第153話:水中不分離性コンクリート高圧圧入:海の底を固めろ
深海100メートルの底でコンクリートを打設する――それは、陸上の常識を根底から覆す過酷な挑戦である。
通常のコンクリートをそのまま水中に投入すればどうなるか。
海水との接触によってセメントペーストと骨材(砂や砂利)が瞬く間に洗い流され、激しい「材料分離」を起こしてしまう。濁った白い泥水が海を汚すだけで、残るのは強度のないスカスカの砂利の山――いわゆる「ジャンカ(豆板)」となり、水圧を受け止める構造体など到底作れはしない。
ましてや相手は、1メガパスカルという途方もない静水圧がかかる深海である。わずかコンマ1ミリの間隙であっても、水圧は容赦なく構造の弱部を穿ち、やがて巨大な破壊へと拡大させる。
「――バルガン親方! ミキサープラントの混和材投入状況はどうだ!」
水深100メートル、据え付けられたオープンケーソンの天端に立ち、アレクは耐圧潜水服の通信マイクへ向かって叫んだ。
足元には、ケーソンの鋼鉄外壁と神殿の既存玄武岩躯体との間に生じている、幅50センチ、深さ20メートル、延長30メートルに及ぶ巨大な間隙が黒々と口を開けていた。
この隙間をミリ単位の空洞もなく完全に密着・充填して初めて、新設ケーソンと古代神殿が一枚の巨大な防潮擁壁として一体化するのだ。
『おうよ、アレクの坊主! 絶好の粘り気で練り上がってるぜ!』
海上の浮きドック『ヘラクレス』の甲板上。
超大型ドラムミキサーの前で、バルガン親方がスコップで生コンクリートの粘度を確かめながら叫んだ。
『ドワーフ秘伝の水溶性セルロースエーテルとアクリル系高分子化合物を限界まで配合した【水中不分離性高流動コンクリート】だ! 海水中へドブ漬けにしてもセメント分が絶対に溶け出さねえ! 魚一匹殺さねえ超低濁度設計だ!』
「よし! ルシア、品質管理試験の結果を報告しろ!」
「はいっ! 主任!」
神殿側の足場ステージで、ルシアが透明なシリンダーとスランプ試験器を抱えて叫んだ。
「海中採取サンプルのスランプフロー値、目標60センチに対して実測六十一・5センチ! 材料分離抵抗性、空気量四・5パーセント、打設温度十八度! すべて設計基準強度40メガパスカルの管理基準値を完璧にクリアしています!」
「シエル、海上のマスコンクリート水和熱解析はどうなっている?」
アレクが海上の管制室へ問いかける。
『――シミュレーション完了していますわ!』
シエルの明晰な声が返ってきた。
『打設総量六百八十立方メートルという大断面のため、セメントの水和熱によって中心温度が最大六十五度まで上昇する予測です。内外の温度差による熱応力ひび割れを防ぐため、打設水にはドワーフの冷却魔導装置を通した低温海洋深層水を使用。水和熱を抑えた中庸熱ポルトランドセメント仕様に切り替えていますわ!』
「完璧だ。圧入配管のエア抜き完了を確認。――トレミー配管圧入ポンプ、起動!」
『高圧コンクリートポンプ、圧送開始ィィィッ!!』
海上の作業船から海底へと垂直に伸びる内径150ミリの耐圧スチール配管――【トレミー管】を通じて、毎分三十立方メートルの超高粘度コンクリートが怒涛の勢いで送り込まれてきた。
管の先端には、最初に海水を押し出して配管内を清掃するための球状スポンジピグが仕込まれており、海水と生コンが混ざり合うのを完全に防いでいる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
ケーソンと神殿の隙間の最深部、海底岩盤の着底面から、青白く光るドワーフ特製コンクリートが湧き水のように静かに満ち上がっていく。
水中不分離混和材の強力な凝集力により、激しい海水の中にありながら、生コンクリートはまるで生き物のような一塊のゲル状となって滑らかに広がり、海水と一切混ざり合うことなく空隙を押し広げていった。
「トレミー管の先端埋め込み深さ、常にコンクリート上面から2メートル以上を確保しろ!」
アレクが有線カメラのモニターを睨みながら指示を飛ばす。
「先端がコンクリートの表面から飛び出したら、海水が巻き込まれて強度がガタ落ちするぞ! 打設速度と管の引き上げ速度を完全同期させろ!」
「了解ッス!」
配管の昇降ウインチを操作するエドワードが、チタンラチェットで油圧バルブを微細にコントロールする。
「打設高さ、底面からプラス5メートル……8メートル……10メートル通過! 配管引き上げ、毎分20センチで同期中ッス!」
「よし、間隙内部の締固め状勢を確認する。――ポチ!」
「ピキュッ!」
アレクの呼びかけに応え、ポチが小型の流線型水中形態へと変形した。
高粘度の水中コンクリートは、流動性が高いとはいえ、狭い鉄筋の間や神殿の複雑な凹凸の奥では微小な空隙を残しやすい。通常のバイブレーターを水中深くへ突っ込むのは困難だが、ここでポチの真価が発揮される。
ポチはコンクリートがせり上がってくる境界付近へ潜り込むと、自らの体を細長いチューブ状に伸ばし、毎秒二万回の超音波微振動(生体バイブレーション)を発生させた。
「ピキュキュキュキュキュキュ……ッ!」
ジジジジッ、と細かな泡が浮上し、コンクリートが隅々の微細なクラックへと完璧に吸い込まれていく。
同時に、背負った探傷センサーからエコー信号をルシアの端末へ送り届ける。
「すごい……! 神殿壁面の微細なクラックの奥深くまで、コンクリートがみっしりと行き渡っています!」
ルシアが目を輝かせた。
「エアーの噛み込み(空気だまり)ゼロ! ジャンカの発生確率ゼロパーセント! 充填率、九十九・八……100パーセントに達しました!」
「よし、天端の押さえ仕上げに入るぞ!」
アレクは自ら耐圧グローブで特製【ステンレストリプル左官ゴテ】を握りしめた。
水深100メートルの高水圧下では、水の粘性と抵抗によって腕の振りが著しく鈍る。だが、アレクの筋肉は千を超える過酷な現場で鍛え上げられている。
左足を踏み込み、腰の回転をゴテ先へと滑らかに伝える。
スッ、スッ、スッ――!
水圧を逆に利用し、均等な面圧をかけながらコンクリートの天端を滑らかに均していく。
表面に余分な遊離水(ブリーディング水)を一切残さず、鏡のように平滑な防水仕上げ面が一瞬で現れた。
「……ふう。打設完了、天端仕上げヨシ!」
アレクがゴテを掲げた。
ドワーフの怪力ポンプ、エドワードの精密な配管制御、ルシアの厳格な品質管理、シエルの熱応力計算、ポチの生体バイブレーション探査、そしてアレクの神技の左官仕上げ。
そのすべてが完璧に噛み合い、8000トンの鋼鉄ケーソンは、古代神殿の巨大な玄武岩躯体と完全に一体化した【超重力式耐震水中防潮堤】へと生まれ変わったのだ。
「打設総量、六百八十立方メートル! 所要時間2時間40分! 工程表通りに完了しました!」
ルシアが高らかに宣言する。
「うおおおおおッ! やった、やりきったッス!!」
エドワードが拳を突き上げ、作業員たちの歓声が潜水艇のスピーカー越しに海中に響き渡った。
「時計を見ろ。16時40分だ」
アレクは満足そうに頷き、真鍮のコンベックスを腰のホルダーに戻した。
「コンクリートの初期硬化発熱を確認。養生温度の計測センサーをセットしたら、本日の外壁復旧作業は終了だ。道具を海水で念入りに洗浄し、防錆油を塗布してから浮上するぞ」
「了解ッス!」
浮きドックへの帰還を促すアレクの横で、エドワードが神殿の奥の主回廊を指差した。
「師匠、外壁の止水が完璧に決まったおかげで、神殿内部の残留水もほとんど干上がってきたッスね。……でも、あっちの主祭壇回廊、なんだかすごいことになってるみたいッスよ」
「主祭壇回廊か……。ああ、例の【虹色真珠モザイクタイル】のエリアだな」
アレクの表情が引き締まる。
「一枚あたり2万ゴールド。神話時代の人魚族の歴史を描いた、大陸最高峰の重要文化財だ。大海賊勇者どもがバールで剥ぎ取ろうとして粉々に砕き、さらに海水で溶かされたと聞いている」
「一枚2万ゴールド……!? ひ、ひえぇぇ……! それが何千枚もあるんですよね!?」
ルシアが悲鳴のような声を上げた。
「ああ。破片を一つでも紛失すれば、数100万ゴールドの損害賠償問題に発展する。――明日は、土木から一転して超精密な文化財修復だ。ピンセットと拡大鏡を用意しておけ」
「はいっ!」
外海の猛威を完全にシャットアウトした海底神殿。
巨大な土木工事の成功に沸くチームを、次なる繊細極まる美術修復のミッションが待ち受けていた。




