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俳句 楽園のリアリズム(パート1ーその1)


 全部で原稿用紙だと1200枚になるこの作品は、人生に役立って、幸福によく効いて、くりかえし利用できる散文というコンセプトのもとに書きあげた2300枚もある原稿から、ちょっと遠めの散歩をほんとうの旅に変えてしまうための「小さな旅パート」やNHK・BSとかで録りためた映画を最高に楽しむための「映画パート」や贈物のように素晴らしいこの人生を実感するための「時の流れパート」といっしょに全体を構成する「俳句パート」だけを独立させたものです。もうあまり先がないので(昭和23年生まれ。早大一文中退)このままでは、たぶんまったく前例のないこの「俳句パート」までもが永遠の闇のなかに葬りさられてしまいそうなので、このパートだけに賭けてみることにしました。全体から切り離された途中からはじまっているので、イマージュとイメージという言葉が使い分けられていきなり登場する唐突さや説明不足、全体から独立させられているはずなのにこの「俳句パート」なんて言っている不自然さは、こうした前書きを読んでいただければ、このままでも受け入れていただけるのではないかと考えました。

 俳句のポエジーというこの世の至福をくりかえし何度も味わうことをとおして、人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールというひとの、そのバシャラール的な幸福のおすそ分けを、読者の方すべてが、この人生でたっぷりと受けとるようにすること。それが、私のこの作品の最終目標と考えています。人生に役立って、幸福によく効いて、くりかえし利用できる散文、という当初の目標はこの「俳句パート」だけでも十分に達成できたと思いますが、そのことはご自分で確かめていただけたならと、せつに希望いたします。 


 さてきょうからポエジーとの出会いを求めて、世界にちょっと類をみない、イマージュだけがくっきりとむきだしになった俳句という素晴らしい一行詩を読んでいってみたいと思う。俳句が浮き彫りにしてくれるような、遠い日の記憶を呼びさましてくれるそうした特別なイマージュだけが、ぼくたちに素晴らしいポエジーを味わわせてくれるのだ。

 これから、この本のなかで、どっさり俳句を読んでポエジーとの出会いをくりかえして、バシュラールというひとの教えに導かれて最高の人生を手に入れることになるわけだけれど、そのためには、ちょっと古くさいところのある俳句のイメージを、新鮮な一行詩のイメージに塗り替えておいたほうがよさそうだ。


 そういえば、俳句とモーツァルトの音楽ってどこか似ている。

 この地上にもたらされた天使たちのための音楽。まるでなにかの間違いみたいに、この世にとどけられてしまった天上の旋律。これがぼくの、モーツァルトの音楽のイメージだ。

 

 モーツァルトを聴くかわりに俳句を読む。


 時たまうまい具合に味わうことのできるそれぞれの幸福の質って、意外と似ている。天上の幸福はなかなかぼくたちの心にとどいてくれないけれど、俳句でなら、もっとたやすく、だれもが似たような幸福を味わえるようになるかもしれない。それというのも、これから味わうことになる俳句のポエジーとは、この世の<楽園の幸福>にほかならないから。

 天国の幸福と楽園の幸福。この人生で味わうことのできるそれらの幸福に、そもそも優劣なんてあるだろうか?

 それに、考えてみれば、この地上に出現してしまった天国。それをさす言葉こそ、楽園という言葉にほかならないのだった。モーツァルトの音楽に似て、俳句のイマージュとは、まさに、天国=楽園の果実の味わい。

 俳句にピッタリの、つぎのようイメージをぼくは愛用しているのだけれど、第一回目のこの「俳句パート」を終わりまで読んでいただくだけでも、楽園の果実か、なるほどと、どなたにもそう納得していただけるようになるのではないかと思う。


 俳句とは、楽園の果実を盛るための、透明なクリスタルの器。そこに盛られた楽園の果実こそ、イマージュ……



  海と坂晩夏まぶしき港町



 俳句とは、まさに、楽園の果実を盛るための、透明なクリスタルの器。楽園の果実をかじるようにして、俳句一句のイマージュでもって、ぼくたちは楽園の幸福(ポエジー)を味わう……。    

俳句がモーツァルトの音楽に負けてないのは、俳句を読んでぼくたちが味わうことになるのは、幼少時代という〈イマージュの楽園〉の幸福にほかならないからだった。


 楽園の果実というイメージを思いついたのは、ガストン・バシュラールが共感をこめて引用していたフランシス・ジャムのこんな言葉にぶつかったときだったかもしれない。


  「わたしは花のイマージュとか果実のイ

  マージュを伴わない感情を経験したことがない」

  

 もちろんここでは美的感情について述べているわけだけれど、俳句の花や果実の、べつにそれだけにかぎらず、海とか坂とか晩夏とか港町とかの、俳句のあらゆるイマージュは、条件さえ満たせば(つまり、ぼくたちの幼少時代の復活だった)ぼくたちの心のなかにかならず美的感情=ポエジーを生む。逆に言えば、フランシス・ジャムの言葉のように、海とか坂とか晩夏とか港町とかいったイマージュを伴わない美的感情なんて、存在しないことになる。ただイマージュだけが、つまり、そう、海とか坂とか晩夏とか港町とかいったイマージュだけが、この世で味わうことのできる最高の喜び=快楽、すなわち、至純にして至福、素晴らしく甘美な、最高の美的感情を生むことになるのだ。


 俳句の表す世界とは、それだけでも果実のように甘美な海とか坂とか港町とかの個々の事物(イマージュ)たちが協力しあって作りだすひとつの世界。だれもの心のなかにかならず美的感情を生む、絵画のようなひとつの詩的情景(イマージュ)……



  海と坂晩夏まぶしき港町



 俳句を前にするとしぜんとめざめるぼくたちの幼少時代が、ぼくたちの心のなかに湖面のようなどこかを出現させ、俳句の言葉が、そこで、イマージュとして受けとめられる。


 こうしたイマージュには、たんなる視覚的な普通のイメージなどとちがって、幼少時代の夢想を再開させる美的機能がそなわっているから、ぼくたちだれもがそれと気づかずに夢想なんかしてしまって、ぼくたちだれもが最高に甘美な素晴らしいポエジーを味わうことになる、それもだれもがうれしくなるほど公平に、例外なく。

 なぜといって、そのとき、俳句の言葉が呼び起こすあらゆる事物は、美しかった幼少時代という<イマージュの楽園>の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られているから。(説明がやっかいなので美的素材という言葉にはいつも・・をつけてごまかしているけれど、そのうち、これだけでもその実体をなんとなく感じとっていただけるようになるのではないかと思う)

 前にもちょっとお願いしたことがあるけれど、これからこの本のなかで使う事物という言葉は、広辞苑なんかには、事と物と。ものごと。と記されているように、もとはたんなる物だけを意味する言葉ではなかったわけだし、形のない晩夏だってことなわけであって事物といえないこともないのかもしれないけれど、まあ、それはちょっと無理があるので、とりあえず、どんなに広大だろうと海とか、坂とか港町とか、広く、世界の、視覚的なものすべてにあてはまる言葉なのだと理解していただきたい。

 俳句のイマージュを作りあげるいちばん大切なものなのに、万物とか森羅万象とか以外に適当な言葉がみつからなかったのだけれど、事物たち、と言ってしまうと、世界中の視覚的な形あるものをまとめて言い表すことができるから。


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである……



  海と坂晩夏まぶしき港町



 幸福だった幼少時代の世界をこの世の楽園と呼ぶなら、まさに、楽園の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られた事物(イマージュ)、つまり、幼少時代の色彩で彩られたイマージュだけがあらわになった詩。それこそが、まさに、俳句という一行詩なのだ。

 味もそっけもない現実の情景を目にしているふだんの精神なんかではなくて、幼少時代のまばゆい楽園を受けとめていた心のなかの特別などこかが、幼少時代の色彩で彩られた海とか坂とか港町とかの事物たちが作りあげる、俳句一句の幼少時代の色彩で彩られた詩的情景(イマージュ)を受けとめれば、心にまぶしいほどの<楽園の幸福>がよみがえるのはあたりまえ。


  「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ

  とは真の意味でイマージュを受けとって

  いない」


 ぼくたちを思わず夢想させてしまうメカニズムの説明をした章で一句だけ読んでみた大井雅人の俳句の、海とか坂とか港町とかの言葉やそれらが作りあげる詩的情景が〈楽園の幸福〉を呼びさましたとしたら、それは、その俳句一句のイマージュが、心のなかの特別などこか、つまり、湖面のようなどこかでしっかりと受けとめられたことの証拠。


  「湖の水に映った木のイマージュは現実

  の情景の夢みられたイマージュそっくり

  であった」


 だから、旅先の風景を眺めたりこの本のなかの俳句を読むときに、その湖面のようなどこかを探したり意識したりする必要はまったくないのであって、いつの間にか出現してしまっているそのどこかでもってイマージュがごくしぜんと受けとめられるように上手にもっていくことが、ぼくたちのこの試みを成功させるいちばんの秘訣。つまり、そう、やっぱり、だれもの内部に残存しているとバシュラールが教えてくれた「幼少時代の核」を、なんとしてもあらわにしてしまうことが。


  「幼少時代へ向う夢想は最初のイマ―ジ

  ュの美しさをわたしたちに取り戻してく

  れる。世界は今もなお同じように美しい

  だろうか」


 世界が美しくなくなってしまったいまでも、幼少時代という〈イマージュの楽園〉における最初のイマージュの美しさをぼくたちに取り戻してくれる、最高に理想的な詩。それこそが、まさに、俳句という一行詩なのだ。

 この人生を確実に変えてしまいそうなバシュラールのつぎのようなすごい言葉も、俳句とか詩のイマージュが、幼少時代の楽園のような世界の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られていて、イマージュには、幼少時代の宇宙的な夢想を再開させる美的機能がそなわっているからだと考えると、よく理解していただけるのではないだろうか。


  「ひとつのイマージュごとに幸福のひと

  つのタイプが対応する」


  「詩人はある幸福の誕生にわたしたちを

  立ちあわせる」


  「詩人たちは宇宙的幸福のさまざまなニ

  ュアンスをもたらす」


 詩がぼくたちを幸福にするこのような機能を、シンプルに、もっとも理想的なかたちで実現してしまっているのが俳句なのだということも、これから、この本を読み進めていただくうちにどなたにもうれしく実感していただくことになるだろ。

 ことにも「世界」のほんの2、3の事物しか利用できないたった一行のおそらく世界一短い詩型である俳句は、5・7・5の俳句形式の音数律のなかで、遠い日の〈イマージュの楽園〉の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られたたった2、3の事物(イマージュ)だけでも、かえって、それらが全力で協力しあって、幼少時代の色彩で彩られた、単純で奥深いひとつの詩的情景(イマージュ)を作りあげることになるから、俳句の一句ごとに幸福(それも宇宙的幸福)のひとつのタイプが対応していると、そんなふうにも言えるはずなのだ。


  「俳句のひとつの詩的情景(イマージュ)ごとに幸福の

  ひとつのタイプが対応する……

 


  海と坂晩夏まぶしき港町



  「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア

  ンスをもたらす」


 そんなわけで、ぼくたちの幼少時代が復活した状態で、つまり、湖面のようなどこかがあらわになった状態で、幼少時代の色彩で彩られた俳句のこうしたイマージュを受けとめることができれば、たったそれだけのことで、ぼくたちは、世界と一体となっていたときの宇宙的な夢想を再開することになり、ポエジーという人生最高の幸福=快楽を、だれもが例外なく体験することになる、はず。


  「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを

  立ちあわせる」


 ぼくたちの内部に残存している「幼少時代の核」をあらわにして幼少時代を復活させることさえできれ、宇宙的幸福とまでいわれる幼少時代の<楽園の幸福>を、俳句を読むだけでそっくり味わいなおすことができるのだ。

  

  「幼少時代へ向う夢想は最初のイマージ

  ュの美しさをわたしたちに取り戻してく

  れる。世界は今もなお同じように美しい

  だろうか」


 青空や白い雲や雪をいただいた山々や湖畔の家々や木々を美しく映し出す湖面のような「心の鏡」みたいなどこかが、旅先の風景や俳句のイマージュを受けとめるだけで〈最初のイマージュの美しさ〉をぼくたちは再発見することになって、旅情やポエジーというかたちで〈最初の幸福〉をぼくたちはふたたび体験しなおすことになる。そうしたことを可能にする、ぼくたちだれものなかに眠っている黄金のメカニズムみたいなものを、この本のなかでぼくたちは『夢想のメカニズム』という言葉でとらえているのだった。


  「最初の幸福にたいし感謝をささげなが

  ら、わたしはそれをふたたびくりかえし

  てみたいのである」


 このメカニズムというアイデアのおかげで、「心の鏡」というイメージと「幼少時代の核」「イマージュ」「夢想」という3つのキーワードだけで、旅情やポエジーという人生における極上の喜びを、まあ簡単にとは言わないけれどそのうち確実に、しかもだれもがうれしくなるほど公平に味わえるようになったのだ。それというのも、ごくしぜんとぼくたちの幼少時代をめざめさせてくれる、旅と俳句というこの世にまれなふたつの「場」を、ぼくたちだけが発見することができたから!

 

 旅に出るだけでだれもが実感することになるはずだけれど、ふだんは心の奥深くに隠されていたとしか思えない、イマージュを受けとめればきまって美的感情を生じさせる、そうした特定のどこかが、旅先で、しぜんとあらわになってくることがある。

 そうして、そのどこかを、鏡のように凪いだ湖面を連想させる「心の鏡」というイメージでとらえてみると、まるで目に見えるようにリアルになって、旅になんか出なくたって、部屋のなかでこの本のなかの俳句を読むときにも、そのどこかがいやでもあらわになって、俳句のイマージュをしっかりと受けとめてくれるような気がするのだ。


  「このようにして子供は孤独な状態で夢

  想に意のままにふけるようになるや、夢

  想の幸福を知るのであり、のちにその幸

  福は詩人の(旅人や俳句の読者の、と言

  ってもおなじことになるはずだった)幸

  福となるであろう」


 現実の世界も湖面に映し出された世界も等しく美しかった幼少時代には「心の鏡」が<イマージュとしての世界>を直接受けとめてぼくたちは最高に幸福だったわけだけれど、美しい世界が完全に覆い隠されてしまって、ちっとも美しくない世界しか知覚できなくなってしまったぼくたち大人でも、旅先と俳句を前にするとき、知覚した視覚像としての風景や俳句の言葉の表すただのイメージをイマージュに変換して、それを復活した「心の鏡」に映し出すことができれば(というか、正確にはイマージュに変換しながらと言うべきなのかもしれないけれど、まあ、話がややこしくなるのでそんなことはどうでもいいだろう)ぼくたちだれもが美しかった世界を再発見して、夢想による遠い日の最初の幸福をそっくり追体験することが可能になる、はず。そう、それを可能にするのが、夢想のメカニズム。


  「世界は今もなお同じように美しいだろ

  うか」


 知覚することしかできなくなってしまったぼくたち大人が世界のほんとうの《美》にもう一度触れるためには、つまり〈最初のイマージュの美しさ〉を再発見するためには、世界をいくら心をこめて熱心に直接みつめてみてもぜんぜんダメなのであって、間接的というか、湖の水に映った木のイマージュみたいな、(イマ)(ージュ)に変換された旅先の風景や俳句の言葉を「心の鏡」みたいなどこかでしっかりと受けとめて、周波数を合わせるようにして、ぼくたちの心のなかの世界の《美》の記憶にしっかりと同調させてあげるという、心理的な操作がどうしても必要になってくるのだ。


  「この美はわたしたちの内部、記憶の底

  にとどまっている」


 まあ、実際には《美》の記憶がイマージュをみつけたり作りだしたりして、イマージュそのものの《美》にぼくたちは魅了されるだけなのかもしれないし、ほんとうのところイマージュと記憶とポエジーの関係なんてむずかしいことぼくにはよく分からないのだけれど、多少デタラメなところがあってもこんなふうに極端に単純化してメカニズムとしてとらえることによって、なんていうか、ぼくたちの内部におけるイマージュと記憶とポエジーの関係性をしぜんと強化し、結果として、イマージュの美しさに魅了されつつ夢想なんかさせられてしまって旅情やポエジーをいやでもうっとりと味わってしまうこと。それだけが、ぼくたちにとって重要なことなのだ。


  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での〈幻想の聖歌〉なのである」


 ぼくたちの心のなかの湖面のようなどこかでイマージュを受けとめてあげるだけで遠い日の《美》の記憶が呼びさまされ、湖面がさざ波でふるえるように、ぼくたちの心のなかでは、なんとも快いポエジーの喜びが素晴らしく反響することになるだろう。……と、たったこれだけの単純さで、ぼくたちの心のなかのイマージュと記憶とポエジーの関係が活性化されることになる。ぼくたちを最高に幸福にする夢想というよく分からないことを、深く考えたりしないで、単純にメカニズムという言葉でとらえてごくしぜんと夢想なんかさせられてしまうようにすることの、人生的なメリットは計り知れない。


  「わたしたちの幼少時代はすべて再想像

  されるべき状態にとどまっている。わた

  したちは自分の幼少時代を再想像しなが

  ら、孤独な子供としての夢想の生きいき 

  した生命をつかむ機会にめぐまれるかも

  しれない」


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである」


 湖面のようなどこかで受けとめる幼少時代の色彩で彩られたあらゆるイマージュは、宇宙的幸福で満たされていたぼくたちの幼少時代をかならず再想像させてその《美》を呼びさまし、幻想の聖歌を耳にしたようなこの世の至福を味わわせてくれることになるはずなのだから、なによりも重要なのはこうしたメカニズムみたいなものがぼくたちの内部にまぎれもなく存在することを、とりあえず、しっかりと確信すること。

 そうすれば、旅に出たり俳句を前にするだけで、そのうち、復活する幼少時代といっしょに湖面のようなどこかもいやでもあらわになってしまうようになるはずだから、夢想なんてことを意識しなくたって、その特別などこかでイマージュが受けとめられた結果として、だれもが公平に、しかも例外なく、そのうち確実に、詩人たちのように、遠い日の夢想の幸福を追体験することになるはずなのだ。そう、やっぱり、メカニズムという言葉でとらえてみることのメリットは計り知れない。


  「このようにして子供は孤独な状態で夢

  想に意のままにふけるようになるや、夢

  想の幸福を知るのであり、のちにその幸

  福は詩人の幸福となるであろう」


 俳句の言葉の表すただのイメージにしてもそれをイマージュに変換して湖面のようなどこかで受けとめることができればぼくたちはいつでも俳句作品のなかに幼少時代の色彩で彩られた世界をふたたびみいだすことになるだろうし、そして、そうした一句一句の俳句作品が幼少時代のいろいろな《美》の記憶を呼びさましてしまうことにもなるだろうし、しかも、ぼくたちの幼少時代がめざめればその湖面のようなどこかはいやでもあらわになってしまって、そこでもって、旅先の風景だろうが俳句の言葉だろうがあらゆる対象をしぜんと《美》の充満したイマージュに変換しながらそれらをしっかり受けとめてくれることになるはず。


 だから、やっぱり、ぼくたちの幼少時代の復活!


 俳句でポエジーに出会うためには、それだけがただひとつの条件となってくる。つまり、旅先であらわになった「幼少時代の核」を中心にして復活した幼少時代を、俳句を前にして、もう一度めざめさせてあげるだけでいい。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


 旅先で味わう旅情もこの本のなかで味わう俳句のポエジーも、どちらもぼくたちが昂揚状態で抱く詩的なバリエーションの一種。

 だれもの内部に残存しているはずの「幼少時代の核」があらわになった状態で、それと同時に出現する湖面のようなどこかで旅先の風景や俳句のイマージュを受けとめてあげれば(湖面のようなどこかが受けとめたあらゆる対象はいやでもイマージュに変換されてしまうはずだった)その最高の心地よさに、だれだって旅先の風景や俳句のイマージュを賞讃しないではいられなくなるだろう。

    

  「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ

  とは真の意味でイマージュを受けとって

  いない」


 ぼくたちの幸運は、俳句はともかくとして、いまの段階でも、散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。とりあえず旅に出るだけで、旅というものの特性がいやでも隠されていた「幼少時代の核」をあらわにしてしまって、そうして、それと同時に、だれもの心のなかに、いやでも湖面のようなどこかも出現させてしまうことになるという、なんともすごい事実にぼくたちだけが気がついたことだ。


  「わたしの意見では、人間のプシケの中

  心にとどまっている幼少時代の核を見つ

  けだせるのは、この宇宙的な孤独の思い

  出のなかである」


 幼少時代といっしょにいつでもあらわになってしまうのだから「心の鏡」などというものを探す必要なんてまったくないわけで、俳句でポエジーに出会うためには、何度でも強調したい、旅先で復活しはじめたのとおなじ幼少時代を、この本のなかの俳句を前にしてもう一度めざめさせてあげるだけでいい、ということになる。なんという、単純さ!


 最初は自分のためにだけ役立てていた「心の鏡」というイメージはあくまでもぼくの気まぐれな思いつきであって、心のなかに鏡なんてあるはずもないのだし、もちろんバシュラールはそんなことひとことも言ってないし、旅情やポエジーに出会ってしまえばこんな変なイメージはまったく不要になるはずだけれど、それでも、条件さえ満たせば(つまり、幼少時代の復活だ)ぼくたちをいやでも夢想させてしまうメカニズムの存在を視覚化してくれるメリットは、やっぱり、捨てがたいと思う。

 つぎにずらりと引用させてもらうバシュラールの文章のうち詩人という言葉の出てくるものは、詩人を俳句に置き換えて読んでみると、ぼくたち日本人にとっては、最高に価値ある文章へと変容してしまうはずだ。


  「夢想する子供とは何とすばらしい宇宙

  的な存在であろうか」


  「わたしたちは、幼少時代に遡る愛や愛

  着をそこにおかずには、水も火も樹も愛

  することはできない。わたしたちは幼少

  時代によってそれらを愛するのである。

  世界のこういう美のすべてを、いまわた

  したちが詩人の歌のなかで愛するとすれ

  ば、甦った幼少時代、わたしたちのだれ

  もが潜在的にもつあの幼少時代から発し

  て復活された幼少時代のなかで、愛して

  いるのである」


  「ごく簡単に詩人はある様態の思い出の

  前にわたしたちをつれてゆく。わたした

  ちのなかで、今なおわたしたちの内面で、

  幼少時代はひとつのたましいの状態であ

  りつづけている」


  「詩人たちはわたしたちのなかにこの生

  き生きした幼少時代、この恒久的、持続

  的、不動の幼少時代を再発見することを

  助けるのである」

 

  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は詩人の言葉が、真実のイマージュがあ

  ればいい。幼少時代がなければ真実の宇

  宙性はない。宇宙的な歌がなければポエ

  ジーはない。詩人はわたしたちに幼少時

  代の宇宙性をめざめさせる」


  「イマージュの世界そのもののなかに住

  むという幸福を、全宇宙のなかに浸みわ

  たらせる」


  「夢想する人が宇宙論的に幸福であるこ

  とをどうして肯定せずにおられよう」


 美しい世界と一体となっていた幼少時代を人生の楽園なんて呼んでみたくなるのも、並はずれた、スケールの大きな宇宙的幸福といったものに、そのとき、ぼくたちだれもがすっぽりとつつみこまれていたはずだからだ。

 まさに人生の黄金時代、この世の楽園における、宇宙的幸福。そう、あらゆる事物がイマージュの表情を見せていた、まさに<イマージュの楽園>における、宇宙的幸福。

 そして、そうした宇宙的幸福、つまり、人生の黄金時代、この世の楽園の幸福を、もう一度、ぼくたちのこの人生に確実にもたらしてくれるものこそ、夢想というものなのだ。 

 それも、ありふれたただのイメージなんかではなく、幼少時代の記憶と切り離せない、イマージュというものの偉大な作用によって。


 「幼少時代の核」があらわになって、心のなかに湖面のようなどこかが出現して、そうして、そこでもって「イマージュ」が受けとめられたとき、ぼくたちだれもが公平に「夢想」の至福を味わうことができる。


  「最初の幸福にたいし感謝をささげなが  

  ら、わたしはそれをふたたびくりかえし

  てみたいのである」


 夢想という言葉がどうにもピンとこないのは、バシュラールが使うような意味では日本語としていまだに熟していないことにもよるけれど、それ以上に、普通にしていたのでは、夢想と言えるような、そんな至福の瞬間に、ひとはその人生でそう何度も出会えるものではないからだ。

 つまり、この本を手にしていただく前は、ぼくたちの幼少時代はそう簡単には目をさましてはくれなかった。したがって、夢想なんてほとんどしたことがなかったのだから、あまり体験したことのない夢想という言葉がピンとこないのはあたりまえといえる。


 だけどなんのことはない。「夢想」とは「幼少時代の核」があらわになった状態で「イマージュ」の幸福にうっとりすること。


 この単純さが、大人になってから体験する夢想という言葉の完璧な定義だと思っていただいていい。(もちろんバシュラールはこんな単純な言い方はしていないけれど)    


  「わたしの意見では、人間のプシケの中

  心にとどまっている幼少時代の核を見つ

  けだせるのは、この宇宙的な孤独の思い

  出のなかである」


 「旅の孤独」がごくしぜんと幼少時代の「宇宙的な孤独」を思い出させてしまう旅というものがぼくたちにはほかにあるわけだし、俳句を読むだけでも、そのうち、夢想などということをだれもが公平に、例外なく体験してしまって、当然の結果としてポエジーという極上の喜びを味わうことになるはずなのも、ぼくたちの内部の『夢想のメカニズム』のおかげ。そうして、それを機能させるたったひとつの条件は、ぼくたちの幼少時代の復活。

 なにもむずかしく考えることなんていらない。旅に出たり(絶対、そのうち)俳句を前にするだけで、ぼくたちの幼少時代は勝手に目をさまして、夢想するための条件をいやでも満たしてくれることのなるのだから。

 なにはともあれ、ごくしぜんとぼくたちの幼少時代をめざめさせて、ぼくたちにそうした夢想を比較的簡単に体験させてくれる旅と俳句というものがこの人生にあることを発見できて、ほんとうにぼくたちはついている、と、心からそう思わないではいられなくなってくるのだ。  

 そうなのだ。ただのイメージだけが満ちあふれたこの世界のなかで、いまの段階では、ほんとうのイマージュをだれもが比較的簡単にみつけられるのは、ほとんど旅先と俳句作品のなかだけだと思われるから。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

 わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


 「幼少時代の核」が活動している詩的な昂揚状態とは、それを中心にして幼少時代が復活し、湖面のようなどこかがあらわになってそこでイマージュが受けとめられるようになっている状態だと考えていいと思うけれど、そんな状態で、部屋のなかで、旅先の風景を眺めるようにして俳句の言葉の表すただのイメージに触れるだけでも、味もそっけもないただのイメージが美しいイマージュに変換されて、ぼくたちの幼少時代の記憶を呼びさましてしまうことになるのは、やっぱり明らか。


  「湖の水に映った木のイマージュは現実

  の情景の夢みられたイマージュそっくり

  であった」


 ぼくたちの心のなかの湖面のようなどこかがあらわになった状態で俳句を読めば、湖の水に映った木のイマージュを眺めるように、現実の情景の夢みられたイマージュそっくりの、つまり、幼少時代の色彩で彩られた、遠い日の<イマージュの楽園>の事物たちそっくりのイマージュを一句一句のなかにみいだして、だれもがうれしくなるほど公平に、最高に甘美な〈楽園の幸福〉をもう一度うっとりと味わいなおすことになる、はず。


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである」


 そうした俳句による最高に素晴らしい「言葉の夢想」を、旅先で甘美な旅情にひたるときみたいに、公平に、だれもに例外なく体験させてしまうのも、夢想のメカニズム。


  「この美はわたしたちの内部、記憶の底

  にとどまっている」


 ぼくたちの内部にとどまっている幼少時代という〈イマージュの楽園〉の美の記憶を呼びさましてしまう俳句のイマージュが、ぼくたちの心のなかに美的感情を生まないはずはない。そう、こんなふうにメカニズムとしてとらえ、いやでも夢想なんかさせられてだれもがポエジーを味わえるようにしてしまったことの人生的なメリットは計り知れない。

 

  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での〈幻想の聖歌〉なのである」

  

 つぎに読んでみるのは、700句のうちの2番目~8番目となる青柳志解樹(あおやぎしげき)の作品。ただのイメージとちがって、これらの俳句のイマージュが、遠い日の〈イマージュの楽園〉の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られているのは、まぎれもない。ふつうの詩などとちがって、幼少時代の色彩で彩られたイマージュだけで出来あがっている最高に理想的なたった一行の詩。それこそが、この国だけのものであっておそらく世界に類をみない、単純でいてどこまでも奥深い、なんとも魅惑的な俳句という一行詩なのだ。(ああ、俳句のある日本に生まれて、ほんとうによかった)


  「俳句のひとつの詩的情景(イマージュ)ごとに幸福の

  ひとつのタイプが対応する」


  「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを

  立ちあわせる」


  「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア

  ンスをもたらす」


 俳句は、その一句ごとに、幼少時代という<イマージュの楽園>における宇宙的幸福のひとつのタイプに対応している、はず。うまくいけば、これから読んでみる一句一句が、そうした素晴らしい幸福の誕生にぼくたちを立ちあわせてくれることになる、はず。


 5・7・5と区切るようにして、ゆっくり言葉をたどってみよう。ぼくたちの心のなかの湖面のようなどこかは、これら俳句のイマージュをしっかりと受けとめてくれるだろうか……



  雪解(ゆきどけ)をよろこぶ籠の小鳥たち


  六月や風の行方(ゆくへ)の花しろし


  村役場までアカシアの花の道



  「俳句のひとつの詩的情景(イマージュ)ごとに幸福の

  ひとつのタイプが対応する……



  みづうみにいろをふかめて春の山


  (うみ)()れてなほ鳴きやまず春の(とり)


  行く汽車のなき鉄橋の夕焼くる


  春の闇より聞こえくる水の声



 まあ無理を承知でとりあえず俳句を読んでみたけれど、99%、ポエジーには出会えなかったのではないかと思う。なぜといって、そう簡単にぼくたちの幼少時代はまだ目をさましてなんてくれなかっただろうから。「幼少時代の核」があらわになるのでなかったら、俳句の言葉の表すイメージが、湖面のようなどこかで受けとめられることもないからだ。


  「ポエジー、美的なあらゆる歓喜の絶頂」


 ただ、これからこの本のなかでいやでも味わうことになるに決まっているポエジーというものが、ほんとうに、人生最高の幸福=快楽をもたらしてくれることになるかもしれない、という、そのことの予感とかそのことへの期待といったものを、ほんのかすかにでも感じていただくことはできたのではないだろうか。


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである」


  「この美はわたしたちの内部、記憶の底

  にとどまっている」


  「幼少時代はその原型的価値が伝達可能

  なのである。ひとのたましいは幼少時代

  の価値に決して無関心ではない。そのと

  き喚起された特徴がどんなに突飛であろ

  うと、それが幼少時代の原初的なしるし

  であるならば、それは幼少時代の原型を

  わたしたちの内面によびさます」


  「わたしたちの幼少時代はすべて再想像

  されるべき状態にとどまっている。わた

  したちは自分の幼少時代を再想像しなが

  ら、孤独な子供としての夢想の生きいき

  した生命をつかむ機会にめぐまれるかも

  しれない」


  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での〈幻想の聖歌〉なのである」





 投稿作が修正可能なことが分かって実際に手を加えたので、行の乱れを直したこのパート1の改訂版5編はすべて削除することにしました。せっかくの累計読者数がいっしょに消えてしまうのが惜しくてためらわれましたが、頑張ってきた自分の記念のために、この(パート1ーその1)の累計読者数の合計だけは書き残しておくことにしました。令和7年7月17日の最後の時点で、改訂版242人、もとのものは259人、合計501人ということになります。このサイトの若いほとんどのユーザーの好みと私の作品とのずれを考えれば、私の作品の価値にはまったく見合っていないとは思いますが、それなりに健闘していると、残り少ない人生の時間を犠牲にしてきた自分をちょっとばかりほめてあげたい気持にもなります。

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― 新着の感想 ―
俳句と言うと難しいだけのイメージでしたがとても読みやすかったです。 続きを読んでみたいと思える作品です。
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