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無もなき歌

作者:かれら
最終エピソード掲載日:2026/06/18
霧が人の名を奪い、白い花だけが季節を忘れて咲き続ける、忘れられた国がある。
北の果ての棘に覆われた城には、朝を迎えぬまま眠り続けた王女がいた。硝子のような静寂の中で、白椿がひとり静かに咲く。古い鐘は七度鳴り、八度目は誰にも知られぬまま沈黙する。
戦が終わり、城は廃墟と化した。石畳に覆い被さる白百合は、錆びた剣や朽ちた冠を優しく隠す。雷に斃れた戦士の胸に残された一輪の花だけが、誰にも見送られずに静かに朽ちてゆく。
霧の深い谷には、名を持たぬまま花を束ね続ける魔女がいた。白樺の道を歩む旅人は、彼女の家で古い鉄の鍵を胸に抱きしめ、名前を失っていく。魔女自身もまた、かつて誰かに呼ばれた自分の名を、霧の向こうに置き去りにしていた。
やがて一人の旅人が、崩れた橋を越え、霧の家に辿り着く。そこにいたのは、白い花を束ねる女だった。旅人は胸元から古びた鉄の鍵を取り出す。女はそれを静かに見つめ、ほんの少しだけ目を伏せた。
「綺麗な鍵ですね」
それだけ言って、彼女は再び花を束ね始める。
旅人は振り返らず森を後にした。霧の向こうで、かすかな歌声が聞こえたような気がした——その旋律を、どこで聞いたのか、思い出せないまま。
人は忘れるために歌うのではない。
歌は、誰かの記憶より長く生きるから。
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