第8章:惜しかったと言う
朝、由良は目覚めてすぐ、天井の木目を眺める。数えるほどしかないその木目の数を、いつのまにか覚えてしまっている自分に気づく。
覚えているものが増えていく。数センチの距離も、名前の重さも、景吾の癖も。由良の日常は、いつの間にかそういうものでできていた。
布団の中で伸びをしながら、由良は今日の予定のなさをむしろ心地よく感じていた。決められた行き先がないというだけで一日の輪郭がやわらかくなる気がする。
洗面所で顔を洗いながら、由良は鏡の中の自分の表情を確かめた。特別なことは何もないはずなのに、口元がわずかに緩んでいる。
支度を整えながら、由良はふと、今日は特に予定を決めずに会うことを思い出す。景吾からのメッセージには行き先の指定がなかった。
「今日は、成り行きで」
その一文だけが届いていた。由良はその素っ気なさに、かえって安心を覚える。決められた予定がない分、余白のような時間になりそうな気がした。
御茶ノ水の駅を出ると、坂の上に薄い雲がかかっていた。
坂を上る足取りはいつもより軽く、由良は今日という日にどこか特別な予感を抱いていた。
その予感の正体を由良はまだ言葉にできずにいるが、確かにそこにある感覚だった。空気は乾いていて、季節の変わり目らしい涼しさがある。
待ち合わせ場所に着くと、景吾はすでに来ていた。手には何も持っていなかった。今日は本を渡されない朝だ。
「おはよう」
声をかけると、景吾はいつもと変わらない笑みで応じたが、その目の奥に何か言いたそうな色がにじんでいる。
景吾の表情を見ながら、由良はその言いたそうな色の正体を探ろうとしたが、朝の挨拶だけではまだ何も分からなかった。
「今日、天気よかったね」
由良が当たり障りのない話題を振ると、景吾も同じように応じた。本題はもう少し先にあるのだろうと由良は感じ取った。
「今日、どこ行く?」
由良が聞くと、景吾は少し考える素振りを見せた。
「決めてない。歩きながら考えよう」
その返事に由良は頷き、目的のない一日が今日はどこか特別な意味を持ちそうな予感がした。
坂を下りながら、由良は視線を落とす。橋の上を歩いたとき、いつも思い出す感覚がある。
坂の途中、由良は自分の靴音と景吾の靴音が微妙に違うリズムを刻んでいることに気づいた。揃わないその音の重なりが今日はなぜか心地よく感じられた。
「そういえば」
景吾が口を開きかけて、また閉じた。由良はその途中で止まった言葉の続きを静かに待った。
「この橋、覚えてる?」
由良の問いに、景吾は一瞬だけ足を止めた。
「もちろん」
短い答えだったが、その声にはいつもとは違う重みが混じっていた。由良はその重みを聞き逃さなかった。
「あの日から、もう結構経つよね」
由良の言葉を受けて、景吾は視線を橋の下に向けた。川面が朝の光を細かく砕いている。
「うん。あれからいろいろ変わった」
「いろいろ」という曖昧な言葉の中に、由良は多くの意味が詰まっていると感じた。名前を呼べなくなったことも、その一つのはずだった。
坂を下りきると、自然と神保町の方角へ足が向いた。行き先を決めていないはずなのに、身体は見慣れた道を選ぶ。
古書店の並ぶ通りに入ると、由良は懐かしさに似た感覚を覚えた。
通りに並ぶ古書店の看板を、由良は一つずつ目で追った。どの店にも見覚えがあり、通った日数の分だけ街との距離が縮まっている気がした。
「懐かしいね、この道」
由良がつぶやくと、景吾も同じ方向を見ながらうなずいた。ここを最初に歩いた時のことを、まだ鮮明に思い出せた。
店先に積まれた本の山を眺めながら、由良は当時のことをもう一度思い出そうとする。あの朝の緊張感は、今ではずいぶんと遠いもののように感じられる。
それでも、その緊張の名残のようなものがまだ胸の奥のどこかに残っている。
由良は棚の一角に目を向け、あの日と同じ位置に本が並んでいることに気づく。この店の時間の流れ方は、通りの喧騒とは別のもののように感じられる。
「この店、あの日から何も変わっていない気がする」
由良がつぶやくと、景吾も同意するようにうなずいた。
「あの日、最初に渡してくれた本」
由良がふと口にすると、景吾は少し驚いたように振り返った。
本の背表紙を撫でながら、由良はあの朝の景吾の手の動きを思い出す。今差し出された手ではなく、あの日の手の記憶だった。
記憶の中の手は、今よりも少しだけ緊張しているように見える。
「まだ持ってる?」
「うん。本棚の、一番取り出しやすいところに」
その答えに、景吾は嬉しそうに、それでいて照れくさそうに目を伏せる。
「あの本、実はすごく迷って選んだんだ」
「そうなの?」
「うん。何を渡せばあの日のことをうまくごまかせるかなって」
由良はその答えに、当時の自分がどれほど鈍感だったかを思い知らされた。景吾の選び方の裏にあった意図にまったく気づいていなかったのだ。
「全然、気づかなかった」
正直に告げると、景吾は少し得意げに笑う。
その言葉に由良の心臓が小さく跳ねた。あの日のこと、と景吾がはっきり口にしたのは初めてだった。
「ごまかす必要、あった?」
由良の問いに、景吾はしばらく黙る。
通りを行き交う人々の中に、由良は制服姿の学生たちを見つける。談笑しながら歩くその姿に、自分たちとは違う時間の流れを感じる。
学生時代の由良には、こんな風に誰かの名前を呼べないという悩みは想像もつかなかった。通りを行き交う人々の足音だけが、その沈黙を埋めていた。
「あったよ。あのままだと、多分、俺は」
言葉が途切れる。由良は続きを待ったが、景吾はそれ以上話さない。
急かせば景吾はまた口を閉ざしてしまう気がして、由良はその予感に従い、続きを待つことにした。
沈黙の重さを、由良は今日は嫌だとは思わなかった。むしろ、その重さの中にこそ探すべき答えがあるように感じられた。
古い喫茶店の看板が目に留まり、どちらからともなく足を向ける。店内は静かで、他にはほとんど客の姿がない。
窓際の席に座ると、景吾はしばらく外を眺めていた。由良はその横顔を見つめながら、続きの言葉を待ち続けた。
「あの夜のこと、話してもいい?」
景吾がふいに切り出すと、由良は息を呑んで小さく頷いた。
「うん」
由良はカップに口をつけながら、これから交わされる会話の重さをあらかじめ覚悟するように息を整える。
「本当は、あの距離で止まるつもりなんてなかった」
その一言に、由良の胸が大きく音を立てる。想像していた以上に直接的な言葉だった。
外を歩く人々の話し声がガラス越しにくぐもって聞こえていたが、その音の遠さが由良たちの会話をより濃密なものにしていた。
「止まったのは、由良が怖がっているように見えたから」
「怖がってたわけじゃ」
「わかってる。今は、わかってる」
景吾の声は静かだったが、確かな響きを持っていた。由良はその声の温度にこれまで感じたことのない安堵を覚える。
由良はカップの底に残ったコーヒーの模様をなんとなく見つめていた。答えを急かすつもりはない。ただ、待つ時間そのものが由良にとって意味を持ち始めている。
「あの時、俺のほうが先に、たぶん」
言いかけて景吾はまた口をつぐんだ。由良はその続きを痛いほど聞きたいと思った。
「先に、何?」
由良が促すと、景吾は少し困ったように笑った。
「まだ、うまく言えない」
その笑い方には、これまでのどんな沈黙とも違う確かな意志がにじんでいる。由良はそれを急かすことができない。
由良は自分の中の勇気を確かめるように指先をテーブルの木目に沿わせ、今日ここでこれまで言えなかったことを言うつもりだった。
「私も、実は」
由良が口を開くと、景吾が視線を向けた。
「あの夜のことを何度も思い出していた。触れそうで触れなかった、あの距離のこと」
打ち明けながら、由良は自分の頬が熱くなるのを感じた。これまで、こんなに正直に話したことはなかった。
「思い出すたび、由良はどう思っていた?」
景吾の問いに、由良は少し考えてから答えた。
「怖かった。でも、それ以上に、惜しかった」
「惜しい」という言葉を口にした瞬間、由良は自分の本音の輪郭を初めてはっきりと捉えた気がした。
由良の告白を聞きながら、景吾はカップを両手で包み込むように持っている。その仕草には何かをこらえているような気配がある。
「惜しかった、か」
景吾がその言葉を繰り返す。由良はうなずきながら、自分の頬がまた熱くなるのを感じた。
喫茶店を出ると、午後の光が通りを照らしていた。どちらからともなく、また歩き出した。
会計を済ませて外に出ると、午後の風が心地よく頬を撫でた。店の中の重い沈黙とは違う、開放感のある空気だった。
「少し歩こうか」
景吾の提案に由良は頷き、会話の余韻を抱えたまま次の場所へと足を向けた。
「あの日の続き、まだ途中なんだよね」
景吾がぽつりと言うと、由良はその言葉の意味を正確に理解した。
「うん。まだ、途中」
短いやり取りの中にこれまでで最も率直な確認があり、由良はその確認の重さを静かに受け止めた。
歩きながら、由良はさっきまでの緊張が少しずつほどけていくのを感じ、言葉にしたことで胸の重さが軽くなっているのを感じた。
「胸のつかえが、少し取れた」
由良が言うと、景吾も同じ気持ちだというようにうなずいた。
歩きながら、由良はふと景吾がいつから自分を意識していたのかを尋ねたくなったが、今日はまだその問いを口にする勇気が出なかった。
由良はその質問を心の中でしばらく転がしている。答えを知りたい気持ちとまだ知らないままでいたい気持ちが、同じくらいの強さでせめぎ合っている。
結局、知りたい気持ちのほうがわずかに勝った。
「景吾は、いつから?」
言いかけて、由良は言葉を止めた。景吾がゆっくりとこちらを見る。
「いつから、俺が由良のことを」
「……ううん、まだいい」
由良は首を振った。すべてを今日知る必要はない。少しずつ時間をかけて明らかにしていけばいい。
由良は棚の間をゆっくり歩きながら、今日という日の会話の余韻をまだ手放したくないと思う。急いで日常に戻る必要はない。
景吾も同じ速さで歩いている。その歩調の一致が由良には今日一番の安心材料だった。
古書店の一軒に立ち寄ると、棚の奥にあの日と同じ装丁の本が並んでいるのを見つけ、由良は思わず手を伸ばした。
店主が奥から顔を出し、由良たちに軽く会釈した。何度も通ううちに、いつの間にか顔なじみになっていた。
「今日は何かお探し?」
店主に聞かれ、由良は少し考えてから答えた。
「特には。ただ、歩いてただけです」
その答えに店主は柔らかく笑い、また奥へ戻っていった。
「これ、あの日のと同じ作者だ」
その声に景吾も近づいてきて、表紙をのぞき込んだ。
由良は表紙のタイトルを口の中で小さく読み上げてみた。あの日と同じ響きが、今日はまた違う意味を伴って耳に届いた。
「買う?」
景吾が聞くと、由良は少し迷ってから頷いた。
「うん、記念に」
「本当だ。偶然かな」
「偶然じゃない気がする」
由良の言葉に、景吾は静かに微笑んだ。その微笑みに、由良はこれまでにない確信を覚えた。
会計を済ませ、本を鞄にしまいながら、由良は、その重みを確かめるように一度手のひらで押さえた。今日という日の記録がまた一つ増えたことを実感した。
店を出ると、風が少し強くなり、木々の葉が揺れる音が通りに絶え間なく響いていた。
空はすでに夕方の色を帯び始め、橙色の光が通りの隅々まで柔らかく差し込んでいた。
橋のたもとに着くと、自然と足が止まった。
欄干にもたれて由良は川面を見下ろし、夕暮れの光が水の表面で細かく揺れているのを見た。
「あの夜も、こんな光だったね」
その言葉に、景吾も同じ川面へ静かに目を落とした。あの夜と同じ場所に、今また立っている。
欄干を伝う風が由良の髪を軽く揺らし、あの夜と同じ場所に立っているという事実が由良の中で確かな重みを持ち始めた。
「あの夜と今と、何が変わったんだろうね」
由良が独り言のように言うと、景吾は少し間を置いて答えた。
「距離の測り方、かな。前よりちゃんと測れてる気がする」
「測り方」という表現に、由良は小さく笑った。いかにも景吾らしい言葉の選び方だと思う。
「あの夜の続き、今日話せてよかった」
それを聞いた景吾は、深くうなずいた。
「俺も。ずっと、言いたかった」
その言葉を聞いて、由良の胸が温かく満ちていく。取り戻したかった以上のものを、今日という日は運んできてくれた。
夕焼けの色が通りの向こうの雲を薄紅色に染めている。由良はその色をしばらく眺め、今日という日の記憶にまた一枚、重ねていく。
今日はこれまでよりも一歩、確かに前へ進んだ気がした。それでも、まだ超えられない一線があることも由良はわかっている。
「まだ、名前は呼べないけど」
由良が正直に告げると、景吾は小さく笑う。
「俺も、まだ」
その共有された正直さに由良は不思議な安心を覚えた。呼べないことを今日は隠さなくていい。
「でも、いつか」
「うん、いつか」
短い約束が夕暮れの空気の中に静かに溶けていくのを、由良は確かに感じ取った。
橋を渡る足取りが今日はいつもより軽く感じられ、踏みしめる一歩ごとに今日交わした言葉の重みが確かめられていく。
「今度会うとき、続き話せるかな」
由良が聞くと、景吾は少し間を置いてからうなずいた。
「話せると思う。多分、もう時間の問題」
その言い方に、由良は小さな期待を抱いた。
夕暮れの中、由良はもう一度あの日から今日までの道のりを振り返った。名前を呼べない朝から始まり、遠回しな告白に至るまでの日々が確かに一本の線でつながっている。
その線の先に何があるのか由良にはまだ見えないが、線が途切れずに続いていることだけははっきりとわかる。
「今日、ありがとう」
由良が言うと、景吾はうなずいた。
「こちらこそ。話せてよかった」
由良はもう一度鞄の中の本の重みを確かめた。今日買ったその一冊は単なる本以上の意味を持ち始めている。
「大事にするね、これ」
その一言に、景吾は照れくさそうに視線をそらした。
橋を渡り、それぞれの方向へ歩き出す前に、景吾がもう一度こちらを見た。
「また話そう。少しずつでいいから」
その言葉に、由良は深くうなずく。少しずつでいい、という確認だけで、由良には十分だった。
家までの道すがら、由良は自分の足取りがいつになく確かなことに気づく。迷いのようなものが今日はほとんど感じられない。
商店街の明かりが通りを橙色に照らし始めており、由良はその光の中をゆっくりと歩いていく。
家に帰る道すがら、由良は今日交わした言葉の一つひとつを大切に反芻していた。あの夜、あの距離、惜しかったという告白。
そのどれもが、これまでの由良の中で言葉にならずにいたものだ。今日、ようやくそれらが形を持ち始めている。
自室に入る前、由良は郵便受けを確かめた。何も入っていない小さな箱の中を見て、由良は小さく笑う。今日という日には、それすらも些細なことに思える。
部屋に着き、由良は窓辺に立つ。空はすでに紺色に沈み、街の灯りが遠くまで続いている。
由良はあの日渡された本を本棚から取り出す。
由良は買った本をあの日渡された本の隣に並べて置き、二冊が並ぶ様子をしばらく飽きずに眺めた。
同じ作者の二冊が由良の本棚の中で静かに寄り添っていた。その光景に由良は今日という日の意味をあらためて確かめた。表紙を撫でながら今日の会話をもう一度心の中でなぞった。
由良は椅子に座り、携帯電話を手に取ったが、景吾からの新しいメッセージはまだ届いていなかった。
それでも由良は焦りを感じず、あの橋での会話だけでしばらくは十分だと思える。
「あのままだと、多分、俺は」という景吾の言葉の続きを由良はまだ知らないが、その続きを聞ける日がそう遠くないことだけは確信できる。
本棚の前に立ったまま、由良はしばらく動かない。二冊の本が並ぶ光景を目に焼き付けておきたい気持ちがある。
やがて由良はカーテンへと歩みを進めた。窓の外には変わらず街の灯りが広がっている。
窓の外の灯りを見つめながら、由良は静かに息を吐いた。カーテンの隙間から隣の建物の窓明かりがちらついていて、誰かの日常がそこにも確かに続いていることがわかる。
由良はその明かりを見ながら、自分の日常もまた少しずつ形を変えていることを実感する。
名前を呼べない夜はまだ続いているが、その夜の質は確かに変わり始めている。
由良はベッドに腰を下ろし、今日一日を締めくくるようにゆっくりと息を吸い込んだ。朝の予感から始まり、橋での告白に至るまでの一日が今、静かに幕を閉じようとしている。
由良は目を閉じ、今日一日の景吾の表情をもう一度心の中で並べ直した。橋での真剣な目、喫茶店での照れ笑い、本を選ぶときの丁寧な手つき。
そのどれもがこれまでよりも近くに感じられ、距離が縮まったという実感を由良は静かに噛みしめていた。
明日という日がどんな形をしているのか由良にはまだわからないが、今日という日が確かに何かを変えたことだけは疑いようがなかった。
由良は枕元の携帯電話を最後にもう一度確認した。画面には相変わらず新しい通知はなかった。
それでも、その静かな画面に由良は不思議と満ち足りた気持ちを覚えていた。
由良は照明を落とし、暗闇の中でしばらく目を開けたままだった。今日という一日の輪郭がまだくっきりと胸の中に残っている。
「あの時、俺のほうが先に」という景吾の未完の言葉が、由良の中で静かに響き続けている。
いつかあの夜の続きを本当の意味で終わらせる日が来る、と由良は予感を抱いたまま静かにカーテンを引いた。
由良は瞼を閉じ、深く息を吸い込む。今日という一日の記憶を身体の隅々にまで染み込ませるように。
眠りに落ちる直前、由良の口元には小さな笑みが浮かんでいた。




