俳句 楽園のリアリズム(パート5ーその1)
いままでに掲載された私の作品をくりかえし読んでいただいては俳句のポエジーをすでに堪能されている方は(パート7ーその1)から登場するふつうの詩を読んでかなりレベルの高い詩情や詩的な喜びや慰めを感じとっていただけるはずですが、そうでない方でも、それまでにこれからおとどけする今回のものもふくめた(パート5)3篇、(パート6)3篇やいままでに掲載された私の全作品を、いまからでもくりかえし読んでいただくだけでも、ことにも(パート6ーその3)はバシュラールの言葉の手助けだけで3句ずつ、一挙に150句もの俳句を味わっていただくことになっていますし、二か月くらいしかありませんが、短期間で集中的に読んでいただく俳句のポエジーの作用で、それなりに詩を味わえる程度の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をそれなりにご自分のものにしてしまうことは、絶対、可能だと断言しておきます。おなじことになりますが、それなりの言葉の「夢幻的感受性」を短期間でご自分のものにしてしまうことは、絶対、可能だと。
66篇の詩を読んでそれなりの詩情や詩的な喜びや慰めを感じとれたからって、もちろん、それでおしまいということではありません。そんなのはまだなんていうかほんの序の口であって、わたしの作品の最終目標は、俳句のポエジーを、さらに、さらにレベルアップさせることによって、人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの、その、とてつもないバシュラール的幸福のおすそわけを、この人生でたっぷりと受けとれるようにすることにあるのですから。
今回はふつうの詩を読むための下準備に早くとりかかっていただくて、予定より早くおとどけすることにしました。
さてきょうも素晴らしいポエジーとの出会いを求めて俳句を読んでいってみよう。
俳句作品のなかとかで幼少時代の色彩で彩られたイマージュをみつけてポエジーが生まれてくるのを感じたとしたら、それは、湖面のようなどこかでそのイマージュがしっかりと受けとめられたことの証拠。夢想とは、いろいろなイマージュによって、幼少時代という<イマージュの楽園>における、宇宙的とまでいわれる幸福をもう一度味わいなおすこと。
「幼少時代の存在は現実と想像とを結合
し、全想像力を駆使して現実のイマージ
ュを生きている」
「子供の夢想のなかではイマージュはす
べてにまさっている」
イマージュの力によって、つまり、おなじことになると思うけれど、記憶の作用によって、大人になって追体験することのできた遠い日の<イマージュの楽園>における幸福を、ひとは詩情と呼ぶ。(旅先で味わうことのできた詩情。それこそがまさに旅情というものにほかならないのだった)
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福は詩人の幸福となるであろう」
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては旅先で旅情を味わってしまうことにだんだん習熟してくれば、あるいは、とりあえず、旅先で作られたと思われる俳句で本格的な旅情のようなポエジーを味わうことに成功すれば、その度合いに応じて、この本のなかの俳句を前にするだけでも、はるか時間の彼方、宇宙的な夢想の幸福で満たされていたときの心の状態(その中心をなしていたのが「幼少時代の核」だ)がしぜんと復活してしまって、それと同時にあらわになる湖面のようなどこかで、俳句の言葉が、イマージュとして受けとめられることになる。
旅先で旅情がきざしてきたときそうだったように、心のなかのそうした特別などこかでイマージュを受けとめることができれば、ぼくたちの心には、きまって、快いポエジーが反響することになる。
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない」
なにもむずかしく考えることなんていらない。いまの段階では味わうことのできるポエジーにまだ個人差があるとしても、俳句はともかくとして、少なくとも旅先ではぼくたちの幼少時代はいやでも勝手に目をさましてくれることになるはずだから、この人生に旅というものがあるおかげで、ぼくたちは「幼少時代の核」を探したりする必要もないのだったし、真の意味でイマージュを受けとってくれるその特別などこかも、幼少時代といっしょにしぜんとあらわになってしまうはず、だった。
もちろん約束どおり、この「俳句パート」をくりかえし読んでいただくだけでもなんとかなるはずだけれど、それでも、何度も旅に出ては「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させて、そこで、つまり旅先で、いくどもぼくたちの幼少時代の目をさましてあげて、俳句を前にしても幼少時代がめざめやすいようにしてあげるのが、残念ながら、結局は、いちばんの近道。
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない」
旅先でめざめた幼少時代が、この本のなかで、自分のふるさとそっくりの俳句の世界を前にして、そっぽを向いて、いつまでも知らんぷりしていられるはずもないのだし。
「旅や俳句は、わたしたちのなかにこの
生き生きした幼少時代、この恒久的、持
続的、不動の幼少時代を再発見すること
を助けるのである。幼少時代は生涯持続
する」
ご自分の旅の習熟度、あるいは、旅抜きでも俳句の言葉をとおして旅情のようなポエジーを味わってしまうことをきっかけにすることができたかどうかとも関係するし、当然まだうまくいかない方もいるかもしれないけれど、そのうち絶対、俳句を前にするだけでも、ぼくたちの内部に隠されていた「幼少時代の核」がしぜんとあらわになって、それを中心にして、宇宙的な夢想にひたっていた(らしい)ときの子供のたましいのある状態が復活して、そうして、それと同時に出現する湖面のようなどこかで一句一句の詩的情景が受けとめられたなら、ぼくたちだれもが、そのとき、俳句作品のなかに、幼少時代の色彩で彩られた世界、つまり、遠い日の<イマージュの楽園>を再発見することになる、はず。
「ごく簡単に俳句はある様態の思い出の
前にわたしたちをつれてゆく。わたした
ちのなかで、今なおわたしたちの内部で、
つねにわたしたちの内面で、幼少時代は
ひとつのたましいの状態でありつづけて
いる」
「これからこの章(『夢想の詩学』第3
章「幼少時代へ向う夢想」)で主張したい
主題は、人間のたましいのなかにある幼
少時代の核の永遠性を認識する、という
ことにつきるであろう」
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は俳句の言葉が、真実のイマージュがあ
ればいい。幼少時代がなければ真実の宇
宙性はない。宇宙的な歌がなければポエ
ジーはない。俳句はわたしたちに幼少時
代の宇宙性をめざめさせる」
「わたしたちは、自分たちの幼少時代に
溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も
火も樹も愛することはできない。わたし
たちは幼少時代によってそれらを愛する
のである。世界のこういう美のすべてを、
いまわたしたちが俳句作品のなかで愛す
るとすれば、甦った幼少時代、わたした
ちのだれもが潜在的にもつあの幼少時代
から発して復活された幼少時代のなかで、
愛しているのである」
何度も旅に出ては旅情を満喫してきたひとほどこの本のなかの俳句を前にしても幼少時代がめざめやすくなってくるという事実は、この本だけを利用しようと決めた方にも、かえって、やり方次第でどうにかなるはずという希望をあたえてくれるのではないだろうか。
「それは幼少時代が恒常的に存在するし
るし、夢想のなかでいつも生きている恒
常性のしるしである。どんな夢想中にも
ひとりの子供が生きており、夢想が高め、
安定させる子供がいる。夢想は子供を歴
史から取りだし、時間の外におき、時間
とは無関係のものとする。さらに夢想は
この子供を恒常的にし、高めていく」
この人生においてごくたまにしか目をさますことのない幼少時代を、旅と俳句で、あるいは、多少ハンディはあっても旅抜きの俳句だけで無理やりめざめさせて、まだ寝ぼけているような幼少時代にとって自分のふるさとそっくりの旅先の世界、あるいは、俳句の世界、つまり、再現された<イマージュの楽園>にひととき滞在することを何度もくりかえすことになるのだ。ぼくたちの幼少時代が目をさましやすくなって、おちおち眠りこけてばかりもいられなくなるのは、あたりまえといえる。
「どんな夢想中にもひとりの子供が生き
ており、夢想が高め、安定させる子供が
いる」
「このようにして幼少時代を歌う詩人と
読者とのあいだには、心のなかに生きて
いる幼少時代を媒介にコミュニケーショ
ンが成立する」
そんなことを何度もくりかえしていれば、いつでも「幼少時代の核」とセットで機能する詩的想像力が活性化されて、まだ自分のものとはいえなかった詩的想像力が、まぎれもない自分自身のものとして身につくことが期待されるのも、当然なこと。
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである……
枝先に雫してをり春の雪
そのうち、詩的想像力がイマージュをみつけたり作りだすたびに、蛍光灯のスイッチを入れるみたいに、気がついたらぼくたちの幼少時代も目をさましていた、というふうにきっとなるにちがいない。
「幼少時代は、輝きだす瞬間、つまり詩
的実存の瞬間といっても同じことだが、
その瞬間にしか現実の存在とならないも
のである……
一せいに街灯ともり冬の雨
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福はぼくたち俳句の読者の幸福となるで
あろう……
目の前に大きく降るよ春の雪
どうだったろう。すでに本格的なポエジーを味わうことができて、散歩のようなほんの小さな旅に時おり出るだけでも、やっぱり、ほんとうに十分だったのだ、だとか、あるいは、それなりのポエジーを味わうことができて、いまさら旅になんか出なくたってほんとうになんとかなりそうと、そう感じられている方も少なくはないのでないかと思う。
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
旅と俳句は、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、詩的想像力だけではなくて、そのうえさらに、ぼくたちの詩的感受性まで確実に育成してくれるはずなのだった。そう、湖面のようなどこかで、俳句とかのイマージュをくりかえし何度も受けとめてあげるだけで。
「いっさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生きる……
バス降りてひたすら歩く冬の雨
作者の個人的な感性などを超えた、単純で奥深い、俳句の宇宙的なイマージュを、心のなかの特別などこかでこのようにしっかりと受けとめてあげるだけでいい。
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない……
黒あげ羽湖の紫紺にまぎれけり
たったそれだけで「美的なあらゆる歓喜の絶頂」といわれるほどの、極上のポエジーを味わうことができるはずなのだ。それも、だれでも比較的簡単に、しかも、だれもがうれしくなるほど公平に、そのうち例外なく。
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での<幻想の聖歌>なのである……
秋風や浅草いつも祭りめき
「わたしたちの幼少時代はすべて再想像
されるべき状態にとどまっている」
「この美はわたしたちの内部、記憶の底
にとどまっている」
少なくともこの本のなかの700句の俳句は、条件さえ満たせば、だれものたましいの奥底に〈幻想の聖歌〉が流れ出すような、そんな至福の瞬間を体験させる可能性を秘めているのだ。
「プルーストは思い出すためにマドレー
ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思
いがけない俳句の言葉だけでも同じ力が
発揮される」
その可能性がだれに対しても公平に開かれているはずなのも、湖面のようなどこかで受けとめられると、俳句の言葉の表すただの事物のイメージは、すべて、個人の感性などを超えた、幼少時代の色彩で彩られた〈事物のイマージュ〉に変換されることになるから。
また、そういったイマージュを作りあげるために詩的想像力が利用するおびただしい事物たちの記憶には、それが大人になってからの記憶だろうと、幼少時代に夢想なんかしていた(らしい)ときの〈イマージュとしての事物〉とおなじように個人差などというものは考えられないからだった。
ポエジーを「美的なあらゆる歓喜の絶頂」とバシュラールが言っているこのことって、ほんとうにすごいこと。それは、バッハやモーツァルトの音楽があたえてくれる美的感情や、コローやユトリロの絵画がもたらしてくれる美的な喜びとくらべても、俳句のポエジーの幸福=快楽は、同等かそれ以上だと言ってくれていることにほかならないのだから。
「幼少時代は、輝きだす瞬間、つまり詩
的実存の瞬間といっても同じことだが、
その瞬間にしか現実の存在とならないも
のである」
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない」
もう一度くりかえすと、この本のなかの俳句が極上のポエジーをもたらしてくれる、その可能性がだれに対しても公平に開かれているはずなのも、あらゆる俳句のイマージュは、はるか時間の彼方、人生の黄金時代、あの、幼少時代という〈イマージュの楽園〉の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られているからなのだった。
「想像力はきわめて現前的な能力であり、
幼少時代の思い出のなかにまで〈バリエ
ーション〉を生じさせるのである」
幼少時代を過ぎてからの記憶のほうがむしろ多いとしても、ぼくたちは自分の記憶そのものにもっと信頼をよせるべきだと思うのだけれど、一句一句の俳句のイマージュを作りあげる春の雪や冬の雨や祭りや湖や五月や聖母像といった「世界」の普遍的な事や物、つまり、非―我の記憶は、だれもがおなじように、きわめて個人的な詩的財産として公平に所有しているはずなのだ。
「単純なかたちのイマージュは学殖を必
要としない。イマージュは素朴な意識の
財なのだ……
五月来ぬみどり豊に聖母像
「夢想するわたしを魅惑し、また俳句が
わたしたちに分かちあたえることができ
るもの、それがこのわたしのものたる非
―我である。世界のなかに存在している
わたしの信頼感をわたしに体験すること
を許すもの、それがこのわたしのものた
る非―我である……
垣に薔薇あふれしは聖女学院
「非―我が夢想する自我を魅了する。俳
句のイマージュを、読者がまったく自己
のものと感じることができるのは、その
ようなわれわれのうちなる非―我の作用
なのだ……
緑陰を横切ってゆく神父かな
あらゆる美的感情の源泉となる幼少時代の宇宙的幸福のバリエーションを追体験させてくれる俳句こそ、芸術のなかの芸術。まさに「第一芸術」と呼ぶのがふさわしい。幼少時代の絶対的な《美》で成りたっている俳句こそ、まぎれもない「絶対芸術」にほかならないのだった。
演奏の良しあしなんか気にしないで幼少時代の宇宙的な<階調>をよみがえらせるようにして聞くバッハやモーツァルト、解説文なんか無視してただイマージュとしてだけ眺めるコローやユトリロは、俳句とおなじように「絶対芸術」といえると思うけれど、いままでは、俳句ほど簡単にはその《美》を味わえなかったのではないだろうか。
もっとも、この本のなかの俳句でそれなりのポエジーを味わえるようになればコローやユトリロの絵画の《美》はいやでもぼくたちの心に触れてくるようになるはずだけれど、まあ、それはともかくとして「いっさいの意味への気遣いに煩わされずにイマージュを生きる」ことのできる詩なんて、絶対、俳句以外には考えられない。俳句は、文学というより、絵画のような芸術と呼ぶのがふさわしい。旅先の風景を眺めるほどの気楽さで、だれもがすぐにでもその《美》を味わうことのできるただひとつの芸術。それが、俳句なのだ。
文学的なふつうの詩なんかとちがって、俳句の言葉に意味があるとしても、それはイマージュを浮き彫りにするためにだけ役立ち、そのあとそれは、美しい詩的情景のなかに完全に融けこんでしまう。
一枚の風景画のように、文学的な重苦しさから完全に解放されているのが、俳句のたまらない魅力なのだ。
幼少時代の色彩で彩られた詩的情景があらわになったつぎの鷹羽狩行の俳句作品を読むだけでも、うまくいけば、旅先の風景を眺めるときみたいに、ぼくたちのたましいの奥底にも〈幻想の聖歌>が流れ出してくれるかもしれない。
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
5・7・5と言葉をたどっただけであらわになる、幼少時代の色彩で彩られた第一回目の世界。幼少時代という〈イマージュの楽園〉そのままの世界とは……
並木みな葉うらを見せて風五月
白桃やはるかなる帆は風はらみ
「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを
立ちあわせる……
泳ぎてはまとふホテルの青タオル
稲刈るを見よと各駅ごと停車
「ひとつの詩的情景ごとに幸福のひとつ
のタイプが対応する……
まなうらも薫るおもひや風の中
吊橋を渡る通草を蔓で提げ
この道は亡びゆくみち烏瓜
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない……
駅柵に垂れて氷柱も柵をなす
雪ばれのすずめに楡派白樺派
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである……
札幌のはや聖夜めく灯と別れ
暖房車旅の時間の浅からず
「幼少時代は、輝きだす瞬間、つまり詩
的実存の瞬間といっても同じことだが、
その瞬間にしか現実の存在とならないも
のである」
俳句作品を前にしただけでも、隠されていた「幼少時代の核」がしぜんとあらわになりやすくなってきたのは、どうやら間違いなさそうだ。いまの段階では、復活する幼少時代のレベルにまだ個人差があるとしても。
「讃辞の世界に住むことは、なんと世界
に密着することであろう。愛されたどん
な存在も讃辞による存在となる。世界の
事物を愛しながらひとは世界を讃美する
ことを学ぶ。そのとき世界とその夢想家
はどんな新しい連帯関係にはいることか……
バス来るや虹の立ちたる湖畔村
涼しさは空に花火のある夜かな
冬枯の道二筋に分かれけり
「讃辞の世界に住むことはなんと世界に
密着することであろう」
これらの句の作者、高浜虚子に「俳句は極楽の文学である」という言葉があったと思う。楽園の詩、天使の詩というのとほとんどおなじことを、高浜虚子は早くから言っていたことになる。目の前のなんでもないと思われた世界をただ「客観写生」(虚子の造語)するだけでも、俳句作者の心は極楽の喜びで満たされ、俳句作品は「楽園のリアリズム」(ぼくの造語だ!)をみごとに実践してしまうものなのだ、と。さすがは高浜虚子、俳句の本質をしっかりと見抜いていたものだと思う。
名詞や動詞に助詞や助動詞がくっつくだけで、少ない語数でじつに多くのことを意味してしまう日本語だから、俳句や短歌という短詩が可能なのだ。
たとえば「涼しさは空に花火のある夜かな」の一句をたとえば英語に訳すとしたら、どれほどたくさんの言葉を使わなければならないことだろう。とくにこの句の、俳句ならではのはの微妙な働きと、感動をこめたかなのニュアンスを、どやつて英語に移しかえればいいのだろう。
世界のなかで起こるささやかな事や世界のなかに存在するひとつひとつの物を、讃美したり讃嘆したりするややかなやけりをくっつけたこの3タイプの俳句が、俳句の基本形なのではないか、とぼくは思う。どのような俳句もこの基本形を踏まえたそのバリエーションと考えることもできるので、すべての俳句をぼくたちは「讃辞の詩」として味わうことができるのではないだろうか。
「そのとき世界とその夢想家は(つまり、
ぼくたち俳句の読者と一句一句の俳句作
品のなかの世界は)どんな新しい連帯関
係にはいることか」
俳句とは、まさに、讃辞だけで成りたつ一行詩。まさに、世界を讃美するための詩なのだ。
「讃美された事物から世界の並木道が四
方八方へと通じている……
バス来るや虹の立ちたる湖畔村
「讃辞が魔術的効力をもつことをおぼえ
ておこう」
名詞や動詞に助詞や助動詞がくっつくだけで、たったそれだけでニュアンスにとんだ意味をあらわしてしまう日本語の特性が、5・7・5の音数律のなかのわずかな言葉だけでも、ひとつの詩的情景をこんなにもくっきりと浮き彫りすることを可能にしたのだ。
たったの一行でイマージュだけがむきだしになれば、かえって背後の沈黙があらわになる。一枚の名画がそれにふさわしい額縁を必要とするように、一句も、沈黙に縁どられることによってはじめて作品として自立することになるのだ……
冬枯れの道二筋に分かれけり
「記憶のなかにくだってゆくように、沈
黙へおもむく詩がある……
涼しさは空に花火のある夜かな
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である……
並木みな葉うらを見せて風五月
「この美はわたしたちの内部、記憶の底
にとどまっている……
白桃やはるかなる帆は風はらみ
沈黙に縁どられた非事件的な一句一句の俳句のなつかしい世界は、何ごとも起こらなかった、あの、偉大な美しい時間、静謐な、幼少時代という〈楽園の時〉のひとつのタイプに対応している、はず……
まなうらも薫るおもひや風の中
「ひとつの詩的情景ごとに幸福のひとつ
のタイプが対応する……
泳ぎてはまとふホテルの青タオル
「花を前に、または果実を前に、俳句は
ある幸福の誕生にわたしたちを立ちあわ
せる。まさに俳句の読者は<永遠なる幼
少時代の幸福>をそこに発見するのであ
る……
吊り橋を渡る通草を蔓で提げ
沈黙に縁どられた一句一句の俳句の言葉が、かつて、静謐な世界、夢想の世界のなかにいたときの、ぼくたちの幼少時代の孤独なたましいを呼びさますのは、やっぱり、ごく自然なこと……
この道は亡びゆくみち烏瓜
「わたしたちは、自分たちの幼少時代に
溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も
火も樹も愛することはできない。わたし
たちは幼少時代によってそれらを愛する
のである。世界のこういう美のすべてを、
いまわたしたちが俳句作品のなかで愛す
るとすれば、甦った幼少時代、わたした
ちのだれもが潜在的にもつあの幼少時代
から発して復活された幼少時代のなかで、
愛しているのである……
雪ばれのすずめに楡派白樺派
ぼくたちが俳句のイマージュでポエジーに出会えたとしたら、それは、ぼくたちの幼少時代が復活して、旅先で旅情を生んだ詩的想像力、あるいは、だれもが潜在的に所有する詩的想像力が、俳句作品を前にしてあらわになりそのまま活動までしてしまったことの証拠。
読者であるぼくたちのために、ほかでもない、俳句形式が、一句一句の俳句作品のなかで、旅先でみつけたりした詩的想像力を上手に活性化してくれたのだ。つまり、こんな具合に……。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、幼少時代という<イマージュの楽園>における遠い日の夢想をそっくり追体験させてくれる……
駅柵に垂れて氷柱も柵をなす
こんなふうに、一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式が、まだ自分のものとはいえなかった詩的想像力を生き生きと活動させてくれたから、あとは、それをそのまま、ぼくたち自身のものとして、ぼくたちの内部にしっかりと定着させてあげるだけでよくなってくるのだった。まあ、時間はかかるかもしれないけれど、快いその作業のくりかえしが、ぼくたち自身の詩的想像力、さらには、ぼくたち自身の詩的感受性までを育成してくれないはずはないと思われるのだ。
「命名された事物はその名前の夢想のな
かで蘇るであろうか。すべては夢想家の
夢想の感受性にかかっている……
白桃やはるかなる帆は風はらみ
〈イマージュとしての事物>を直接名ざす詩的言語に昇格した俳句の名詞によって、その<事物のイマージュ>をありありと出現させ、ぼくたちの内部に最高に快いポエジーを発生させてしまうのが、俳句による「言葉の夢想」というもの。
俳句でポエジーに出会えたとしたら、おそらくそれは〈イマージュとしての事物〉を受けとめていた子供のときの、素朴な、宇宙的な感受性でもって、俳句の〈事物のイマージュ〉が受けとめられたことの証拠……
並木みな葉うらを見せて風五月
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
「読者は想像力をその本質で知る。とい
うのはかれは想像力を、その過度な状態
で、ということは途方もなく異常な存在
のしるしである信じがたいイマージュの
絶対的状態で、知るからである」
「想像力はその対象を絶対的な直接性に
おいて捉える」
ぼくたちに夢想の至福をもたらすものに、大人になってから形成される詩的想像力と詩的感受性、子供のころの宇宙的想像力と宇宙的感受性、というふたつのタイプを考えることができると思うけれど、それにしても、それらの関係っていったいどうなっているのだろう。まあ、いずれにしても、イマージュをその絶対的な直接性において捉えるって、これもまたバシュラールならではのすごい言葉。
「幼少時代の存在は現実と想像とを結合
し、全想像力を駆使して現実のイマージ
ュを生きている」
「子供の夢想のなかではイマージュはす
べてにまさっている」
けれど、考えてみればぼくたちだれもが子供のときには、全想像力を駆使して、宇宙的感受性でもって現実のイマージュ、つまり<イマージュとしての事物>をその絶対的な直接性において捉えていたはずなのだ。
「もしひとが現に見ているものをひとが
夢想したことがなかったなら、ひとは決
して世界をよく見たことがなかったのだ」
「子供のわたしたちにひとびとはたくさ
んのものを見せ、そのためわたしたちは
見ることの深い感覚を失ってしまった」
「宇宙的夢想においては、きわめて正確
に世界は美の統一性を獲得するのである。
美の単位によって価値を付加された世界」
「世界はいまもなお同じように美しいだ
ろうか」
ふつうの詩が登場するようになってから私の作品を読みはじめていただいても、一向にかまいません。そのときは無理でも、それこそ先に進むのを惜しむようにしてそれまでに掲載されたわたしの全作品をくりかえし読んでいただけたなら、どなたもが確実に俳句のポエジーに出会えるように、詩を味わえるようになることも、当然の結果として約束されているはずですから。
最近分かったのですが、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の名前で検索していただければ、出てくる2、3の作品名で開くことのできる「作者マイページ」から、それまでに掲載された私の全作品を読んでいただくことができるので、そのことをお知りあいの方とかにおしえていただけたなら、ありがたく、ほんとうに感謝いたします。