「君は何もしなくていい」と言われたので、十二の役目を全部辞めました
「セシリア。君は何もしなくていい」
婚約者のエドヴィン・ブラントは、朝食の席でそう言って、紅茶に角砂糖を二つ落とした。
「今日から、来客の取りまとめも、商人との折衝も、孤児院の件も、従妹のロザリーが引き受ける。母上もそれがいいと言っている。君は僕の隣で、微笑んでいてくれればいいんだ。家の飾りとして」
飾り、と私は口の中で繰り返した。
向かいの席では、ブラント伯爵夫人が上品にパンをちぎっていた。その隣で、従妹のロザリーが「ごめんなさいね、お姉さま」と眉を下げた。眉は下がっているのに、口元だけは嬉しそうだった。
私、セシリア・アルノーがこの屋敷に通うようになって、三年になる。
正式な婚礼はまだだ。それでも伯爵夫人は病がちで、エドヴィンは領地の仕事が苦手で、気がつけば私は、ブラント家の「頼めば誰かがやってくれる部分」の全部を引き受けていた。
「何もしなくていい、というのは」
私は、念のため確認した。
「文字どおり、今後いっさい、ということでしょうか」
「そうだよ。君は疲れているだろう? 休めるじゃないか。感謝してほしいくらいだ」
「分かりました」
私は静かにナプキンを置いた。
「では、そのように」
エドヴィンは満足そうにうなずいた。私が何を了承したのか、まるで分かっていない顔だった。
*
その日の午後、私は自室で、紙とペンを机に広げた。
まず、数えた。
一、孤児院「白鳩の家」後援会長。
二、領内商人組合との折衝窓口。
三、冬麦の買い付け契約の副署人。
四、領主手形の副署人。
五、夜会・茶会の取りまとめ役。
六、来客台帳と贈答品の管理。
七、使用人の給金台帳の確認役。
八、神殿への寄進の連絡係。
九、領地巡察時の随行記録係。
十、薬草園の出入り帳の管理。
十一、伯爵夫人の通院付き添い。
十二、侍従長が高齢のため、屋敷の鍵束の保管。
十二の役目。どれも誰かに命じられたわけではない。ただ、気づけば私の名前が、書類のどこかに、署名欄に、記されていた。
無給で。婚約者という名目だけで。
「何もしなくていい」と言われたのだ。ならば、何もしないのが、礼儀というものだろう。
けれど私は、「何もしない」と言って黙って座っているわけにはいかなかった。副署人の名前が残ったまま何もしなければ、書類は動かず、困るのは領民だ。孤児院の子供たちだ。それは違う。
だから私は、辞めることにした。
役目を一つずつ、きちんと、期限を切って、書面で。
*
辞任届は、十二通書いた。
宛先は、役目ごとに違う。孤児院の院長、商人組合長、神殿の司祭、執事、薬草園の園丁頭、伯爵夫人付きの侍医。それぞれの届に、辞任の期日を、十四日後と記した。
そして、全部に引継ぎ書をつけた。
取引先の名簿、納期の一覧、癖のある相手への対処、孤児院の寄付者ごとの好み、鍵束の番号と、どの鍵がどの部屋の何を守っているのか。夜なべして、三日かけて書いた。
こんな扱いを受けても、投げ出す気にはなれなかった。私が三年かけて積んだものは、エドヴィンのためではなく、そこにいる人たちのためだったからだ。
最後の一通を書き終えたとき、侍従長の老人がそっと扉を叩いた。
「お嬢様。鍵束を、お預かりしに参りました」
「ありがとう。この表を一緒に渡しておきます。どの鍵が何か、全部書きました」
「……お嬢様がいなくなると、屋敷が止まります」
「止まらないように、書きました」
老人は表を押しいただき、深く頭を下げた。この人だけが、最初から最後まで、私の仕事をちゃんと見ていてくれた気がする。
*
十二通の辞任届を、私は直接、手渡して回った。
エドヴィンには、最後に渡した。居間で、ロザリーと菓子をつまんでいた彼は、封筒を見て首をかしげた。
「何これ」
「辞任届の写しです。私が務めていた十二の役目を、十四日後に、すべて辞します。引継ぎ書も、各先に渡してあります」
「え? 辞める? 何を?」
「あなたが、『何もしなくていい』とおっしゃったので」
エドヴィンは吹き出した。
「ああ、そういう意味か。拗ねるなよ、セシリア。そんな大げさな。どうせ二、三日で戻って――」
「戻りません」
私は、微笑んだ。
「それから、婚約についても、ご相談があります。お互い、きちんと話し合う時間をいただけますか。私のほうは、もう答えは出ておりますけれど」
エドヴィンの手から、菓子が落ちた。
*
十四日は、あっという間に過ぎた。
最初の綻びは、七日目に出た。
商人組合の会合に、ロザリーが出席した。彼女は笑顔で「ブラント家の代理です」と名乗ったが、組合長が差し出した去年の契約書の束を見て、固まったそうだ。「どれが優先で、どれが先送りなのか」が、彼女には読めなかった。
十一日目には、孤児院の冬支度の寄付金が届かなかった。後援会長の署名がなければ、神殿の出納が動かない。院長が屋敷に来て、ロザリーに頭を下げたが、彼女は「後援会長って、なんですか」と聞き返したという。
そして十四日目。領主手形の副署人の欄に、署名する人間がいなくなった。
冬麦の買い付けは、秋の終わりまでに手形を切らねば間に合わない。副署のない手形は、組合の窓口で受け付けられない。屋敷の執務室では、エドヴィンが書類の山の前で、ペンを握ったまま動けなくなっていた。
「なんで通らないんだ! 僕は領主の息子だぞ!」
「規則ですから」
書記官が淡々と答えた。
「手形の副署人は、領主の名に加えて、領地の財産状況に責任を持つ者が務める決まりです。セシリア様が辞任された以上、ほかの方の署名が必要です」
「ロザリーが署名すればいい!」
「ロザリー様は、領地の帳簿を読めますか」
エドヴィンは答えられなかった。
ロザリーは、その日の夕方、泣きながら荷物をまとめた。
「私、こんなに大変だなんて知らなかったの。お姉さまは、いつも笑っていたから……」
笑っていたのは、笑うしかなかったからだ。けれどそれを教えてあげる義理は、私にはなかった。
*
辞任の最終日、私は屋敷の応接間で、エドヴィンとその母と向き合った。
彼は、別人のようにやつれていた。
「セシリア。頼む。戻ってきてくれ。君がいないと、本当に回らないんだ。謝る。僕が悪かった」
「頭を上げてください」
「飾りだなんて、言って悪かった。本心じゃないんだ。僕は、ただ君に楽をさせたくて――」
「エドヴィン様」
私は、彼の目を見た。
「楽をさせたいなら、一度でも、私の仕事の名前を、言えましたか?」
彼は、口を開いて、閉じた。
「十二の役目のうち、一つでも。孤児院の名でも、手形の名でも」
「…………」
「あなたは、私が何をしているかを知らないまま、何もしなくていいと言ったのです。その言葉どおりにしただけです」
伯爵夫人が小さく息をついた。この人は、少なくとも最後に、まっすぐ私を見てくれた。
「セシリアさん。……私が、もっと早く気づくべきでした」
「いいえ、奥様。通院の付き添いだけは、引継ぎ書の通り侍医に任せてあります。お薬の時間も書きました。どうか、お大事に」
深く一礼して、私は応接間を出た。
婚約の解消は、翌日の朝、アルノー家の父が書面で通告した。エドヴィンは受け取ってから三日、返事をしなかったそうだ。その間に、領主手形は、王都の商業院の仲裁で、ようやく別の副署人を立てて通った。
代わりに立ったのは、領外から来た会計官だった。報酬は、ブラント家の年間予算の一割。
あの家の人たちは、私が無給でやっていたことの代価を、これから毎年、払い続けるのだと思う。
*
辞任の翌週、アルノー家の応接間に、見慣れない客が来た。
背の高い、四十前後の紳士だった。仕立ての良い外套を着て、手に分厚い封筒を持っている。
「王都商業院の副長官、カイル・ロウェンと申します。突然の訪問をお許しください」
「商業院の……。ブラント家の手形の件で、お世話になった方ですね」
「ええ。あの案件の調整に入って、十二通の辞任届と引継ぎ書を、すべて拝見しました」
ロウェンは封筒を机に置いた。
「失礼を承知で言います。あの引継ぎ書は、商業院の職員教本より精密でした。鍵束の表など、そのまま王宮の管理規程に載せたいくらいです」
「恐れ入ります。ただ、放っておけなかっただけで」
「その『放っておけなさ』が、あなたの才能です。誰にも命じられず、十二の役目を三年、無給で回し続けた。そして最後は、その十二を、誰一人困らせずに終わらせた。……あなたが辞めた後、ブラント領で餓死した者も、凍えた子供も、一人もいない」
私は、膝の上で手を握った。
「商業院は、領地と王都の間の調整官を探しています。給金は、正当に出します。役目の名前も、きちんと書類に載せます。署名欄の一番上に、あなたの名で」
ロウェンは、そこで言葉を切って、少し笑った。
「ただし条件があります。『何もしなくていい』とは、決して言いません。毎日、たっぷり働いてもらいます」
その一言で、私は声を出して笑ってしまった。三年ぶりに、息の根元から笑った気がした。
差し出された書類の一番上に、確かに私の名前があった。役目の名は、「調整官」。たった一つだ。
私はペンを取った。
十二の役目は、人に押しつけられたものだった。
けれど、十三番目は違う。
「お受けします」
署名欄に、セシリア・アルノーと書いた。自分の意思で書く名前は、驚くほど軽く、まっすぐな線になった。
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