第2章:空白に気づく日
数日が経っても、由良の耳の奥にはまだあの夜の声が響いている。景吾に呼ばれた自分の名前だけが、記憶の底で小さく光り続けている。
あの一言を思い出すたびに、由良は自分の胸の奥がわずかに温度を変えるのを感じる。名前を呼ばれるということが、こんなにも重いものだったとは知らなかった。
日々の仕事の合間にも、ふとした瞬間にその声がよみがえる。原稿のレイアウトを確認している最中でさえ、由良の意識は不意に橋のたもとへ引き戻される。
次に会う約束はいつも通りメッセージ一本で決まる。日付と時間だけが書かれており、それ以上の言葉はない。由良はその素っ気なさに今回だけは少し安堵する。
カレンダーに書き込んだ日付を由良は何度も見返していた。他の予定と並べてみると、その日だけが特別な色を帯びているように感じられた。
理由は自分でもわかっていたが、わかっていながら由良はそれを認める言葉をまだ持たずにいた。
当日の朝、雲の薄い膜が空全体を覆っていた。神保町の駅を出ると、湿った紙の匂いがいつもより濃く感じられ、前日の雨で街の輪郭がわずかに柔らかくなっていた。
駅の階段を上がると、傘を持った人々が足早に行き交っていた。由良は傘の柄を握り直しながら、今日はどんな顔で景吾に会えばいいのかと考えた。
考えたところで答えが出るはずもない。そう思いながらも、由良の足はいつもと同じ速さで待ち合わせ場所へと向かっていった。
待ち合わせ場所に着くと、景吾はすでに来ており、傘を軽く畳みながら由良のほうへ視線を上げた。
「おはよう」
短い挨拶だけが交わされ、名前はやはりどちらの口からも出てこなかった。
由良はそのことに前回ほど驚かない。むしろどこかで予想していた自分がいる。
濡れた石畳の匂いがその沈黙を埋めるように漂い、歩き出すと靴底が水たまりを踏む音が規則的に響く。
濡れたアスファルトに街路灯の光が長く伸びて映っており、景吾の靴先がその光の帯を踏むたび、水面のような揺らぎが足元に広がった。
由良はその揺らぎを目で追いながら傘の柄を握る手に少し力を込めた。手の中の感触だけが今はやけにはっきりとしている。
「傘、持ってきてよかった」
景吾がそう言って、傘の先で小さな水たまりをつつく。由良はその仕草を横目で見ながら、名前のかわりに笑みだけを返した。
会話はいつも通りに始まっていく。棚の並びの話、最近入った本の話、店主の噂話。話題そのものには何の不自然さもない。
ただ、話の切れ目で相手を呼ぶべき場所にいつも小さな空白が生まれるのを、由良は今日はっきりと意識した。
歩道に並ぶ古書店の軒先には雨除けのビニールがまだ半分かかったままになっており、店主たちが慌ただしく片づける様子を由良は横目に眺めた。
「今日は本降りにならないといいけど」
景吾がぽつりと言った。空を見上げるその横顔に、由良はなぜか目を離せずにいた。理由を考える前に、視線のほうが勝手に動いている。
棚を巡る間、由良は何度か景吾の名前を呼びかけ、そのたびに寸前で言葉を差し替えた。差し替えた言葉のほとんどは、我ながら不自然に響いた。
それでも景吾は、その不自然さを指摘しなかった。指摘しないことのほうが、今の由良には救いのように感じられた。
一軒目の店に入ると、雨の湿気が本の匂いと混ざり合っていた。棚の奥から、古い紙特有の甘い匂いが立ちのぼっていた。
景吾は入り口近くの棚を眺め、由良は奥の方へ進んだ。距離が開くと、由良は振り返って声をかけようとした。
「ねえ」
「ねえ」
同時に発した言葉が狭い通路の中でぶつかり、どちらも一瞬黙って、それから小さく笑った。名前のかわりの「ねえ」がいつのまにか互いの合図になっている。
その合図に気づいた瞬間、由良の中で何かが引っかかった。呼びかけの言葉を無意識に選び直しているのは、自分だけではないのだ。
景吾も同じように名前を避けて別の言葉を探していることに、今日初めて気づいた。
「さっき、何か言おうとしてた?」
由良が聞くと、景吾は少し間を置いて、棚の背表紙を指でなぞりながら視線を本の背に落としたまま答えた。
「いや。特には」
短い否定。けれど、その間の長さが由良には妙に引っかかる。何かを言いかけて飲み込んだ気配がある。
その飲み込んだ気配は、由良自身も今朝から何度も繰り返しているものだ。似たしぐさを相手の中に見つけると、鏡をのぞいたような落ち着かなさが胸に広がる。
店を出ると、雨上がりの空気が少しずつ晴れ間を見せ始めている。雲の切れ目から薄い光が路地に差し込んでくる。
「次、あっちの店行ってみる?」
景吾が指差した方向には間口の狭い店が並んでおり、由良は頷いて濡れた歩道に足を踏み出した。
歩きながら、由良は昨夜のことを何度も思い返している。橋のたもとで呼ばれた名前、その響きがまだ耳の奥から離れない。
景吾のほうも、同じ記憶を抱えているのだろうか。由良にはその答えがわからない。わからないことのほうが、今はかえって落ち着かない。
二軒目の店の天井は低く、蛍光灯の光は黄色みを帯びている。棚と棚の間隔が狭く、身体を横向きにしなければ通れない場所もある。
その狭さのせいで、通路ですれ違うたびに肩が触れそうになり、そのたびに由良は小さく息を止める。
景吾のほうも、同じように身体を引いているのがわかる。互いに避けようとする動きが逆に距離の近さを際立たせていく。
狭い通路の途中、由良は足元の段差に気づかず、小さくよろけた。とっさに伸びた景吾の手が、由良の肩の少し手前で止まった。
触れる直前で止まったその手を、由良はしばらく視界の端で意識していたが、景吾もまた、伸ばした手をゆっくりと引っ込めた。
「大丈夫?」
「うん、平気」
短いやりとりのあとに残ったのは、触れなかった距離の記憶だけだった。その記憶は思っていたよりも長く、由良の中にとどまる。
「この棚、詩集ばっかりだ」
景吾が言うと、由良は近づいて背表紙をひとつずつ確かめた。古い詩集の題名が活字の癖とともに目に飛び込んできた。
「好きな詩人、いる?」
「昔はよく読んでた。今はあんまり」
会話の中に由良は小さな引っかかりを見つける。景吾が「今は」と口にするとき、その先に何かが続きそうな気配があるが、続かなかった言葉の輪郭だけがその場に残る。
由良はその詩集の一冊を手に取り、目次をたどった。知らない詩人の名前が並んでいる。景吾が昔読んでいたという詩人がその中に含まれているのかどうか、由良にはわからなかった。
わからないことは今日はそのままにしておく。すべてを知ろうとしないことも、この関係を保つための一つの方法なのかもしれない。
続きを聞きたい気持ちを、由良は飲み込んだ。今日はそれを聞く資格がまだ自分にない気がしたからだ。
棚の奥から、パラパラとページをめくる音が聞こえる。他の客が一人、静かに立ち読みをしているのだ。その音に紛れて、由良は景吾の呼吸の間隔を数えていた。
数えたところで意味などない。それでも由良は、その数え方をやめられずにいる。
店主が奥から出てきて由良たちに会釈をすると、由良も小さく頭を下げた。日常のやり取りが今日の不自然さを一瞬だけ覆い隠した。
店を出ると、通りの向こうに小さな喫茶店の看板が見えた。どちらからともなく、そちらへ足を向けた。
「入る?」
「うん」
短いやりとりだけで行き先が決まっていく。名前がなくても、この呼吸の合わせ方だけは変わらないままだ。
店内は薄暗く、木の椅子が窓際に並んでいる。座ると、外の雨上がりの光が窓ガラス越しに柔らかく差し込んでくる。
「昨日、あのあと眠れた?」
景吾がふいに尋ねた。由良は一瞬答えに詰まった。眠れなかったことを認めるのは、名前を呼ぶのと同じくらい難しい。
「……あんまり」
正直に答えると、景吾は小さくうなずいた。追及はしない。ただ、そのうなずき方に、由良は何かを見透かされたような気がする。
「俺も」
短い返事だった。その一言が由良の中で思っていたよりも大きく響いた。
眠れなかったのは自分だけではない。そのことを、由良は今初めて言葉として受け取った。
沈黙が流れても、今日はそれほど気まずくない。むしろ、その沈黙の中に互いの呼吸の速さを探り合うような時間が生まれている。
カップの中でコーヒーの表面がわずかに揺れ、外を歩く人の足音がガラス越しに低く響いてくる。
由良はスプーンを回しながら、今日一日で何度も繰り返された沈黙の質を思い返していた。気まずさとは違う。かといって心地よさとも言い切れない。
その中間にある感触を、由良はまだ名付けられずにいる。名付けられないもののほうが、今の由良には多いようだった。
「あのさ」
景吾が口を開きかけたので、由良は身構えたが、続く言葉は思っていたものとは違っていた。
「今度、詩集の復刻フェアがあるらしい。行く?」
肩透かしのような質問に、由良は少し笑って頷いた。安堵とわずかな落胆が同時に胸を通り過ぎていく。
「行きたい」
短く答えると、景吾の表情がわずかに緩んだ。話題は再び本のことに戻っていき、名前を避けたまま会話だけが滑らかに進んでいった。
昼を過ぎ、外の光は少しずつ白さを増していく。雨上がりの街はいつもより輪郭がくっきりとして見える。
店を出ると、通りに人が増え始めており、学生や観光客らしき人々が傘を畳みながら行き交っていた。
「このへん、雨上がりのほうが好きかも」
由良がつぶやくと、景吾も同意するようにうなずいた。乾き始めた石畳から、舗装の匂いが立ちのぼってくる。
歩きながら、由良は景吾の横顔をちらりと見た。いつもと変わらない表情のはずなのに、今日は少しだけ違う色を帯びて見えた。
その違いが何なのか、由良にはまだ言葉にできない。ただ、確かにそこにある変化を、由良は見落とさないようにしている。
三軒目の店に入ると、店主が奥で古い写真集を整理していた。埃っぽい空気の中に、革表紙特有の匂いが混ざっていた。
三軒目の店の看板には達筆な筆文字で店名が書かれており、文字の掠れ方から何十年も同じ場所にあることが伝わってくる。
戸を開けると、鈴の音が小さく鳴り、店主が顔を上げて由良たちに軽く目礼した。挨拶を交わす声のほうが名前よりもずっと自然に出てくることに、由良は密かに苦笑した。
由良は写真集のコーナーへ、景吾は文庫本の棚へと足を進める。距離が離れると、由良の視線は自然と景吾の背中を追っていく。
その背中が今日はいつもより少し丸まって見える。何かを考え込んでいるときの姿勢に似ている。由良はその変化に気づきながら声をかけずにいる。
声をかければ、また名前のところで止まってしまう。それなら、今は黙って見ているほうが良い、と自分に言い聞かせる。
棚の隙間から差し込む光が、ほこりの粒を金色に照らしている。由良はその光の中に立ちながら、自分の呼吸が少しだけ浅くなっていることに気づく。
浅い呼吸のまま、由良は一冊の写真集を手に取った。古いモノクロの街並みが写っている。表紙の隅が擦り切れていて、持ち主が長く大切にしてきたことが分かる。
「それ、いいね」
景吾がいつの間にか隣に来ていた。由良は驚いて顔を上げると、距離が思っていたよりずっと近いことに気づく。
「……びっくりした」
「ごめん」
謝る声がいつもより低く柔らかい。由良はその声の質感にまた喉の奥が小さく強張るのを感じる。
途中、由良は棚の隅に猫が丸くなって眠っているのを見つけた。店の看板猫らしい。景吾もそれに気づき、しばらく視線をそこに集めていた。
「この子、いつもここにいるんだ」
景吾がそう言うと、猫が薄目を開けてこちらを見たが、すぐにまた目を閉じて興味なさそうに丸くなり直した。その様子に、由良は思わず小さく笑った。
写真集を挟んで視線が一瞬重なるが、すぐにどちらも目をそらした。そらした先で互いの息遣いだけがはっきりと聞こえる。
店を出るころには空はすでに夕方の色に変わり始めており、雲の切れ目から差す光が通りの水たまりに反射して揺れていた。
「今日、もう一軒だけ寄っていい?」
景吾が聞くと、由良は頷いた。まだ帰りたくない気持ちが、自分でも意外なほどはっきりとある。
最後の店は他よりも奥行きがあり、二階まで棚が続いている。階段を上る足音が静かな店内に響く。
二階の窓際には小さな机と椅子が置かれており、読書スペースのようだ。由良はその椅子に腰を下ろし、先ほどの写真集を開く。
景吾は隣の棚を眺めながら時折こちらへ視線を向けており、その視線の頻度がいつもより多い気がする。
「集中してる?」
「うん、ちょっとだけ」
短いやりとりの後、景吾は少し離れた場所に座った。距離は保たれているのに、由良には近くに感じられた。
本棚の間から漏れる灯りが、二階の床に細い縞模様を描いていた。由良はその縞の上に足を置きながら、椅子に座る景吾の様子をそっとうかがう。
景吾はページをめくる手を止め、窓の外を眺めていたが、その視線の先に何があるのか由良には見当がつかなかった。
窓の外では、夕暮れの光が街灯の明かりに少しずつ入れ替わっていき、ガラス越しに見える街並みが橙色に染まっていく。
写真集のページをめくりながら、由良は不意に手を止めた。ある一枚の写真に、見覚えのある坂道が写っていた。
「これ、御茶ノ水の坂じゃない?」
由良が声を上げると、景吾が近づいてきて、肩が触れる距離まで身を寄せ、写真をのぞき込んだ。
「本当だ。昔の坂道、雰囲気違うね」
互いの頭が写真の上でほとんど触れそうなほど近づき、由良は息を詰めて写真から目を離せずにいた。
その近さの中で、由良はふと気づいた。景吾の視線が写真ではなく、自分の横顔に向けられていることに。
時間が止まったような数秒の後、由良は自分の頬がわずかに熱を持っているのに気づいた。窓から差し込む夕方の光のせいにしてしまいたい気持ちが頭の隅をよぎる。
景吾のほうも少し気まずそうに視線を泳がせていた。狭い空間で肩を寄せ合う近さが今日はいつもより重たく感じられた。
気づいた瞬間、由良は写真集を閉じた。景吾はすぐに体を引いて、何事もなかったように棚のほうへ視線を戻した。
「……買おうかな、これ」
由良がつぶやくと、景吾は小さくうなずいた。会話の温度が少しだけ元に戻っていく。
階段を下りる途中、景吾がふと足を止めて振り返った。由良は数段上でその視線を受け止めた。
「なんでもない。降りよう」
そう言って景吾は先に階段を下りていった。由良はその背中を見ながら、また一つ聞けなかった問いを胸の中に仕舞う。
会計を済ませ店を出るころには、通りはすっかり夜の気配に包まれていた。街灯の明かりが濡れた石畳を橙色に染めていた。
「今日も、いい一日だった」
由良が言うと、景吾は少し間を置いてからうなずいた。いつもの言葉に、今日はどこか違う響きが混じっている気がする。
橋を渡る風が由良の前髪を軽く揺らし、川の匂いには雨上がり特有の土っぽさが混じっていた。
欄干に手をかけたまま、由良はしばらく川面を見下ろしていた。流れる水の模様が今日一日の会話の断片と重なって見える気がした。
橋のたもとまで来ると、景吾は足を止めた。川面に映る街灯の光が細かく揺れている。
「昨日のこと、覚えてる?」
景吾がふいに聞いた。由良の心臓が一瞬だけ大きく跳ね、答えを探しながら視線を川面へ落とした。
「……覚えてる」
短く答えると、景吾は何かを言いかけてまた飲み込んだ。その仕草を由良はもう何度も見ている。今日だけで数えきれないほど繰り返された仕草だ。
「じゃあ、また」
結局、景吾はそれだけを言って背を向けた。由良はその背中を見送りながら、今日一日で気づいたことを頭の中で静かに並べ直す。
名前を避けているのは自分だけではないこと、景吾も同じように呼びかけの言葉を選び直していること、その事実が由良の中で確かな輪郭を持ち始めている。
家までの道を歩きながら、由良は今日の景吾の仕草を何度も思い返した。棚の陰から向けられた視線、写真集越しの近さ、飲み込まれた言葉の数々。
そのどれもが以前なら気づかずに通り過ぎていたはずのものだが、今日、由良の目にはそれがはっきりと映っている。
部屋に着くと、由良は買った写真集を机に置いた。ページを開かないまま、しばらくその表紙を見つめた。
表紙に写る古い街並みを眺めながら、由良は自分の中の変化に戸惑っていた。呼べない名前の重さが今日はまた少し違う形をしていた。
窓の外では、夜の街の音が遠くから微かに届いている。由良は椅子に座り、写真集の表紙を指でなぞる。
指先の感触が、今日一日で触れそうになったいくつもの瞬間を思い出させていた。触れなかったことの意味を、由良はまだうまく言葉にできなかった。
写真集の表紙をなぞりながら、由良は今日一日の出来事をもう一度頭の中で順番に並べ直していた。触れそうになった手、飲み込まれた言葉、写真越しの近さ。
そのどれもが単独では小さな出来事にすぎないが、積み重なると由良の中で無視できない重さに変わっていく。
呼ばないことに今日初めて気づいた。呼べないことはもう何日も前から知っている。その二つの違いが由良の中で静かに沈んでいく。
由良は写真集を閉じ、机の端に寄せた。部屋の電気を落とすと、窓の外の街灯の光だけが天井にぼんやりとした輪を描いていた。
写真集を買った理由を、由良は自分の中でうまく説明できずにいた。古い坂道の写真が懐かしかったからなのか、それとも別の理由があるのか。
その問いに答えを出さないまま、由良は部屋の明かりを見つめ続けた。
布団に入ってからも、由良は何度も寝返りを打った。目を閉じるたび、今日一日の景吾のしぐさが順番に浮かんでは消えていく。
明日になればまた日常に戻る。明日の仕事のことを思うと少しだけ現実に引き戻される感覚があったが、それでも今夜の由良の意識はまだ橋のたもとに留まったままである。
けれど今夜だけは、この気づきの重さを抱えたまま、由良はしばらく眠れそうになかった。




