第154話:溶解した古代モザイクタイル:一枚2万ゴールドの復元
神殿の主祭壇回廊――そこはかつて、海底に生きる人魚族と地上の神々との間に結ばれた不可侵条約を記した神聖なる回廊であった。
高さ10メートル、幅8メートル、奥行き50メートルに及ぶ大回廊の両壁一面には、本来であれば天然の虹色真珠貝と深海貴石を細かく砕いて敷き詰めた、絢爛たる【虹色真珠モザイク壁画】が広がっていたはずであった。
しかし、水が引いた回廊に足を踏み入れたアレクたちの前にあったのは、息を呑むほど痛ましい破壊の爪痕であった。
「……ひどい。これはあまりにもひどすぎるッス……!」
作業服姿のエドワードが、足元に散乱する無数の美しい破片を見つめて拳を震わせた。
壁画の中央部分――人魚の女王が海神から三叉の鉾を授かる最も重要な神話場面が、鋭い金属の打撃痕によって無残に抉り取られていたのだ。
壁面には、バールを力づくで叩き込んだ深い溝が何条も走り、剥がし損ねたタイルが粉々に砕けて床一面に泥とともに撒き散らされている。
「バールのこじ開け痕、および小型タガネの打撃痕……。間違いなく、大海賊勇者パーティの仕業だな」
アレクが膝をつき、泥の中から5ミリ角ほどの小さな虹色のタイル片をピンセットで慎重に拾い上げた。
「一枚あたり2万ゴールドで闇市場で取引される【人魚真珠タイル】だ。金目の部分だけを強奪しようとしてバールを突っ込み、接着モルタルが強固だったために剥がせず、癇癪を起こして大型ハンマーで叩き割って逃げたんだ」
「一枚2万ゴールドが……こんなに粉々に……!」
ルシアが目を見開いて絶句する。床一面に散らばる破片の数は、優に一万点を超えていた。
「それだけじゃない」
アレクは壁面に顔を近づけ、拡大ルーペで下地を観察した。
「外壁が破られて海水が侵入した際、急激な水流と海水の酸性化によって、タイルを留めていた古代の石灰系接着剤が化学的に溶解している。触れれば周囲のタイルまで雪崩のように剥落する状態だ」
「えっ、じゃあ壁紙みたいに新しいタイルを貼り直すわけにはいかないんですか?」
エドワードが問うと、通信機越しにシエルの鋭い声が飛んできた。
『絶対にダメですわ、エドワード!』
海上の浮きドックからシエルが強い口調で釘を刺す。
『この壁画は、全海洋自治都市連合が指定する【第一種超重要古代文化財】ですのよ! 現存するオリジナルのタイル破片を極力回収し、元の位置に寸分の狂いもなく復元する【現状復元原則】を守らなければ、文化財としての価値は完全に失われ、多額の損害賠償が請求されますわ!』
「ひえぇぇ……っ! じゃあ、この泥まみれの破片一万個を、全部元の場所に戻すってことッスか!? そんなの、一万ピースの真っ白なジグソーパズルをやるようなもんじゃないッスか!」
「パズルじゃない。――幾何学と鉱物学の照合だ」
アレクは立ち上がり、ポケットから真鍮のコンベックスと青色レーザーポインターを取り出した。
「シエル、主回廊の三次元レーザースキャン画像と、神殿建立時の古代拓本データを同期させろ!」
『――了解しましたわ! スキャニング開始!』
アレクが壁面へレーザーを照射すると同時に、天井のドローンから青い光の格子が照射され、破壊された壁面の微細な凹凸が三次元データとしてシエルの解析端末へと送られた。
『古代人魚族のモザイク技法は、一見ランダムに見えて、実はフィボナッチ数列と黄金比に基づいたフラクタル幾何学パターンで配列されていますわ!』
シエルの声が弾む。
『タイルの割れ口の微細な破断面と、母材のモルタルに残された接着痕の微細凹凸を三次元照合……! 破片の固有IDと配置座標、毎秒百二十個のペースで割り出し成功しています!』
「よし! 破片の回収とナンバリングを行うぞ。ルシア、帯電防止ピンセットとグリッドトレイを用意しろ!」
「はいっ!」
ここから、土木作業とは打って変わった、極限の精密修復作業が始まった。
ルシアが泥の中からピンセットでタイルの破片を一つひとつ回収し、超音波洗浄器で泥と塩分を洗い落とす。
シエルの端末から指定された座標番号が投影され、破片が整然と並べられていく。
だが、問題は【再接着】であった。
「通常のエポキシ系補修材では厚みがコンマ1ミリ出てしまい、タイルの目地が狂って全体が歪む」
アレクが眉根を寄せる。
「かといって、浸透性の低い接着剤では、海水の湿気を帯びた玄武岩下地に定着しない。――ポチ、出番だ」
「ピキュッ!」
アレクの足元で控えていたポチが、誇らしげに胸を張った。
ポチの体表から、トパーズのように澄み切った極薄のジェルが分泌される。
それは、生体ナノグラウトとしてのポチが生成する、分子レベルの超微粒子親水性ナノポリマー――完全透明にして、紫外線硬化型の超高強度エポキシ生体膜であった。
アレクはポチの分泌するジェルをルーペで凝視し、小さく息を呑んだ。
「(……分子構造が、自己組織化している。傷ついた母材の結晶格子に合わせて、ナノレベルで結合手を組み替えているのか……? スライムが自然発生的に持ち得る性質じゃない。まるで、何者かが極限の修復作業のために意図して設計したような……)」
幼い頃、ダンジョンのゴミ捨て場で拾ったときのポチの姿が脳裏をかすめる。だが、アレクは首を振って作業に集中した。
「ピキュ、ピキュキュッ♪」
ポチは細長い触手の先から、厚さわずか五ミクロン(千分の1ミリ)という奇跡的な薄さで生体膜をタイルの裏面へと塗布していく。
「接着剤の塗布厚、五ミクロン均一! アレク、座標A−742の破片、いきます!」
「任せろ」
アレクはチタン製ピンセットで破片を摘み、壁面の欠損部へと滑り込ませた。
カチリ。
数1000年前の破断面と、現代に割られたタイルが、寸分の狂いもなく吸い付くように噛み合った。
そこへ、アレクが魔導紫外線照射器の光を当てる。
ピカッ!
わずか1秒で生体膜が完全硬化し、タイルの継ぎ目は肉眼では完全に識別できないほど滑らかに一体化した。
「す、すごい……! 継ぎ目がまったく見えないッス!」
エドワードが目を丸くする。
「カチリ、カチリ、カチリ――」
アレクの手元は、まるで精密機械のように正確無比であった。
1分に三十個、1時間に千八百個。
泥まみれだった床の破片が、シエルの幾何学計算とポチの生体接着剤、そしてアレクの神技のピンセットワークによって、次々と壁面へと吸い込まれ、失われた神話の光景を蘇らせていく。
海の女王が掲げる三叉の鉾が輝きを取り戻し、人魚たちの尾びれの虹色の鱗が、回廊の明かりを受けて幻想的なオパール色の輝きを放ち始めた。
「……最後の一個だ」
アレクが神殿の守護神の瞳となる、直径3ミリの深海ブルーサファイアの破片を中央に嵌め込んだ。
カチリ。
その瞬間、回廊全体に微かな潮風のような魔力が吹き抜け、モザイク壁画全体がポワッと淡い神聖な光を宿した。
「……復元、完了。一枚2万ゴールド、全一万二千ピース。全数回収および完全接着を確認」
アレクがピンセットを置き、ふうと長い息を吐いた。
「わあぁぁぁ……! 綺麗……! まるで最初から割れてなんかいなかったみたいです!」
ルシアがうっとりと壁画を見上げる。
「かつて人魚族と人間が交わした友情の誓いが、そのまま息づいているッスね……。勇者の連中、こんな美しいものを欲のために叩き壊すなんて、やっぱり絶対に許せねえッス!」
エドワードが拳を握りしめた。
「時計を見ろ。16時50分だ」
アレクは真鍮のコンベックスを叩き、作業員たちを振り返った。
「文化財の修復は集中力を極限まで削る。これ以上の作業は手元の狂いを生むだけだ。道具の点検を行い、17時ジャストに撤収するぞ」
『オーッ!!』
神話の美を取り戻した回廊。
だが、完璧に進む原状回復工事を、深海の暗闇から怒りに満ちた巨大な紅い瞳がじっと睨みつけていたことを、この時の彼らはまだ知る由もなかった。




