俳句 楽園のリアリズム(パート1-その2)
原稿用紙にして1200枚以上ある原稿を気軽に読める長さに小分けにした全部で33回のうち第2回目をおとどけします。これは全編をつうじて言えることですが、ことにも23回目(パート6・完結ーその3)までは、くりかえし何度も読んでいただくのがこの本’(にはまだなっていませんが)の有効な活用法なので、先を急がず先に進むのを惜しむようにして、なるべく時間をかけて、ゆっくり、くりかえし読んでいただくことをおすすめします。
なぜといって、24回目からはふつうの詩も少しずつ読んでいくことになりますので、それまでに、俳句のポエジーに、詩を味わうのに十分な程度の、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をじっくりと育成してもらう必要がありますから。
ポエジーとの出会いを実現させるためには、なんとしても月に1、2度、できることなら最初のうちは月に3度でも、4度でも、散歩のような小さな旅に出て実際に旅情を体験してしまうのが、いちばんの近道。旅情とは間違いなく「幼少時代の核」があらわになって夢想なんてことをしてしまった結果として味わうものなのだから、何度も旅先でぼくたちの幼少時代をめざめさせてしまうそのことのくりかえしが、部屋のなかでも、つまり、この本のなかの俳句を読むときにも、幼少時代をめざめやすくするに決まっているからだ。
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない」
「それは幼少時代の原型をわたしたちの
内面によびさます」
そんなふうにして、まあ当然の結果ともいえるけれど、ポエジーとの出会いを果たしたそのあとも、この「俳句パート」だけは、できたら何度でもくりかえし読んでいただけたならと思う。
俳句のポエジーは一度味わえばそれでおしまいというものではないから、途中でおなじところをくりかえし読んでいただくと計算はちょっと違ってきてしまうけれど、まあ単純に考えただけでもそうしていただければ《700句×読んだ回数》分のポエジーに出会い、それを味わうことになる。
実際には最初の港町の俳句みたいにおなじ作品を何度も利用させてもらったりもしているので、正確にははじめて読む700句にそれらを加えると、単純に計算するだけでも《(700句+アルファ)×読んだ回数》分のポエジーを味わうことになる。つまり、そうしていただければ、700句の俳句だけでも(基本的には並行して旅先でたっぷりと旅情を味わっていくことになるわけだし)ぼくたちの人生をすっかり変えてしまったりぼくたちを詩の愛読者にしてしまったりするのに十分すぎるほどのポエジーを、この本のなかでしっかりと体験してしまうことになるはず、ほかに俳句なんか読まなくたって。
しかも、読んだ回数に応じて、2回目、3回目……とくりかえし読むほどに、そのポエジーがいっそう大きく、深く、ゆたかに、より純粋なものにレベルアップされることが、当然のこととして期待されるのだ。
つまり、そのうち、きっと、いや、絶対、いま読んだ青柳志解樹の俳句で素晴らしいポエジーを味わえるようになっている自分を発見して、そのことに、信じられないような驚きと喜びを感じることになるだろう……。
残念ながらぼくたちの幼少時代が目をさましていないいまの段階でポエジーに出会えるはずもないのだから、とりあえずはじめのうちはそんなものかと気楽に読み進めていただくだけでも、そのうち、ぼくたちの幼少時代をしぜんと思い出させてくれる俳句作品と夢想へと導いてくれるバシュラールの言葉との相乗効果で、もちろん、並行して旅先で旅情を満喫していただくのがあくまでも理想だけれど、それでも、いまさら旅になんか出なくたってこの本だけでもなんとかなるはず、ということは自信をもって強調しておきたい。
個人的なことを言うなら、ぼくにとっていちばん大きいのは『夢想=幸福のメカニズム』というアイデアを思いついたおかげで、バシュラールの本なんかもう読む必要がなくなったこと。なぜといって、「幼少時代の核」「イマージュ」「夢想」という3つのキーワードだけで用が足りてしまって、そのメカニズムを<機能>させて旅情やポエジーという幸福の<現象>を生じさせることだけが唯一の目的になってしまい、そうしてそれを実際に味わってしまったら、その内部構造を理解することなんてもうどうでもよくなってしまったから。
そんなわけで、買い集めたバシュラールを読むことももうないだろうから『夢想の詩学』という最晩年の一冊のそれも「幼少時代へ向う夢想」という一章を中心に、それまでに傍線をひいておいた、そうしたメカニズムを生きるのに一生役立ちそうな箇所を、ほんの少しだけ(のつもりが、あれもこれも外せないというわけで、あとで数えたら200を超えてしまっていたけれど)ノートに書き抜いてみた。人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの残してくれた言葉のエッセンスだけに、どれもこれも、これが最高に素晴らしい。
それらの言葉を、これからこの本のなかでふんだんに利用させてもらおうと思っているけれど、その素晴らしさとすごさを分かっていただきたくて、2つ以上並べて引用するときにはどうしても一行分あいだを空けないではいられなかったほどなのだ。なんといっても、それらは、人類の宝物といっても言い過
ぎにならないほど、価値ある言葉なのだから。(なお、名前なしで引用させてもらっているものはこれからもすべてバシュラールの文章だと思っていただきたい)
それにしても、メカニズムというアイデアを思いつかなかったら、傍線なんかをひきながら、本を読むことなんて大嫌いなこのぼくが、ポエジーを味わいたい一心で、いまでもバシュラールの何冊もの著作をせっせと読みつづけていたのではないか、と思う。ほとんどエンドレスの堂々めぐりだ。
それが、200くらいの言葉を書き抜いたその「バシュラール・ノート」にしても、バシュラールの思想を理解するためのものなんかではなくて、ぼくたちの『夢想=幸福のメカニズム』を補足するための、たんなる、それでいてこのうえなく価値あるオマケにすぎないと思えるようになったのだから、こんなに気楽なことはない。
ここでちょっとお断りしておきたいのは、ノートに書き抜くときにたとえば作家とあるところを詩人に変えてしまったりぼくにとって不要な文章の一部を勝手にはしょってしまったりしているので、訳文の忠実な引用ではないものも少なくはないかもしれないということ。原作者と訳者に申し訳ないとは思うけれど、どこから書き抜いたか分らないものが多くて、確認しようがないのだ。それと、著作ごとに訳者もまちまちで訳語や表記も不統一で、いくつか並べて引用させてもらうとき不自然なので、これも申し訳ないけれど、たとえば私をわたしに変えたりとか、それらを統一してしまうこともあるかもしれない。
それにつけてもちょっと心配なのは、引用と著作権との関係がぼくにはどうにもよく分からないということ。たしかにこの「俳句パート」なんかではバシュラールの文章をずらりと並べて引用させてもらっているページも少なくはなく訳者や出版元の方はいくらなんでも引用の許容範囲を超えていると思われる
かもしれないけれど、人類みんなの心の財産ともいうべきバシュラールの言葉(の訳文)がほんとうの意味で真価を発揮するせっかくの機会を著作権を盾に制限するとしたらあまりにも狭量なことで、そんなことは絶対ないだろうと信じたい。それは、たとえば神父や牧師や教会が、あなたの書いた本には聖書からの引用があまりにも多すぎるといってクレームをつけたりするのと、ほとんどおなじことだと言っていいのだから。
それに、遠い東洋の島国の言語に訳された自分の著作の一部がその国のたくさんの人々を幸福にするために最高に役立っていることを知ったら、天国のバシュラール本人も、どんなに本意が曲解されて引用されていようと、ひどい解釈の仕方だけれどまあいいだろうと微苦笑して許してくれそうな気がする。
なお引用した可能性のある本の出版社と訳者は以下のとおり。
「瞬間と持続」(紀伊国屋書店・掛下栄一郎)「水と夢」(国文社・小浜俊郎・桜木泰行)「空と夢」(法政大学出版局・宇佐美英治)「大地と休息の夢想」(思潮社・饗庭孝男)「大地と意志の夢想」(思潮社・及川馥)「空間の詩学」(思潮社・岩村行雄)「夢想の詩学」(思潮社・及川馥)「蠟燭の焔」(現代思潮社・渋沢孝輔)「火の詩学」(せりか書房・本間邦雄)
「バシュラール・ノート」に書き抜いた200くらいの文章のひとつひとつが、人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの書き残してくれた言葉の、エッセンス中のエッセンス。前後の文脈から切り離されたそれらの、人類の宝物のような言葉を、ほんとうに申し訳ないけれど、ぼくたちに都合のいいように、好きなように利用させてもらおうと思っている。
『そんなことは言っていない』とか『そんな単純なことではない』とバシュラールに叱られたって、かまうものか……。
この本で紹介させてもらうバシュラールのものすごい言葉は、その指し示してくれている幸福を実現させてしまうまではいつまでも価値をもちつづけるはずの言葉なのであって、すでに、もう何度も引用させてもらっている言葉も少なくはないけれど、せっかくこの本を手にしていただいたのにまたおなじ引用かと思ってまともに読みとることをしなくなってしまうとしたらとんでもないことで、それは、まさに、最高の人生を手に入れる絶好の機会をはやばやと放棄してしまことに等しい。バシュラールの言葉が、というより、正確には、もちろんその意味内容こそが人類の宝物なのだから。
邦訳された2000ページ以上のなかで「バシュラール・ノート」に書き抜いた200くらいの文章があればこれからのぼくの人生にはそれだけでもう十分だと思っているのだし、この本のなかでもそれらをくりかえし利用するしか方法はないのだけれど、それらの指し示してくれている幸福は一生かけても到達できそうもないほどにも無限大に開かれていて、断じて、7、8回読んだきりでおしまいにしてしまえるようなものではないのだ。
ほんとうに、人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールの、人類の宝物のような言葉は、それらが指し示してくれている幸福を実現させてしまうまでは、いつまでも価値をもちつづけるはずの言葉なのだ。
ところで、そのうちまったく不要になるとはいっても、このさい「心の鏡」のイメージをもう少し膨らませてみるのも悪くないかもしれない。
ぼくたちが旅情やポエジーを味わっているそのときには、かならず湖面のようなどこかで幼少時代の色彩で彩られたイマージュが受けとめられて夢想なんかしているはずなのだから、実際に旅に出たり俳句を読むときに「心の鏡」などというものを探したり意識したりする必要はまったくないのだけれど、もう一度強調すると、イマージュを受けとめればきまって旅情やポエジーという最高の美的感情を生じさせる、湖面のようなどこかがぼくたちの心のなかに、絶対、存在するはず、と、そう確信することがなにより大切なのだ。
そうして、そこでもって旅先の風景や事物、俳句のイマージュを受けとめれば、幼少時代の《美》の記憶が呼びさまされないはずはないのだ、と、単純にそう確信することが。
さらに言えば、幼少時代の色彩で彩られたイマージュを再発見したと感じたとしたら、それはそのイマージュが湖面のようなどこかでしっかりと受けとめられたことの証拠なのだ、と。だから、ぼくたちが探し求めなければならないのは、あくまでも、俳句作品のなかとかでみつけられる、幼少時代の色彩で彩られたイマージュ、ただそれだけなのだ、と。
「幼少時代の存在は現実と想像とを結合
し、全想像力を駆使して現実のイマージ
ュを生きている」
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
全想像力を駆使して現実のイマージュを生きていたそのとき、宇宙的幸福につつまれた、世界との詩的調和のなかで、ぼくたちはそれ以上ない、100%の《美》、100%の幸福を生きていたのだった……。
「幼少時代へ向う夢想は最初のイマージ
ユの美しさをわたしたちに取り戻してく
れる。世界は今もなお同じように美しい
だろうか」
「世界は今もなお同じように美しいだろうか」という言葉には「ノー」と答えるしかない。ぼくたち大人の心にしっかりと定着してしまった「精神の鏡」には、知覚作用によって分断されたあとの、ちっとも美しくない世界しか映し出されはしないから。
《美》としての世界を眺めているわけでもないのに、俳句を読むだけでどうして子供のころのような夢想が可能になるのかというと、幼少時代といっしょに復活してしまう「心の鏡」には、ほんとうの鏡とちがって、俳句の言葉を媒介にしてぼくたちの記憶をイマージュに変換することができれば、そうした想像的なイマージュまでを映し出してそれらの《美》をしっかりと受けとめてくれるというすぐれた性質があると思われるからなのだ。
<イマージュとしての事物>だろうが<事物のイマージュ>だろうが、それが現実の情景の夢みられたイマージュか、それそっくりのイマージュであるなら、いいかえれば《美》としてのイマージュの資格をもつものならなにもかもを、というか、やっぱり正確には、旅先の風景だろうが俳句の言葉だろうが、なにもかもを無差別にイマージュに変換しながらそのイマージュをしっかりと受けとめてくれるところが「心の鏡」というものなのではないかと思われる。まるで鏡のような湖面が、虚像としての世界、つまり、イマージュとしての世界を、くっきりと美しく映し出すのとおなじように……
みづうみにいろをふかめて春の山
まあ、いずれにしても、散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては旅情にひたったり、いまはまだ無理だとしてもそのうち俳句を読んでポエジーを味わうたびに、旅先の風景と俳句作品のなかだけに、おそらく当分の間はそれだけに限定されて〈最初のイマージュの美しさ〉が充満していることを、ぼくたちだれもが素晴らしく実感することになるだろう……
村役場までアカシアの花の道
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである……
六月や風の行方の花しろし
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する……
行く汽車のなき鉄橋の夕焼くる
ここでちょっと考えてみたいのは、バシュラールがくりかえして使う「孤独」という言葉の深い意味についてだ。いくらでもみつけられるけれど、たとえば、つぎの例のような。
「夢想にふける子供は、ひとりぼっちだ、
本当に孤独なのである。かれは夢想の世
界で生きている」
「わたしの意見では、人間のプシケの中
心にとどまっている幼少時代の核を見つ
けだせるのは、この宇宙的な孤独の思い
出のなかである」
「これらの夢想はわたしたちの現在の孤
独を人生の最初の孤独へとつれていく。
最初の孤独、つまりあの幼少時代の孤独
は、あるひとたちのたましいに消しがた
い刻印を残している。かれらは生涯を通
じて詩的夢想に敏感になる、つまり、孤
独の価値を知っている夢想にたいし敏感
になるのである。子供が幼少時代に知る
不幸は大人たちによってもたらされる。
その苦痛を幼少時代は孤独のなかでやわ
らげることができる。人間の世界が子供
を安らかな状態においてくれるとき、子
供は自分を宇宙の嫡男だと感じる。この
ようにして子供は孤独な状態で夢想に意
のままにふけるようになるや、夢想の幸
福を知るのであり、のちにその幸福は詩
人の幸福となるであろう。いったい、夢
想家としての現在のわたしたちの孤独と、
幼い頃の孤独とのあいだに相通じるもの
がないなどと考えられるだろうか。だか
ら、静かな夢想のなかで、しばしばわた
したちが幼い頃へと導く坂を降りていく
ことは、偶然として片づけられることで
はないのである」
書き写しながら「かれらは生涯を通じて詩的夢想に敏感になる、つまり、孤独の価値を知っている夢想にたいし敏感になるのである」の部分には特にめだつ傍線をひきたくなったのを思い出したけれど、どうやら「孤独」とはバシュラールにとって、夢想するための最高の状態を意味する言葉だったらしい。それというのも、バシュラール的な孤独は(旅になんか出なくたって)人生最初の孤独、つまり、幼少時代の「宇宙的な孤独」へとたやすく移行してしまうものだから。
「日常生活にあふれているあらゆる〈先
入観〉を遠ざけたとき、他者への配慮か
ら生じた気苦労からも解き放たれ、こう
して名実ともにかれがみずからの孤独の
作者となり、ついに時間を気にすること
なく宇宙の美しい光景を眺めることがで
きるとき、この夢想家はみずからのなか
にひとつの存在が花開くのを感じる。突
如としてこういう夢想家が世界の夢想家
となるのである。かれは世界に向かって
開き、世界はかれに向かって開く」
夢想することが許された時間にはみずからの孤独の作者となって世界を眺めたり詩を読んだりするだけでこの世の至福をいつでも味わうことのできたガストン・バシュラール。
そうして、夢想したことの結果として人生そのものまで最高に甘美なものに変えてしまうことに成功したバシュラールだからこそ、根底からこの人生を変えてしまうほどの《甘美な存在論》なんていう素敵なフレーズを、ぼくたちのために残すことができたのだろう。
「夢想は存在の本質とは安楽さであり、
太古の存在のなかに根をおろした安楽さ
であることを教える」
「すでに夢想によって、存在はひとつの
よきものであることをひとは発見してい
る」
彼が自らの孤独を口にするとき、それは、いつものように「幼少時代の核」が復活して、美しい世界だけに向かって開かれた、子供のころの宇宙的な孤独を取り戻した、と言っているのとおなじこと。べつに、孤独で淋しいなんて言っているわけではないのだ。
それにつけても、こうしたバシュラール的孤独と「旅の孤独」とのあいだに共通点をみつけたことが、ぼくにはちょっとばかり誇らしい。旅に出るだけで、日常から脱け出すという旅というものの特性が「旅の孤独」をしぜんと子供のころの「宇宙的な孤独」へと移行させてしまって、ぼくたちの幼少時代と湖面のようなどこかを同時に復活させ、いやでも、旅先という夢想するための理想状態にぼくたちを立たせてくれることになる。そうして、だれもがたやすく旅先で味わうことになる詩よりも純度の高い詩情、それこそが、まさに旅情というものにほかならないのだ、と。
「しばしばわたしたちが幼い頃へと導く
坂道を降りていくことは、偶然として片
づけられることではないのである」
そうして、そう、散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させてしまって、旅先でぼくたちの幼少時代と湖面のようなどこかを同時に復活させて旅情を満喫すればするほど、沈黙の支配するたった一行の、幼少時代の色彩で彩られた俳句の世界を前にするだけで、ぼくたちの幼少時代と湖面のようなどこかもそのレベルを上げながらあらわになりやすくなるのは、ごくしぜんななりゆき。それこそ、それは、偶然として片づけられることではないのだ。
「わたしたちの幼少時代はすべて再想像
されるべき状態にとどまっている」
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
幼少時代の色彩で彩られた俳句作品の詩的情景が、幼少時代の世界をいやでも再想像させてしまって、そのうち、ぼくたちだれもに〈幻想の聖歌〉を耳にしたような至福、つまり、本格的な極上のポエジーを味わわせてくれるようになるのは、期待しいただきたいのだけれど、絶対、間違いないことなのだ。
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である……
雪解をよろこぶ籠の小鳥たち
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福はぼくたち俳句の読者の幸福となるで
あろう……
春の闇より聞こえくる水の声
贅沢に一ページに一句印刷された俳句作品をイメージしていただければいっそう実感できるはずだけれど、俳句一句を縁どる深くて大きな宇宙的ともいえる沈黙が、幸福な沈黙が支配していた、ぼくたちの幼少時代の孤独を思い出させないはずはない。この本のなかの俳句の一句一句が、そのうち、世界がかくも美しかったあの時間、あの、静謐な世界、夢想の世界へとぼくたちを導いてくれることになるのは、やっぱり、間違いなさそうだ。
「この幸福な孤独のなかで夢想する子供
は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に
結びつける夢想を知っているのである。
わたしの意見では、人間のプシケの中心
にとどまっている幼少時代の核を見つけ
だせるのは、この宇宙的な孤独の思い出
のなかである」
人生最高の幸福をもたらしていた幼少時代の宇宙的孤独の中心をなしていたものこそ「幼少時代の核」というものなのではないかと思われる。
とりあえずそれと気づかずに夢想なんかしてしまってポエジーというこの世の至福を味わってしまうことに、多少デタラメなところがあっても「心の鏡」というイメージや「夢想のメカニズム」という発想がどれほど有効か、その人生的なメリットは計り知れないものがあると思っています。そのことは、本稿をとおしてどなたにも実感していただけると確信しております。