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俳句 楽園のリアリズム(パート4ーその1)

 

今回はどのような素晴らしいポエジーとの出会いが待ってくれているだろうか。

                                                         

 

 

 さてきょうも素晴らしいポエジーとの出会いを求めて俳句を読んでいってみよう。

 いやでもぼくたちの幼少時代を復活させてくれる旅と、そのうちいやでもぼくたちの夢想を誘うことになるはずの俳句という世界一すぐれた一行詩。夢想することで世界一の幸福を実現してしまったバシュラールが書き残してくれた、ぼくたちを夢想に導いてくれる人類の宝物のようないくつもの言葉。 

 つまり、ポエジーに出会うための絶好の条件がすでにそろっているのだから、なんとしても、素晴らしく快いポエジーとの出会いを、この本のなかでつくりだしていきたいのだ。


  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい。幼少時代がなければ真実の

  宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ

  エジーはない。俳句はわたしたちに幼少

  時代の宇宙性をめざめさせる……



  秋晴れの遠き梢のさやぎをり



 俳句でまだほのかなポエジーにしか出会っていない方には、詩人たちという主語をこれも勝手に変えてしまったつぎのような言葉が。


  「旅は、ついで旅と俳句は、わたしたち

のなかにこの生き生きした幼少時代、こ

の恒久的、持続的、不動の幼少時代を再

発見することを助けるのである。幼少時

代は生涯持続する……



  雪が降る旅の小さき食堂に



 面倒くさい言葉なんかをとおさないで、だれもが旅先で体験してしまう詩よりも純度の高い詩情。それこそがまさに、旅情というものにほかならないのだった。それを、言葉をとおして味わってしまうことの意味とは……



  食堂のすべての窓に雪降れり



  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


 旅先で作られたと思われる俳句を読んで旅情のようなポエジーを味わうことができたとしたら、それは、旅先とおなじように俳句を前にしても、隠されていた「幼少時代の核」と詩的想像力がセットであらわになってしまったことの証拠。


  「わたしたちの幼少時代はすべて再想像

  されるべき状態にとどまっている……



  父とわかりて子の呼べる秋の暮



  「幼少時代とは、不動でしかもつねに生

  きいきしており、歴史の外側にあり、他

  人の目から隠れていて、それが物語られ

  るときには歴史を装っているが、しかし

  輝きだす瞬間、つまり詩的実存の瞬間と

  いっても同じことだが、その瞬間にしか

  現実の存在とならないものである」


 輝きだす瞬間、詩的実存の瞬間、とは、まさに、ぼくたちが快いポエジーを感じとっているその瞬間、と考えていいだろう。


  「これらの夢想はわたしたちの現在の孤

  独を人生の最初の孤独へとつれていく。

  最初の孤独、つまりあの幼少時代の孤独

  は、あるひとたちのたましいに消しがた

  い刻印を残している。かれらは生涯を通

  じて詩的夢想に敏感になる、つまり、孤

  独の価値を知っている夢想にたいし敏感 

  になるのである」


 のちほどこの部分のふくまれた長い文章を紹介させてもらうつもりだけれど、ぼくたちには旅というものがほかにあるわけだし、バシュラールの言葉に導かれて、バシュラールの教えに忠実に、この本のなかの700句をくりかえし味わっては夢想することに習熟してくれば、だれもが、生涯を通じて詩的夢想に敏感なひとたちの仲間入りをすることまでもが、すでに約束されているはずなのだ。

   

  「人間のプシケの中心にとどまっている

  幼少時代の核を見つけだせるのは、この

  宇宙的な孤独の思い出のなかである」


 今回はまず、夢想ということの素晴らしさについて書かれた言葉を、ぼくの「バシュラール・ノート」からどっさり書き抜いてみた。人類史上最高の幸福を実現してしまったひとが人類の幸福のために書き残してくれた、まさに、人類の宝物というしかないような、ものすごい言葉の数々を。

 何度も紹介させてもらったことのあるものがほとんどだけれど、ずらりとこんなに欲張って並べてしまったのも、旅先で旅情にひたったりこの本のなかの俳句でポエジーを味わうことのできたそのときには、ぼくたち、まぎれもなく、しっかりと夢想なんかしていたはずだし、そのうち夢想することにもっと習熟して、バシュラールの教えに忠実に夢想することができるようになれば、ぼくたちだれもがとてつもない人生を手に入れることになる、と、どなたにもそう納得していただきたかったから。いまの段階でも、旅抜きでこの「俳句パート」だけでポエジーを味わってこられた方にも、実感をともなってよく理解できるようになった言葉も少なくはないのではないかと思う。

 これらの言葉を知ると知らないとでは、ぼくたちの、人生、大違い。この本のなかではじめてバシュラールの文章に触れたほとんどの方には、ご自分の人生がどこまでも幸福なものになりうるのだという事実を、いまや、心からうれしく確信していただけるようになったのではないだろうか。


  「わたしたちを人生の重荷から解放する

  のが、夢想の機能のひとつである」

 

  「(夢想がもたらす)この女性的な休息の

  なかで、動かすべからざる確かな休息を、

  わたしたちの存在を完全に憩わせる休息

  を、わたしたちは体験する」


  「夢想する幸せがわたしたちを活気づける」

 

   「わたしの夢想をみている幸せな人間、それ

  はわたしである。また思考するという義務な

  どもはやなく閑暇を楽しんでいるのはわたしだ」


  「人間は、もはや夢想することができな

  いので、考えるのだ」


  「わたしたちを幼少時代につれもどす夢

  想がなぜあれほど魅惑的で、あれほどた

  ましいにとって価値あるものとみえるのか」

  

  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での<幻想の聖歌>なのである」


  「感性の諸領域は相互に対応する。この

  領域は相互に補足しあう。単純な対象を

  夢想する夢想のなかで、わたしたちは夢

  想する存在の多面的価値を認識するので

  ある」


  「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が

  覚醒し、調和する」


  「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒

  させることができる」


  「夢想のない安逸さはない。安逸さのな

  い夢想もない。すでに夢想によって、存

  在はひとつのよきものであることをひと

  は発見している」


  「ああ、夢想の甘美な流れよ。わたした

  ちを助け、世界のなかに、世界の安楽さ

  のただなかに、流してくれる夢想よ。夢

  想は存在の本質とは安楽さであり、太古

  の存在のなかに根をおろした安楽さであ

  ることを教える」


  「わたしたちの幸福には全世界が貢献す

  るようになる。あらゆるものが夢想によ

  り、夢想のなかで美しくなるのである」


  「人間は夢想のなかでは主権者であるが、

  観察の心理学は現実の人間のみを研究す

  るので、王位を奪われた存在にしか出会

  わないのである」


  「夢想のなかでは(ノン)はもはや機能しない。

  すべてが大歓迎なのである」


  「夢想が夢想家のまわりに甘美なきずな

  をはりめぐらす。夢想は<なにとでもここ

  ろよくつきあう>性質である」


  「こんなに雄大で、強力で、魅力的な夢

  想が現実から反対されることなどあって

  よいものだろうか。夢想は人生に、わた

  したちの人生に、きわめて強固に溶接さ

  れているのではないだろうか。夢想は生

  の飛翔にじつに確実に生命をあたえたの

  だ。夢想はわたしたちの想像的存在にこ

  れほどの存在をあたえたのだ。わたした

  ちのために夢想はいかにも新しい世界、

  日常生活によって磨り減った世界のはる

  か上方の世界への入口を開いたのだ」


  「夢想は現実の状態なのであった。その

  あとで幻想だと通告されようとも一向に

  かまわない。しかしわたしは自分が夢想

  家だったことを確信している。わたしの

  夢想にこうした美しいものが現前してい

  たとき、わたしはそこに存在したのであ

  る。これらの幻想は美しかった、それゆ

  え恩恵をあたえたのだ」

  

  「わたしたちの幼少時代には、夢想がわ

  たしたちに自由をあたえてくれた。自由

  の意識を受け入れるのにもっともふさわ

  しい領域は夢想なのだ。夢想する自由の

  ほかに、わたしたちにはどんな心理的自

  由がありうるというのであろうか。わた

  したちが自由な存在でありうるのは、夢

  想のなかにおいてなのである」


 つぎのふたつは圧倒的なすごさで紹介するのがためらわれるほどだけれど、どんなに途方もないものだろうとひとり占めするわけにはいかない。


  「宇宙の夢想により、夢想家は責任のな

  い夢想、証拠にたよらない夢想を知るの

  である。宇宙を最後に夢想する。これこ

  そ夢想のもっとも自然ななりゆきである」

 

  「存在の奥まで下降した一種の忘我のあ

  とでは、疑惑のおしゃべりの必要もなく、

  夢想家のたましいは表面に上昇し、戻っ

  てその宇宙的な生をまた生きるのである」


 「生きることの意味を考えるひとはだれでも、このような夢想の価値をバシュラールにならって、考えてみる必要があるのではあるまいか」と『夢想の詩学』の訳者、及川馥も言っている。これらの言葉は、人間を限りなく幸福にする、夢想の人生的な価値について述べられたものにちがいないのだ。

 バシュラールの残してくれた言葉はどれをとってもほんとうに素晴らしい。さすがに人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの言葉だけに、心をこめてじっくり読んでみれば、人間の幸福について、ものすごいことを言っていることに気がつくはずだ。これらの言葉のひとつひとつには、ぼくたちが最高の幸福を手に入れるための、最高の、生きたヒントがあふれるほどふくまれているはずなのだった。

 ほんとうに、バシュラールが指し示してくれている幸福ときたら、ぼくたちが一生かけても到達できそうもないほどにも無限大に開かれている。


  「夢想は生の飛翔にじつに確実に生命を

  あたえたのだ。夢想はわたしたちの想像

  的存在にこれほどの存在をあたえたのだ。

  わたしたちのために夢想はいかにも新し

  い世界、日常生活によって磨り減った世

  界のはるか上方の世界への入口を開いた

  のだ」

 

 旅と俳句をとおして、あるいは、旅抜きでも俳句をとおして、そして、そのうち毎日の生活のなかで詩を読んだり世界を眺めたりすることをとおして、こうしたバシュラール的幸福を少しずつ自分のものにしていくことは、これからの人生の最高の楽しみになってくるのではないだろうか。

この本で紹介させてもらうバシュラールの言葉だけに限っても、その教えを100%実現させてしまったりしたら、やっぱり、確実に通常の100倍は幸福な人生を手に入れることになるだろう。そう、こうしたバシュラールの素晴らしい文章に何度も触れるだけでも、この本にはやっぱり、一生、身近に置いて利用していただく値打ちがありそうだ。


 いまだに夢想という言葉がピンとこなくて馴染めないでいるとしたら、それは、ポエジーという夢想の幸福を、ほんとうの意味ではまだ体験していないということでしかない。


  「夢想は人間的なものすべてが生成する

  ように存在のすべての牢獄を開放する」


  「夢想において人間のたましいのなかで

  花と開きうるものすべてが調和する」


  「夢想が人生を調和させ、生への信頼を

  準備する」


 ぼくたちが大人になる過程とは、人間が幸福になるために花と開きうるはずのたくさんの可能性を暗い牢獄のなかに閉じこめてしまうプロセスだったといっていい。 

 この世の幸福のために、快く夢想することをくりかえしてそれらを開放し、楽園におけるような調和を取り戻すこと。つまり、ぼくたちのこの人生とこの世界そのものを、ほんとうに、それこそ、天国みたいなところに変えてしまうこと。おそらく、それが、バシュラールがぼくたちに残してくれた教えなのだ。


  「夢想の詩的相は、意識を覚醒状態のま

  まに保つ金色のプシシスムにわれわれを

  近づける」


 旅や俳句で旅情やポエジー(それぞれが前の文章の詩的相にあたるだろう)を味わうたびに「夢想・イマージュ・幸福・美的感情・喜びの感情・孤独・自由の、原体験・原型・源泉」ともいうべき、人生の黄金時代、まぶしいほどに幸福だったぼくたちの宇宙的な幼少時代を呼びさまし、人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの、限りなく甘美なバシュラール的幸福にひたることになるのだ。  

 ぼくたちの意識が少しずつ金色の(プシシスム)に近づいて、人生そのものが輝かしい甘美なものに変わってしまうことになるのも、当然といえるだろう。そう、まさに<甘美な存在論>こそ、バシュラールの本領。甘美な存在論という言葉こそ、最晩年の思想の到達点を凝縮したフレーズにほかならない、と思われるのだ。


  「ああ、夢想の甘美な流れよ。わたした

  ちを助け、世界のなかに、世界の安楽さ

  のただなかに、流してくれる夢想よ。夢 

  想は存在の本質とは安楽さであり、太古

  の存在のなかに根をおろした安楽さであ 

  ることを教える」


 ずらりと並べた言葉をぼくたちに都合がいいように要約すると、夢想というものは、人生の重荷から解放して至福といえるほどの喜びや完全な休息を体験させてくれるだけではなくて、そのうえさらに、あらゆる感覚や感受性を覚醒させて金色の(プシシスム)にぼくたちを近づけ、そうして、人生そのものまで甘美なものに変えてしまう、とバシュラールは教えてくれていることになる。


  「(ポエジー)によるプシシスムの解放に向かって、

  好ましい出発点を得たのだった」


 さすがは人類史上最高の幸福を実現してしまったガストン・バシュラール。旅と俳句、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、そのうちふつうの詩でたっぷりとポエジーを味わっていくことにもなるわけだし、ぼくたちの心を金色の(プシシスム)に近づけてくれるそのバシュラール的幸福のおかげで、ぼくたちも最高の人生を手に入れることになるのは、やっぱり、間違いないことだと思われるのだ。まあ、それほど欲張らないほどほどの「途中」だろうと。


  「わたしたちの幼少時代には、夢想がわ

  たしたちに自由をあたえてくれた。自由

  の意識を受け入れるのにもっともふさわ

  しい領域は夢想なのだ。夢想する自由の

  ほかに、わたしたちにはどんな心理的自

  由がありうるというのであろうか。わた

  したちが自由な存在でありうるのは、夢

  想のなかにおいてなのである」


 バシュラールならではの、こんな素晴らしい文章にぶつかった以上、きょうから『夢想のメカニズム』のメモに《自由》を書き加えることにした。ぼくたちの幼少時代とは、自由の意識の、原型・源泉でもあったのだ。

 夢想とは、なによりも、あらゆる人生的な煩わしさや束縛から深層まで解放された(ちょうど旅先におけるみたいな)完全に自由な孤独のなかではじめて体験することができるもの。ぼくたちの試みが有効なのも、旅先における「旅の孤独」の自由が、絶対的自由の状態で夢想なんかしていた(らしい)ぼくたちの幼少時代をしぜんと呼びさましてしまったせい、ともいえるかもしれない。


  「イマージュがわたしたちの気に入るの

  は、あらゆる責任とは無縁の、夢想の絶

  対的自由の状態で、わたしたちが創造し

  たからである」

 

 一枚のコインの裏表みたいな、ぼくたちの内部の『夢想のメカニズム』と『幸福のメカニズム』が交互にしっかりと機能してくれれば、幸福なんて、ほんとうに、簡単なこと。

 幼少時代が復活するだけで『夢想のメカニズム』が、ぼくたちにポエジー(旅先でひたる詩情(ポエジー)が旅情というものだった)という人生最高の幸福=快楽を体験させてくれるだけではなくて、そのあとで、一枚のコインが裏返るようにして、つぎの言葉にあるような人生における総合力として、ポエジーの幸福=快楽自体が『幸福のメカニズム』と呼ぶしかないような仕方で、ぼくたちの喜びを感じる能力をどこまでもレベルアップさせながら、次第に、この人生そのものまで甘美で味わい深いものに変えてくれることになるはずだった。


  「ポエジーが人間の生活にとって一種の

  総合力であるということをわたしは証明

  したくてたまらないのだ」


 夢想なんてことをした結果として味わうポエジーとい名の夢想の幸福が、ぼくたちの感性まで変革してくれることになるからだ。


 ああ、喜びの感情こそ生きていることの証。喜びを感じないでいる状態なんて、ほんとうに、ぼくたちが存在していないのとほとんどおなじこと。そんな時間ばかりで終わってしまうとしたら、せっかくの人生、あまりにも、もったいない!


 バシュラールがその何冊もの著作のなかで、ほかにどんなことを言っていようと、ぼくたちには関係ない。ぼくたちに旅や俳句があるおかげで、「心の鏡」というイメージと「幼少時代の核」「イマージュ」「夢想」という3つのキーワードと、そうして、ぼくの「バシュラール・ノート」に書き抜いた300ほどの言葉があれば、それで十分。

 実際のところ、邦訳された2000ページを超えるバシュラールの著作を時間をかけて頑張って読みこむのと、そう多くはないバシュラールの言葉がちりばめられたこの本をくりかえし読んでいただくのと、俳句を読むことのできる日本人だけに限定されてしまうのがちょっと残念だけれど、どちらのほうが、確実に、とてつもないバシュラール的な幸福をご自分のものにするのにより有効だろうか。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


 そうだった、「夢想」とは「幼少時代の核」があらわになった状態で「イマージュ」の幸福にうっとりすること。3つのキーワードを並べただけのようなこんな単純な定義で、この本を利用しているぼくたちには用が足りてしまうのだった。


  「(幼少時代とは)輝きだす瞬間、つまり

  詩的実存の瞬間といっても同じことだが、

  その瞬間にしか現実の存在とならないも

  のである」


 そうなのだ、つまり『夢想=幸福のメカニズム』という太陽のような中心をえたおかげで、ぼくの「バシュラール・ノート」に書き抜いたすべての文章が、太陽のまわりを回るいくつもの惑星みたいな、そのことをめぐるただの補足としか思えなくなってしまった、という、この事実は大きい。

 さっき並べた夢想に関するたくさんの文章もそうだけれど、むずかしいこと抜きにして、こんなにもすごいバシュラールの言葉の数々を、そうしたメカニズムをめぐるたんなる補足として理解すればいいだけだなんて、なんという気楽さだろう!


 ぼくたちの試みの当然のなりゆきとも言えるけれど、毎日の生活の自由な時間に、バシュラールみたいに、いつでも自在にふつうの詩を読むだけで夢想を満喫することができるようになれたら、どんなに素敵だろう。


  「わたしたちは読んでいたと思うまもな

  く、もう夢想にふけっている。たましい

  のなかで受けとめたイマージュはわたし

  たちを連続的夢想の状態に導く」


  「ゆっくりと読書をすると、なんと多く

  の夢想が湧き上がってくることだろう」


  「あたかも詩人は、充分その役目を果た

  していない幼少時代、しかもわたしたち

  自身の幼少時代であって、おそらく何度

  もくりかえしてわたしたちが夢想した幼

  少時代をひきつづき持続させ、完成させ

  るかのように思われる。したがってわた

  したちが選び集める詩作品は、わたした

  ちを自然的で、本源的で、それ以前に比

  較すべきものをもたないあの夢幻状態、

  わたしたちの幼少時代の夢想と同一の夢

  幻状態へと導いていく」


 なにはともあれ、なんといってもぼくたちには旅というものがほかにあるわけだし、この本のなかの俳句で次第にレベルアップしていくポエジーをくりかえし味わうことをとおして、一句一句の俳句作品が、ゆたかな「詩的想像力」や言葉の「夢幻的感受性」をぼくたち自身のものにしてしまうために有効な、考えうる最高に理想的な手助けをしてくれることを、いまは信じていただきたい。

 ゆたかな「詩的想像力」や「夢幻的感受性」を自分のものにするということは、詩の言葉を前にしただけで、まるで条件反射のようにして湖面のようなどこかがしぜんとたちあらわれて、そこでもってイマージュが受けとめられるようになるということだろう。そうしてそれはまた、詩の言葉を前にしただけで、条件反射みたいにしてぼくたちの幼少時代がしぜんと目をさまして、いつでも、ポエジーの素晴らしい喜びを味わわせてくれるようになるということでもあるだろう。

 旅先で旅情を生んだりしたまだ自分のものとはいえない詩的想像力を、一句一句の俳句作品のなかで上手に利用して、ぼくたちに詩的なバリエーション=ポエジーを体験させてくれた(あるいは、そのうち確実に体験させてくれる)俳句形式が、そのことを実現させてくれるのだ。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


  「(幼少時代とは)輝きだす瞬間、つまり

  詩的実存の瞬間といっても同じことだが、

  その瞬間にしか現実の存在とならないも

  のである」


  「あたかも俳句は、充分その役目を果た

  していない幼少時代、しかもわたしたち

  自身の幼少時代であって、おそらく何度

  もくりかえしてわたしたちが夢想した幼

  少時代をひきつづき持続させ、完成させ

  るかのように思われる。したがってわた

  したちが選び集める俳句作品は、わたし

  たちを自然的で、本源的で、それ以前に

  比較すべきものをもたないあの夢幻状態、

  わたしたちの幼少時代の夢想と同一の夢

  幻状態へと導いていく」


 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、幼少時代という<イマージュの楽園>における夢想をそっくり追体験させてくれる》


 《俳句形式のおかげで、ぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる》


 詩的想像力なんてまだ持ちあわせていなくたって、大丈夫。むずかしいことなんか抜きにして、俳句形式が詩的想像力の代行をして、ぼくたちに素晴らしいポエジーを味わわせてくれるはず。そのうえさらに、俳句形式がぼくたちの詩的想像力までしっかりと育成してくれることになるはずなのだった。


  「私はプシシスムを真に汎美的なものに

  したいと思いこうして詩人の作品を読む

  ことを通じて、自分が美しい生に浴して

  いると実感することができたのである」



 前置きがすっかり長くなってしまったけれど、それではさっそく山口誓子のとどけてくれたイマージュの贈物でもって、バシュラールみたいに、ぼくたちも美しい生に浴してみることにしよう。5・7・5と言葉をたどっただけであらわになる、遠い日の〈イマージュの楽園〉そのままの世界。わけても、幼少時代の色彩で彩られた、冬の楽園とは……


 

  雪の果樹園白塗りの雪の柵


  汽車去りてのちの踏切雪敷けり


  月照りて落ち来る雪もなくなれり


 

  「わたしはプシシスムを真に汎美的なも

  のにしたいと思いこうして俳句作品を読

  むことを通じて、自分が美しい生に浴し

  ていると実感することができたのである……



  雪の樹のイニシャル夏に彫りしもの


  雪降れりすこし離れし海の上


  海に寄り来て海に降る雪を見る



 《俳句形式のおかげで、ぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……



  降る雪に映写つづくる映画館


  雪あはく画廊に硬き椅子置かれ


  駅の燈を雪に最も(うるは)しみ



 まさに、楽園のリアリズム。一句一句の俳句作品こそ、幼少時代という〈イマージュの楽園〉における宇宙的とまでいわれる幸福を、ぼくたちに追体験させるために作られた、最高級の《人工楽園》と呼ぶのがふさわしい。


  「孤独な子供がイマージュのなかに住む

  ように、わたしたちが世界に住めば、そ

  れだけ楽しく世界に住むことになる。子

  供の夢想のなかではイマージュはすべて

  にまさっている」


 ところで、最初の果樹園の作品はいわゆる句またがりだ。5音・7音・5音という音数律を予測して読んでいっても、ひとつの単語を分断するわけにはいかないから、どうしても無意識に、雪の果樹園(7音)/白塗りの(5音)/雪の柵(5音)というふうに読んでしまう。うまく説明できないけれど、5・7・5と予測して読みはじめて実際には7・5・5と読んでしまうところに、ある韻律的な効果が生まれているような気がする。

 海に寄り来て(7音)/海に降る(5音)/雪を見る(5音)にもおなじことがいえるだろう。ひとつの複合動詞を途中で分断するわけにはいかないからだ。

俳句は、5音・7音・5音と展開して完結し、それは同時にある完結したひとつの世界を表すことになるはずだ、という約束が、俳句定型の音数律にひとつの小宇宙を形成させる役割をあたえることになるのだろう。だから当然、俳句を読むときには、5・7・5のこの音数律を予測し期待することになる。俳句をほんの少しでも読みなれてくると、この音数律のパワーを実感することになるようだ。

 たとえば、燕という漢字は普通はつばめと3音で読むけれど、歳時記にはつばくら(またはつばくろ)という4音、つばくらめという5音の読みものっている。自分でも驚くのは、つぎの句で順番に、つばめ、つばくら、つばくらめと、音数律の5音にあわせて、無意識のうちに読み分けてしまっていることだ。

 

 たそがれの色となりつゝ燕とぶ 清崎敏郎

 燕の通り抜けゆくつづき土間 清崎敏郎

 雨がちに独活(うど)は木になり燕 大須賀乙字


 これは、俳句の音数律が、ぼくたちの俳句の読みをどれほど支配しているか、その証拠といえるだろう。そうした、5音・7音・5音の俳句形式の強力な音数律のなかで、あ行音の母音や子音と母音の合わさったか行音とかさ行音とかの言葉の音の組み合わせがいちだんと複雑に響きあって、微妙な言葉の音楽を奏でている。それと、漢字とかなの配合からくる視覚的なリズム……



  降る雪に映写つづくる映画館



  「詩篇、それはおのれ自身の韻律を創りだす

  美しき時間のオブジェである」


 なんて素晴らしい言葉だろう。バシュラールの本のなかでこの言葉にぶつかったときには、思わず力がはいってしまってやけに強く傍線をひいてしまったものだった。

日本の定型詩のなかではどちらかというと短歌にふさわしい言葉かもしれないけれど、俳句にだって、十分あてはまる。短歌が、おのれ自身の韻律を創りだす、なつかしくて愛すべき、一回限りの、かけがいのない<人生の時間>の美しきオブジェだとすると、俳句は、おのれ自身の韻律をつくりだす、はるか時間の彼方、人生の黄金時代、永遠のような、幼少時代という<楽園の時間>の美しきオブジェ、ということができるだろう……



  雪の果樹園白塗りの雪の柵



  「読書の喜びと耳のしあわせ」


 たった一行の俳句の5・7・5の基本的な音数律と、ひとつひとつの言葉が奏でる韻律、ことにも文語で書かれた言葉の一句ごとの個別的な韻律との相乗効果が、俳句のイマージュの美しさを、目立たない陰の部分で素晴らしく演出してくれているから、俳句形式が浮き彫りにしてくれるすべてのイマージュが、こんなにも美しく幼少時代の楽園の輝きをおびてくることにもなるのだろう……



  月照りて落ち来る雪もなくなれり



 まさに、楽園のリアリズム。ほんの2、3の世界の断片しか利用できない、たった一行の5・7・5の俳句形式の単純さが、俳句作品からイマージュの美しさ以外のあらゆる要素を排除してしまって、かえって、一句一句の俳句をこんなにも純粋な詩に仕上げてしまうことになるのだ、きっと……



  駅の燈を雪に最も(うるは)しみ



  「あたかも俳句は、充分その役目を果た

  していない幼少時代、しかもわたしたち 

  自身の幼少時代であって、おそらく何度

  もくりかえしてわたしたちが夢想した幼

  少時代をひきつづき持続させ、完成させ

  るかのように思われる。わたしたちが選

  び集める俳句作品は、わたしたちの幼少

  時代の夢想と同一の夢幻状態へと導いて

  いく……



  汽車去りてのちの踏切雪敷けり



 いろいろなタイプの詩のなかでもとくに俳句だけが、だれもがおなじものとして共有する「幼少時代」と、これもだれもがおなじものとして共有する汽車とか踏切とか雪とかの「世界」の記憶さえあれば、つまり、その条件を満たすすべての読者に、作品の数だけの、至純にして至福、本格的な極上のポエジーを味わわせてくれる可能性を秘めているはずなのだった。

 さらに、雪とかのおなじ言葉を何度もくりかえし利用することによって、俳句のすべての読者がポエジーを、それも季節感までプラスされたポエジーを、いっそう共有しやすくするために登録された共通の財産が季語というものなのかもしれない。

 「有季定型」とは、5・7・5の音数律が美しいひとつの詩的情景(イマージュ)を浮き彫りにしてくれるだけだってすごいのに、一句のなかにかならずひとつは雪とかの季語を入れることによって、季節感まで加味された素晴らしいポエジーをだれもがおなじものとして体験することを可能にした、ひとつの約束なのだ……



  雪降れりすこし離れし海の上



  「単純な対象を夢想する夢想のなかで、

  わたしたちは夢想する存在の多面的価

  値を認識するのである……



  雪の樹のイニシャル夏に彫りしもの



 俳句一句から作者の思いや個人的な感情を読みとろうとすることは、やっぱり、俳句の本質から遠ざかることとしかぼくには思えないし、せっかくのイマージュの美しさをだいなしにすることでしかないだろう。


 作者の個性や感性を超えた、俳句の単純な対象(イマージュ)を夢想する宇宙的な夢想のなかで、ぼくたちは夢想する存在の多面的価値を認識しながらぼくたち自身の詩的想像力を知らず知らずのうちにしっかりと養っているはずなのだ。

 そのうちいやでも、もっと複雑で多彩で個性的な、ふつうの詩の愛読者になることは約束されているのだから、そのときになってから、心魅かれる詩人たちの星の数ほどある素晴らしい詩を読むことをとおして、それに対応した作者の思いやさまざまな感情をそっくり追体験してそれらを心ゆくまで味わってやればいい。

 まあ、いまはあまり欲張らずに、ふつうの詩の愛読者になるためのプロローグともいうべき俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」を、この本のなかでしばらくはくりかえしていくことにしよう。


 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       



これからいつものことになりますが、一週間に一度だけにしてはちょっともの足りない長さだと感じられたのではないかと思います。本稿を普通の読み物みたいに一気に読んでもまったく意味はありませんし、先に進むのを惜しむようにして以前の作品をくりかえし何度も読んでいただくにはちょうどいい分量と間隔ではないかと考えています。これまでに掲載された私の作品を十分に読みこんでいただいた方ほど今回利用させてもらった俳句のポエジーもそれなりに味わえるようになったのではないかと思います。「ヒサカズ ヤマザキ」の名前で検索すればそれまでの全作品のなかから、気が向いたときに気軽に読める長さの気が向いた作品を、気ままにくりかえし何度でも読んでいただけますので、そんなふうにしておなじ俳句作品をくりかえし読んでは味わうことのできるポエジーを次第にレベルアップさせながら、心待ちにした次回作を新鮮な気持で読んでいただくというのが、本稿の有効な利用法だと考えています。1200枚ある全編には終わりというものはなくて、縦書きのちゃんとした紙の本になれば、気に入っていただいた方にとってはいつまでも手ばなせない一生の宝物になるはずですが、まだ当分はつづきそうでもそのうちたぶん終わってしまうであろう当サイトでは、どこでもいい、本になれば生涯利用することができるのに、そのうちスマホやパソコンから抹消されてしまうかもしれない本稿を、くりかえし何度でも読んでいただいて、読めることのできるうちに、本作品の目的をほんの少しでも達成していただけたらなと、心からそう思います。小説ではないので読者層はかなり違うだろうし、それほどの読者がついていなくても内容で勝負できるとは思いますが、まったく前例のないこうした原稿を本にしてくれる出版社の方の目にとまってくれる幸運を祈るばかりです。まあ、運よく書籍化できたとしても、俳句とかの雑誌に広告をのせたり宣伝次第ではこのサイトと違ってかなりの読者を獲得することができるはずですが、1200枚以上の原稿を一冊の本にするとしたら、おそらく一万円くらいの定価はついてしまうことになるでしょう。まあ、それでも、一万円で一生の宝物を手に入れられるなんて安いものだとは思うのですけれど、いかがなものでしょう。たとえ本にならなくても、考えようによっては、全部が完結すれば、本来、一万円もする作品を、このサイトではいつでも気が向いたときに無料で好きなだけ読めてしまうのですから、いつか終わってしまう日がくるとしても、利用できるうちは利用しない手はないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

 はっきり言って、現在の読者数はこの作品の価値にまったく見合っていないと歯がゆい思いをしております。せっかく検索をしてこのタイトルを目にしても俳句という言葉だけでほとんどの方が敬遠されてしまうせいだと思いますが、何度も言っているように、本稿は俳句を作るためのもではなくて、高校初級程度の文語の読解力さえあれば、俳句の素養なんかなくてもだれにでも味わえるような、やさしくてそれでいて奥深いポエジーをもたらしてくれるような俳句作品ばかりを利用させてもらっているので、もしも、気に入っていただけた読者の方が、口コミでお知りあいとかに本作品の存在をおしえていただけたなら、読者数もどんどんふえて、やっぱり、編集者の方に注目されることにもつながるのではと、ちょっとばかり期待なんかしております。いずれにしても、これからが、本稿の真価があらわになってくるはずなので、毎回日曜日の午前中に投稿するこのサイトにおける新作の掲載を楽しみにしていただけたなら、とても光栄なことです。

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