「あなたは留守番ね、お姉様の邪魔だから」と母が言うので、留守番中に公爵閣下を十二回おもてなししました
「あなたは留守番ね、お姉様の邪魔だから」
母は玄関の広間で手袋のボタンを留めながら、私のほうを見ずにそう言った。
階段を、薔薇色のドレスの姉が下りてくる。その後ろを、従僕が二人がかりで竪琴の箱を運んでいた。今日は王立音楽堂で、姉マルグリートの演奏会がある。
「はい。いってらっしゃいませ」
私は膝を折って、いつもの言葉を言った。
(今日も、この家の主は私ね)
家族が出かけるたびに玄関で見送り、帰ってくれば「おかえりなさいませ」と迎える。それが私の役目だ。
小さいころ、姉の演奏会の途中で、私は一度だけ咳をした。姉はその曲を最初から弾き直し、楽屋で「あの子がいると気が散るの」と泣いた。それから私は、姉の演奏会に連れて行ってもらったことがない。演奏会だけではない。園遊会も、夜会も、「マルグリートの隣にあなたがいると、話がそちらへ逸れるでしょう」で、私は家に残る。
幼い夏には、私がはしかで寝ているあいだに、家族がひと夏、海辺の保養地へ出かけた。母からの手紙には、マルグリートが日に焼けないか心配だと書いてあった。私の熱のことは、追伸に一行だけあった。
その夏、熱の下がった朝に、執事のベルトラムが枕元で言ったのだ。
「お嬢様。留守番は、家をお預かりすることでございます。今日のこの家の主は、お嬢様です」
それ以来、私には決まりが一つある。留守番を頼まれたら、留守のあいだは私がこの家の者。来た人は、私がお迎えする。
「リーケ、今日は木曜よ」
馬車の段に足を掛けたまま、母が振り返った。
「お客様がいらしたら、お相手をしておいてちょうだい。あなたがいるから、うちの在宅日は守れているのよ」
「はい、お母様」
木曜の午後は、ローゼンダール伯爵家の在宅日だ。家の者が家にいて、知らせなしに訪ねてきたお客様を迎える日で、社交界の名簿にもそう載っている。けれど木曜の午後は、王都で茶会や演奏会がいちばん多い時間でもあって、家族はたいてい姉のお供で出かけている。うちの在宅日を守っているのは、もう何年も私一人だった。
馬車が門を出ていくと、家の中は急に静かになった。
私は図書室の窓辺の椅子に座り、読みかけの旅行記を開いた。台所のほうから、胡桃の焼き菓子の匂いがしてくる。留守番の日には、料理番のミーナが必ず焼いてくれるお菓子だ。
留守番は、嫌いではない。
* * *
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、二時を少し過ぎたころだった。
図書室の戸口に、ベルトラムが銀の盆に名刺を載せて現れた。
「ファルケンラート公爵閣下がお見えです。先日王宮で、旦那様に『いつでもお越しください』と言われたので、在宅日に伺った、と」
私は旅行記を閉じた。
ファルケンラート公爵。王陛下の甥で、南の海沿いに広い領地を持ち、夜会にはまず出てこない方だと聞いている。姉が今年いちばん縁を結びたがっている相手で、母が毎晩のように名前を口にしている人でもあった。
(お父様の「いつでも」を、本気にした方がいたのね)
父は王宮で、誰にでもそう言う。本気にした人を見るのは、初めてだった。
「小客間へお通しして。ヘッダにも来てもらってね。それから、ミーナにお茶を」
「かしこまりました」
小客間に入ってきた方は背が高く、砂色の髪を短く刈っていた。墨色の上着に飾りはなく、灰色の目で部屋の中をひととおり見回してから、私を見た。
「ローゼンダール伯爵にお目にかかりたい」
「申し訳ございません。父は留守にしております。次女のリーケでございます。留守番をしております」
「留守か」
「はい。父は、いつでも、と申しますが、いつも、おりません」
閣下は一瞬黙り、それから、声を立てずに肩だけで笑った。
部屋の隅では、家政婦長のヘッダが繕い物の籠を膝に置いている。扉は開けたままで、玄関の広間には閣下の従者が立っていた。未婚の娘が殿方をお迎えするときの、決まりどおりの形だ。
「では、ローゼンダール嬢。待たせてもらってもいいか」
「お待ちになるのでしたら、八時過ぎまでかかります。姉の演奏会は四曲で、終わるのが四時半。楽屋で花束を受け取って、そのあとファン・ホーフ子爵家の晩餐に回りますので」
「……詳しいな」
「留守番ですので」
家族がどこへ行き、何時に戻るかを知っておくのは、留守番の務めだ。誰が訪ねてきても答えられるように。
閣下は少し考えてから、勧めた椅子に腰を下ろした。
「では、お茶を一杯だけ」
女中のネルがお茶を運んできた。閣下は砂糖を断ってレモンを一切れ浮かべ、ミーナの焼き菓子を一つつまむと、黙ってもう一つに手を伸ばした。
「在宅日に伯爵がいないのは、珍しいのではないか」
「当家では、珍しくございません。母は、私がいるから在宅日は守れている、と申します」
「君は、演奏会へは」
「留守番です。この家にも、誰かいなくてはなりませんから」
閣下は、カップ越しにしばらく私を見ていた。
「どこの家を訪ねても、まず誰かを紹介される。娘でも、姪でも、妹でも。この家では、誰にも紹介されないな」
「私しかおりませんので」
閣下はまた、肩だけで笑った。
閣下の目が、私が膝に置いたままの旅行記に留まった。断ってから手に取り、表紙を返す。最後のほうの頁に、私の栞が挟まっていた。
「『南海航路記』か。ずいぶん古い本を読むのだな」
「図書室の本は、留守番のあいだに端から読んでおります。これで、三百十二冊目です」
「三百十二」
「留守番が長いもので」
閣下は、今度は横を向いて笑った。
お茶は結局、おかわりになった。旅行記の話をして、閣下の領地の海の話を少し聞いた。私は海を見たことがない、と言うと、閣下は「そうか」とだけ言った。
四時の鐘が鳴ったので、「閣下、お帰りの時刻でございます」と申し上げると、閣下は素直に立ち上がった。玄関の広間で、ベルトラムの盆に名刺を一枚置いていく。隅に、角ばった字で一行あった。
伯爵に。また伺う。
◇
家族が戻ったのは、夜になってからだった。
「おかえりなさいませ。今日、公爵閣下が、お父様を訪ねて――」
「公爵閣下が!?」
母が、外套を脱ぐ手を止めた。
「まあ、マルグリートのいない日に限って!」
「うむ、先日王宮でお招きしたのだ。マルグリートに会いに来られたに違いない」
父は盆の名刺を手に取って、満足そうに口ひげを撫でた。
姉は髪から花を抜きながら、私を横目で見た。
「留守番が、余計なことを言わなかったでしょうね」
何をお話ししたのか、と聞いた人はいなかった。家族はそのまま居間へ入り、今日の演奏会でマルグリートがどれほど拍手を受けたかの話を始めた。
* * *
次の木曜も、閣下は来た。
家族はファン・ホーフ子爵夫人の茶会に出ていて、閣下は旅行記の下巻を持ってきた。先週私が膝に置いていた上巻の、続きの巻だ。
「上巻の終わりで、船が港を出たところだったろう」
「どうしてご存じなのですか」
「先週の上巻は、栞が最後の数頁のところに挟まっていた」
その晩、閣下がまたいらしたことを伝えると、母は居間で姉の手を取って言った。
「閣下は、追いかけられるのがお嫌いなのよ。こちらが家で待ち構えていたら、ほかの家と同じになってしまうわ。会えない木曜が続くほど、殿方は会いたくなるものなの」
それからの家族は、閣下に家で会わないようにしながら、家の外で閣下に出会えそうな催しを探して出かけるようになった。母は姉の予定表を広げ、閣下の現れそうなところに片端から印を付けていった。木曜の午後にも、迷わず印が付いた。
そして家族が出かけた木曜の午後に、閣下はうちの小客間に来た。
四度目の木曜は、雨だった。向かいのドルン男爵のところの小さな犬が、垣根の隙間から庭へ入り込み、閣下が上着の裾を泥だらけにして捕まえた。ヘッダの差しかける傘の下、犬を抱いて門の外へ返しに行くと、傘を差した男爵が帽子を上げ、閣下と私を見比べた。
「これはこれは。いつもの木曜の方ですな」
男爵は毎日の午後、犬を連れて通りを一回りする。公爵家の紋の馬車がうちの門の前で待っているのを、もう見慣れていたらしい。
五度目の木曜は、王宮の春の園遊会の日だった。家族はそろって出かけた。閣下も招かれているはずだと、母は朝から姉の髪を何度も結い直させた。
閣下は、うちの小客間で胡桃の焼き菓子を食べていた。
「王宮の園遊会には、いらっしゃらないのですか」
「行けば、端から紹介される」
「当家の家族も、閣下にお会いするつもりで出かけました」
「だろうな。だから、ここに来た」
その晩、園遊会から戻った家族は、玄関の広間で揃ってため息をついた。
「今日もいらっしゃらなかったわ。陛下の甥御様なのに、園遊会にもお出にならないなんて」
父が、ベルトラムの盆から名刺をつまみ上げた。伯爵に。また伺う。
「また入れ違いか!」
「いいのよ、あなた。焦らしが効いているの」
(入れ違いではなくて、同じ時刻に別の場所にいらしただけなのだけれど)
私はそう思いながら、外套を受け取って衣装部屋へ運んだ。
六度目の木曜、閣下は小さな巻貝を一つ持ってきた。白くて、口のところだけが淡い桃色をしていた。
「耳に当ててみるといい」
言われたとおりにすると、遠くで、寄せては返す音がした。
「……これが、海の音ですか」
「学者は、耳の中の音だと言う。だが、領地の者はみな、海の音だと言う」
私はしばらく、巻貝を耳から離せなかった。閣下は何も言わずに、おかわりのお茶を飲んでいた。
「どこへ行きたい」
帰り際に、閣下が聞いた。どこへ行きたいかを人に聞かれたのは、初めてだった。
「海を、見てみたいです」
「覚えておく」
そのころ姉は、夜会で話して回っていたらしい。
「ファルケンラート公爵閣下が、毎週のように当家にいらっしゃるの。私が留守がちで、お気の毒なのだけれど」
母は、それを夕食の席で嬉しそうに繰り返した。
「皆さん、それはもう驚いていらしたわ。閣下がどの家にも足を向けないのは、王都じゅうが知っているもの」
私はスープを飲みながら、黙っていた。
(毎週いらっしゃるのは本当で、お姉様が留守がちなのも本当なのよね)
七度目の木曜、閣下は窓の外の通りを眺めながら、ぽつりと聞いた。
「君は、家族が出かけていくのを、寂しいと思わないのか」
少し考えてから、私は正直に答えた。
「小さいころは、寂しかったです。今は、留守番の日のほうが好きです。家の中が静かで、図書室の椅子を独り占めできて、いらしたお客様は、みんな私とお話ししてくださいますから」
「そうか」
「閣下は、どうして毎週いらっしゃるのですか」
「この部屋では、誰も私を追いかけてこない」
閣下は、通りから私のほうへ目を戻した。
「君は、私が来ても来なくても、同じように留守番をしているだろう。だから来たくなる」
「……来なくなったら、木曜の二時に、少しだけ呼び鈴を待つと思います」
口に出してしまってから、耳まで熱くなった。隅のほうで、ヘッダが繕い物の糸をぷつりと噛み切る音がした。
閣下はそれきり黙って、四時の鐘が鳴るまで、空になったカップを手の中で回していた。
* * *
八度目の木曜、閣下は帰り際に言った。
「伯爵にお目にかかって、話したいことがある。次の木曜、お父上に家にいていただけるか、聞いてもらえないか」
その晩、私は書斎の父に伝えた。
「お父様。公爵閣下が、お父様にお話があるそうです。次の木曜、家にいていただけますか」
「閣下が、私に?」
父は書き物の手を止めて、顔を輝かせた。
「いよいよだな。分かった、次の木曜は家にいよう」
その約束は、次の木曜の朝までもった。
朝食の席に、王宮からの使いが来た。王女殿下が、今日の午後の茶会に、急にマルグリートを招いてくださるという。
「王女殿下の茶会よ! お父様、付き添ってくださるわね」
「しかし、今日は閣下が――」
「閣下には、また木曜に来ていただけばいいでしょう。毎週いらっしゃるんですもの。焦らすのは、まだ効いているわ」
母の一言で、決まった。父は少しだけ私のほうを見て言った。
「リーケ、閣下には、お前からよくお詫びしておけ。お前は留守番だ」
いつもの時刻に、呼び鈴が鳴った。
「伯爵は」
「王女殿下の茶会に、姉の付き添いで」
閣下はしばらく何も言わず、それから、いつもの椅子に座った。
「父から、閣下によくお詫びするよう申しつかっております」
「君が詫びることではない。君は、今日も家にいた」
閣下はカップを置いて、続けた。
「次は、伯爵が必ず家にいる日に来る」
* * *
十二度目は、春の終わりの木曜だった。
家族は、閣下がお見えになると噂の立った、川向こうの侯爵家の午後の音楽会へ出かけていった。私はいつもどおり玄関で「いってらっしゃいませ」と言い、いつもどおりの時刻に呼び鈴が鳴った。
その日の閣下は、お茶に手をつけなかった。
「数えていたか」
「十二回目です」
「次に伯爵が家にいる日に、君に結婚を申し込みに来る」
ヘッダの繕い物の針が、止まった。
「その前に、君の返事を聞いておきたい。伯爵の答えより先に」
私は膝の上で手を組んだ。十二回の木曜が、順番に浮かんだ。旅行記の下巻、泥だらけの上着の裾、巻貝の音。誰も誰にも紹介されなかった、この小客間。
「はい」
閣下はゆっくり息を吐き、それから、声を立てて笑った。閣下の笑い声を聞いたのは、そのときが初めてだった。
その夜、家族が戻ってから、私は居間の母に言った。
「お母様。公爵閣下が、次にお父様がご在宅の日に、私に結婚を申し込みにいらっしゃいます」
母は目を丸くして、それから笑い出した。
「まあ、リーケ。留守番が長すぎて、夢でも見たのね。閣下はマルグリートによ」
「留守番の娘に求婚する公爵が、どこにいるの」
鏡の前で耳飾りを外しながら、姉が言った。
「でも、ちょうどいいわ」
母が手を打った。
「マルグリートの誕生日の夜会に、閣下をお招きしましょう。来週の木曜よ。その晩なら、お父様も家にいらっしゃるもの」
閣下からの返事は、すぐに届いた。
木曜なら、伺う。
* * *
姉の誕生日の夜会は、その木曜の晩だった。
大広間には大勢のお客様が招かれ、玄関の広間には昼から花が運び込まれた。木曜に家族がそろって家にいるのは、何年ぶりだろう。
「今夜は、あなたは小客間にいなさい」
支度を終えた母が言った。
「お客様の前に出なくていいわ。マルグリートの夜なのよ。あなたがいると、話がそちらへ逸れるでしょう」
「家にいるのに、留守番ですか」
「そうよ」
新しい種類の留守番だった。
階段の上から、真珠を首にかけた姉が、私の水色の普段着を見下ろして笑った。
「留守番には、それで十分ね」
私はそのまま、小客間の窓辺の椅子に座った。ヘッダはいつもどおり隅で繕い物をし、扉はいつもどおり開けてある。玄関の広間の声が、ここまでよく聞こえた。
夜が更けてきたころ、広間のざわめきの色が変わった。
「公爵閣下よ」
「夜会にお出になるなんて、何年ぶりかしら」
父と母と姉が、広間の真ん中へ急ぐ足音がした。
「閣下、ようこそお越しくださいました!」
「娘のマルグリートでございます。これまでたびたびお運びいただきましたのに、娘が留守がちで、本当に失礼を」
母の声が、よそ行きのいちばん高い調子に上がっていた。
ベルトラムが閣下の帽子を受け取る気配がした。そして、これまでの木曜と同じ声で言った。
「閣下、いつもの小客間でございますね。リーケお嬢様がおいでです」
広間が静まった。
「ベルトラム、何を――」
「ああ。いつもの部屋で頼む」
閣下の足音が、まっすぐこちらへ近づいてきた。姉の声のそばを過ぎ、母の声のそばを過ぎて。
小客間の戸口に、墨色の上着の閣下が立った。その後ろに父と母と姉の顔があり、さらにその後ろに、お客様たちの顔が鈴なりになっていた。
私は立ち上がって、膝を折った。
「いらっしゃいませ、閣下。今日は、父も母も在宅しております」
「知っている。十三回目で、ようやくだ」
人垣をかき分けて、ネルが盆を運んできた。誰も言いつけていないのに、レモンを添えたお茶が一杯と、ミーナの胡桃の焼き菓子が一皿。ネルは閣下のいつもの席の前にそれを置き、母の顔を見て、青くなって下がっていった。
閣下は座らずに、父のほうへ向き直った。
「伯爵。ようやくお目にかかれた。お話がある。どこか静かな部屋で」
父の顔が、ぱっと明るくなった。
「いえいえ、閣下、ここで伺いましょう! 今夜は娘の誕生日です。皆様にも、ぜひ聞いていただきたい」
父はお客様たちのほうへ両手を広げてみせた。姉が頬を染めて、胸を張った。
閣下は、少しだけ眉を上げた。
「では、ここで。リーケ嬢に、結婚を申し込みたい」
広間のどこかで、扇の落ちる音がした。
「リ……リーケ?」
母の声が裏返った。
「マルグリートでは、ございませんの?」
「マルグリート嬢とは、今夜より前には、王宮で一度挨拶をしただけだ」
「でも」
姉が一歩、前へ出た。
「閣下は毎週のように当家に……私に会いに」
「伯爵家には、木曜に十二回伺った」
閣下の声は、小客間でお茶を飲むときと同じ調子だった。
「十二回とも、伯爵もご夫人もマルグリート嬢もご不在で、リーケ嬢が迎えてくれた」
人垣の中で、誰かが小さく「まあ」と言った。
「そういえば」
扇を口元に当てて言ったのは、ファン・ホーフ子爵夫人だった。
「うちの茶会の木曜なら、マルグリート様はうちにいらしていたわね。閣下が先週いらしたのよ、とあの日も嬉しそうにお話しになっていたけれど」
「王宮の春の園遊会の日も、木曜でしたな」
若い殿方が続けた。
「伯爵ご一家が、閣下はどちらにと、ずいぶん探しておられた」
「王女殿下の茶会の木曜も、マルグリート様がご自分で――」
別の令嬢が言いかけて、隣の母親に袖を引かれた。
人垣の一番後ろから、杖の音がした。向かいのドルン男爵だった。
「閣下の馬車でしたら、伯爵家の馬車が角を曲がると、決まって反対の角から入ってきましたな。うちの犬がすっかり覚えてしまって、木曜の二時になると門の前で尻尾を振っております」
誰かが噴き出した。それを合図のように、くすくすという笑いが、広間の奥まで広がっていった。
姉の頬から、色が引いていった。
「嘘よ」
姉の声が、細く震えた。
「リーケが、留守番をいいことに、閣下を引き留めていたんでしょう」
「引き留められたことは、一度もない」
閣下は、姉のほうを見ずに言った。
「四時の鐘が鳴ると、毎回、もうお帰りの時刻です、と言われた。そこの家政婦長が証人だ」
部屋の隅で、ヘッダが繕い物から顔を上げずに、一度だけ頷いた。
「リーケ」
母が、私の腕をつかんだ。
「なぜ言わなかったの!」
「毎回、申し上げました」
私は母の目を見て答えた。
「おかえりなさいませ、今日は公爵閣下がいらっしゃいました、と。十二回とも。お母様は毎回、マルグリートのいない日に限って、とおっしゃいました。先週は、夢でも見たのね、と」
母の手から、力が抜けた。
父が咳払いをした。顔はまだ赤かったが、もう笑みが戻りかけていた。
「いや、これは、まことに光栄なお話で。喜んでお受けいたします。リーケも、私どもの自慢の娘でして――」
人垣のどこかで、誰かがわざとらしく咳をした。
「伯爵のご同意は、ありがたく頂く」
閣下は父に一礼してから、私のほうを向いた。
「返事は、リーケ嬢から聞きたい」
返事なら、先週もう言ってある。けれど、もう一度言うのは少しも嫌ではなかった。
「はい。お受けいたします」
閣下は身をかがめて私の手をすくい上げ、指の背に軽く口づけた。隅の椅子で、ヘッダが小さく鼻をすすった。
「で、では、婚約の披露は」
父が、慌てたように言葉を継いだ。
「マルグリートの縁談がまとまってからということで、いかがでしょう。こういうことは、やはり姉が先と申しますか――」
「伯爵」
閣下は、私の手を離さないまま言った。
「順番なら、私はこの家の木曜に十二回並んだ。もう十分に待ったと思う」
今度は、誰も笑いをこらえなかった。
* * *
夜会のあとは、何もかもが早かった。
父は数日のうちに、公爵家の書斎で婚約の書面に署名した。約束の時刻より、ずいぶん早く着いていたそうだ。婚約の披露は秋に、公爵家の王都の屋敷で開くことになった。
夜会の話は、たちまち王都の端まで届いた。ローゼンダール家を訪ねるなら木曜に、下のお嬢さんがいるから、というのが、しばらく社交界の決まり文句になったらしい。姉の「毎週のように当家に」は笑い話になり、その季節、姉への招きも縁談もぱたりと途絶えた。母のところへ来る招待状も、目に見えて減った。
王立学院の寄宿舎にいる従弟のウィレムからも、手紙が届いた。いずれこの家を継ぐ従弟は、お祝いの言葉のあとに、こう書き添えていた。
伯父上が家にいるようになったと聞いて、驚いています。
夏の初め、閣下が迎えに来た。南の海辺の夏の館へ、私を連れていってくれるという。あの夏に行けなかった海だ。館では閣下の母君が女主人として迎えてくださり、付き添いにはヘッダが一緒に来てくれることになった。
玄関の広間で、母が手袋もはめずに立っていた。今日は、出かける予定が一つもないのだという。
私は膝を折って言った。
「いってまいります。お母様、留守番をお願いしますね」
母は何か言いかけて、口を閉じた。私の知るかぎり、母がこの玄関で家族を見送るのは、それが初めてだった。
◇
海は、巻貝の音よりずっと大きかった。
夏の館は浜のすぐ上に建っていて、窓を開けると波の音が部屋まで入ってくる。着いて何日かたった午後、私はヘッダと浜を歩いて貝殻を拾った。館への坂道を上がっていくと、戸口に閣下が立っていた。
「おかえり」
私は、坂の途中で足を止めた。
物心ついてからずっと、私はあの家の玄関で、言う側だった。おかえりなさいませ、今日は何々様がいらっしゃいました。言われたことは、一度もなかった。私はいつも、家にいたから。
「……ただいま、帰りました」
口にしてみると、拍子抜けするほど短い言葉だった。
「今日は、私が留守番だった」
閣下は、少し困ったように眉を下げた。
「難しいものだな。君が帰ってくるまで、何も手につかなかった」
「お茶は、召し上がりましたか」
「一杯も」
私は拾った巻貝を一つ、閣下の手に載せた。白くて、口のところだけが淡い桃色の、あの貝と同じ種類だ。
閣下はそれを耳に当てて、「確かに、海の音だ」と真顔で言った。本物の海が、すぐ後ろで鳴っているのに。
私は笑って、閣下の腕に手を添えた。
「では、お茶を淹れましょう。浜のお話をいたします。留守番をしていた方には、土産話が要りますから」
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