エピローグ 冬の先に咲くもの
エピローグ 冬の先に咲くもの
春の風が温室の窓を優しく揺らしていた。
王都特区。
かつては誰も見向きもしなかった荒れ地は、今では王国最大級の魔導植物研究区画へと生まれ変わっている。
朝露をまとった薬草畑。
色鮮やかな花々。
雪解け水を引いた用水路。
遠くでは若い研究員たちの笑い声が聞こえていた。
「所長ー!」
元気な声が響く。
エルザは振り返った。
淡い青色のワンピースに白い作業用エプロンを着た少女が駆け寄ってくる。
頬には土が付いていた。
「また転んだの?」
「ちょっとだけです!」
「ちょっとじゃないわね」
エルザはハンカチで泥を拭いてやる。
少女は照れくさそうに笑った。
「冬至麦の試験区画、成功です!」
「本当?」
「全部発芽しました!」
エルザの表情が明るくなる。
「それは素晴らしいわ」
周囲から歓声が上がった。
拍手。
笑顔。
誰もが喜んでいる。
その輪の中にエルザもいた。
数年前。
公爵邸にいた頃には想像もできなかった光景だった。
昼になると研究員たちが食堂へ集まってくる。
長い木製テーブル。
焼き立てのパン。
野菜たっぷりのシチュー。
香草をまぶした鶏肉。
苺のタルト。
湯気と笑い声で室内は賑やかだった。
「所長、今日のスープは最高です」
「それは料理長に言ってあげて」
「所長も食べてください!」
若い研究員たちが次々と皿を差し出してくる。
エルザは思わず笑った。
「そんなに食べられないわ」
「痩せすぎです!」
「そうです!」
口々に言われる。
その様子を見ていたルーカスが吹き出した。
「完全に包囲されていますね」
黒いベストに白いシャツ姿の彼は、以前と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
エルザは苦笑する。
「助けていただけます?」
「無理です」
「即答ですか」
食堂に笑いが広がる。
窓の外では春の日差しが花壇を照らしていた。
そこには冬至梅が植えられている。
白い花が風に揺れていた。
食事を終えた午後。
エルザは一人で温室の奥へ向かった。
そこには小さな区画がある。
一般公開されていない場所だった。
冬至梅が何本も植えられている。
そして中央には一つの石碑。
母の名前が刻まれていた。
エルザはそっと花を供える。
「お母様」
春風が髪を揺らした。
胸元にはあの首飾り。
失われたと思っていた家宝。
陽光を受けて静かに輝いている。
「やっと取り戻せました」
目を閉じる。
思い出すのは幼い日の記憶。
母の手。
優しい声。
冬至梅の香り。
そして。
かつての自分。
必死に誰かの期待に応えようとしていた頃の自分。
「頑張りましたよ」
小さく呟く。
涙は出なかった。
悲しくないからだ。
もう。
本当に。
午後遅く。
王都から使者が訪れた。
王家からの正式な通知だった。
「エルザ様」
「はい」
「寒冷地開発事業の功績により、王国功労勲章が授与されます」
研究員たちから歓声が上がる。
「すごい!」
「やったー!」
「お祝いしましょう!」
エルザは驚いていた。
まさかそこまで評価されるとは思わなかった。
だが。
周囲の人間たちは当然だと言わんばかりだった。
「もっと早くもらうべきでした」
「その通りです」
「王国中が助かってるんですから」
皆が笑う。
エルザも笑った。
その笑顔は昔よりずっと自然だった。
夕方。
仕事を終えた研究員たちが帰っていく。
夕陽が温室のガラスを黄金色に染めていた。
エルザは一人で歩く。
花壇の間を。
新しい苗の間を。
自分が育てた未来の間を。
そこでふと足を止めた。
冬至梅の木。
その枝先に新しい蕾がついている。
春なのに。
冬至梅は自分の季節を忘れない。
エルザは優しく触れた。
冷たい感触。
けれど確かな生命。
守護植物の声が静かに響く。
『生育良好』
エルザは微笑んだ。
「そうね」
空を見上げる。
青い空。
流れる雲。
遠くで鳥が鳴いている。
もう振り返ることはなかった。
公爵邸も。
クロエも。
リュシアンも。
思い出にはなった。
だが未練はない。
植物は落葉を後悔しない。
生きるために必要だったから。
冬を越えるために必要だったから。
そして新しい芽を出すために必要だったから。
「所長ー!」
遠くから研究員たちの声が聞こえる。
「お祝いの準備できました!」
「早く来てください!」
エルザは振り返る。
たくさんの笑顔が待っていた。
温かな光の中で。
未来の中で。
「今行くわ」
そう答えて歩き出す。
夕陽が彼女の背中を照らしていた。
冬は終わった。
長く厳しい冬だった。
けれど。
冬至梅は知っている。
どんな寒さの先にも。
必ず花は咲くことを。
そしてエルザもまた知っていた。
失うことは終わりではない。
正しく手放した先にこそ、新しい季節は訪れるのだと。
春風が吹いた。
白い冬至梅の花びらが舞う。
それはまるで祝福のように。
新しい人生の始まりを告げていた。




