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第10話 完全な冬枯れ

第10話 完全な冬枯れ


春が近づいていた。


王都の雪は少しずつ溶け始め、街路樹の枝先には小さな芽が膨らみ始めている。


それでも朝の空気はまだ冷たい。


エルザは温室の奥にある応接室で紅茶を飲んでいた。


白いレースのブラウス。


深緑色のロングスカート。


肩には薄いクリーム色のショール。


窓の外には冬至梅が咲いている。


雪の名残を抱きながら、それでも凛として花を開いていた。


机の上には焼き立てのスコーン。


苺ジャム。


蜂蜜。


香り高いダージリンティー。


穏やかな午後だった。


「所長」


秘書のマリアが入ってくる。


公爵邸を辞めた後、エルザの元で働くようになっていた。


「お客様です」


「どなた?」


マリアは少し困った顔をした。


「その……元公爵様です」


エルザの手が止まることはなかった。


紅茶を一口飲む。


そして静かに言った。


「通してください」


数分後。


扉が開いた。


入ってきた男を見て、マリアは息を呑んだ。


誰なのか一瞬分からなかった。


かつてのリュシアンは美丈夫だった。


常に高価な礼装をまとい、堂々と胸を張っていた。


今は違う。


服は古びている。


頬は痩せこけている。


髪も乱れていた。


何より目に光がない。


リュシアンだった。


「エルザ……」


掠れた声。


エルザは静かに紅茶を置いた。


「お久しぶりです」


それだけだった。


怒りもない。


恨みもない。


懐かしさもない。


ただ事務的だった。


リュシアンの顔が歪む。


「そんな顔をしないでくれ」


「どんな顔でしょう」


「他人を見るような顔だ」


エルザは答えなかった。


なぜなら本当に他人だったからだ。


リュシアンは震える足で近づく。


「聞いてくれ」


「どうぞ」


「俺が悪かった」


エルザは黙っていた。


リュシアンは続ける。


「全部俺が悪かった」


声が震えている。


「クロエもいなくなった」


「そうですか」


「金もなくなった」


「そうですか」


「領地も崩壊した」


「そうですか」


反応が薄い。


あまりにも薄い。


リュシアンは焦り始める。


「エルザ!」


声を荒げる。


「俺が悪かったんだ!」


応接室に沈黙が落ちた。


温室の外では小鳥が鳴いている。


どこか遠くで研究員たちの笑い声も聞こえた。


明るい世界だった。


暖かい世界だった。


リュシアンだけがそこから取り残されている。


「俺が悪かった」


再び言う。


「だから戻ってきてくれ」


エルザは瞬きをした。


それだけだった。


「俺にはお前が必要なんだ」


リュシアンは膝をつく。


「領地も」


「……」


「俺も」


「……」


「お前がいないと駄目なんだ」


ついに床へ手をついた。


額が絨毯につく。


誇り高かった公爵の姿はどこにもない。


ただの男だった。


壊れた男。


後悔に飲み込まれた男。


「頼む」


声が震える。


「戻ってくれ」


エルザはしばらく黙っていた。


窓の外を見る。


冬至梅が咲いている。


美しく。


静かに。


そしてようやく口を開いた。


「リュシアン」


名前を呼ばれた瞬間。


彼の顔に希望が灯った。


だが次の言葉で凍りつく。


「あなたは勘違いしています」


「え……」


「私が怒っていると思っている」


エルザは静かだった。


あまりにも静かだった。


「違います」


「なら……」


「もう終わっているのです」


リュシアンの顔が青ざめる。


エルザは紅茶を手に取った。


香りを楽しむように一口飲む。


そして。


穏やかに言った。


「アブシシン酸によって一度落葉した葉が、元の枝に戻ることは決してありません」


その声は柔らかかった。


だが。


氷より冷たかった。


「エルザ!」


「あなたはそのまま」


エルザは彼を見た。


冬空のように澄んだ瞳だった。


「自ら招いた冬の中で枯れていなさい」


静寂。


リュシアンは言葉を失った。


何か反論したかった。


謝りたかった。


縋りたかった。


だが。


何も出てこない。


ようやく理解したからだ。


エルザはもう自分を愛していない。


怒ってもいない。


憎んでもいない。


何も感じていない。


完全な無関心。


それこそが本当の終わりだった。


その後。


元公爵家は正式に爵位を剥奪された。


領地経営失敗。


財政破綻。


王国への損害。


数々の責任を問われた結果だった。


リュシアンは北方の寒村へ移された。


吹雪の続く土地。


痩せた畑。


古い家。


そこで残りの人生を送ることになる。


春が来ても。


豊かな花は咲かない。


冬が終わっても。


彼の人生に春は訪れなかった。


一方。


エルザの事業はさらに拡大していた。


寒冷地農業は大成功。


新しい研究施設も建設された。


温室には若い研究員たちが集まり、未来について語り合っている。


夕暮れ。


エルザは皆と食卓を囲んでいた。


香草を使った鶏肉料理。


焼き立てのパン。


野菜のポタージュ。


果実のタルト。


笑い声が響く。


明るい。


温かい。


そして穏やかだった。


ルーカスがワイングラスを掲げる。


「新温室の完成に」


研究員たちも続く。


「乾杯!」


グラスが鳴る。


エルザも微笑んだ。


窓の外を見る。


雪は消えていた。


遠くの丘には春の光が降り注いでいる。


守護植物の声が静かに響いた。


『越冬完了』


エルザは目を閉じる。


長い冬だった。


苦しい冬だった。


だが。


冬至梅は冬に咲く。


そして春には新しい命を迎える。


エルザは立ち上がった。


仲間たちの輪へ向かって歩く。


暖かな光の中へ。


未来の中へ。


もう振り返らない。


その必要はない。


彼女の季節は。


すでに始まっているのだから。



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