第4章:選ばれていた本
その日の朝は雲一つない澄んだ空で、御茶ノ水の坂道に落ちる光がいつもより輪郭をくっきりとさせていた。
出発前、由良はスマートフォンで今日の天気をもう一度確かめた。晴れマークの隣に並ぶ気温の数字を見て、上着の選び方を少し変えた。
そんな些細な判断の一つ一つにも、今日はどこか特別な意味を感じてしまう自分がいた。
由良は駅の階段を上がりながら今日の待ち合わせのことを考えていた。考えるというより、無意識のうちに景吾の顔を思い浮かべている自分に気づく。
朝の身支度をしながら、由良は鏡の前で自分の表情を確かめていた。特別なことなど何もないはずなのに、頬のあたりがいつもより緩んでいる気がする。
その緩みの理由を、由良はまだ深く考えないようにしていた。考えれば何かがはっきりと形になってしまいそうな予感があったからだ。
坂の途中で由良は一度足を止め、眼下に広がる橋と川の景色をいつもより長く眺めた。この景色をこれまで何度見てきたことだろう。
見慣れているはずのものが今日はどこか違って見える。理由はわからない。ただ、見え方が変わったという事実だけがはっきりとある。
待ち合わせ場所に着くと、景吾はすでに来ており、手にはいつもより分厚い紙袋を持っていた。
「おはよう」
景吾が先に声をかけてきたので、由良は挨拶を返しながらその紙袋に目を留めた。
「それ、何?」
「ああ、これ。前に話してた店の資料、見つけたから」
由良は少し驚いた。以前、雑談の中で一度だけ触れた店の名前を、景吾が覚えていたことに。
紙袋の中身が気になって、由良は歩きながら何度もちらちらと視線を送ったが、景吾はそれに気づいているのか、あえて見せないように袋の口を軽くたたんでいた。
「あとで見せるから、今は内緒」
景吾がそう言って笑ったその笑い方に、由良はいつもより無防備な何かを感じ取った。
袋の口から紙の角が少しだけのぞいていた。由良はそれを見て、明日にはきっと中身を見せてもらえるはずだとひそかに期待した。
その些細な記憶力に由良はふと立ち止まる。景吾はいつもこうして、由良の何気ない一言を拾い上げている。
これまでそれを当たり前だと思っていたが、今日、由良はその当たり前さの中に何か別のものが混ざっていることに気づき始めた。
歩き出しながら、由良は記憶をたどった。景吾がこれまで覚えていてくれたのは、この店の名前だけではない。
由良が好きな作家の誕生月、由良が苦手な食べ物、由良が以前つぶやいた雨の日の匂いについての感想。
そのどれもが、由良自身でさえ忘れかけていた些細な言葉であり、景吾はそれをまるで大切なしおりのように覚えている。
「どうかした?」
景吾が由良の様子に気づいて聞いた。由良は首を横に振り、何でもないと答えたが、答えながらも由良の中では小さな疑問が育ち始めていた。
なぜ、そんなに覚えているのだろう? 誰かの言葉をこれほど丁寧に拾い集める人が、果たしてどれだけいるだろう?
一軒目の店に入ると、いつもの紙とほこりの匂いが由良を迎えた。
一軒目の店の入り口には風に揺れる暖簾がかかっており、潜るときに由良は反射的に景吾の後ろについて歩いた。
その後ろ姿を追う癖がいつからできたのか、由良にはもう思い出せなかったが、追うことに何の疑問も持たない自分がいることに今日初めて気づいた。棚の奥へ進んでいく景吾の後ろ姿を、由良はしばらく見つめていた。
その背中の角度、歩く速さ、棚を眺めるときの視線の動き、そのどれもが由良にとって見慣れたもののはずだ。
けれど今日、由良はその見慣れたものの中に、これまで気づかなかった癖を見つける。景吾は本を選ぶとき、必ず一度、由良のほうを振り返っている。
意見を求めているようにも見えるが、それだけではない気配がその一瞬の視線には混じっている気がした。
棚の間から、由良は景吾が店員に何かを尋ねている声を聞いた。その声のトーンは、他の場面よりも少し柔らかかった。
店員が答えると、景吾は丁寧に礼を言った。その丁寧さは誰に対しても変わらないはずだった。しかし、由良は景吾の声の質感の違いをなぜか敏感に聞き分けていた。
「これ、由良の好きそうな装丁じゃない?」
景吾が振り返って言うと、由良は近づいて差し出された本を受け取った。表紙のデザインは確かに由良の好みに近かった。
「よくわかったね」
「まあ、それなりに」
短い返事のあとに続く沈黙が、由良には妙に意味深く感じられた。それなりに、という言葉の裏にどれほどの観察が積み重ねられているのか。
由良は本を胸に抱え、棚の間を進んだ。歩きながら、これまでのいくつもの瞬間を思い返していく。
景吾はいつも、由良が読み終える少し前に次の本を用意し、由良が疲れている日は必ず休憩できる店を選んでいる。
そのどれもが、偶然にしては出来すぎている。偶然ではないのだとしたら、それはいつから始まっていたことなのだろう。
由良はふと、以前景吾から借りたままの傘のことを思い出した。返しそびれて、もう半年近く由良の家の傘立てに立てかけてある。
返すタイミングを何度も逃してきたのは、単なる忘れっぽさのせいだと思っていたが、今日、由良はその理由が実は少し違うところにあるのではないかと考え始めた。
店を出ると、通りには朝の澄んだ光が満ちており、石畳に落ちる影が由良と景吾の距離をくっきりと描き出していた。
「今日、機嫌いいね」
景吾が言った。由良は、自分の表情を意識していなかったことに気づき、少し戸惑う。
「そう見える?」
「うん。なんか、いつもより楽しそう」
由良は曖昧に頷く。楽しいのかどうか、自分でもまだ整理がついていない。ただ、何かが胸の中で動き始めているのは確かだ。
二軒目の店へ向かう道すがら、由良はふと以前景吾から言われた言葉を思い出す。
「由良と本を選んでると、時間があっという間だよね」
あの時、由良はそれを何気ない世間話として受け取っていたが、今その言葉を思い返すと、違う響きを帯びて聞こえる。
時間があっという間だと感じるのは、それだけその時間に集中しているということだ。集中する理由がただの趣味の一致だけだったとは、由良には思えなくなっていた。
由良はその言葉をノートの隅に書き留めておきたい衝動に駆られたが、実際には何もせず、ただ心の中で繰り返した。
時間があっという間だと言われたことはこれまで何度もあったが、今日その言葉だけがやけに鮮明に由良の中に残っている。
二軒目の店は、天窓から光が差し込む明るい造りで、埃の粒が光の筋の中でゆっくりと舞っている。
由良は棚の間を歩きながら、景吾の視線の先を追してみた。景吾はよく、由良が本を選んでいるとき、その手元をじっと見ている。
由良はこれまで、見られていることにあまり意識を向けてこなかったが、今日、その視線の重さを初めて自覚した。
棚の間で、由良は自分がいつからこうして景吾の一挙一動を目で追うようになったのか、その始まりを探そうとした。
思い当たる瞬間はいくつもあるのに、決定的な一つが見つからない。まるで少しずつ積もった雪のように、いつのまにか気づけば深くなっていたものだった。
「その本、面白そう?」
景吾が聞いてきたので、由良は手にしていた本の表紙を見せた。
「まだわからない。装丁がいいから、つい」
「装丁で選ぶの、由良らしいね」
「由良らしい」という言葉が、由良の中に静かに落ちていく。景吾は、由良という人間の輪郭を、こんなにも自然に言葉にできる。
その自然さの奥にどれほどの観察と時間が積み重なっているのか、由良はその重みを今更ながら感じ始めている。
店の奥で由良は一冊の古い写真集を見つける。
写真集の隣の棚には古い絵葉書が束になって並んでいたので、由良はその一枚を手に取り、消印の日付を確かめた。
何十年も前に誰かが誰かに宛てた短い言葉。読めない筆跡から、確かな親しさだけが伝わってくる気がした。ページをめくると、昭和の街並みが写っていた。
「これ、いいね」
隣から景吾の声がした。振り返ると、思っていたよりも近い距離に景吾の顔があった。
「……近い」
「あ、ごめん」
景吾はすぐに身を引いた。その素早さに、由良はかえって違和感を覚えた。まるで、近づきすぎたことを自分に許していないような反応だった。
由良はふと、これまでの景吾の距離の取り方を思い返す。いつも、ギリギリのところで踏みとどまっている。
踏みとどまる理由がただの遠慮だけだったのか、それともその奥に別の何かがあったのか、由良は初めてその問いを自分に向ける。
昼時、いつもの喫茶店に入った。窓際の席で向かい合うと、外の光が景吾の横顔を柔らかく照らした。
喫茶店に入る前、由良は店先に飾られた小さな花瓶に目を留めた。名前のわからない白い花が控えめに活けられていた。
「これ、なんの花だろう」
由良がつぶやくと、景吾が近づいてきて花をのぞき込んだ。
「わからないけど、由良が好きそうな花だね」
好きそうという言葉に、由良はまた小さく引っかかりを覚える。景吾はいつも、由良の好みを言い当てることにためらいがない。
「そういえば」
由良が切り出すと、景吾が視線を上げた。
「前に、雨の日の匂いのこと話したの、覚えてる?」
景吾は少し驚いたような顔をした後、ゆっくりと頷いた。
「覚えてる。アスファルトの匂いが好きだって言ってたよね」
由良は息を呑んだ。あの会話は、もう半年以上前のことだったのに、景吾ははっきりと覚えていた。
「よく覚えてるね、そんな昔のこと」
「由良の言うことは、なんか覚えちゃうんだよね」
その言葉が由良の胸の奥に静かに落ちた。なんかの曖昧な言い方の中に、景吾自身もまだ言葉にしていない何かが隠れている気がした。
「なんでだろうね」
由良が小さく笑いながら言うと、景吾は視線をカップに落とした。答えを探しているような、迷っているような沈黙が続く。
「さあ。俺にもよくわからない」
その返事は由良には少し不自然に聞こえる。
喫茶店を出る前、由良が伝票を先に手に取ろうとしたが、景吾がそれより早く手を伸ばしてレジへ向かってしまった。
「次は由良の番ね」
冗談めかしたその言葉に由良は小さく笑い、次があることを当たり前のように口にする景吾の言葉が今日はやけに温かく響いた。わからないと言いながら、景吾の耳が少しだけ赤くなっている気がしたからだ。
見間違いかもしれないが、それでも由良は、その小さな変化を見逃さなかった自分に驚いている。
食事の途中、由良はふと景吾の手元に視線を落とした。フォークを持つ手の動きがいつもより丁寧に見える。
丁寧さの理由を尋ねようとして、由良はやめた。尋ねたところで、景吾自身がその理由を説明できるとは思えなかったからだ。
食事を終えて店を出ると、午後の光が街を明るく照らしていた。由良は隣を歩く景吾を、これまでとは違う目で見ている自分に気づいた。
路地の途中で由良は、電線にとまる鳥の影に目を留めた。夕暮れの空を背景に、その輪郭がくっきりと浮かび上がっている。
一瞬の眺めに過ぎないのに、由良はなぜかその情景を今日の記憶の一部として、大切に留めておきたい気持ちになった。
三軒目に向かう途中、由良と景吾は小さな橋を渡った。欄干の下を、鯉らしき魚影がゆっくりと横切っていく。
「あそこ、鯉じゃない?」
由良が指差すと、景吾も身を乗り出して覗き込んだ。頭が並ぶほどの近さになり、由良は思わず体を少し引いた。
「本当だ。こんなところにいるんだね」
景吾の声はいつもと変わらず穏やかだった。それなのに、由良の心臓だけが妙に速く動いていた。
三軒目の店に向かう途中、由良はふと、これまでのやりとりの中にあったいくつもの小さな痕跡を思い返した。
待ち合わせの時間をいつも五分早く伝えてくること、由良が寒がりだと知ってから集合場所を必ず日向側にすること。
そのどれもが単独では気づかないほど小さな配慮だが、積み重なると由良の中で無視できない意味を持ち始める。
三軒目の店は細長い造りで、奥に進むほど天井が低くなっている。棚の隙間から差し込む光が床に細かい模様を描いている。
三軒目の店の店主は、由良たちの顔を見るなり親しげに声をかけてきた。何度も通ううちに、いつの間にか顔なじみになっていたらしい。
「今日も仲良く回ってるね」
店主のさりげない一言に、由良は返事に詰まった。景吾も同じように、少し照れたような笑いでごまかしている。
「ここ、実は前から気になってたんだ」
景吾が言うと、由良は驚いて振り返った。
「初めて聞いた」
「言うタイミングがなかったから」
その一言に、由良はまた新しい発見をした。景吾は、言いたいことをすべて口にしているわけではない。むしろ、言わずにいることのほうが多いのかもしれない。
言わずにいることの中に、いったいどれだけのものが隠されているのだろう。由良はその奥行きを初めて意識し始めた。
由良は、棚の隅に置かれた古い便箋の束を見つけた。それは、使いかけのまま誰かの手を離れたもののようだった。
便箋の一枚には書きかけの文字が数行だけ残っており、宛名も差出人もわからないその断片に由良はしばらく目を奪われた。
棚の奥で、由良は景吾がある一冊の本を長く見つめているのに気づいた。手には取らず、ただ背表紙を眺めている。
「気になる本?」
由良が聞くと、景吾は少し慌てたように本から視線を外した。
「いや、別に」
その反応の速さがかえって由良の興味を引き、由良はその本の背表紙を確かめた。恋愛をテーマにした古い詩集だった。
由良は何も言わずにその本から視線をそらした。
棚を離れる前、由良は先ほどの詩集をもう一度目で追った。景吾が視線を向けていた背表紙が他の本と変わらない顔をして棚に収まっている。
その本をいつか自分も手に取る日が来るのだろうか、という取り留めのない考えが由良の頭をふとよぎった。今はそれ以上踏み込むべきではない気がしたからだ。
夕暮れの店内で、由良は棚の高いところに手を伸ばそうとして届かず、小さく背伸びをした。
「貸して」
景吾がすぐに気づき、代わりに本を取ってくれた。本が渡されるとき、指先が触れるかどうかの距離で止まった。
夕方が近づくにつれ、店内の光がゆっくりと橙色に変わっていく中、由良は棚の間を歩きながら今日一日で見つけた小さな発見を頭の中で整理していた。
景吾の視線、言葉の選び方、覚えている記憶の多さ、そのどれもがこれまで見落としていたものだった。
見落としていたのは、由良が意識していなかったからだ。今、それらは急に輪郭を持って由良の前に姿を現し始めている。
帰り支度をしながら、由良は今日一日で拾い集めた記憶をもう一度数えてみた。紙袋の中身、覚えていた雑談、視線のくせ。
数えるほどに、これまで見過ごしてきた時間の厚みに気づかされる。厚みの分だけ、由良の中で何かが確かな輪郭を持ち始めていた。
最後の店を出ると、通りはすっかり夕暮れの色に染まり、街灯が点ってそれぞれの影を長く伸ばしていた。
「今日、なんか静かだったね」
景吾が言うと、由良は少し笑って答えた。
「考え事してた」
「どんな?」
由良は一瞬迷い、それから小さく首を振った。
「まだ、うまく言葉にできない」
景吾はそれ以上は聞かなかった。その聞かない優しさもまた、由良がこれまで見落としていたものの一つだった。
橋のたもとに差し掛かると、川面に映る夕焼けが赤くにじんでいる。
欄干にもたれる景吾の横顔を、由良はしばらく黙って見つめていた。夕焼けの光がその輪郭を柔らかく縁取っている。
これまでこの横顔を何度も見てきたはずだったのに、由良は今日、まるで初めて見るもののようにその一つ一つを目に焼き付けていく。景吾は欄干にもたれ、しばらく黙って景色を眺める。
由良はその横顔を見つめながら、今日拾い集めた記憶の断片をもう一度心の中で並べ直した。
一つ一つは小さくても、集まれば確かな輪郭を持つ。その輪郭が今、由良の前にゆっくりと形を成しつつある。
欄干にもたれたまま、由良はしばらく口を開かなかった。景吾も同じように黙っていて、川の流れる音だけがその沈黙を埋めていく。
沈黙の心地よさを由良はこれまで意識したことがなかったが、今日はその静けさの中に確かな安らぎを感じている自分がいる。
「じゃあ、また」
「うん、また」
いつもと同じ別れの言葉を交わし、それぞれ橋を渡って別々の方向へ歩き出す。
帰り道、由良は自動販売機の明かりに一度足を止めた。冷たい飲み物を買うつもりが、結局何も選べずに立ち去った。
選べなかった理由は、喉の渇きとは別のところにあった。今日一日で得た小さな確信を、由良はまだ持て余していた。
家までの道を歩きながら、由良は今日一日の出来事を何度も反芻していた。景吾の言葉、視線、仕草、そのどれもがこれまでとは違う意味を帯びて、由良の中に残っていた。
部屋に着くと、由良は買った本を机に置いた。
本棚の隙間に挟んだままのしおりが、ページの外にわずかにはみ出していたので、由良はそれを指で軽く押し込んで位置を整えた。
机に置いた本の表紙を、由良は指先でなぞった。装丁の凹凸がいつもより丁寧に指に伝わってくる気がした。
仕事柄、こうした手触りには敏感なはずだった。しかし、今日は紙の質感よりも、その本を選んでくれた景吾の視線のほうが由良の中で強く残っている。ページを開かないまま、しばらくその表紙を見つめた。
今日気づいたことを、由良はまだ誰にも、自分自身にさえはっきりと言葉にできずにいる。ただ、確かな予感だけが胸の奥で静かに息づいている。
夜の静けさの中、由良は窓際に立って外の景色を眺めていた。遠くの電車の音が間隔を置いて響いてくる。
その音のリズムに耳を澄ませながら、由良は今日一日で見つけた小さな痕跡の数々をもう一度心の中でなぞり直した。
窓の外では夜の街の灯りが遠くまで続いている。由良はカーテンを閉じる前にしばらくその光を眺めた。
見落としていたものに気づくということは、これまでの関係の見え方すべてを少しずつ塗り替えていくことなのかもしれない。
そう思いながら、由良は静かにカーテンを引いた。布団に入ってからも、由良は今日の出来事を一つひとつ指折り数えるように思い返していた。数えるたびに記憶の輪郭がより鮮やかになっていく。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが天井にうっすらとした線を描き、由良はその線をぼんやりと眺めながら瞼が重くなるのを待った。
明日になればこの感覚も少しは薄れるのだろうか、そう思いながらも由良は、どこかで薄れてほしくないと願う自分にも気づいていた。
携帯電話の画面には、景吾から届いた短いメッセージが表示されていた。「今日もありがとう」というだけの、いつもと変わらない一文だった。
冷蔵庫のモーター音が静かな部屋に響き、遠くで犬の鳴き声が一度だけ聞こえた後、夜は再び静けさを取り戻した。由良はその静けさの中で、まだしばらく目を閉じられずにいた。
その素っ気なさの中に、由良はまた新しい意味を探そうとしている自分に気づく。探そうとする自分を、由良はもう止められそうになかった。
今夜もまた、由良の中で何かが静かに動き始めている。




