効果はバカにできないので、できたらログインなしで閲覧できるこのサイトと私の作品の存在をお知りあいの方とかにおしえていただけたなら、ほんとうにありがたく、ほんとうに感謝いたします。なんといっても、どれほど読まれているかが、編集者の方にとって、いちばんのバロメーターになると思われますので。