【連載開始】「妹が先だ。一人っ子の君には分からない」と婚約者が言うので、妹が五人いる公爵閣下に聞いてみました
連載版を始めました。公爵閣下と五人の妹の目も加えて書き直し、第10話から、五人の妹の義姉になったノーラの話へ進みます。
「妹が先だ。一人っ子の君には分からない」と婚約者が言うので、妹が五人いる公爵閣下に聞いてみました【連載版】
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「すまない、ノーラ。妹が先だ」
玄関の石段の下で、婚約者のエリアス様はそう言った。
私は帽子のリボンを結び終えたところだった。今日は王立植物園の温室の公開日で、一年に一日しか入れない硝子の温室を、二人で歩く約束をしていた。ずいぶん前に約束して、先週の訪問の日にも念を押した。淡い黄色のドレスは、温室の緑に映えるように選んだものだ。
門の前には、ストランド侯爵家の馬車が停まっている。その窓から、金色の巻き毛が身を乗り出していた。
「お兄様、早く! 先生が待ってるわ!」
エリアス様の妹のミルテ様だ。まだ社交界に出る前で、今日は乗馬の稽古の日なのだという。
「ミルテが、どうしても僕に見ていてほしいと言うんだ。母上が亡くなってから、あの子には僕しかいない」
エリアス様は困ったように笑って、それから、いつもの言葉を足した。
「一人っ子の君には分からないだろうけど、兄というのはそういうものなんだ」
「温室なんて、ノーラ様お一人でも見られるでしょう?」
窓の奥から、ミルテ様の明るい声がした。
(なるほど)
私は手袋の指を一本ずつ整えながら考えた。
(私には兄も妹もいない。だから、分からない)
それは本当のことだった。ヴェスティン伯爵家の子どもは私一人だ。この国の爵位は男の血筋にしか継がれず、私が婿を取っても婿は伯爵になれないので、家はいずれ叔父の息子が継ぐ。物心ついたころから、周りは大人ばかりだった。分からないことがあれば、分かる人に聞いてきた。薔薇が枯れる理由は庭師に、馬が機嫌を損ねる理由は厩番に、父の機嫌が悪い理由は執事に。教えてくれる兄や姉はいなかったから、聞くのが一番早かった。
兄というものが、婚約者との約束より妹の乗馬の稽古を先にするものなのかどうか。それも、分かる人に聞けばいい。
「分かりました。どうぞ、ミルテ様のところへ」
「ありがとう。君ならそう言ってくれると思った。温室は、来年また行けばいい」
エリアス様はほっとした顔で、馬車へ戻っていった。
去年の公開日も、同じことを言われた気がする。婚約が決まったばかりの初夏で、あのときは、ミルテ様が知り合いの家に生まれた子犬を見に行きたいと言ったのだった。
この一年で、同じ顔を何度見ただろう。先月の音楽会の晩は、ミルテ様が「眠れないから本を読んで」と言うので取りやめになった。私の誕生日の晩餐では、ミルテ様が一人の留守番は寂しいと泣いている、という使いが来て、エリアス様はデザートの前に帰った。どちらのときも、言葉は同じだった。妹が先だ。君には分からないだろうけど。
馬車が見えなくなると、侍女のマリットが、わざと聞こえるように息を吐いた。
「お嬢様。お部屋に戻られますか」
「いいえ、行きましょう。今日しか入れないもの」
* * *
温室の中は、外より季節が一つ先にあった。
硝子の天井の下で、南の国の大きな葉が重なり合い、甘い花の匂いがこもっている。通路は人でいっぱいだった。腕を組んで歩く婚約者どうし、子どもの手を引く夫婦。婚約者も家族も連れず、侍女だけを後ろに従えて歩いている令嬢は、見たところ私だけだった。マリットは、人波に私を見失わないよう、すぐ後ろをついてくる。
人波の向こう、通路が少し広くなった花壇のあたりに、背の高い男の人がいた。
赤銅色の髪を短く刈り、濃い葡萄酒色の上着を着ている。その周りのあちこちに、五人の令嬢が散らばっていた。上は既婚の落ち着いた装いの方から、下はまだ髪を下ろした少女まで。五人が五人とも違う花の前から、てんでに男の人を呼んでいる。
「お兄様、こっちの花のほうが大きいわ」
「お兄様、ヨンナがまた走ってる」
「お兄様、喉が渇いた」
近くの夫人が、扇の陰で連れに囁いた。
「五人の妹の公爵よ。リンドホルム公爵。陛下の従兄でいらっしゃるのに、お若いうちにご両親を亡くして、妹様方をお一人で育てていらしたんですって」
「また縁談が流れたそうね。先方のお嬢さんが、妹が五人と聞いて尻込みなさったとか」
「あの賑やかさですもの」
私は思わず足を止めた。
(妹が、五人)
王都で、兄というものに一番詳しい人がいるとしたら、あの方ではないだろうか。
「ヴェスティン嬢?」
声をかけてきたのは、五人のうちで一番年上の方だった。エッバ様。去年、慈善市の手伝いで隣の卓になった伯爵夫人だ。嫁ぎ先の名でしか存じ上げなかったけれど、ご実家がリンドホルムだったらしい。
「お一人? 婚約者の方は?」
「妹様の乗馬の稽古に、付き添っていらっしゃいます」
ありのままを答えると、エッバ様の眉が上がった。後ろの妹様たちも、花から目を離してこちらを見た。
「エッバ様。不躾なお願いなのですが、お兄様にご紹介いただけませんか。一つ、教えていただきたいことがあるのです」
エッバ様は一瞬きょとんとしてから、兄君の袖を引いた。
「お兄様。ヴェスティン伯爵家のノーラ嬢よ。お兄様に聞きたいことがあるのですって」
公爵閣下が振り向いた。琥珀色の目が、私を見下ろした。
「アクセル・リンドホルムだ。何を」
「閣下には、妹様が五人おいでだと伺いました」
「……いるな。見てのとおり」
「では、教えてください。妹様に呼ばれたら、兄というものは、婚約者との約束を取り消すものでしょうか」
閣下が、固まった。
先に答えたのは、妹様たちだった。
「取り消したら、私が兄を叱ります」と、次姉のカーリン様。
「五人で叱るわ!」と、一番下のヨンナ様。
「静かに」
閣下は妹たちを手で制してから、少し考え、真面目な顔で答えた。
「取り消さない。先に交わした約束が先だ。妹が熱を出したなら医者を呼ぶし、稽古なら先生がいる」
それから、ほんの少しだけ口の端を下げた。
「それに、妹が五人いる。全員の呼び出しに応じていたら、私は一日に五回、約束を破ることになる」
「なるほど」
私は頷いた。とても分かりやすかった。
「ありがとうございます。参考になりました」
「……なぜ、私に聞いた」
「妹様が五人いらっしゃる方なら、兄というものに一番お詳しいと思いました」
閣下は、しばらく黙って私を見ていた。
それから、笑い出した。
肩を震わせてこらえようとして、とうとう声を立てて。周りの人が何事かと振り向き、妹様たちが、珍しいものを見る顔で兄君を見上げた。
「失礼」
閣下は手の甲で口元を押さえた。
「妹が五人いることを、役に立つと言われたのは初めてだ」
「縁談のお相手は、皆さん逃げてしまわれるそうですね」
口にしてから、さっきの夫人たちの噂話をそのまま言ってしまったと気づいた。けれど閣下は怒らず、もう一度、短く笑った。
「そうだ。だから、五人の前にまっすぐ来て質問した令嬢も、君が初めてだ」
エッバ様が、面白そうに私と兄君を見比べた。
「ヴェスティン嬢。今度、妹たちのお茶会をうちで開くの。よかったらいらして。聞きたいことがあったら、五人分の答えが揃っていてよ」
「ありがとうございます。伺います」
「それで、ノーラ嬢は、何を見にいらしたの?」
ヨンナ様が、いつの間にか私の隣に来ていた。
「月光蘭です。年に一度、この日の昼にだけ、白い花が開くと本で読みました」
「それなら奥よ! こっち!」
ヨンナ様は私の手を取って走り出しかけ、兄君に襟首をつままれた。
「走るな。……ヴェスティン嬢、案内させてくれ。一人で来た客を、一人で帰すのは、うちの流儀ではない」
月光蘭は、温室の一番奥の、岩を組んだ水場の上で咲いていた。思っていたより小さく、思っていたよりずっと白かった。五人の妹様たちが私の左右から覗き込んで、「去年より大きい」「去年もそう言ったわ」と言い合っている。一人で見るはずだった花を、気がつけば公爵家の兄妹みんなと見ていた。
帰りの馬車で、マリットが「お嬢様、あれは不躾どころではございませんでした」と言った。顔は、少し笑っていた。
兄というものについて、私はまだよく分からない。けれど、少なくとも一人の兄のことは分かった。
* * *
数日後は、決まった訪問の日だった。
婚約の契約で決められた、婚約者の務めの一つだ。エリアス様はこの日だけは必ず来る。そして、たいていミルテ様を連れて来る。
今日も、客間の長椅子に、二人は並んで座った。私は向かいの一人掛けの椅子に座る。いつの間にか、それがこの客間の決まった並びになっていた。
訪問の時間の半分は、ミルテ様の乗馬の話で過ぎた。先生に褒められたこと、新しい鞍のこと、兄君が稽古場の柵の外からずっと見ていてくれたこと。温室の話は、一度も出なかった。
ミルテ様の胸に、見たことのないブローチが光っていた。楕円の青い石を、小さな真珠がぐるりと囲んでいる。
「きれいでしょう? お兄様にいただいたの。お母様のブローチよ」
私は、カップを持ち上げかけた手を止めた。
見たことはないけれど、聞いたことはあった。婚約が決まったとき、隣国にいらっしゃるストランド侯爵閣下から父宛てに届いた手紙に、一行だけ書いてあったのだ。我が家には、嫡男の花嫁が婚約披露の宴で胸に着ける、青い石のブローチがある。宴の前に、エリアスから手渡させる、と。
「エリアス様。それは、婚約披露の宴で花嫁が着けるものだと、侯爵閣下のお手紙で伺いました」
「ああ、そうだったね」
エリアス様は、こともなげに頷いた。
「でも、ミルテが欲しがったんだ。母上の物だし、妹が先だよ。一人っ子の君には、母の形見を分け合う気持ちは分からないだろう」
「宴では、どうなさるのですか」
「宴は、父上が戻られてからだ。そのとき考えればいいさ」
ミルテ様は、ブローチを指先で撫でながら私を見た。
「ノーラ様は、宝石ならたくさんお持ちでしょう? 一人っ子なんですもの」
エリアス様は、それを聞いて笑った。
帰り際、玄関で、ミルテ様が兄君の腕に掴まって言った。
「お兄様、宴の日もこれを着けていい?」
エリアス様は、笑ったまま答えなかった。
二人を乗せた馬車が門を出ていくのを見送りながら、私は考えた。
(妹は、兄の花嫁の品を欲しがるものなのかしら。兄は、それを渡すものなのかしら)
分からない。
父に話そうかとも思った。けれど話せば、父はすぐに侯爵閣下へ手紙を書くだろう。私が知りたいのは、誰が悪いかではなかった。兄というものが、本当にそういうものなのかどうかだった。それに、父に聞いても、きっと分からない。父には弟が一人いるだけで、妹はいない。
けれどもうすぐ、分かる方が五人揃うお茶会がある。
* * *
リンドホルム公爵家の客間は、花瓶の花まで五種類だった。
「一人一つずつ選んだの」と、エッバ様が笑った。付き添い役の長姉として、私の向かいに座っている。マリットは壁際に控えていた。
ほかの四人は、テーブルの周りにぎゅうぎゅうに座っていた。嫁いだカーリン様、婚約中のマーヤ様、この春に社交界に出たソフィ様、そして末っ子のヨンナ様。
お茶が注がれるのを待って、私は姿勢を正した。
「皆様に、教えていただきたいことがあります」
五人の手が、焼き菓子の皿の上で止まった。
私はブローチのことを話した。花嫁が宴で着ける家の品であること、エリアス様がそれをミルテ様に渡したこと、宴のことは「そのとき考えればいい」と言われたこと。
「妹は、兄の花嫁に贈られるはずの品を、欲しがるものでしょうか。兄は、それを渡すものでしょうか」
答えは、次々に返ってきた。
「欲しがらないわ。それは花嫁のものよ」と、マーヤ様。
「兄の花嫁の品なんて着けて歩いたら、私の縁談が来なくなるわ。古いお家の方は、どこの家の何の品か、一目で分かるもの」と、ソフィ様。
「私は欲しがったことがあるわ。小さいころ、お母様の首飾りを」と、カーリン様。「そうしたらお兄様に、大人になったらお前の分を一緒に選びに行こうって言われたの。去年、本当に一緒に行ったわ」
「お兄様のお嫁さんの物を取ったら、お兄様のお嫁さんが来なくなるでしょう。ただでさえ来ないのに」と、ヨンナ様。
「ヨンナ」
姉たちの声が、きれいに揃った。
そのとき、客間の扉が開いた。
「お兄様は入ってこないでって言ったでしょう!」
五人の抗議を浴びながら入ってきたのは、閣下だった。手に、焼き菓子の皿を持っている。
「菓子が足りないと聞いた」
「足りてるわ!」
「足りていない。六人いる」
閣下は皿をテーブルの真ん中に置き、私に一礼してから、扉のそばの椅子に腰を下ろした。妹たちの目がいくら冷たくても、出ていく気はないらしい。
「今の話は、廊下で聞こえた。答えは、渡さない、だ」
閣下は、低い声で続けた。
「妹には、妹の分を、妹に選ばせる。兄の花嫁の品を妹に渡したら、妹はそれを着けて人前に出ることになる。恥をかくのは妹だ」
少し間を置いて、付け足した。
「兄が何でも先にしてやると、妹は兄しか頼れなくなる。うちは侍女頭にも、家庭教師にも、叔母にも任せた。私一人では、五人分の髪も結えない」
「お兄様、ヨンナの髪は一度結ってくれたわ」
「一度で懲りた」
ヨンナ様が頬を膨らませ、姉たちが笑った。
エリアス様の口からは、一度も聞いたことのない種類の言葉だった。エリアス様の話には、いつもミルテ様の欲しいものと、それを渡す自分しか出てこない。
「閣下は、縁談のお相手にも、そうお話しになるのですか」
「話す前に、たいてい帰られる」
「去年のお相手は、ヨンナが庭の木から落ちてきたのを見て帰ったわ」と、マーヤ様。
「その前の方は、五人に一度に挨拶されて、名前が覚えられないって泣いたの」と、ソフィ様。
「エッバ様、カーリン様、マーヤ様、ソフィ様、ヨンナ様」
私が順に名を呼ぶと、五人が目を丸くした。閣下が、またしても喉の奥で笑った。
ソフィ様が、焼き菓子をつまみながら言った。
「ストランド家の婚約披露には、うちも招かれているの。侯爵閣下がお戻りになってすぐだから、もうじきね」
「はい」
「そのブローチを宴で誰が着けているか、王都じゅうが見るわよ」
帰りは、閣下が馬車まで送ってくれた。二階の窓から、妹様たちが鈴なりに見下ろしている。マリットは、私の少し後ろを歩いていた。
「一つ、私からも聞いていいか」
玄関の石段で、閣下が言った。
「はい」
「君は、分からないことを、分かる人に聞くのだったな。では、一人っ子のことは、誰に聞けばいい」
私は少し考えた。
「……私に、でしょうか」
「覚えておく」
閣下はそれだけ言って、私が馬車に乗るのに手を貸してくれた。二階の窓で、ヨンナ様の「きゃあ」という声がして、すぐに誰かに口を塞がれた。
* * *
ストランド侯爵閣下は、宴の少し前に、久しぶりに隣国から戻られた。宴のために陛下からお許しをいただいた帰国で、秋にはまた赴任先へ戻られるのだという。
婚約披露の宴は、侯爵家の王都の屋敷の大広間で開かれた。王都の古い家の方々が大勢顔を見せている。婚約した二人は、客が揃ったあとで、最後に並んで入場する。この宴の主役だからだ。花嫁の父は、控えの間で娘を花婿に引き渡してから広間に入る。花婿の家の娘は、当主の横で客を迎える側に立つ。まだ社交界に出ていないミルテ様も、自分の家で開く兄の婚約の宴なので、そこにだけは立てることになっていた。
その控えの間で、エリアス様は、ミルテ様の手を取っていた。
ミルテ様の胸には、青い石のブローチがあった。
「ノーラ、すまない」
エリアス様は、温室の約束の朝と同じ顔で笑った。
「ミルテが、一人で入るのは寂しいと言うんだ。妹が先だ。君は伯爵と入ってくれ」
「今夜の主役は、婚約した二人だと伺っています」
「一人っ子の君には、分からないよ」
ミルテ様が、兄君の腕にもたれて私を見た。
「ノーラ様は一人っ子だから、一人には慣れていらっしゃるでしょう?」
(慣れてはいるわ)
一人で食べる誕生日のデザートにも、一人で座る音楽会の席にも。けれど、慣れていることと、好きなことは違う。それくらいは、一人っ子にも分かる。
私を引き渡すはずだった父が、後ろで低く咳払いをした。私は、父の腕に手を添えた。父の腕は、思っていたより固かった。
大広間の扉が開き、家令が声を張った。
「ストランド侯爵家、エリアス様。ミルテ様」
二人が広間へ入ると、ざわめきが入口から奥へ伝わっていくのが、扉の外まで聞こえた。
「ミルテ嬢?」
「婚約披露で、妹御の手を……」
「あのブローチ、ストランド家の花嫁の……」
「ヴェスティン伯爵。ノーラ様」
私は父の腕で広間に入った。広間じゅうの目が、前を行く兄妹と、後ろを父と歩く私を、何度も見比べた。
広間の奥に、侯爵閣下が立っていた。白いものの混じった髪の、背の高い方だ。その隣に、閣下とよく似た目元の夫人がいる。閣下の妹君の、ヘドヴィグ夫人だ。客の中には、葡萄酒色の上着と、その周りの五人の令嬢も見えた。
侯爵閣下が、手にしていた杯を給仕の盆に置いた。
閣下は客を迎える場所を離れ、まっすぐに降りてきた。ヘドヴィグ夫人も、その後ろに続いた。閣下は、ミルテ様の前で立ち止まった。
「エリアス。なぜ、ノーラ嬢ではなくミルテの手を取って入った。それに、ミルテの胸にあるものは何だ」
「父上」
エリアス様は、少しも悪びれずに言った。
「母上が亡くなってから、ミルテには僕しかいないんです。兄とはそういうものでしょう。ノーラは一人っ子だから、分からないだけで」
侯爵閣下は、息子の顔をしばらく見てから、私のほうを向いた。
「ノーラ嬢。……あなたは、このことを知っていたのか」
「はい」
私は膝を折って礼をした。それから、一つだけ尋ねた。
「侯爵閣下。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「閣下にも、妹君がいらっしゃいますね。兄というものは、婚約披露の宴で、婚約者より妹を先に入場させるものでしょうか」
広間が、しんとした。
侯爵閣下は答えずに、後ろに付いてきた妹君を見た。
ヘドヴィグ夫人は扇を閉じ、甥の顔をまっすぐに見て言った。
「兄は、一度もわたくしを先にしたことはありませんでしたよ。わたくしが今のミルテと同じ年で母を亡くしたときもね。父も早くに亡くなっていて、わたくしの婚約披露の宴で、控えの間でわたくしの手を婚約者に渡してくれたのは兄でした。少しも迷わずに」
侯爵閣下が、短く頷いた。
「妹の言うとおりだ。兄とは、そういうものではない」
エリアス様の顔から、笑みが抜け落ちた。父君と叔母君が並んで同じことを言うとは、思ってもいなかった顔だった。ミルテ様は、兄君の腕にしがみついたまま、叔母君の顔を見ようとしなかった。
「私も、ヴェスティン嬢に聞かれたことがある。約束のことと、花嫁の品のことを」
低い声がして、客の間からリンドホルム公爵閣下が進み出た。
「妹が五人いるが、答えは同じだ」
公爵閣下の後ろで、五人の妹様たちが頷いた。ヨンナ様だけは、頷くだけでは足りないとばかりに声に出した。
「同じです!」
「き、君は」
エリアス様が、私を振り向いた。
「君は一人っ子だから、分からないんだ」
「はい」
私は頷いた。
「分からないので、分かる方に伺いました。妹様が五人いらっしゃる公爵閣下と、その妹様方と、侯爵閣下と、侯爵閣下の妹君に。皆さま、同じお答えでした」
広間の隅で、誰かの扇がぱちんと閉じた。それを合図にしたように、あちこちで咳払いが起きた。笑いをごまかすための咳払いだった。
エリアス様は、助けを探すように広間を見回した。けれど、目の合った客は皆、そっと目を逸らした。兄のいる方も、妹のいる方も、この広間には大勢いた。
侯爵閣下が、ミルテ様の前に立った。
「ミルテ。それを外しなさい」
「嫌よ、お兄様がくださったの! お兄様!」
ミルテ様は兄君の腕にしがみついた。エリアス様が、ミルテ様の肩へ手を伸ばす。その手首を、ヘドヴィグ夫人の扇が軽く叩いた。
「エリアス。今夜くらいは、妹より先に、自分のしたことを見なさい」
侯爵閣下は、娘の胸から、自分の手でブローチを外した。
「これは、お前の物ではない。エリアスが勝手に渡してよい物でもない」
それから閣下は、私の父の前に立ち、深く頭を下げた。
「ヴェスティン。当家の不始末だ。この婚約は、こちらの非で解かせてほしい。明日、署名に伺う」
父は、いつものように短く答えた。
「承知した」
ミルテ様の泣き声が、静かな広間に響いていた。今夜は、誰もそちらへ駆け寄らなかった。
* * *
婚約が解かれたのは、宴の翌日の昼だった。侯爵閣下が自ら屋敷へいらして、父と並んで署名をした。違約の金は、契約のとおり侯爵家が持つ。
エリアス様は、王都の屋敷を預かる役を解かれた。侯爵閣下が隣国へ戻る秋から、公使館の書記として、父君の目の届くところで働くことになったそうだ。跡継ぎであることは変わらない。ただ、社交界ではしばらく「妹が先の侯爵令息」と呼ばれるだろう、というのが、ソフィ様からの手紙の見立てだった。
ミルテ様は、社交界に出るまでを、ヘドヴィグ夫人の領地の屋敷で過ごすことになった。同じ手紙によれば、夫人は「兄に頼らずに、自分の髪を自分で結うところから」と言ったらしい。
手紙の最後には、ヨンナ様の字で一行、書き足してあった。
お兄様が、毎日うろうろしています。
* * *
宴から数日たった朝、玄関の石段の下に、リンドホルム公爵閣下が立っていた。
門の前には、公爵家の馬車が停まっている。その窓から、頭が五つ、重なり合うように身を乗り出していた。
「お兄様、早く!」
ヨンナ様の声だった。
温室の朝にも、同じ石段の上で、同じように馬車の窓から身を乗り出す顔を見た。あの朝は、帽子のリボンを結び終えたところだった。
「すまない」
閣下は、門のほうを振り返りもせずに言った。
「置いてくるつもりだった。玄関を出たら、五人とも先に馬車に乗っていた。エッバまでだ」
私の後ろで、父が一度だけ咳払いをして、奥へ引っ込んでいった。石段の下に立つ前に、閣下は父の書斎でしばらく話していた。何を話したのかは、書斎から出てきた父の顔を見れば分かった。
「婚約を解いたばかりなのは分かっている。人に知らせるのは、秋になってからでいい」
「……まだ、何も伺っていませんけれど」
「これから聞く」
閣下は真面目な顔で言い、それから、少し言いにくそうに付け足した。
「その前に、一つ。来年の温室の公開日は、空いているか」
「来年のことは、まだ分かりません」
「では、空けておいてほしい。妹たちは置いていく」
「いいえ」
私は首を振った。月光蘭の前で、左右から覗き込んできた五つの顔を思い出していた。
「皆様もご一緒に。一人で見るより、ずっと楽しかったので」
閣下は、門の馬車をちらりと見た。窓の五つの頭が、そろって引っ込んだ。
「君は、分からないことは、分かる人に聞くのだったな」
「はい」
「私にも、分からないことがある。妹が五人いる男のところへ、来てくれる人がいるのかどうか」
閣下は、石段を一段だけ上がった。それで、目の高さが私と同じになった。
「妹たちにも分からない。叔母にも、陛下にも分からない。分かるのは、君だけだ。……だから、君に聞く」
琥珀色の目が、まっすぐに私を見ていた。
「ノーラ。私の妻になってくれないか」
私は、すぐには答えられなかった。
これまで、分からないことは、いつも誰かに聞いてきた。けれどこの問いの答えを知っている人は、王都じゅうを探しても、私一人しかいなかった。
(聞く相手が、いないわ)
だから、自分で答えた。
「はい」
閣下は、長く息を吐いた。私の手を取り、手袋越しに、指先へ短く口づける。
門のほうから、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がった。
馬車の扉が勢いよく開き、妹様たちが転がるように降りてきた。最後に降りたエッバ様だけは、きちんと裾を整えてから、申し訳なさそうに微笑んでいる。
「……馬車で待っていろと言ったはずだ」
「待っていられるわけないでしょう!」
ヨンナ様が真っ先に石段を駆け上がってきて、私の腕に飛びついた。それから兄君を振り返って、胸を張った。
「お兄様。今日からは、お義姉様が先よ!」
姉たちも、石段の下でうんうんと頷いている。
閣下は、少しも困った顔をしなかった。
「言われなくても、そうする」
一人っ子の私に、妹が五人できることになった。
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