第5章:心が急いていた朝
目が覚めた瞬間、由良はまず今日が何曜日かを確かめた。指折り数えるまでもなく答えはすぐに出てきた。今日は景吾と会う日だ。
布団の中で由良はしばらく天井を見上げている。まだ起き上がる時間には早いのに、身体のほうがすでに目覚めている。
携帯電話の画面を確認すると、まだ夜も明けきらない時刻が表示されていたが、それでも由良は二度寝をする気になれなかった。
枕元に置いた本を手に取り、数ページだけ目を通してみたが、文字を追う集中力は続かず、気づけば同じ行を何度も読み返していた。
カーテンを開けると、朝の光が部屋いっぱいに差し込んでくる。空は薄い水色で、雲の輪郭がやわらかくにじんでいる。
洗面所で顔を洗いながら、由良は鏡の中の自分と目を合わせる。特別なことは何もないはずの朝なのに、頬のあたりに落ち着かない色がにじんでいる。
朝食を用意する手もいつもより軽く、トーストを焼く時間さえ今日はやけに短く感じられる。
クローゼットの前で、由良は珍しく服を二着並べて迷った。普段なら考えもせずに一枚を選ぶはずだった。
結局選んだのは、いつもと同じような色合いの一枚だった。それでも、選ぶまでの時間の長さに由良は自分でも驚く。
身支度をしながら、由良は自分がこんなに早く準備を終えたことに遅れて気づく。まだ待ち合わせまでずいぶんと時間がある。
早すぎる時計の針を、由良は少し戸惑いながら見つめた。急ぐ理由などなかったはずなのに、身体はすでに出かける態勢を整えている。
玄関で靴を履きながら、由良は自分に問いかけた。なぜ、こんなに早く支度を終えたのだろう? 答えは、あまりに単純でかえって直視しづらいものだった。
会うことを楽しみにしていた。それだけのことなのに、その事実を認めるのに由良はしばらく時間を要した。
駅までの道すがら、足取りがいつもより軽いことに由良自身が驚いていた。急いでいるわけではないのに、いつもより一歩ずつが弾んでいるようだ。
電車の中で由良は、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。乗客の話し声も車両の揺れも、今日はすべてが遠く感じられた。
改札を抜けると、構内の花屋がちょうど開店準備をしていた。バケツに立てられた花々に店員が丁寧に水をやっている。
その光景を横目に、由良はふと、自分も誰かに花を贈ったことがあっただろうかと考えたが、思い当たる記憶はすぐには出てこなかった。
御茶ノ水の駅を出ると、坂の下から吹き上げる風が頬をなでた。湿った土の匂いが朝の空気にかすかに混じっている。
坂を上りながら、由良は約束の時間を頭の中で数える。まだ十分すぎるほど早い。それでも足は止まらず、坂を上り続けている。
坂の途中で由良は思わず苦笑した。待ち合わせ場所に着いても景吾はまだ来ていないだろう。それでも待つこと自体が嫌ではない自分がいる。
橋のたもとに着くと、案の定、そこには誰の姿もない。
待つ間、由良は欄干の下をのぞき込み、水面に映る自分の輪郭を眺めていた。風が吹くたび、その輪郭は小さく揺れて崩れる。
崩れては元に戻るその繰り返しを、由良は飽きることなく見つめ続けていた。欄干にもたれて川面を流れる光の粒を眺める。
その一方で、由良は自分の中に生まれた奇妙な感覚を確かめていた。焦りでも退屈でもない、静かな期待だけがそこにある。
これまで待ち合わせの時間を早めることなどほとんどなかったが、今日、由良は初めて自分がそれを望んでいたことに気づく。
しばらくして、坂の下から見慣れた歩き方が近づいてきた。由良はその歩調を目で追いながら、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。
「早いね」
景吾が驚いたように言うと、由良は肩をすくめて曖昧に笑って答えた。
「なんか、目が覚めちゃって」
嘘ではなかったが、その理由のすべてを由良はまだ言葉にできずにいた。
並んで歩き出すと、朝の空気がいつもより澄んで感じられ、石畳を踏む音が揃った拍子で響いていた。
「今日はどこから回る?」
「まだ行ったことない店、あるんだ」
景吾がそう言うと、由良は素直にうなずいた。行き先がどこであっても、今日はそれほど気にならない気がする。
案内されたのは、細い路地の奥にひっそりと建つ店だった。看板は色あせており、扉には古びた真鍮の取っ手がついていた。
扉を開けると、控えめに鈴の音が鳴る。
扉の奥から、店主らしき年配の女性が顔をのぞかせた。眼鏡の奥の目が、由良たちを見て柔らかく細まる。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていって」
その声には長年この場所を守ってきた人特有の落ち着きがあり、由良はその声に安心しながら店の奥へと足を進めた。店内にはこれまで訪れたどの店とも違う静かな緊張感が漂っていた。
由良は棚の間をゆっくり歩きながら、その空気の質感を確かめる。紙の匂いに微かに墨の匂いが混じっている。
「ここ、書道具も扱ってるんだ」
景吾が奥のガラスケースを指差した。由良は近づき、並べられた筆や硯をのぞき込む。
硯の並ぶ棚の前で、由良は墨を磨る所作を思い浮かべた。習ったことはないのに、なぜか懐かしい気持ちになった。
「やってみる?」
景吾が試し書き用の紙を指差した。由良は少し戸惑いながらも筆を手に取ってみることにした。
「珍しいね、こういう店」
「由良は紙とか道具に詳しいから、気に入るかなと思って」
その一言に、由良は思わず景吾の顔を見た。
筆先に墨をつけ、由良は白い紙の上に恐る恐る線を引いたが、思っていたよりも太く、震えた線になった。
「難しいね、これ」
由良が苦笑すると、景吾も筆を取って隣に線を引いた。2本の線が紙の上でわずかに交差した。
その交差した部分を見つめながら、由良は妙にくすぐったい気持ちになった。景吾は少し照れたように視線をそらして別の棚へ移動していく。
由良はその背中を見送りながら、今日のために選ばれた店なのだと気づいた。偶然ではなく、由良のために用意された時間だ。
棚の隅に、色とりどりの糸で綴じられた小さな冊子が並んでいた。手作りらしい素朴な作りに、由良は職業柄、つい目を留めた。
「これ、誰かの手製かな」
由良がつぶやくと、店主が奥から「昔、常連さんが趣味で作ってたのよ」と答える。店主は懐かしそうに笑っていた。
その気づきが由良の胸にゆっくりと広がっていく。誰かのために何かを選ぶという行為の重さを由良は改めて感じていた。
棚の奥で由良は、一枚の古い便箋を見つける。淡い水色の紙に細かい花模様が刷り込まれている。
「これ、きれい」
と由良がつぶやくと、景吾が近づいてきて便箋を一緒に覗き込み、しばらく無言でその模様を眺めた。
「買う?」
「うん、少し」
便箋を選ぶ由良の横で、景吾は封筒のコーナーを眺めていた。花模様に合う色を真剣な顔で選んでいる。
「これ、合うんじゃない?」
差し出された封筒は、便箋の水色によく馴染む淡いクリーム色だった。由良はその選び方の丁寧さにまた小さな驚きを覚える。
由良は数枚を選び、レジへ向かった。会計を終えて店を出ると、路地には昼前の光が柔らかく差し込んでいた。
会計の順番を待つ間、由良は店の奥に飾られた古い広告のポスターに目を留めた。色あせた文字が時代の重なりを静かに物語っている。
色あせたそのポスターに、由良は店が積み重ねてきた年月の長さを重ねて見ていた。
「いい店だったね」
由良が言うと、景吾は満足そうにうなずいた。その表情に、由良の中で何かが確かに変わり始めている。
次の店に向かう道すがら、由良は朝の自分を思い返していた。理由もわからず早起きし、急ぐ必要もないのに家を出た自分を。
その理由が今ははっきりと形を持って見えている。由良は、会えることを心のどこかでずっと待ち望んでいる。
二軒目に向かう道の途中、由良は自分の歩幅が景吾のそれに自然と合っていることに気づいた。合わせようとしたわけではないのに、いつの間にか揃っている。
その事実に由良はなぜか気恥ずかしさを覚え、誰に見られているわけでもないのに頬のあたりが少し熱くなった。
二軒目の店に入ると、明るい光が棚の隅々まで届いていた。由良は本を選びながら、時折景吾の様子を目で追った。
棚の間で、由良は自分がいつの間にか景吾の好きな作家の名前をいくつも覚えていることに気づいた。教わったわけでもないのに、自然と頭に残っている。
覚えていることを口にすれば、きっと驚かれるだろう。由良はその驚く顔を想像して、少しだけ楽しくなった。
視線を向けるたび、由良は自分が以前よりずっと大胆になっているのを感じる。以前なら、こんな風に視線を向けることさえためらっていたはずだ。
「これ、面白そうな装丁だね」
景吾が声をかけてきたので、由良は近づいて差し出された本を受け取った。この時間がいつまでも続けばいいと、由良はふとそんなことを思った。
その願いの強さに由良自身が驚く。これまでこんなにも強く何かを望んだことがあっただろうか。
昼どき、小さな定食屋に入った。木のテーブルに並んだ料理から湯気がゆっくり立ちのぼっている。
定食屋の壁には常連客たちの色紙が何枚も飾られていて、由良はその中の一枚に描かれた似顔絵に思わず笑ってしまう。
「これ、店主の若い頃?」
「かもね。面影ある気がする」
そんな他愛もない会話が今日はいつもより弾んで聞こえた。
「午前中、なんか楽しそうだったね」
景吾がふいに言うと、由良は箸を止め、少し考えた。
「楽しかった、かも」
素直な答えに景吾は嬉しそうに笑い、その笑顔に由良の胸の奥がじんわりと温かくなった。
食事をしながら、由良は今日一日をどう過ごすか頭の中で組み立て始めた。次はどこへ行くか、何を話すか、そのすべてが由良には楽しみだった。
これまで、こんな風に先の時間を心待ちにすることは由良にとって珍しいことで、楽しみという言葉が今日はやけに大きな意味を持って由良の中に居座っている。
食事を終えて店を出ると、午後の光が石畳を明るく照らしていた。由良は空を見上げ、雲の流れる速さを目で追った。
食後、由良は湯呑みに残ったお茶を見つめながらこれから先の時間の使い方を考えている。行き先を決めない自由さが今日はやけに心地よく感じられる。
窓の外を通り過ぎる人々の姿を目で追ううちに、胸の中にあった小さな焦りが少しずつ薄らいでいった。
「次、どこ行く?」
由良が聞くと、景吾は少し考えるように視線を上げた。
「由良の行きたいところ、ある?」
問い返されて、由良は一瞬言葉に詰まった。行きたい場所というより、ただこの時間が続いてほしいという気持ちのほうが強かったからだ。
「じゃあ、適当に歩こうか」
由良の提案に景吾は頷いた。目的地を決めずに歩くことなど、これまでの古書店巡りではほとんどなかった。
目的のない散歩は由良にとって新鮮だった。棚を目指すのではなく、ただ隣を歩くこと自体が今日は目的になっている。
路地の途中、由良は小さな公園を見つけた。
公園の入り口には季節外れの紫陽花が数輪だけ咲き残っており、色あせた花びらが風にわずかに揺れていた。
「まだ咲いているの、珍しいね」
由良が指差すと、景吾も足を止めてそちらを見た。しばらくの間、その健気な花を並んで眺め続けた。ベンチに座り、しばらく無言で緑を眺めた。
「こういう時間、いいね」
景吾がぽつりと言った。由良は頷きながら、この静けさをずっと覚えていたいと思った。
風が木の葉を揺らし、乾いた音が公園に響く。その音に紛れて、由良は自分の呼吸が景吾のそれと重なっていくのを感じた。
「由良は、こういう休みの日、いつも何してるの?」
景吾が聞くと、由良は少し考えてから答えた。
「特に何も。本を読んだり、仕事の資料を見たり」
「今日は、それより楽しい?」
その問いに、由良は思わず笑った。答えるまでもないことを景吾はあえて聞いている気がした。
「うん、楽しい」
短い答えに景吾は満足そうに目を細めた。その様子を目にした瞬間、由良の中の何かがもう後戻りできないところまで動いている。
棚の奥に由良の勤め先が過去に手がけた本を見つけたときは、思わず声が出そうになった。装丁のクレジットには覚えのない名前が並んでいるが、紙の選び方に見覚えがある。
「これ、うちの会社が関わった本かも」
由良が説明すると、景吾は興味深そうに手に取り、ページをめくり始めた。
由良は本のページ間に栞代わりの薄い紙が挟まっているのに気づき、抜き出してみると、誰かの手書きの短いメモだった。
「本の感想、書き残してたのかな」
由良がつぶやくと、景吾も興味深そうにのぞき込み、読めない筆跡の断片にしばらく想像を巡らせた。仕事の話をこんな場所でするのは初めてだった。
夕方が近づくと、公園の木々の影が長く伸び始め、光の色が少しずつ橙色に変わっていく。
夕暮れの光の中、由良は自分の影が景吾の影とわずかに重なっているのに気づいた。長く伸びた二つの輪郭が地面の上で一つに溶け合っている。
その景色を見た瞬間、由良は思わず足を止めそうになったが、景吾は気づかずにそのまま歩き続けていた。
「そろそろ、最後の店行こうか?」
景吾の声に、由良は名残惜しさを感じながら立ち上がった。まだこの時間を終わらせたくないという気持ちが、由良の中で静かに主張している。
最後の店の天井は低く、落ち着いた造りだ。棚の隙間から差す夕方の光が、埃をゆっくり照らしている。
由良は棚の間を歩きながら、今日一日の記憶を頭の中で並べている。早起きした朝、選んだ店、目的のない散歩、そのどれもが由良にとって新しい発見だった。
新しい発見の中心にはいつも景吾がいて、その事実に由良はもう目を背けることができなくなっている。
「今日、ありがとう」
由良が言うと、景吾は少し驚いたような顔をした。
「こちらこそ。楽しかった」
短いやりとりの後、どちらからともなく視線を交わす。その視線の中に、これまでとは違う何かが混じっている気がする。
店を出ると、通りはすっかり夕暮れの色に染まり、街灯が点り始め、それぞれの影を長く伸ばしていた。
三軒目に向かう途中、由良は自動販売機の前で足を止め、缶コーヒーを一本買った。
道端の自動販売機の隣で、猫が一匹、日向ぼっこをしていた。人が近づいても逃げる様子はなく、片目だけ薄く開けてこちらを見ている。
「人懐っこいね」
由良がしゃがみ込むと、猫は小さく鳴いてまた目を閉じた。その気楽さに由良は少しだけ癒やされ、景吾にも一口勧めた。すると、素直に受け取ってくれる。
三軒目の店の軒先には色あせた暖簾が下がっており、潜るときに由良は自然と頭を低くした。
店内は他の二軒より狭く、棚と棚の間隔もギリギリだ。それでも、その窮屈さが今日は不思議と心地よく感じられた。
「甘いね、これ」
「由良の好きな味でしょ」
言い当てられて、由良は思わず笑ってしまう。好みまで覚えられていることに、今日はもう驚かなくなっている自分がいた。
橋のたもとに着くと、景吾は足を止めた。川面に映る夕焼けがゆっくりと色を変えていく。
「今日、朝から楽しみだったんだ」
由良は思わず口にした。景吾は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「俺も」
短い言葉が由良の胸に深く響き、感じていたのは自分だけではないという確信が由良の中で静かに形を持ち始めた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
いつもの別れの言葉を交わし、それぞれ橋を渡って別々の方向へ歩き出す。今日はその足取りがいつもより名残惜しく感じられる。
家までの道を歩きながら、由良は朝からの自分をもう一度たどり直す。早起き、弾む足取り、選ばれた店、目的のない散歩。
そのすべてが、一つの答えに向かって積み重なっているように思える。恋ではないと思っていた気持ちを、由良はもう否定できなくなっている。
部屋に着くと、由良は買った便箋を机に並べる。
便箋を並べた机の隅には、今日買った試し書きの半紙も置かれており、震えた線がまだ乾ききらないインクの跡を残していた。
その線を指でなぞりながら、由良は今日という日をいつまでも覚えていたいと思う。淡い水色の紙が夜の照明の下で静かな光を放っている。
その紙の色を眺めながら、由良は朝からの自分を振り返る。会えることを心のどこかでずっと楽しみにしていた自分を。
夕食の支度をする気力もなく、由良は買ってきた総菜を温めるだけで済ませる。テーブルに向かいながら、頭の中はまだ今日の記憶でいっぱいだった。
箸を持つ手が止まるたび、由良は無意識に今日の景吾の言葉を思い出しては口元を緩めている自分に気づく。
窓の外では夜の街の灯りが遠くまで続いており、由良はしばらくその光を眺めた後、静かにカーテンを引いた。
入浴後、由良は鏡の前で髪を乾かしながら、自分の表情をもう一度確かめる。疲れているはずなのに、目元にはまだ明るさが残っている。
スマートフォンのカレンダーを開き、由良は次に会える日をそっと確かめる。まだ何も決まっていない空白の欄だけが妙に目につき、離れない。
早く埋めたいという気持ちを、由良は自分でも意外に思いながら見つめていた。
洗面所で歯を磨く間、由良は鏡越しに干したままのタオルの柄をぼんやりと眺めていた。何でもない日常の景色が、今日はどこか違って見える。
その違いは外の世界ではなく、自分の内側にあることを由良は理解している。
携帯電話の充電ケーブルをつないだ後、由良は今日撮った数枚の写真を見返す。硯や筆先、水色の便箋、猫の丸まった背中。
どれも取り立てて特別な被写体ではないはずなのに、見返すたびに小さな喜びが胸の奥からわき上がってくる。
その明るさの理由を、由良はもう隠す必要を感じていなかった。
ベッドに横たわると、由良は天井の木目をぼんやりと眺めた。今朝、同じ場所を見上げていたときとはまるで違う気持ちに、自分がなっていることに気づく。
朝はまだ形のなかった予感が夜には確かな輪郭を持つ気持ちに変わっていたその変化の速さに由良自身が一番戸惑っている。
布団の中で目を閉じても、しばらくは眠気が訪れない。まぶたの裏に、今日一日の光景が次々と浮かんでは消えていく。
その一つ一つを追いかけるうち、由良の呼吸は少しずつ穏やかになっていった。
カーテンの端からわずかに漏れる外の光が、床に一筋の線を描いていた。
夜が更けるにつれて部屋の音もすっかり静まり、由良の呼吸だけが規則正しく暗闇の中に響いていた。
机の上の便箋が月明かりを受けて、ほのかに白く浮かび上がっている。
その白さを最後に、由良の視界は静かに閉じていった。
やがて呼吸のリズムが緩やかになり、由良の意識は少しずつ夢の縁へと滑り落ちていった。
遠くの道路を走る車の音が規則正しいリズムで部屋に届き、その単調な響きがかえって由良の気持ちを落ち着かせていた。
意識が薄れていく最後の瞬間まで、由良の頭の片隅にはまだ、橙色に染まった橋の光景が残っている。
今夜、由良の中で一つの気持ちがはっきりとした輪郭を持ち始めている。それを恋と呼ぶことに由良はもうためらいを感じなくなっていた。




