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あと数センチの夜を越えて

作者:reika1021
最終エピソード掲載日:2026/11/06
榧森由良、二十五歳。紙媒体のデザインに携わる彼女には、月に何度か神保町の古書店を巡る相手がいる。

御厨景吾、二十七歳。出版社で働く彼とは恋人でも親友でもないが、ただ本を探す日にだけ自然に会い、同じ棚の前で立ち止まり、気になった一冊を見せ合う。

用事がなくなればそれぞれの生活に戻っていく、名前をつける必要などない関係だった。少なくとも由良はそう思っていた。

けれど、ある夜、その均衡がほんの少しだけ崩れる。閉店した店の明かりが減っていく神保町で、由良と景吾の顔は触れそうなところまで近づいた。あと数センチ。

翌朝、御茶ノ水で会った景吾は挨拶より先に一冊の本を差し出し、由良はそれを受け取り礼を言った。本の話だっていつも通りできる。

できないのはひとつだけだった。「景吾」と呼ぶこと。昨日までは何の意味もなかったはずの名前が今朝は喉の奥でひどく重い。

そして景吾も、その日一度も由良の名前を呼ばなかった。言葉はいくらでも交わせる街なのに、互いの名前だけが会話から抜け落ちていた。奇妙な沈黙ではなく、声のある不在だった。

言いかけた言葉を急かさず待ってくれることも、由良が手に取った本をいつの間にか覚えていることも、今まではただの景吾らしさだったけれど、一度恋を疑ってしまえば同じ景色には戻れない。見落としていたものばかりが、遅れて胸に届いてくる。

景吾の恋は、由良が気づくよりずっと前に始まっていたのかもしれない、と思うたび、昨夜止まった数センチの意味まで変わっていく。近づいたことよりも、最後に彼が止まったことのほうが今は苦しかった。

好きだと認めれば今までの関係には戻れないし、認めないままでいればこの時間そのものを失うかもしれない。由良の胸に残る、どちらにも進めない怖さ。

それでも由良には大げさな告白なんてできない。だから最後に必要になるのはたった一度、その人の名前を呼ぶこと、「景吾」と。

『あと数センチの夜を越えて』は、触れなかった距離と、呼べなくなった名前の間で恋を知っていく物語だ。

紙とインクの匂いが残る神保町。恋人になるほんの少し手前にしか存在しない、不安定でどうしようもなく愛おしい時間。その最後に待つのは、ずっと言えなかった名前を呼ぶ夜。
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